魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

『早稲田文学』と近松秋江――初期作品の成立をめぐって――

2013-02-10 02:41:28 | 論文 近松秋江
「早稲田文学」と近松秋江――初期作品の成立をめぐって――                            
森本 穫

  一

 大正七年十二月発行の『早稲田文学』一五七号は『島村抱月追悼号』と銘うって抱月をめぐる大特集を組んでいるが、これには、「『早稲田文学』再興時代」と題された項目のもとに、中島孤島、近松秋江、片上伸の三人が、再刊当時のことを書いている。
 秋江はまた、大正七年五月、同誌の一五〇号記念号特集『早稲田文学及文壇十二年史』においても、「早稲田文学再刊前後の思ひ出」を書いている。これらによって、私たちは第二次『早稲田文学』出発当時の模様を、知ることができる。
 島村抱月が米国欧州に留学している間、旧文壇の権威であった尾崎紅葉の病没(明治三十六年)をきっかけとして、文壇には新時代の空気と基礎がしだいに醸成され、文壇に新機運がみなぎった。

 新機運が動くにつれて、早稲田で心ある人々は『早稲田文学』の再刊を望んだ。だから明治三十八年九月、抱月が帰朝したときには、雑誌刊行をめぐる様々な人々の思惑が交錯していたという。
 抱月の帰朝を待ちかねていた坪内逍遙は、そこでようやく再刊の断をくだしたのだが、抱月のあずかり知らぬそうした諸事情が、三十九年一月、雑誌が再刊されても抱月の足をひっぱった。
 第二次『早稲田文学』は編輯主任が水谷不倒、抱月が主筆、記者として中島孤島と秋江がいるほか、東儀鉄笛も名目はともかく、有力な一員であった。
 こうした複雑な人員構成であったため、抱月の意志が素直に通らないこともしばしばで、雑誌は表面の賑々しさにも似ず、船頭の多すぎる舟の按配で、内部は相当に混乱したという。

 まもなく、再刊後半年ならずして水谷不倒と中島孤島の二人が袂を分かって『趣味』という雑誌を興したので、事実上抱月のもとにひとり残った秋江は、記者として孤軍奮闘した。「その代りに私は、不倒孤島両氏尚ほ社中の頃から、足腰は立てゝよく働いた。後に私一人きりになってからは勿論のことである」と秋江は書いている。「その代り」とあるのは、抱月から託された、かつて逍遥主宰時代に呼び物となった「巻尾二段組みの彙報記事」を毎号書くのに、力量未熟のために難渋し、抱月の期待どおりになかなか書けなかった、という意味である。
 怠け者・秋江というイメージが色濃く残されているので、秋江自身の如上の言葉をどの程度信じてよいか判断はつきにくいが、それでも当分、秋江は編集部局にとどまる。「勢ひその後(不倒孤島退社後)は私 一人で早稲田文学編輯の任に当つてゐた」という次第である。そして翌四十年春、新社員として白松孝次郎、片上伸の二名が入ってきたのを機に、秋江も退社を決意するのである。

 「私か抱月氏にその旨を告げると、私か事情を委しく語らなかったので、氏はひどく怪しみ、『君が長い間殆ど一人で庶務一切をやって来ていたのに、今君に退かれては庶務をやる者がないので困る。どういふわけだ?』と、氏は寂寞の色を面に浮べて訊ねたのであった」と、秋江は述べている。秋江は「うとましい自我と自我との突角が劇しく衝突したり摩擦したりして紫の火花を散らす」人間関係に耐えられず、早くから退社の気持ちはあったのだが「単に生活問題の為に」決意できなかったのだが、また「新なる自我の接触」を予感して、ついに退社を申し出たのであったという。

 このように秋江は第二次『早稲田文学』再刊に際しては、一年あまり、編集局員として、それなりの役割をはたしたことになる。また編集局を離れて以後も、寄稿をつづけることになるし、また途中で去った水谷不倒らの『趣味』にも、相当の作品を寄せているので、秋江が文壇の地位を確保するためにも、『早稲田文学』の編集局員として働いたことは、秋江にとって最高のプラスとなったはずである。少なくとも、初期秋江は、『早稲田文学』の存在なくしては、その作品の発表の場も成長の場もなかった。
 明治三十四年、東京専門学校在学中から、抱月の縁故によって、ぽつぽつ、数えるほどの文学的エッセイを発表してきたばかりの秋江だが、明治三十九年になると、ようやく発表の数が多くなる。そのほとんどは、「文壇無駄話」に系列上つながる文学的エッセイだが、その発表の場には『東京日日新聞』や『読売新聞』があったものの、何といっても『早稲田文学』が主たる舞台であった。
  『早稲田文学』の誌上において秋江が手がけたのは、小説のほかにも、随筆、小品、翻訳、評論(文学的エッセイ)、座談、書評など、多岐にわたっている。これらの中から、〈文壇無駄話〉的評論家・秋江と、小説家・秋江が育ってゆくわけだが、ここでは主として、『早稲田文学』を舞台に、小説家・秋江の誕生してゆくプロセスを追求してみたい。

  二

 秋江が『早稲田文学』に「別れたる妻に送る手紙」を四回にわたって連載し、一躍、特異な情痴作家として世に認知されるのは、明治四十三年のことだが、この作品を書くまでには、当然、いくつかの習作があった。その主要なものはほとんど『早稲田文学』に発表されているのだが、そのわずかな習作に、秋江文学の本質がことごとく含まれていることに、私は驚きを禁じえない。

  「食後」(明40・11)は、単調な、まだほとんど習作の域を出ていない作品だが、のちの秋江の作品傾向を思うと、これは秋江のデビュー作として、まことに象徴的な作品である。
 内容は単純である。「昼餐」を終えた二人の下宿人が対話をする。一人は「小説家に成りかけ」、もう一人は「弁護士に成りかけ」の男。前者は「流石に恋といひ肉欲といふ字に多少詩的の味を覚える」が、後者は「天から恋といひ肉欲といふ面倒臭い文字の必要を感じた場合が無い」男である。彼は百人に余る女性と関係があったと豪語する。その大半は苦労人であり、女郎や芸者といったところだが、中には素人もある。
 そんな「弁護士に成りかけ」の男が、前者の問いかけに応じて、自分の初めての肉欲の経験を語るというのが作品の骨子である。

 中学一年のとき下宿で、そこの「二十歳ばかしの娘」と性的な関係ができたという打ち明け話なのだが、このきわめて単純な構造の小説の中に、あまりにもみごとに、のちの秋江的特質が提示されているのだ。
 この告白――というほど真剣なものではないが――をした吉本という男は「君等と違って僕等のやうに文学的感情の乏しい者でも気候の変化と肉体の関係から自然に起る生欲の力といふものには勝てないものだねえ」といい、また女と結ばれたあと「翌朝になって、僕は言ふにいへない気味が悪くなった。(中略)で、お楽はと見るとお楽は何時もの通り平気な顔をして居る。それでも僕の恐怖は止まない」と述懐したりする。

 つまりここには、作者秋江の、恋愛というよりも、性欲を中心とした男女の関係にたいする強烈な好奇心が如実に現れているのだ。男は、その女お楽との関係を「僕は恋ではなかったと、それだけは断言する」という。
 こうした秋江の人間のとらえ方は、結木の一行に、さらに凝縮される。「小説家はトルストイのクレーツエロウソナタの読みさしをまた読み始めた」。

 よく知られているように、「クロイツェルソナタ」は、トルストイ晩年の作で、性欲についての煩悶と懐疑をテーマとした作品である。妻の情事を疑い、嫉妬に苦しむ夫の告白という、皮肉にも後年の秋江を暗示する物語だが、ここでは物語の内容よりも、性欲自体が問題だろう。つまり秋江は、人間における性欲の激しさと、それが人間を根本的に支配する力の大きさについて、ここではっきりと自覚し、予感し、それを一編の主題として作品の最後に提示しているのである。
 この「食後」に、「その一人」(明41・5)、「八月の末」(明41・11)と、『趣味』に発表された「雪の日」(明43・3)を加えてみると、「別れたる妻に送る手紙」の内包する主題があざやかに浮かびあかってくることも、秋江の文学確立を考えるうえに大きな示唆を与えてくれる。

  「その一人」は、本文の末尾に「(トルストイ『生ひ立ちの記』一節翻案)」と記してある。したがって純粋の小説とはいえないかもしれないが、〈翻訳〉ではなく〈翻案〉であり、その文体といい内容といい、末 尾の記載がなければ秋江の創作と思えるほどに十分に消化されているから、実質上の秋江作品といってもいいだろう。
 さて、そこに描かれているのは、少年の眼に映じた、ひとりの女中の姿である。少年の兄がその女中に戯れかかる。少年は彼女の放つ色情の空気につよく惹かれ、「あらゆる快楽を蔑視しやうと」つとめながら「全精根を傾けて、兄の身を妬」み、「妬みながらも自分は高慢な孤独の内にせめてもの慰藉を見出さうとして頻りに小供心を砕き、想像に耽り、散々に神経を悩ました」のである。

 少年の色情の目醒めを描いている点において、この作品は「食後」と共通している。しかも官能の揺れは、こちらの方がずっと深刻であり、具体的である。

 私たちはここで、広津和郎が『同時代の作家たち』(昭26・6 文藝春秋新社)の「手帳――近松秋江」において秋江の特異さについて指摘した卓抜な言葉を思い出す。

  「彼はトルストイの『幼年時代』『少年時代』などを翻訳してゐるが、恐らくはそれを訳しながらも、トルストイが人生で何を見たかなどといふ事には全然関心を持だなかったに違ひない。唯トルストイの少年時代の色情のめざめと、トルストイのそれについての表現とのみに興味を持ったに違ひない。(中略)恐らく『復活』を読んでも彼の興味は情痴の世界に集中し、トルストイが『復活』で書かうとした意図などには何の関心も持たなかったに違ひない。」

 いみじくも広津のいうとおり、ここにおいて秋江はすでに、自身の文学の本質を提示している。色情、肉欲-どのような言葉でもよい、とにかく秋江の根本にあるのは、こうしたものに対する強烈な関心である。

 そしてこの関心が、単なる関心にとどまらず、自立した文学に昇華されるためには、まだ多くの過程が必要とされるのである。

 「八月の末」は、「食後」のちょうど一年後に『早稲田文学』に掲載された作品だが、ここには秋江の実生活の模様が活写されている。一見すると、前の二作に見た肉欲の問題と関わりのない題材に見えるが、「八月の末」に描かれているのは、肉欲の結果としての同棲生活の危機なのである。確固たる見通しのない、ただ男と女が一緒に暮らしているだけという形態の脆うさが、この作品の背景にはある。肉欲によって結ばれたふたりの生活が、経済的な逼迫によって、いっそう追いこまれる。「別れたる妻に送る手紙」に描かれる二人の破綻の原因が、ここには無自覚ながら残酷に描かれているのである。

 作品の冒頭、「貴下、小使が無くなりました。何かして下さい」と、妻が言う。「……うむ」と言ったまま黙っている「彼れ」にむかって、妻は生活の窮状を述べたてる。店の物を売り食いにしているのだが、その品物も残り少なくなった。それに、売れない。銭箱には、もう金がない。
 これに対して「彼れ」は「まあ仕方がないさ! 斯う暑くつては客も来ない。今に涼しくなつたら何かなる」と応えるばかりである。
 そして「彼れ」の人となりが語られる。「彼れ」は私立学校を、七八年も前に出た男だが「本来身体が壮健でない上に、一つは其の身体の強くないのが手伝ふ妙な性格から如何な仕事でも如何な勤めでも一年と惓かずに続いたことはない」。雑誌記者や辞書の編輯係をつとめたこともあるが、一二年前にやめてから以後は、文筆以外に収入の方途はない。にもかかわらず、その文筆に、どうしても集中できないのである。新聞社に行って、やっと前借をしても、その虎の子の金を、むざむざと本に費やしてしまうのだ。妻君と険悪な状態をつづけたまま、問屋の払い、家賃の払い、米代の滞りも限界に近づいて、月末がやってくる。それでも「彼れ」には、現状を打開する力も意志もなく、「激しい東京」を離れて、湯ケ原へひとり逃避行をするのである。

 私たちは、「別れたる妻に送る手紙」において「私は先の時分にも四年も貧乏に苦労して、また貴下で七年も貧乏の苦労をした。私は最早貧乏には本当に飽きくした。……」と妻が語る場面を知っている。妻の失踪が、この極端なまでの貧乏の連続と、男の怠惰、生活上の無能力に原因していると知っているのだ。それだけに、この短編に描かれた生活の模様は、フィクションというより、秋江自身の生活をほとんどそのままに描いたものとして受け取ってしまう。そしてそれは、さほど間違いではなさそうなのだ。

 少なくとも秋江には、生活上の貧乏が女を極限状態に追い込んでいる、との危機的な認識があったのだろう。その現実の切迫感が、作品を緊張したものに高めている。
 しかしながら、そこまで描きこんでいながら、この作品にはまだ、自立した一編の作品としての力がない。相当の筆力によって相当の現実の深みにふれるところまで描きながら、まだ習作の域を一歩も越えていない。
 それは何ゆえなのか。そこに習作と、完成した作品との決定的な距離があるのだが、ある何かが「八月の末」には不足しているのである。

 それから一年半後に発表された「雪の日」については、すでに中島国彦氏による詳細な分析がある。「雪の日の幻想―明治四三年冬の近松秋江―」(『文芸と批評』昭47・8)がそれだが、これによって私たちは、明治四十三年冬に秋江のおかれた極限的な状況〈幻想〉と〈現実〉が火花を散らすその寸前の状況――を知ることができる。それはまさに「別れたる妻に送る手紙」の前夜である。そこに「肉欲の問題、そしてそれから生じる疑惑と嫉妬の問題」に関する主題が、ストリンドベルヒ「債鬼」と鴎外「魔睡」によって秋江の内部に明確に意識されていたことを、中島氏は見事に論証している。

 しかし、肉欲の結果としての〈嫉妬〉という、秋江の根本的主題が初めて、なかば自覚的に描かれたことに「雪の日」の大いなる意義があったとしても、まだそこには決定的なものは表現されていなかった。「雪の日」は表面的にはまことに静かな作品なのである。

 それでは、すでに必要な条件はすべて整いながら、作品としては未成熟であった秋江の世界が、いきなり「別れたる妻に送る手紙」によって開花したのは、どういう契機によるものなのだろう。

 秋江が「雪の日」を執筆した四十三年の一月、彼はすでに妻大貫ますの失踪を経験していた。それは前年八月のことであり、つまりすでに数か月を経過していたのである。そのころになってなぜ、いきなり完成した作品世界が突如出現するのか。
 秋江に関心をもつ評家の誰しもが抱くこの疑問、前記中島氏が「『雪の日』『別れたる妻に送る手紙』の間隙の実態」と呼ぶこの作家内部の劇は、どのように発生したのか。

 私はそれを、二つの点から推測してみたい。一つは秋江の内面の問題から。もう一つは、表現形式の問題から。
 秋江が畢生の作品を書くのは、次の女性に出会って前の女への妄執から解き放たれた時だ、という平野謙の有名な指摘がある。しかし秋江にもっと直接に書こうという衝動を発動させるものがある。

 それは〈屈辱〉の経験である。秋江作品は、その〈核〉が、〈屈辱〉であることが多い。主人公が現実の場で激しく傷つけられたと思い、堪え難い屈辱を覚える、そのときの苦痛慨嘆が作品の〈核〉となっている。「別れたる妻に送る手紙」では、大切なお宮が友人長田に奪われたと知ったとき、主人公を襲った苦悩が語られて突如作品は閉じられる。
 「執着」(大2・4)は、別れた妻の裏切りを知った無念。「疑惑」は日光の宿でその直接の証拠を発見した場面。以降の作品も、「黒髪」連作などいずれも主人公の立場が踏みつけにされ、煮え湯を飲まされ、無念の思いを噛みしめるその瞬間が作品のクライマックスになっている。

 秋江作品の大切な主題になっている〈嫉妬〉も、その〈嫉妬〉が単なる甘い〈やきもち〉になっているうちは、まだ爆発的な力を生じない。

 「雪の日」に出てくる〈嫉妬〉と、「別れたる妻に送る手紙」や「執着」「疑惑」以降の〈嫉妬〉との根本的な差異は、この〈屈辱〉をともなった〈嫉妬〉であるかどうかの違いである。

  「別れたる妻に送る手紙」において、〈嫉妬〉と〈疑惑〉は、別れた妻に対しては、直接には発動していない。しかし妻の代償として得たお宮が、敵役によって奪われたと知ったとき、作者秋江の憤怒と絶望は噴出する。そのような状況を迎える根本の原因となったのが妻ますの失踪であることはもちろんだ。秋江の意識においては、すべては妻の失踪から始まった。その後の味気ない日々と、やっと見つけた、ささやかな幸福。そのぎりぎりの幸福をも奪われたとき、その怒りと悲しみを作品にぶつけるしかない、と秋江は思う。その必死の思いは、作品の形式や構想を十分に練る暇を作者に与えない。最も語りたい方法で、最もそのとき伝えたい相手に、直接に語るという形式がとりあえず選ばれる……。
 そうして選ばれた形式が、彼の主題を表現するのにいちばんぴったりしたものであったらどうだろう。


 秋江が「雪の日」からの『間隙』を一瞬のうちに飛び越えることが出来たのは、この内面の衝迫によったのではなかったか。
  「雪の日」は〈対話〉の形式で成り立っていた。一方が他方から話を聞き出すという点において「食後」などと共通する。〈嫉妬〉という秋江特有のテーマが現れていることは重要だが、ここではまだ、中島氏のいう〈幻想〉にとどまり、真の悲劇は描かれていなかった。一個の作品が自立したものとなるためには、内容と表現形式の一致が必要だが、秋江がこれまで選んできたような〈対話〉の形式では、もはや悲劇を語るには不十分であった。かといって〈独白〉では、語る相手が不特定である。当の相手に直接話しかけるという〈書簡体〉の形式が、作者の抱くさまざまな思いを表現するには最高の形式だったのである。秋江はそれを、切迫した内面の必要によって、選択し得たのであった。

  三

 『早稲田文学』を舞台とした近松秋江の文学確立の過程を見てきたわけだが、以後も秋江は寄稿家のひとりとして、小説をはじめ、各種の文章をこの雑誌に発表してゆく。それらのなかから、今後、秋江を研究してゆくうえに注目すべきものを若干あげておきたい。

 小説家・秋江のもう一つの顔は、「文壇無駄話」に代表される文芸評論家としてのものだが、『早稲田文学』にも、この種の文章は多く発表されている。そのなかでも特に力作が多いのは、やはり西鶴と近松について論じたものである。

 まず明治三十九年十二月号の特集「西鶴の『五人女』を評す」において秋江は「性格と意匠」を担当しているが、そのなかで「圧巻は、いふまでもなく三の巻おさん茂右衛門であらう」として詳細に論じている。
 特に「真に悲劇の面目を備へて居るのは唯り三の巻あるのみ」と断じ、同じ事件を材料とした近松の「恋八卦柱暦」と比較して西鶴近松の本質を比較検討しているところは、秋江の面目が躍如としている。

 同じく明治四十五年三月号「文壇無駄話」では帝国文庫の西鶴を買ったことを手がかりに「万の文反古」を絶讃し、大正二年二月号「近松座の『天の網島』」では、大阪・近松座で観覧した人形浄瑠璃の模様を克明に描いている。秋江の近松好きは有名だが、この文章を読めば、それが趣味程度のものではないことが了解される。近松作品はその細部にいたるまで消化され、ほとんど肉化されているのだ。

 最後に、秋江の随筆や紀行に雅致あるものの多いことも知られているが、大正七年には「煙霞」(一月)、「奈良より」(六月)、「高野山より」(九月)、「吉野路」(十月)など、一連の紀行が寄せられていること、それらが流麗な文章とあふれるばかりの情感によって、高い完成度を見せていることも付け加えておきたい。

  早稲田大学図書館編『第二次早稲田文学総目次――自明治39年(1906)―至大正7年(1918)――』早稲田大学出版部 1992年10月20日初版発行