魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

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川端康成の連載に関する、エッセイ

2013-01-17 03:01:21 | 「魔界の住人・川端康成」連載についてのエ
">『魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―』をめぐって
                                   森本 穫

川端康成と私
 川端文学と私の関わりは、今から40数年前、昭和36年の2月にはじまる。
 大学受験ではじめて上京するとき、姫路から夜行列車に乗ったのだが、受験のための参考書や問題集に加えて、確かにボストンバッグに川端康成の新潮文庫「雪国」をひそませた記憶があざやかに残っているからである。
 夜汽車の車窓で、受験参考書のかわりに「雪国」を読もうというのは、受験そのものよりも文学を優先していた少年の私の心意気をよくあらわしているではないか。
 そのときまで、私は川端康成を読んでいなかったのだと思う。谷崎潤一郎にあれほど傾倒した私が川端を読んでいなかったというのは不思議なことだが、おそらく上京の記念に「雪国」を読んで、晴れて東京の文学青年になりたかったのであろう。
 しかし夜汽車の窓で読んだ「雪国」は、私の予想と異なる作品であった。甘美な恋物語を期待していたのに、読んだのは、男女の愛についての苦い認識であったのだ。
 おそらく受験期間のうちに作品は読み終わったのであろうが、そのあたりの記憶はない。
 法学部の3回生のころ、新宿で紀伊国屋書店の大きな本物の原稿用紙を買ってきて、それに「雪国」を100枚あまり、書き写したりしたのだから、川端を尊敬していたには違いないが、その文体は、難解きわまるものと私には思われた。
 小説を書き写すというのは、当時、文学青年の間に流行した現象で、いい作品を書き写すと、自分もその文体を通して、小説を書くコツを会得できると先輩に教わったからである。
 しかし文学部に転じた私は宇野浩二に熱中して、卒業論文のテーマに選んだほどだったから、まだ川端との距離は遠かった。
 それが一気に川端康成の信奉者になったのは、忘れもしない昭和43年、広島県の山奥の高等学校で教師をしているときだった。
 学校の近くにバスの発着する停留所があって、その停留所に面した店は、文房具店と書店を兼ねていたのである。
 ある秋の夕方、どういう事情があったのか、ふらりと私はその店に入った。棚に文庫本が並んでいた。その棚の前に立って、私はいくつかの文庫本を手にとったようだ。
 そうして川端康成の「みづうみ」の最初の頁をひらいて数頁読みはじめたとき、戦慄が私の背を走ったのである。
 季節は夏の終わり。もう軽井沢の別荘群は、主が東京に帰って、秋なかばのように閑散としている。そんな夕暮れのことである。
 ひとりの中年の男があらわれるのだ。
 木立のあいだに、夏のあいだ活躍した誘蛾灯がぽつんと立っている。
 木立のみどりを映した誘蛾灯の銀色の光のなかに、男は蝶や蛾の舞い上る幻覚をみる。それから少女の声の幻聴にとらえられる……。
 それは、それまで読んだことのない世界だった。従来の川端とも違っていた。異様な感覚と旋律の舞う作品世界に、私ははじめて川端康成と出会ったような気がした。
 その冬、雪に埋まった町営住宅の一室で「みづうみ」論を、おずおずと書きはじめたのが、私の川端論の最初である。
 ちょうど川端がノーベル文学賞を受賞した年で、古い川端の参考文献が再販されたりして、田舎の青年にも文献が比較的簡単に手に入ったのも、ありがたいことだった。
 ひと月に1度、2時間あまりバスに揺られて福山の街に出る。その繁華街の岡田書店で、私は次々と参考文献を注文した。「みづうみ」論を書きながら、川端康成の生い立ちから川端文学の成り立ちを少しずつ勉強していった。
 私が大学時代に師事した紅野敏郎先生に、大学院に戻って勉強したい、と手紙を書いたのも、そのころだ。
 先生は、地方に家庭を持っている者が大学院に学ぶことの困難を指摘し、それよりも、とにかく論文を書いて印刷し(同人雑誌でもよし、個人のガリ版刷りの雑誌だったってかまわない、と先生は言われた)、印刷が出来上がったら、川端の研究者たちに毎回送りなさい、きっと注目してくれる研究者があらわれるはずだ、と懇切なお手紙をくださった。
 私はその言葉を忠実に実行した。「みづうみ」論を手はじめに、川端論を三つ、四つと書いていった。
 そのころ、教育出版センターから、新しく、十巻から成る川端康成研究叢書が刊行されることになった。
 すると、ひとりの先輩の研究者(羽鳥徹哉先生)が、その第1巻に、「教材としての『伊豆の踊子』」を書きませんかと声をかけてくださった。
 それがきっかけだった。私はその叢書に、結局、3編の論考を書くことになった。
 広島市内の女子大学から、専任講師にならないか、という話が舞い込んだのも、そのころであった。私はその学校で川端康成のゼミを担当した。
 私が初めて自分個人の本を出したのは、昭和55年のことである。『愛の文学選』という不思議な題名は、それを出版してくださった広島の出版社の社長がつけてくださったものだ。大学生、短大生のための、文学案内のような書であった。15人の近代作家を選び、その読みどころを解説したものである。
 やがて平山三男さんと共著で、『注釈:「雪国抄」・「住吉」連作』(林道舎)という本を出した。
 私が担当した「住吉」連作というのは、戦後まもなくから川端が書いた連作短編である。そして私に言わせれば、「みづうみ」の次に重要な川端作品である。敗戦の傷みと、日本伝統文学に回帰してゆこうとする川端の、『魔界』への入口ともいうべき、恐ろしい傑作群だ。古典につよい私であるから、この作品の注釈ができた、と私はひとりでうぬぼれている。
 それから姫路に来て、昭和62年に『魔界遊行――川端康成の戦後』(林道舎)を刊行した。
 つまり私の文学研究は川端康成にはじまり、川端康成に終わるものである。定年を迎えたら、自分なりの集大成として、川端康成の生まれ落ちるところから亡くなるまでを、渾身の力で書こうと思っていた。
 その機会がとうとう、やって来たようである。
(『文芸日女道』484号〈2008・9〉)


『魔界の住人 川端康成』連載1年を終えて

 『魔界の住人 川端康成』の連載を本誌にはじめたのは、484号、すなわち昨年の9月号からだった。
 本号496号であるから、連載の第13回が掲載される予定である。つまり、1年が過ぎた。
 当初の目論見では、戦前に1年、戦中・戦後直後に1年、戦後に1年、計3年で連載を終える予定であった。
 ところが今、1年を終えたのに、「禽獣」に入ったところ、来月号でようやく「雪国」にさしかかる。
 誤算の第一は、あれも書こうこれも書こうと欲張ったこと。自分の甲羅にあわせて、必要な作品だけをたどってゆけばよかったのだが、他の研究者が触れたものは、自分も書きたい。他の研究者が書かなかったところは、何か新しいことを加えたい。そういう、分を過ぎた欲張りのために、連載の進行は大幅に遅れたのだ。
 後悔は、まだまだ沢山ある。うまく論が進まなかったのに、そのまま活字にしなければならなかった号は、1ヶ月間、憂鬱である。そんな号が多い。
 自分なりに、今月はうまく書けたと思うのは、三回か四回に一度ぐらいだろうか。
 しかし収穫もあった。これまで勉強不足でよく知らなかった作品が、書いてみると、とてもよくわかるのである。失敗作で終わっても、そうか、この作品はこういうものだったのかと、翻然と悟ることが少なくない。
 それから私は、今回の連載に、川端康成の伝記的事実をいくらか書きこんだ。それは私自身に興味深かったからでもあるが、これまでの論考にはあまり見られなかったからである。
 一高時代からの川端康成の親友であった三明永無(みあけ えいむ)や鈴木彦次郎がなつかしくなって、このひとたちの生涯も書いてみたいという思いが、ふつふつとわき上がってくるのであった。
 一昨年の川端文学研究会の会報に、鈴木彦次郎を掘り起こして作品集も出したい、と書いておられた方があったが、そういう気持ちになるのである。
 うぶで、好きな女に声もかけられないくらいの康成を岐阜にまで連れて行って、婚約を成立させてしまった三明の好意と行動力。
 伊藤初代の父親を訪ねて東大生4人で出かけていった岩手県の岩谷堂。帰りは、盛岡の素封家である鈴木彦次郎の一家に招かれてご馳走になったという逸話など、もう90年も昔の話であるが、しきりになつかしい。
 岩谷堂には、立派な記念碑が建てられたという。
 岩谷堂は、いま町村合併で奥州市になっているが、伊藤初代の文献を快く貸し出してくださった恩義から、今もその図書館(奥州市立江刺図書館)に、『文芸日女道』を送りつづけている。
 川端康成研究の先輩、同輩、後輩の中堅の方々にも、本誌を送りつづけている。5、6名の方が律儀にメールでお礼をくださる以外は、はたして読んでくださっているのやら、目も通さず放置しているのやら、一言の音信もくれないひとが多いのだが、たまにどさっと感想を書いて送ってくださる方もある。
 紅野敏郎先生と羽鳥徹哉先生は、何ヶ月かに1度、必ずお葉書をくださる。そして感想や批評を書いてくださる。励みになって、とてもありがたい。
 さて、今後の見通しだが、戦前は、1年半になりそうだ。戦中についても、書きたいことが多いので、一年近くはかかるだろう。
 戦後は、私が川端康成論を書きはじめた、いわば私の出発点である。書きたいことも多い。おそらく一年は優にかかるだろう。
 こうしてみると、当初の予定を1年延ばして、4年で完成、ということになりそうだ。
 本誌は、まもなく創刊500号を迎える。といえばピンと来ないかも知れないが、創刊から40年になろうとしているのだ。
 私は、289号から同人に加えていただいた。1992年のことである。『阿部知二への道―評伝のための基礎ノート―』というタイトルで5年間ほど書かせていただいた。知二の父祖など、そのルーツを探る旅であった。
 その連載を終わったころ、心筋梗塞で九死に一生を得た。
 病後に、不思議なことに猛烈にエッセイが書きたくなった。私の本来の文学的創作意欲が突如として噴出したかのごとくであった。もはや小説は書かなかったが、エッセイの連載をはじめた。不思議なことに、ユーモアが後から後からわいてきて、そのころのエッセイは今読んでも抱腹絶倒の号がつづいているはずである。井上陽水に対する頌歌や映画『失楽園』について考察したものなど、今から考えても、なかなか愉快なものが多かった。
 それからふと気がかわって、自伝的エッセイを書くことになった。本格的な、シリアスな自伝ではない。10パーセントの誇張をふくんだものであった。
 老境に入ったのを自覚して、元気なうちに自分の父や母のことを書いておきたい、と思ったのである。
 連載は順調につづき、私の大学生活の3年目にさしかかったころであった。これから、同人雑誌をはじめたり、恋愛沙汰がはじまったり、波瀾万丈になろうとするところであったが、ちょうどそのころ、私は定年を迎えた。(と同時に、嘘のようだが、その短大がつぶれた。)
 定年が来たら取り組みたいと、かねて思っていたことがあった。それは川端康成を書きたい、ということである。これまで川端について幾冊かの本を出したことはあるが、いずれも論考の集成であった。川端康成を、誕生から死まで、その精神の軌跡を、統一的に書きたいという夢が前々からあった。私なりに一貫した構想もあった。
 幸い、私の健康は、小康を保っている。頭脳も、まだそれほど衰えてはいないようだ。書くのなら、今しかなかった。
 そんな次第で、私は川端康成論を本誌に連載しはじめたのである。

 それにしても、1992年から今日まで、17年間、私は『文芸日女道』にせっせと文章を書かせてもらってきたわけである。倦まずたゆまず、ときには欝的症状で書けなかった時期もあるが、だいたいほぼ毎月、雑誌に自分の人生を表現してきた次第である。
 五○○号が過ぎても、本誌が継続することを切に望む。姫路に住みついた私の表現できる場は、『文芸日女道』をおいて、他にはないからである。
(『文芸日女道』496号〈2009・11〉)



戦時下の川端康成と古典

『魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―』連載のため、少し先の戦時下の康成を調べている。
 この時期の作品やエッセイを読み、参考になる文献をあれこれあさっているところである。
 さて、この時期の康成でいちばん特徴的なことは、日本の古典を渉猟し、その世界に深く沈潜していることである。戦時下の用紙統制などにより、作家の活動の場が狭められ、創作の数が少ない、という事情ももちろんある。また天皇家礼讃のため、南朝(吉野朝)が注目をあつめ、その関係の書籍が多く現れたという趨勢も無視できないだろう。
 しかし康成の圧倒的な読書量をみると、康成自身の関心が日本の歴史、特に文学のそれに猛烈に吸い寄せられている事情がよくわかるのである。
昭和18年の7月から、康成は『満洲日日新聞』と『大連日日新聞』に「東海道」という小説を連載しはじめた。
 これは植田建吉という旧制高等学校の国語教師を主人公に、植田がかつて著した「日本の旅人」に沿って、「古典にあらわれた、日本人の旅の心」をたどってゆくという物語である。もっとも、小説的構成はわずかで、むしろ随想風な作品といえる。
 この作品に登場する古典作品や人物の多さに着目して、わたしが「戦時下の川端康成―その古典受容を中心として―」という論考を書いたのは昭和五十二年だから、もう30年以上も前のことになる。
そこでは、まず静御前の「しづやしづ しづのをだまき くりかへし……」から始まって、この歌と伝説を語りつたえてきた人々の心を考え、それから小野小町と菅原孝標女が、いずれも13歳のころに京をめざして街道を上ってきたことが語られる。
 この記述は、ちょうどそのころ数え12歳の養女政子をもらって、その少女が小町と反対に、京の近くから鎌倉へ東海道を下って新しい生活に入ってゆくという事実に或る感慨を覚えて発想されたに違いない。
 戦時下の康成の読書の実際を如実に示すのが、昭和19年3月、『読書人』に発表された「真珠船」という随想であるが、ここにも、同様の記述を見ることができる。

   13歳の実朝に京から遠く嫁いで来た御台所も13歳、菅原孝標の女の東海道の  旅も13歳、小野小町が出羽の采女(うねめ)だとすると都に上つたのはやはり1  3歳ぐらゐ、私がこんな聯想をしたのは、昔の旅人を少し調べたいからだつた。

 すなわち、13歳前後の少女の東海道往来に夢を託しているのだ。
 さて、戦時下の川端康成というと、すぐ連想されるのは源氏物語であるが、昭和18年夏から秋の初頭のこの時点では、ほとんどふれられていない。康成が湖月抄で源氏物語を精読しはじめるのは、「東海道」の連載が終わった、この年の秋十月ごろからである。
 むしろ、「東海道」の中心をなしているのは、室町時代、とりわけ応仁の乱の時代に生きた人たちである。
 まず、室町将軍では8代将軍義政につづいて、薄幸の貴公子、九代将軍義尚(よしひさ)がくわしく語られる。
 そして彼の恩顧を受けた内大臣・三条西実隆と、連歌師宗祗(そうぎ)が、この作品の主人公であるかのように、詳細に語られるのである。
 康成が、どのような書から、これらの人々についての知見を得たかは、「真珠船」によって知ることができる。
 室町時代を概観するには、森末義彰「東山時代とその文化」、吉澤義則「室町文学史」がふさわしく、また一時代前の一条兼良については松浦靖「室町時代の社会と思想」や、福井久藏の評伝によって知ることができた。宗祗については、新刊の創元選書、荒木良雄「宗祗」、及び伊知地鐵男「宗祗」を「両著とも出色の評伝である」と評価し、そこから多くの知見を得ていると告白している。
 また、三条西実隆は宗祗から古今伝授を受けたが、古今伝授の実相をきわめた横井金男の「古今伝授沿革史論」が有益であったとする。
 これらに助けられて、「東海道」では、近江の佐々木六角氏が将軍に叛旗をひるがえしたとき、その討伐にむかった義尚が近江鈎の里に在陣中、京から宗祗を招いて伊勢物語の講義を受けたこと、病臥したとき、実隆が後土御門天皇の勅使として近江に下向し義尚と対面する場面、しかもその義尚が25歳で病没し、遺骸が京に帰って父義政と対面する場面などを、ありありと描いている。
 また出自の卑しい宗祗が、貴顕の実隆と交誼をむすび、始終その邸宅を訪問したこと、宗祗は地方の豪族――越後の上杉氏や周防の大内氏――などに厚遇され、たびたび地方に下って、源氏物語や伊勢物語を講義した事実など、まことにゆたかな文化の交流がこの戦乱の最中におこなわれていたことを如実に描いているのである。
 ――これらの記述から、康成は、何を得たのか。
 康成は、実隆と宗祗を対比して描く。
 実隆は、歌人としても古典学者としても、鎌倉の定家に遠く及ばず、直ぐ前の兼良にも及ばず、おなじ乱離の末世を生きながら、義尚父子や宗祗などのような深い痛みはなく、格別な作品も残さず、長い生涯を生きた。ただ「実隆公記」という膨大な日記を残した。
 義尚の遺骸が京に帰ってくる日、実隆は「見奉るために、近衛のあたりに出でて、見物す」。ところが雨が降ってきたので、「しばらく山科宰相の許に立入る。一盞(いっさん)あり。日野一品以下路次に参会す」といった、のんびりしたありさまなのである。それでいて、柩(ひつぎ)を迎えると、涙がとまらない。
 これに対して宗祗は、あれほど恩顧を受けた義尚の遺骸が京に帰ってくる前日に、大内氏の山口を指して旅立っている。宗祗は義尚によって連歌所奉行に任ぜられたのであるし、伊勢物語を講ずるなど、親愛も深かった。それなのに、出発を一日延期して遺骸の到着を待つこともせず、旅立った。かといって、義尚をないがしろにしたのではない。翌年の1周忌には四要品の経文を摺写して、その裏に義尚と文雅の交わりのあった高位の公家などに歌を書いてもらい、そして自身の草庵・種玉庵へその人たちを招き、ゆかしい仏事を行っている。
 康成はこのように生涯を旅に終わった宗祗の「戦国に古典の道を貫いた一筋の誠実には、無慙な底寒さがあつたらう」と記す。
 義尚の死をめぐる二人の生き方を康成はきわめて対照的に描き、そこに自己の生きる道を探っているのである。
 もちろん康成は、宗祗の乱離の世を厳しく生き抜いた生涯に惹かれ、そこに自身の範を見出したのであった。
(『文芸日女道』502号〈2011・3〉)


『魔界の住人 川端康成』連載の舞台裏

 舞台裏――といっても、苦労話と誇大妄想の自慢話になるであろうから、まあ話半分として、気楽に読んでいただければ結構である。
 姫路の短大に勤めているあいだ、十五年ばかり、生涯学習の講座(学外の方を対象とした講座)で源氏物語を担当した。
 諸注釈を参照しながら、脂汗を流して予習に励んだのだが、数年かけて五十四巻を読了することを目標としたので、ちょうど三回、最終巻の「夢の浮橋」まで到達することができた。
 おかげで、源氏物語の隅々まで知ることができた。源氏物語についての専門書もかなり読破した。
 だから、川端康成が戦時下から戦後にかけて、「湖月抄」の注釈によって源氏物語を精読した成果は、手に取るようにわかる。源氏物語の専門家である上坂信男先生が指摘された「形代」はもちろんのこと、光源氏の須磨明石流離も、浮舟の生涯も、いかに深く康成の精神に刻み込まれたかは一目瞭然である。
 老主人公にわざわざ行平と命名した「住吉」連作が、源氏の須磨流離を念頭に置いてのものであることは、言うまでもない。須磨の巻には、在原行平の故事や和歌が、幾度、執拗に言及されていることか。
 そこから当然、折口信夫の提唱した貴種流離譚の一変型として、この物語が構想されていることも明らかだ。
 さて、この連載も本号で第四十三回を迎え、あと数回で完結の予定である。目下、康成晩年の異常な孤独感と文学的衰弱について筆を進めているところだ。
 川端康成を、その誕生から死まで、統一的に書きたいという夢は前々からあった。わたしなりに一貫した構想もあった。
 その特異な精神の、生涯にわたる起伏にとんだ軌跡を、わたしなりに跡づけたかったのである。
 その文学的成果の頂点をなす〈魔界〉の作品群――わたしの見通しでは、それは祖父と過ごした幼少年期の異常な孤独、孤絶感に始まり、作品としては戦後の「住吉」連作から「千羽鶴」「山の音」を経て「みづうみ」「眠れる美女」を頂点として下降してゆく。「片腕」「たんぽぽ」「隅田川」が、その掉尾を飾るといっていいだろう。
 また、康成の創作意欲を刺激した〈美神〉の存在も無視できない。故川嶋至氏がいち早く提唱されたように、伊藤初代は康成前半の最大の〈美神〉であるが、「母の初恋」を経て、養女政子が新しい〈美神〉として戦後の川端文学の豊饒を支えたとは、わたしの仮説だ。
 「その生涯と文学」を副題としたように、評伝的要素も、多くこの連載に書きこんだが、しかしいちばん力を注いだのは、各作品論である。わたしなりに、新しい視点、解釈を提示してきたつもりであるが、これまで研究者が見逃してきた課題を、発掘するように努めた。
 たとえば「禽獣」の結末部分は、これまでは山川弥千枝の遺稿集『火の鳥』を引用したと考えられてきたが、実際には遺稿集には該当する部分がないことを調査し、康成の創作であると結論づけたこと、「眠れる美女」に引用されている中城ふみ子の生涯や歌集を明らかにしたこと、「抒情歌」「生命の樹」「住吉」連作「千羽鶴」「波千鳥」「古都」「不死」「たんぽぽ」などに新しい解釈を付加したことなどは、ぜひ留意していただければ、と思う。
 もちろん、題名にした〈魔界〉については、本書の生命であるから、各作品論のところで詳述したが、「みづうみ」の章後半で、わたしの従来の〈魔界〉論を補強して、新しい説を提出したので、留意して読んでいただければ、ありがたい。
 また、これまで中間小説的であるとして、あまり論じられてこなかった、あるいは軽視されてきた作品群にも、わたしなりに挑戦し、わたしなりの評価を提示した点も、見ていただければ、と思う。
 「虹いくたび」「舞姫」「日も月も」「川のある下町の話」「東京の人」「美しさと哀しみと」「古都」など、自分なりに解釈し、先行文献に学びながら、その作品の主題を明らかにして評価を加えた。
 この連載でもう一つ特徴的なことは、太平洋戦争の戦中と戦争直後に、多くの紙数をついやしたことである。
 康成の戦中の作品で特に注目し、論を集中したのは、「英霊の遺文」と「故園」である。前者には、康成の、戦争と日本人に対する深い共感と悲しみがこもっている。
 後者は、養女を引き取る話に始まり、祖父と過ごした幼い日々の細部に回想はおよぶ。この自己の原点を探る苦しい営為と、敗戦に直面した日本人全体への悲痛な共感が、戦後の川端文学の蘇生、再生をうながす原動力となった。
 三島由紀夫が、川端は戦中から戦後にかけて「自己変革」をなしとげた、と述べた言葉には瞠目し、心から敬意をはらった。三島由紀夫ほど、川端康成と川端文学を心底から理解していたひとは他にいない。康成の中世(特に室町時代)傾倒を理解できたのも、中世文学に造詣の深かった三島ならでは、である。
 そのような後輩作家を身近に得たことは、康成の作家としての幸福であったろう。
 それにしても、戦争末期から戦後にかけて康成を襲った悲痛の想いは深い。「哀愁」や「少年」に描かれた、戦争末期の回想には、襟を正させるものがある。敗戦直後、康成は「山里に厭離したい思ひ」と述懐した。その悲痛のどん底の境地から、「再会」や「住吉」連作が生み出されていったのである。
 わたしの連載で、戦時下と戦争直後に異常なほど比重が置かれたのも、そのようなわたしの認識による。
 本誌連載でもう一つ努力したのは、資料図版を多数掲載したことである。一つには、同人仲間などに親しんでいただくためでもあったが、研究者でも未見の珍しい写真も、少なくなかったはずだ。たとえば『朝日新聞PR版』の紙面など、大変な苦労をして入手した。
 コピーでお世話になったのは、日本近代文学館、神奈川近代文学館、国立国会図書館、大宅壮一文庫など。インターネットの「日本の古本屋」、「アマゾン」のサイトも大いに活用した。検索すれば、大抵の書も雑誌もあった。
 B出版社に計算していただいたら、四百字詰原稿用紙で、2,700枚になるという。大判のA5判で2冊か3冊になる勘定である。
 あとは、完結と出版に向けて、ひたすら走りつづけるだけだ。
           (『文芸日女道』526号〈2012・3〉)





探索『事故のてんまつ』
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4年ちょっと前から『魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―』を連載しはじめて、今号で第49回を迎えた。
 川端康成の自裁までと、川端康成の生涯についての、わたしなりの感慨はすでに記したが、『事故のてんまつ』の探索に入って、調査をすすめるうち、内容がどんどんふくらんで、なかなか完結に至らない。しかし、もう2、3回で、本連載は終了する予定である。
 今年2012年(平成24年)は、川端康成の没後40年になる。その死の5年後、すなわち今から35年前の春に、臼井吉見が『展望』5月号に「事故のてんまつ」を発表し、さらに単行本『事故のてんまつ』出版を強行したのだった。
 わたしは初め、この作品とその反響について書くかどうか、すこし迷っていた。しかし、川端康成の生涯と文学を考える上に、この事件は、きわめて重要な意味を持っている。やはり書くべきだろうと思いながら、事件の翌年に出版された武田勝彦・永澤吉晃編『証言「事故のてんまつ」』(講談社 昭53・4)巻末の「関係文献一覧」を参考に、連載をつづける傍ら、ぽつぽつ、重要そうな文献のコピーを蒐集してはいた。
 このようなわたしに火をつけたのは、小谷野敦の「『事故のてんまつ』事件 1977」という論考だった。
 これは『現代文学論争』(筑摩書房 平22・10)に掲載されたもので、兄事する関口安義氏が、メールで「面白いですよ」と推薦してくださったのである。
 すぐジュンク堂WEBで取り寄せてみると、なるほど、刺激に満ちたものだった。このひとの名はよく承知していたが、読むのは初めてである。『事故のてんまつ』前後の騒ぎを「事件」として捉え、その推移について述べている。
 が、どうもこのひとは攻撃的な人格の持ち主であるらしく、あちこちに喧嘩を売っている。
 川端康成の伝記的研究も、『事故のてんまつ』問題の追究も、この騒ぎの影響で萎縮し、停頓している、と決めつけているのだ。そして、自分は近いうちに、『事故のてんまつ』を含めた川端康成の伝記を書いて、このタブーを打ち破る、と宣言している。
 この喧嘩を、わたしが買った。「別にタブーがあるわけではない。ただ誰もが康成の自裁の謎と『事故のてんまつ』について、何となく、書かなかっただけだ。それなら、わたしが書こう」と決意したのである。
 小谷野敦はこの論考で、大胆にも、当時の関係者を、「すでに当時の週刊誌や新聞も報じているから」といって、実名で書いている。これは、じつは部落問題やプライヴァシーの問題で、関係者たちに迷惑をかける可能性のある、危険なことなのだ。
 しかも、週刊誌も遠慮して書かなかった、事件のヒロインであるお手伝いさんの実名を、小谷野敦は書いたのである。そしてそれは後述するように、全くの人違いだったのだ。
 ともあれ、小谷野敦の挑発的な文章によって、わたしは康成最後の恋であるかもしれないこの事件について、本格的な取材をはじめた。
 35年前の、週刊誌などに追い回された当事者たちは、いま健在なのだろうか。もし物故しているならば、その家の跡を継いでいる親族の名を知りたい。もちろん住所も、できれば電話番号も……。
 最初に考えたのは、やはり、信州穂高のひとに訊ねることだった。穂高に知人のいるひとはいないだろうか。
 ……大学時代の旧友を思い描いてゆくうち、いい友人を思い出した。全国に知人を持っている可能性が高い。
 詳しくは連載に書いたが、S氏は、穂高に知人を持っていた! そのひとは、穂高の老舗の後継者であるという。早速、探索事項を書いた文書を作成して、S氏に送った。
 そして老舗の後継者は、みごとに、わたしの期待に応えてくださったのである。穂高の町では、35年前の騒動を覚えている方が沢山いた。当事者たちの住まいや名前を、わけなく教えてくださったのである。
 この過程で、小谷野敦氏の挙げた名前が全くの別人であることもわかった。小谷野氏は、新聞に実名の出た、別のお手伝いさんを「縫子」と勘違いしていたのである。
 わたしは上記の参考文献のほとんどを手元に揃え、読破していった。一方で、生みの母親の名も顔も知らない「縫子」の、まぼろしの実母と実父を尋ねる探索も進めた。
 穂高へ、実地踏査に行き、幾人もの関係者に会ってお話を聞き、また「縫子」の住んだ家々の跡もたずねた。37年前の昭和45年5月、川端康成が訪ねた盆栽店――「縫子」の養父の営んでいた『庭繁』――実際の店名は『アルプス園』だった――の跡地にも立ってみた。康成が訪ねたのと同じ5月である。残雪が白く残る北アルプス連峰が美しかった。
 つい先日は、「キューポラのある街」として知られる埼玉県の或る町を訪ねた。「縫子」の実母の名がわかり、その晩年の世話をしたM氏に会いに伺ったのである。M氏は、「縫子」と康成が二人で写った写真を見せてくださった。背景や服装などから、養父一家がミネゾを鎌倉長谷の川端邸に運び込み、植えたとき、記念に撮影したものと推測された。昭和23年生まれ、このとき22~23歳であった「縫子」は、色白のか細い少女で、まだ高校生のように見える。
 M氏は、「縫子」の実母の、甥にあたる方であった。惜しくも、実母は、3年前に亡くなっていたが、その生涯や、「縫子」の実父と出会った日々を記録した手帳も見せてくださった。
 実父と実母は、34歳の年齢差がある。生後1年前後で、「縫子」は実父の家に引き取られた。その養母と753のときに撮った写真もあった。「縫子」7歳の写真である。
 実父は、「縫子」の満8歳のときに亡くなったが、奇しくも、わたしの故郷と同じ福井県の、丸岡町の出身であった。その実父の出自を調べるために、わたしは近く丸岡町を訪ねる予定である。
 「縫子」自身は、わたしの取材の求めに応じてくれなかったが、ご主人を通じて、自身の感想をFAXで送ってくれた。
 その言葉と、これまでの取材によって、わたしは康成と「縫子」の関係を了解した。康成は、かつて様々な少女に慕情を抱いたように、自分に境遇の近似した「縫子」に、慕情を寄せたのだ。
 それを口にすることもなく、ただ黙って康成は死を選んだ。
            (『文芸日女道』532号〈2012・9〉)



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