魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

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カフェ・エランの少女――川端康成の初恋・伊藤初代

2019-06-11 16:35:28 | 論文 川端康成
カフェ・エランの少女―川端康成の初恋・伊藤初代

カフェと文士たち

その序章から


   明治44年(1911)の3月、わが国で最初のカフェ「プランタン」が銀座・日吉町の町角に開店した。東京美術学校(現・東京藝術大学)を出た画家・松山省三が経営に乗り出したのである。
 松山は美術学校時代、恩師の黒田清輝から、たびたび、パリ留学時代の思い出話を聞いたが、そのなかでも最も印象的なのが、パリのあちこちにあるカフェの話であった。
 そこでは香りの高い珈琲やワインが提供され、有名無名を問わず、若い画家や詩人たちが集まってきて、芸術や文学について理想を語り合う。格別に高踏的な空間だ、というのである。
 松山は、日本にもそのような空間ができたら楽しいだろうと考え、たまたま資産家の息子だったので、友人と資金を出しあって店を開いたのだった。

 銀座は、慶応義塾大学のある三田(みた)の丘から近い。早速、永井荷風がこの店に現われ、馴染みの新橋芸者・八重次(やえじ)と待ち合わせ、この店の風雅な趣きを共に楽しんだ。
 3年前、4年間におよぶアメリカ、フランス遊学の旅を終え、帰朝した荷風は、清新で官能的な「歓楽」や、日本の新時代を批判する「新帰朝者日記」「冷笑」を発表するなどして、注目すべき作家として高い評価を得た。
 加えて前年の明治43年4月から、文科刷新をめざす慶応義塾大学の文科教授として迎えられ、かつ、新雑誌『三田文学』の編集主幹を命ぜられて、ライバル早稲田の文科に対抗する切り札として活躍していたのである。

 そんな荷風は、カフェ・プランタンを讃美する即興の詩を作って『三田文学』に発表したり、時には学生たちと歓談したり、カフェ文化を満喫したが、やがて銀座を中心に、「パウリスタ」「ライオン」など、あちこちにカフェが開店して、珈琲や洋食を提供したりした。森鴎外を顧問にいただく『スバル』に拠った北原白秋、高村光太郎、吉井勇、谷崎潤一郎、さらには『青鞜』の新しい女性たちも、カフェにつどった。すなわち、日本にカフェ文化ともいうべきものが花ひらいたのだ。

 しかし大正12年(1923)の関東大震災は、これらのカフェを倒壊させ、焼け跡に出現した新規のカフェは、従来とは趣の異なるものとなった。白いエプロンをつけ、客席で媚びを売る女給たちが、カフェを象徴する存在になったのである。
 大正年間に麻布(あざぶ)市兵衞町に洋風の偏奇館(へんきかん)をもうけて独居凄涼の生活を始めた荷風も、ふたたび銀座のカフェに姿を見せるようになった。荷風が毎日のように立ち寄ったのは、かつての老舗「ライオン」に対抗するように、阿漕(あこぎ)な商売をはじめた「タイガー」であった。

 「ライオン」は、風儀の悪い女給のクビをきったが、「タイガー」は「ライオン」から追放された女給を喜んで採用した。あまつさえ、女給の引き抜きをして美女を集めた。酒を介在し、女給が客から媚びと引き替えに金をむしり取る、新しい形のカフェが流行し、世人の興味と羨望を誘ったのだ。
 荷風は「タイガー」の女給・お久から脅迫されて金を取られたが(もちろん、お久の肉体を堪能した見返りとして)、その代わり、お久をモデルに銀座風俗の変遷を描いた名作「つゆのあとさき」を書いた。
 「タイガー」は、銀座の時事新報社の前にあったから、かつてここに勤めた、文壇の大御所・菊池寛も、この店を贔屓(ひいき)にした。このため、友人の文士たちの多くも、「タイガー」にむらがった。

 そのころ、本郷の高台に、有名な高等下宿・菊富士ホテルがあって、竹久夢二と愛人のお葉をはじめ、種々の作家や学者、畸人変人たちが、ここに住んだ。
 宇野浩二の親友・広津和郎もここに投宿して原稿を書いたが、あるとき、ひとりの女性から「私のこれまでの人生を小説に書いてほしい」と頼まれた。しかもこの女性は「タイガー」の女給であり、北海道から上京して「タイガー」に勤めた最初の夜の客が菊池寛だった。
 菊池寛は彼女に好意を寄せ、多額のチップを渡し、また、食事に誘った。
 広津は、かねてより雑誌『婦人公論』から大衆的な小説を依頼されていたので、この女性をモデルとした小説「女給」を連載しはじめた。菊池寛をモデルとした詩人が、第一回から登場する。『婦人公論』の社長・嶋中雄作は、これを機に雑誌の売上げを爆発的に伸ばそうと、策を打った。新聞の広告に、「文壇の大御所」と「女給・小夜子」を大きな活字で載せ、あたかも菊池寛のスキャンダルがあばかれるかのような宣伝をしたのである。
 広津の作品では、単なる大物詩人であるばかりなのに、嶋中は、わざと「文壇の大御所」とし、読者に菊池寛がモデルだと錯覚させたのだった。
 怒った菊池寛は雑誌社を訪ね、嶋中に抗議したが、嶋中は煮えきらぬ態度をとる。本気で怒った菊池寛は、嶋中を殴りたくなったが、間に大きなテーブルがあったので、仕方なく、隣に座っている若い編集者の頭を一発をポカリと殴った。
 翌日の各新聞は社会面でこの事件を面白おかしく報じた。菊池寛の「女給」事件として、派手に騒がれ、翌昭和6年、単行本が刊行されると飛ぶように売れ、すぐ映画化された。主題歌「女給の唄」も中山晋平の作詞で、大流行した。
 この作品を書いた広津和郎の愛妻(事情があって、生涯、籍が入ることはなかったが)も、カフェの女給であったし、友人宇野浩二の生涯にただ一人の子供を産んだのも、銀座の台湾喫茶「ウーロン」に勤める女性であった。

 そのように、カフェは、この時代を彩る象徴的存在となった。作家も詩人も、こぞってカフェの女性を妻とし、愛人としたし、カフェを舞台とした作品を書いた。真剣な愛もあった。

 谷崎潤一郎の話題作「痴人の愛」のナオミと譲治が出会ったのも、浅草の雷門(かみなりもん)近くのカフェだし、江戸川乱歩初期の名作「D坂の殺人事件」も、カフェが舞台となっている。
 そのように、カフェと文士たちの交流は深い。

 そのようなカフェ文化の坩堝(るつぼ)のほんの片隅に、小さな花が咲いていた。
 大正8年の春ごろ、東京本郷元町2丁目にあった、ミルクホールのような質素なカフェ・エラン。そこに住み込んでいる、数え年14歳の、「ちよ」と呼ばれる色白の少女が、川端康成の生涯を決定する、運命の女性となったのである。


『文芸日女道』610号(2019.02.05)



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1 コメント

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「カフェ・エランの少女 川端康成の初恋・伊藤初代 (森本 穫)
2019-06-11 16:40:34
久しぶりに、川端康成と伊藤初代の恋について、掲載しました。皆さん、ぜひ、読んでみてください。

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