魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

近松秋江と宇野浩二

2013-02-09 00:59:24 | エッセイ 近松秋江と宇野浩二
近松秋江と宇野浩二                                                                               
森 本   穫
 
   近松秋江!
   君の蹌踉たる姿を神楽坂に見ないことも久しい。思ふに、それが一ヶ月や二ヶ月なら知らぬこと、さう一年も二年も東
  京を離れて、君が京都に行つてゐるところを見ると、何か又君を引止める女性がそちらに出来だのではないか?
   もしさうなら、僕は君のために遙に盃を挙げよう。

  宇野浩二は秋江について、ずいぶん沢山の文章を書いているが、そのなかでも私か特に好きなのは、最初の「近松秋江論」である。大正八年九月、「苦の世界」と同じ月に『文章世界』に発表されたこの長文のエッセイは、これまでに書かれた誰のどの秋江論よりもすぐれている。少なくとも、秋江の文学の本質を衝いている点において、この文章の右に出るものはない、と私は思う。
  それにしても、浩二自身が、果たして文壇の一画に場所を占めることが出来るか否かもわがらぬ時に、何とのびやかにこの文章は、秋江について多くを語っていることか。

  玄人好みの、だが番付がなかなか上がらぬ相撲取りへの応援歌、といった体裁をとりながら、この文章は秋江の文学の拠って来たるところ、すなわち愛欲の一途さと、それに奉仕することによって生ずる難儀な生活、そしてそこから秋江独特の芸術の誕生している所以を、縦横の話術を駆使して見事に描ききっている。
  なかに引かれている秋江作品の鑑賞評価も的確である。大阪の遊女ものの代表作「青草」末尾の、あの眼にあざやかな情景。また、いかにも秋江好みの「四条河原」の最後の刃傷沙汰など、特徴をよくとらえて、欠点は欠点と指摘しつつ、正確な評価をくだしている。さらに秋江のすぐれた紀行文、郷里ものの系列の可能性、といった目配りもゆきとどいて親切だ。

  ところで、この文章の最後近く、ふたたび秋江に呼びかけたのが冒頭の引用だが、宇野が推測したとおり、このとき秋江は京都の金山太夫なる女性に心身を消耗し、その凄惨なひとり相撲の恋も、ようやく終りを告げたころであった。

  無惨な結末に傷心して、魂が消えたようになって秋江が東京に帰ってくるのは、これからそう遠いことではない。そして宇野の期待どおり、この懊悩の果てから、「黒髪」以下の情痴文学の傑作が書かれてゆくのである。

  大正二年、牛込白銀町の素人下宿『都築』で出会って以来、秋江に対する宇野の愛情と敬意は終生変わることはなかった。
  『近松秋江選集』全三巻を編集刊行し、戦後はいくつかの文庫本に懇切な解説を書いた。
  浩二を、ここまで打ち込ませたものは何だろう。

  女とのいきさつ、放浪と転居。そうした生活を支える素人下宿という奇妙な世界。これらの共通項に加えて、おそらく天性の何かが秋江と浩二の間には流れあっていたに違いない。その文学的血縁の深さが、秋江への親炙を深めたのだ。「近松秋江論」は、じつは宇野浩二自身の芸術家宣言であったのかもしれない。

近松秋江全集 月報1 第一回配本第一巻 平成4年4月
      東京都千代田区神田小川町三ノ八 八木書店