魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

ついに確定された鴎外「舞姫」エリスの実像! 六草いちか『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』

2013-04-24 02:04:48 | エッセイ 文学
 ドイツに留学した森鴎外を追って、明治21年(1988)9月12日に横浜湊に到着したエリス。
 「舞姫」のモデルとされたこの女性の実像は、125年間も、謎のままであった。
 今から30年ほど前の昭和56年、横浜港に着いた旅客船の乗船名簿から、彼女の名前は確定されたが、その後の様々な調査でも、彼女の実像は明らかにはされなかった。
 法律学者でベルリンに客員教授として滞在した植木哲の調査も、いいところまで行ったが、その名前が違う点に、難点があった。
 この書の少し前に出たNHKディレクター今野勉の新説も、いいところまで行っているが、やはり、乗船名簿と名の違うところが問題で、首肯することはできなかった。
 ところが、この六草いちかという、日本ではほとんど無名の一女性は、見事な調査によって、ついにエリスの父母、妹も含めて、エリス自身を特定したのである。
 125年間の謎が、ついに明かされた。
 この著者に深い敬意を払いたい。私は森鴎外の専門家ではないが、かねてよりこの問題に注目してきた。この書のたどり着いた地点は、間違いなく終着点である。
 近いうちに、森鴎外を専門とする研究者たちからも認められるだろうが、この書は、積年の謎についに決着をつけたという意味で、大きな意味を持つ。
 大きな賞をあげて、この事実を世間に広く知らしめるべきである。
    森本 穫(おさむ)

大岡昇平「武蔵野夫人」

2013-01-31 00:13:57 | エッセイ 文学

大岡昇平「武蔵野夫人」                       
吉野 光彦


 久しぶりに大岡昇平を読む機会があった。
 「俘虜記」「野火」を中心に、フィリピンの苛酷な戦場を描いた作品系列と、「武蔵野夫人」から「花影」にいたる一種の恋愛小説――これらを恋愛小説と呼べるかどうかは疑問だが――の系列と、これら2つの流れを核に昇平さんの文学像をとらえてみようとしたのだが、実際に読みはじめると、昇平さんを読んで過ごした歳月が浮かび上がってきて、自分の年齢を思い知らされた。

 学生時代にはじめて「武蔵野夫人」を読んだときには、甘美な恋愛小説を期待していたから、その精緻きわまる心理分析と、恋愛の背景となった戦後まもない時代状況社会的状況が丹念に描きこまれていることに、むしろとまどいを覚えたものだった。

 それから幾度、この小説を読んだことだろう。

 スタンダールの屈指の翻訳家でもあった大岡さんは、この作品を精密きわまりない製図の上に組み上げられた恐るべき完璧な立体的空間に造り上げた。この小説がフランス文学伝統の心理主義的方法によって描かれていることは、冒頭のエピグラフにレイモン・ラディゲの引用で明らかだが、今回「俘虜記」につづいて読んでみると、この作品が「俘虜記」とほとんど同じ地盤の上に成り立っていることにあらためて気づかされた。

 「俘虜記」には、まず戦場となった島の地形と気象、自然条件が提示され、南方指令部の愚昧と怠慢によって孤島の山中に放置された数百の将兵と、圧倒的な物量を誇る米軍の上陸という客観的情勢が示される。
 さらに日本陸軍の構造的悪が語られ、それらの諸条件のなかで小さな組織が解体され、放り出されてフィリピンの山中を彷徨する飢えた兵士の精神が語られる。

 「武蔵野夫人」もまた、はじめに精密な地勢から語り起こされることについては、すでに多くの指摘があるが、戦後の荒廃した日本社会下の、いわば孤立した武蔵野の古風な土地は、恰好な物語の舞台だ。現代でこそ小金井や小平は、東京西郊の人口密集地帯に過ぎないが、50年前、そこは欅(けやき)や樫(かし)の木立ちの多い、富士の見える平穏な野であった。

 その土地に住み着いた、ひそやかな一家。御維新で職を失った御家人の後裔で、妻とふたりの息子を失った退職官吏の老人――。その残された娘として、古風で貞淑な、武蔵野の地下を流れる清冽な水の妖精のような魂をもつ道子が登場してくるのである。

 作者はこの小説について、福田恒存の批評に答えて興味深い言葉を残している。「現代のロマネスクの恢復を図り、同時にそれに苦杯を飲ませる目的」と、「復員者の健康恢復の物語を書くこと」という奇妙な言葉である。

 この作品の眼目はもちろん、幼い日に共通の思い出をもつ道子と従弟・勉の、抑制によって、より内面化された恋愛――ほとんど魂の恋といえるもの――であるが、その愛の発生も、悲劇的な結末も、可能なかぎり重層する諸条件によって必然的な道ゆきとして克明に描かれる。もはや現代では(近代という名のつく社会においては)、恋愛さえも、偶発的に生起するのではなく、必然的な諸条件に規制されずにはいられない。

 そのような社会にあってなお、読者が陶酔できるようなロマンを描くことは可能であるか、というのは昇平さんの第1の課題であり、第2の「復員者の恢復の物語」という、一見、奇妙なテーマであった。

 ビルマ戦線の生き残りである勉は、戦場の悲惨を極限まで生き、かろうじて還ってきた若者である。今回いくつか読んだ批評のうち、勉について作品全体について最も適切に指摘していたのは丸谷才一であると思われたが、丸谷さんの説を受け売りすると、この「還ってきた男」こそ、西欧の代表的小説のいくつかに登場する典型的人物像である。

 なるほど戦争が終って、ただ生きることに夢中な戦後日本の雑駁きわまりない騒然とした世の中に、見るべきものでないものを、すべて見てしまった男は、まったく異質な闖入者であり、異様な眼つきをした異邦人である。

 そしてその得体の知れぬ何かを身から発散する青年こそ、ロマネスクを成立させる1つの条件である。

 都心で、堕落した女学生たちとつかのまの色ごとにふける勉の、幼い日の母親の胸乳をもとめるような眼に、道子は虚無にひたされた勉の、真にもとめているものを知る

 作品は、武蔵野台地の「はけ」と呼ばれる土地を主舞台に、ゆるやかに進行する。戦後社会の縮図そのままに、俗物そのものの語学教師の夫秋山、隣家の石鹸会社でひと儲けしたした男と生来のコケットリーな妻が登場して、各々の役割を演ずる。
 道子と勉の、野川の源流をもとめる散策において「恋が窪」という地名によって道子がみずからの心の「恋」に気づく場面、2羽の黄蝶が舞う場面など、甘美なロマネスクは、硬質の文体によって「象牙と象牙がかちあう乾燥した音」をたてて現出する。

 勉は、いうまでもなく、戦場から偶然にも生還した、復員者たる作者の分身である。生死の堺からまったくの僥倖によって脱出し今なお死者たちの声を背負って生きている復員者にとって、銃後の世界の延長の、ぎらぎらした生の欲望の支配する戦後社会が、適応するに困難な、異質の許しがたいものであったことはいうまでもない。

 大岡昇平はすでに「俘虜記」後半において、勇敢な日本人将兵が、生命を保証され食糧を与えられた途端にみごとに堕落してゆく様相を、あますところなく描いていた。ちょうどドストエフスキイがシベリアの流刑地でみたものを「地下生活者の手記」で描いたように。

 そのようななかで、堕落さえ出来得なかった復員者が、戦後社会をどう生きるのか――。

 物語の終末部において、戦場とはまた違う、もう一つの痛切な悲劇を経験した勉はその後どうなるのか。

 作者は物語最後の文章に「一種の怪物」という、ふしぎな言葉をおいている。

 「怪物」とは、どういう意味なのか――。

 復員者であることによって、生きることの困難を感じ取っていた勉は、この悲劇を経験することによって、みずからの成長のための糧とすることによって、戦後の社会を縦横に生き抜く、恐るべき力を獲得したのである。戦場という虚無の上にもう1つの虚無を経験した勉に、もはや恐れるものは何もない。

 おそらく彼は今後、人間の心を失った非情な「怪物」として、世俗にまみれ世俗を踏みこえて、戦後日本という荒涼とした野を強靭な精神で駆け抜けてゆくに違いない。丸谷才一がこの作品を1種の「教養小説」(1個の魂の成長してゆく小説)と名づけたのは、まことに卓見というべきであった。
 
『文芸・日女道』408号(2002・5)

宇野浩二「宇野浩二日記」と「思い川」

2013-01-28 00:14:35 | エッセイ 文学
 「宇野浩二日記」と「思い川」                       

 昨年の夏、私は久しぶりに宇野浩二論を書いた。
 浩二の長い文学生活を前後に分けるとすると、後期の最初の作品と目される「枯木のある風景」について論じたのである。これは長いあいだ私の懸案であったのだが、突然、書こう、書かねばならぬという気持ちに襲われたからである。
 これには外的な要因もあった。

 5月に中野信吉さんの『作家 松岡譲への旅』が刊行されて、その出版記念会がひらかれた。そのとき、出版社・林道舎の加藤利明さんがはるばる姫路までお祝いに駆けつけてくださったのである。記念会のあと、加藤さんをかこんで高橋夏男、中野信吉両氏と私は、サンガーデンの喫茶室で小さな会合をもった。というのも、われわれ三人は、いずれも林道舎から本を出してもらった仲間であるからだ。
 その加藤さんの顔を見ているうち、私の中に、自分ももう1度、林道舎から本を出してもらいたいという気持ちが油然と湧いてきたのである。

 それまでの私は、『文芸・日女道』に連載してきたエッセイ「白鷺城下残日抄」を、もう少し数がたまったら、関西あたりのいい出版社から出してもらえたらなあという漠然とした気持ちがあった。
 それがこのとき、加藤さんと話していると、自分も研究者の端っくれだ、そうであるならば、これまで書いてきた論文を林道舎から出してもらいたい、という気持ちがよみがえったのである。

 そうなると、本の内容をどのようにするかが問題となってくる。私は毎年、勤務先に提出している業績表――自分はこれまでどんな論文を書いてきましたかを表す一覧表のようなもの――の控えを持ち帰って検討してみた。
 すると、分量的には川端康成、阿部知二、宇野浩二が多く、ほかに散発の作品論があった。すなわち広津柳浪、近松秋江、岩野泡鳴、松本清張、北杜夫などである。

 これらを整理分類すると、やはり3人の作家にしぼられた。川端康成だけで1冊にするという方法もあったが、ここ20年ばかり、私はこれら3人の作家について、あちこちに書いてきたのである。この際、3人の作家にしぼろうと考えた。
 そのうち、宇野浩二について若いときに書いた「宇野浩二論――その出発から終焉まで――」が長いが、あとの作品論が少ない。そこで宇野浩二論をもう1本加えるとすれば、「枯木のある風景」論しかない。

 そう考えたのであった。幸い、数年前に、「宇野浩二日記」の昭和5、6、7年のものが、博文館から刊行されていた。
 宇野浩二日記なら、どの時期でも面白かろうが、何といっても、ここに選ばれた3年間が断然、興味をひく。それは宇野が大患のあと「枯木のある風景」を書いて文壇に復帰する直前の時期にあたるからである。

 年号が大正から昭和に変わった翌年、すなわち昭和2年は文壇が大いに震撼した年であった。宇野浩二の発狂が伝えられている最中に、芥川龍之介の自殺が報ぜられたのである。

 今日でこそ宇野浩二はめったに読まれないが、当時は人気作家のひとりで、特に玄人好みの作家であった。その宇野浩二が発狂し、連載中の作品も中断されたということは、文学愛好者にとって大きな事件だったのである。
 宇野の病気の原因がジフィリス(梅毒)であったことは、今日では明らかにされている。しかしこれも、精神的に内外さまざまの懊悩が作用して発症したのであった。

 宇野はそれから数年間、闘病生活を余儀なくされる。途中から、宇野の得意な少年少女向けの童話は再開されるのだけれど、本格的な小説を書くまでには回復していなかった。しかしこの時期こそ、宇野の復活の前夜にあたる。いったい宇野がどんな生活を送り、どんなことを考えていたかを知るには、この時期の日記がとりわけ重要である。

 特に注目されているのは、「枯木のある風景」の執筆経過と、その前後の私生活、なかでも村上八重との交流であった。
 前者は、宇野自身の言葉によって、難渋をきわめて書き上げられたことが知られている。その前期には「歌うように」小説を書き、ひと晩に60枚の作品を仕上げると噂された宇野が、大患以後は苦渋に満ちて作品をかく超遅筆の作家に転じたことも不思議な現象であるが、その最初の作品「枯木のある風景」は、作品として優れていると同時に、その難渋の結果、どのようにして成ったかという意味でも注目されていたのである。

 もう1つは、後年、宇野の代表作の1つになる「思い川」の女主人公・村上八重(作品中では三重)との交流である。この時期も、妻の目を盗んで交流が続けられていたことは作品から想像できるのだが、実際はどうであったのか。この点も長いあいだ研究者の間で関心の的となっていた。

 私は今度の論を、モデルとなった画家・小出楢重の死を知ったときから、宇野が小出像をどのように彼の内部であたためて成長させてきたかを知るために、この日記を使った。論文は思うようには書けなかったが、日記の具体的な記述から得たものは大きかった。

 村上八重とのことは、どうだったのか。宇野は八重と頻繁に会っていた。電話をかけに行き(宇野の自宅に電話はなかった)、度々逢っていた。六大学など野球観戦にも2人でよく出かけた。また、八重は文学的なセンスを持っていた。2人は逢うたびに手紙や日記を交換したが、宇野は交際の内容や八重の手紙を時々、日記に書き写した。しかし万一、妻に読まれても大丈夫なように、ローマ字と英語でしるした。宇野夫人は賢夫人ではあったが、英語やローマ字の教育は受けていなかったのである。 
それはたとえば、次のような1節であった。(昭5・11・24)


 YAE letter
 Amari no ureshisa yorokobashisa de nemurezu o tegami kakazu
ni iraremasen.
Sakihodo sensei no ossyatta tôri honto ni 3 ka mae made
konna ureshii otegami itadaitari sampo dekiyô towa yume nimo omoimasen deshita.


 事情があって長い間へだてられていた2人が、直木三十五の愛人の機転で再会できてまもなくの頃の手紙である。うれしかったからだろうか、後年、作品の材料にするつもりだったのだろうか。
 作家とは、やはり特殊な人種である、というのが私の感想である。

 それはたとえば、次のような1節であった。(昭6・2・2)

入浴後、5時半、50銭タクMANSEIBASHI.
 Yae ni au. 50tax to Asakusa kwannon ni sankei, Kaneta nite syokuji, Kiri no orita, oboro zuki no Komakata bashi no ue ni shibashi tatazumi, nochi 50 tax de Yamato ni yuku.

 Yamato no harai-5en. Yamato o ide市電nite, Sakanamachi ni yuki, Yamamoto caffe shiruko 10 sen, dônatsu-50 sen sono ato, Kagurazaka yori, Kudan made aruki, Kudan no dentei no tokoro de 50 tax ni noru, soko de wakareru.
 Yae yori letter morau. all total 11.75


 病後というのに、タフなものであった。



宇野浩二「宇野浩二日記」と「思い川」

2013-01-28 00:14:35 | エッセイ 文学
 「宇野浩二日記」と「思い川」」                       

 昨年の夏、私は久しぶりに宇野浩二論を書いた。
 浩二の長い文学生活を前後に分けるとすると、後期の最初の作品と目される「枯木のある風景」について論じたのである。これは長いあいだ私の懸案であったのだが、突然、書こう、書かねばならぬという気持ちに襲われたからである。
 これには外的な要因もあった。

 5月に中野信吉さんの『作家 松岡譲への旅』が刊行されて、その出版記念会がひらかれた。そのとき、出版社・林道舎の加藤利明さんがはるばる姫路までお祝いに駆けつけてくださったのである。記念会のあと、加藤さんをかこんで高橋夏男、中野信吉両氏と私は、サンガーデンの喫茶室で小さな会合をもった。というのも、われわれ三人は、いずれも林道舎から本を出してもらった仲間であるからだ。
 その加藤さんの顔を見ているうち、私の中に、自分ももう1度、林道舎から本を出してもらいたいという気持ちが油然と湧いてきたのである。

 それまでの私は、『文芸・日女道』に連載してきたエッセイ「白鷺城下残日抄」を、もう少し数がたまったら、関西あたりのいい出版社から出してもらえたらなあという漠然とした気持ちがあった。
 それがこのとき、加藤さんと話していると、自分も研究者の端っくれだ、そうであるならば、これまで書いてきた論文を林道舎から出してもらいたい、という気持ちがよみがえったのである。

 そうなると、本の内容をどのようにするかが問題となってくる。私は毎年、勤務先に提出している業績表――自分はこれまでどんな論文を書いてきましたかを表す一覧表のようなもの――の控えを持ち帰って検討してみた。
 すると、分量的には川端康成、阿部知二、宇野浩二が多く、ほかに散発の作品論があった。すなわち広津柳浪、近松秋江、岩野泡鳴、松本清張、北杜夫などである。

 これらを整理分類すると、やはり3人の作家にしぼられた。川端康成だけで1冊にするという方法もあったが、ここ20年ばかり、私はこれら3人の作家について、あちこちに書いてきたのである。この際、3人の作家にしぼろうと考えた。
 そのうち、宇野浩二について若いときに書いた「宇野浩二論――その出発から終焉まで――」が長いが、あとの作品論が少ない。そこで宇野浩二論をもう1本加えるとすれば、「枯木のある風景」論しかない。

 そう考えたのであった。幸い、数年前に、「宇野浩二日記」の昭和5、6、7年のものが、博文館から刊行されていた。
 宇野浩二日記なら、どの時期でも面白かろうが、何といっても、ここに選ばれた3年間が断然、興味をひく。それは宇野が大患のあと「枯木のある風景」を書いて文壇に復帰する直前の時期にあたるからである。

 年号が大正から昭和に変わった翌年、すなわち昭和2年は文壇が大いに震撼した年であった。宇野浩二の発狂が伝えられている最中に、芥川龍之介の自殺が報ぜられたのである。

 今日でこそ宇野浩二はめったに読まれないが、当時は人気作家のひとりで、特に玄人好みの作家であった。その宇野浩二が発狂し、連載中の作品も中断されたということは、文学愛好者にとって大きな事件だったのである。
 宇野の病気の原因がジフィリス(梅毒)であったことは、今日では明らかにされている。しかしこれも、精神的に内外さまざまの懊悩が作用して発症したのであった。

 宇野はそれから数年間、闘病生活を余儀なくされる。途中から、宇野の得意な少年少女向けの童話は再開されるのだけれど、本格的な小説を書くまでには回復していなかった。しかしこの時期こそ、宇野の復活の前夜にあたる。いったい宇野がどんな生活を送り、どんなことを考えていたかを知るには、この時期の日記がとりわけ重要である。

 特に注目されているのは、「枯木のある風景」の執筆経過と、その前後の私生活、なかでも村上八重との交流であった。
 前者は、宇野自身の言葉によって、難渋をきわめて書き上げられたことが知られている。その前期には「歌うように」小説を書き、ひと晩に60枚の作品を仕上げると噂された宇野が、大患以後は苦渋に満ちて作品をかく超遅筆の作家に転じたことも不思議な現象であるが、その最初の作品「枯木のある風景」は、作品として優れていると同時に、その難渋の結果、どのようにして成ったかという意味でも注目されていたのである。

 もう1つは、後年、宇野の代表作の1つになる「思い川」の女主人公・村上八重(作品中では三重)との交流である。この時期も、妻の目を盗んで交流が続けられていたことは作品から想像できるのだが、実際はどうであったのか。この点も長いあいだ研究者の間で関心の的となっていた。

 私は今度の論を、モデルとなった画家・小出楢重の死を知ったときから、宇野が小出像をどのように彼の内部であたためて成長させてきたかを知るために、この日記を使った。論文は思うようには書けなかったが、日記の具体的な記述から得たものは大きかった。

 村上八重とのことは、どうだったのか。宇野は八重と頻繁に会っていた。電話をかけに行き(宇野の自宅に電話はなかった)、度々逢っていた。六大学など野球観戦にも2人でよく出かけた。また、八重は文学的なセンスを持っていた。2人は逢うたびに手紙や日記を交換したが、宇野は交際の内容や八重の手紙を時々、日記に書き写した。しかし万一、妻に読まれても大丈夫なように、ローマ字と英語でしるした。宇野夫人は賢夫人ではあったが、英語やローマ字の教育は受けていなかったのである。 
それはたとえば、次のような1節であった。(昭5・11・24)


 YAE letter
 Amari no ureshisa yorokobashisa de nemurezu o tegami kakazu
ni iraremasen.
Sakihodo sensei no ossyatta tôri honto ni 3 ka mae made
konna ureshii otegami itadaitari sampo dekiyô towa yume nimo omoimasen deshita.


 事情があって長い間へだてられていた2人が、直木三十五の愛人の機転で再会できてまもなくの頃の手紙である。うれしかったからだろうか、後年、作品の材料にするつもりだったのだろうか。
 作家とは、やはり特殊な人種である、というのが私の感想である。

 それはたとえば、次のような1節であった。(昭6・2・2)

入浴後、5時半、50銭タクMANSEIBASHI.
 Yae ni au. 50tax to Asakusa kwannon ni sankei, Kaneta nite syokuji, Kiri no orita, oboro zuki no Komakata bashi no ue ni shibashi tatazumi, nochi 50 tax de Yamato ni yuku.

 Yamato no harai-5en. Yamato o ide市電nite, Sakanamachi ni yuki, Yamamoto caffe shiruko 10 sen, dônatsu-50 sen sono ato, Kagurazaka yori, Kudan made aruki, Kudan no dentei no tokoro de 50 tax ni noru, soko de wakareru.
 Yae yori letter morau. all total 11.75


 病後というのに、タフなものであった。



宇野浩二「枯木のある風景」

2013-01-25 01:23:01 | エッセイ 文学
宇野浩二「枯木のある風景」/                                                                          吉野 光彦


 「枯木のある風景」は、いわゆる大患ののちの、宇野浩二の復帰第1作である。
 宇野浩二――というと、今では近代文学を専門に研究している者しか読まないような、忘れられた作家であるが、大正8年(1919年)に「蔵の中」と「苦の世界」で文壇に登場して以来、大患期の数年は除くとしても、没する昭和36年(1961年)まで約50年間、読者も多く、ほとんど畏敬の念にも似た尊敬を受けつづけた、第一流の作家であった。

 その宇野浩二を、このところ私は読みつづけている。というのは、復帰第1作の「枯木のある風景」について、論文を1つ書こうと思い立ったからである。

 この作品は、あの特異な画風を残して死んだ小出楢重をモデルとしたことでもよく知られている。
 その小出と親友であった画家・鍋井克之が宇野浩二とも親友であったので(3人とも大阪人だ)、2、3度会ったこともあり、何よりもその作品と死に方につよい印象を受けていたので、宇野はこれを久しぶりの小説に仕上げようと考えて書き始めたのだった。

 昭和2年(1927年)の6月から7月にかけて、文壇と世間に大きな衝撃を与えたのは、芥川龍之介の自殺と宇野浩二の発狂であった。大正期はえぬきの作家である2人の作家が相次いで戦列を離れたことで、世間はよき大正文学の時代が名実ともに終わりを告げたと知らされたのである。
 宇野の精神疾患そのものは、2年ほどで治癒したようだが、文壇に復帰するまでには6年ちかい歳月を要した。若い無名時代に童話を書いて糊口をしのいだことがあったけれど、今回もまた宇野浩二は童話を書いて経済的な困窮に耐えた。しかし本格的な小説は、なかなか書けなかったのである。

 宇野がこの素材を書こうと考えたのは、鍋井克之から次のような話を聞いたからである。
 小出楢重は、亡くなる1、2年前から画技がますます冴えてきたが、それとともに肉体が次第に衰えてきて、目がショボショボして老人のような目つきになってしまった。これを漫画のように表現すると、頭ばかりがいやに大きくなり、それを支える肉体がしだいしだいに痩せ細った挙句、すうっと死んでしまった、というのである。
 この話がいたく心に残ったのであった。

 宇野は大患後の困窮期であったのに、二科展に出品された小出の「横たはる裸婦」2点のうち1点を「欲しくてたまらなくなり」月賦のような形で購入している。このときふたりの間に交換された書簡が残っているが、それほど宇野にとって小出は尊敬に値する画家だったのである。
 このような下地があったにしても、宇野が芸術家の作品と肉体との異常な関係に創作欲を刺激されたことは、興味深い事実である。その根底に小出の芸術に対する深い尊敬があったのは間違いない。また宇野自身、大患によって、芸術家の肉体と作品の関係について無関心ではいられない事情もあったであろう。

 とはいっても、鍋井という親友がいたにしても、宇野は画家の内情についてまったく無知である。そこで宇野は小出の3冊のエッセイ集――小出楢重はその飄逸な文章にも多くのファンを持っていた――を買ってきて熟読し、そこからいくつかのエピソードを得て作中に書きこんだ。また鍋井から、可能なかぎり、画家の生活について話を聞いたであろう。

 にもかかわらず、いざ書きはじめると、筆はなかなか進まなかった。16枚書いたところで、ついに前に進まなくなった。宇野は「九夏三伏」の夏の3ヶ月を苦闘し、途中で別の作品を書きはじめたりしたが、それは我慢して「枯木のある風景」に戻った。そして三ヶ月あまり後に、ある日突然、現在の冒頭の数行が浮かび、それから筆は進み出したそうである。

 紀元節(2月11日)の朝、雪に気づくと島木(鍋井)は奈良へ写生旅行に行こうと思い立った。そうして出かけてから3日の間に、スケッチしたりしながら島木は、最近、異常なほど画境が深まってきた友人・小泉圭造(小出)のことを考えつづける。なかでも島木の頭から離れないのは、その3ヶ月ほど前の10月末に芦屋のアトリエに小泉を訪ねた時に見た、2つの未完成の絵のことであった。

 その1つは家の近くの景色をただ描いただけのものであるが、前景に、切り倒されたばかりの丸太が数本ころがっている。そして野の向こうに2つばかりの建物があるのはともかく、野の果てに高圧線の鉄塔が描かれ、そこから左右に出た無数の電線が画面の半分を覆っているという暗鬱な光景であった。

 この絵について小泉圭造は「これからは、芭蕉風に、写実と空想の混合酒を試みてみよと思ふんや。題して『枯木のある風景』といふのはどうや」と自信にみちて言った。
 島木は、この言葉に衝撃を受けた。それで今もしきりにそのことを考えつづけているのである。そこへ家から小泉圭造の死を告げる電報が来て、島木はあわてて弔問に駆けつける。
 小泉の遺骸のそばには、故人の絶筆となった2つの絵が黒いリボンをつけて飾ってあった。

   島木新吉は、亡友の遺骸に黙禱してから、ずゐぶん長い間、その二つの絵を見くらべ、見つめた。
   島木は、しかし、「枯木のある風景」にも異常な敬意をはらつたが、「裸婦写生図」の方により多くの敬意をはらつた。

 この最後の思いがけない1行が、この作品を傑作にしているのだ。試みに、最後の1行を抜いてみると、この作品は、ある異常な画家の異常な死を描いた佳作、ということにとどまるだろう。しかしたった1行を加えることによって、作品は得体の知れない芸術の闇を読者の前に黒々と投げかけて終わるのである。

 私の論は、この1行の意味を、抽象的ではなく具体的に論証することが目的である。宇野はこの作品を文学へ昇華するために、おそらく2つの虚構を作中で行っている、というのが私の推定である。
 図書館へ行って小出楢重の画集を眺めたり、そのエッセイや鍋井克之のエッセイを読んだり、これまでに書かれた諸家の評論を読んだりしながら、私もまた猛暑らしいこの「九夏三伏」を、この作品と格闘しながら過ごすつもりである。