魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

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1年前には、伊藤初代について書いたのでした。近く再開します。

2015-07-11 00:25:07 | エッセイ その他さまざま
 1年前には、伊藤初代について、書いたのでした。近く再開します。

 ブログの管理者から、お便りをいただいた。
 1年前には、こんなことを書いていましたよ、と。
 「1年前を振り返って、感想を書いてみませんか」とも。
 ありがたいことである。

 いつも、「何か書き加えたかな?」と、このブログを見てくださる、皆さん。ありがとう。
 近く、また再開します。
 よろしくお願いいたします。
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戦時下の川端康成 その10 片岡鉄兵の死

2014-12-03 00:39:51 | エッセイ その他さまざま
戦時下の川端康成 その10 片岡鉄兵の死

片岡鉄兵の死

康成みずからの手による「年譜」(12巻本全集第12巻、昭和36年8月30日)の昭和19年の項には、

  12月、片岡鉄兵死ぬ。

 と書きこまれている。康成にとって、鉄兵は、横光とともに、若年のころからの長い期間にわたる親しい友人であった。

 岡山県津山市のほとりで生まれた鉄兵は、一九二四(大正十三)年、『文藝時代』の創刊に加わったが、文壇に出たのは、横光や康成たちより早かった。一九二一(大正一〇)年、里見らの雑誌『人間』に「舌」を発表して文壇で地位を確立している。
 新感覚派時代には、横光、康成とともに、新感覚派擁護の論陣を張り、活躍したが、まもなく左傾し、プロレタリア文学の作品を多く書いた。さらに少女小説や大衆小説の分野に移り、その文学的生涯は定まりがなかった。

 しかし妻光枝が、康成と茨木中学の同期生片岡重治の妹であったこともあり、親しみが深かった。

 茨木中学入学のときには康成が首席であったが、文学に熱中して成績が下降したのに対して、片岡重治は絶えず首席を争った秀才であった。1915(大正4)年3月、康成が寄宿舎に入ったとき、同級の片岡がその室長であったことから、親交はいっそう深まった。
 さらに、37巻本『川端康成全集』補巻1所収の「大正4年 手帖」には「片岡重治君に」という長文の手紙が掲載されている。「私の敬愛するKさん」と始まる文章だが、どう読んでも、これは恋文である。中に、こんな一節がある。

   私は3歳と4歳とで父母に別れ八歳で祖母に15(ママ)歳で姉に、今又祖父に別れた孤児で御座います 私の少年時代も無邪気でなく淋しい悲しい風が訪れ今まで青春の春らしくなかつたのは悲しい事です(中略)
   それにつけても私の尊敬するKさんにお願したいことは何時(いつ)までも純潔に生活し私のアイドルであつてほしいので厶(ござ)います

 康成が清野少年と親しむのはもっと後のことだが、この時点で康成は明らかに片岡少年を、少なくとも恋の対象のひとりとして意識していた。
 康成がこの手紙を実際に投函したのか手交したのかどうかはわからない。おそらく手帖に記しただけのことであったろう。

 さらに「大正5年 當用日記」の1月24日の項には、「舎生活も深みゆくと共に総ての者に対する幻影はほろび唯片岡に対する幻影のみ残る」という一節がある。片岡少年に対する恋情が、かなり真剣なもので、少なくとも1年以上持続したことをうかがわせる。

 このような心の経緯から、康成は、鉄兵と結婚した光枝に好意を抱き、それが鉄兵一家との親しい交わりの根底にあったと思われる。

 戦前には、康成と鉄兵の2家族は、ともに夏冬を山間海辺で過ごすのが習わしだった。また横光と3人で花袋の「田舎教師」の遺跡を歩いたり、東海道を旅したりした。
 『川端康成とともに』によれば、1926(大正15)年ごろ、菅忠雄の家に秀子がいたとき、菅の誘いで康成がこの家に住むことになると、途端に横光、「新婚早々の片岡鉄兵」、池谷信三郎、石濱金作などが毎日のようにやってきて、梁山泊の観を呈したという。
 それほどの長い間、家族ぐるみの親しみであったのだが、鉄兵は1938(昭和13)年に従軍ペン部隊に加わって中国に渡り、そこで感染したマラリヤによって肝硬変になった。そしてなぜか、死の1年ほど前から、異常なほど旅行熱に憑(つ)かれ、信州の角間温泉、北海道、河内、紀伊と漂遊した。
 その挙げ句、紀伊田辺市の文学愛好家、猪野多毛師(たけし)の家に逗留中、病臥して、1944(昭和19)年の12月25日に息をひきとったのである。


康成の心配

 猪野多毛師(いの たけし)から康成に宛てた書簡1(37巻本『川端康成全集』補巻2、昭和19年12月1日付 田辺市中屋敷町97より、鎌倉市大塔宮二階堂あて)には、

   去る25日、片岡先生やうやうお越し〈に〉なり、迚(とて)も元気なりしに長のお疲れにや昨日より少々不快、目下拙宅にて臥床中に候

 とある。これを見て心配した康成は、12月3日付けの葉書を杉並荻窪清水町240の留守宅に送り、「旅より帰られしや。御無事を念ずる事切なり。万一の場合ハすべて御遠慮に及ばず。」と書いている。また12月7日には、光枝にあてて、「猪野さんから12月1日づけの葉書で、片岡さんが御病臥の便り、これにも憂慮しました。もうお戻りになりましたか。(以下略)」と心配している。

 しかし、その甲斐もなく、鉄兵は25日に息をひきとったのである。
 敗色濃い戦時下、しかも年末ということもあって、汽車は旅客制限をしていて、夫人は病の急変を知って田辺に行くのに北陸線を経由しなければならず、30何時間立ちつづけで、到着できたのは臨終の5時間前であったが、鉄兵はすでに口をきけなかった。

 12月29日の朝、夫人は遺骨を入れた鞄をさげて東京駅に着いた。その日に通夜をし、密葬は30日だった。
 「その通夜の最中に空襲が3度もあつた」と、横光利一は戦後、鎌倉文庫から出版された片岡の『尼寺の記』(1947・8・15)の解説「典型人の死」に書いている。

 年の瀬であったため、本葬は年が明けた1月14日、都心を離れた荻窪の片岡宅で営まれた。
 空襲に遭わぬようにするため、葬儀は午前8時から営まれた。康成は前夜から泊まりこんだが、丹羽文雄は疎開先から汽車中の弁当を朝飯にして来たし、伊東の佐佐木茂索は3時に起きて飯を炊き、1番列車に乗って駆けつける、という有様だった。
 葬儀の間に敵機が来なくて無事にすんだと皆よろこんだが、そのとき敵機は伊勢神宮を侵犯していたのであった。硫黄島に米兵が上陸する直前であった。


書けなかった弔辞

 康成は、次のように弔辞を書きはじめた。

   この戦争の成行を生きて見届けようと、君は僕にも屡(しばしば)言つた。生きてといふ言葉に、僕は僕等が交友20年を経てこの秋(とき)に遇ふお互の愛情を感じ、国の危急を憂へる君が衷心を聞いた。それは畢竟(ひっきょう)激湍(げきたん)に鳴る僕等の生の聲として尚僕の耳にありながら君は已(すで)にゐない。

 また、次のようにも書いた。

   このやうな日旅に病んで君の末期の目に冴映つたであらう世界戦争の貌を想ふと、君の死もまた今日の波濤に一点燃えるかと更に胸打たれる。

 しかし結局、弔辞は書き上げることができず、康成は当日、菊池寛の弔辞を代読した。

 片岡は戦争の帰趨(きすう)について、当初から厳しい見方をしていて、康成はその激越な発言を、戦時下にはよう書けなかったと、のちに述懐している。
 ただならぬ戦況のなか、そのような友人の死はひとしお哀切であった。
 戦争の最後の年、昭和20年は、このように親友の葬儀から始まった。
 昭和18年に、その作風を深く尊敬していた徳田秋聲の死を悼んだ康成は、この片岡鉄兵の死を初めとして、以後、親しい友人知己(ちき)の度重なる死を身近に経験することになるのである。

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2014-11-06 13:16:52 | エッセイ その他さまざま


朝日新聞夕刊(東京本社版)が、「文芸・批評」の紙面でご紹介くださいましたので、掲載させていただきます(2014年11月4日)。
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源氏物語湖月抄に出会った日

2014-02-24 23:39:32 | エッセイ その他さまざま
 源氏物語湖月抄に出会った日


 2013年12月16日(月)――。
 私は、この日のことを、生涯忘れないだろう。
 その前日の日曜日、午後4時59分発のひかりに乗り、新横浜で降りて駅前のホテルに一泊した。

 翌朝、おにぎりと味噌汁の簡単な朝食を済ませてホテルを出ると、まず横浜駅に出て、横須賀線で鎌倉駅に降り立った。
 東の改札口には、畏友・平山三男さんが待っていてくれた。平山さんは川端康成の研究者であると同時に、公益財団法人・川端康成記念会の評議員でもあるから、始終、記念会の建物のある川端康成旧邸に出入りし、理事長の川端香男里先生とも親しい。

 私は自著を出すにあたって、口絵写真を重視している。私の独自の論に呼応した、新鮮で珍しい写真を多く載せたかった。
 もちろん、そのためには、公益財団法人川端康成記念会の許可が必要である。それは最終的に、理事長である川端香男里先生の判断によって決定される。

 私は『文芸日女道』の連載52回(ほぼ4年半)分を、そのつど、研究者仲間や香男里先生にお送りしていた。また、康成の親族のことで不明なことがあると、質問のお便りを差し上げ、丁寧な回答をいただいたこともあった。しかし、お顔を拝見したのは、2年前、ある記者会見が行われたとき、やはり平山さんに連れられて、報道陣に混じって初めて川端邸に出かけ、ちょっとご挨拶した程度である。
 それなのに今回、私は大胆な、厚かましいお願いをしていた。財団法人が所有している幾つかの秘宝の掲載願いに加えて、源氏物語湖月抄の閲覧と撮影を願い出ていたのである。

 湖月抄とは、江戸時代初期、延宝年間に、国学者・北村季吟が編集し、刊行した、源氏物語の本文と、その注釈である。それまでは極く限られた国文学者しか手にすることのできなかった源氏物語の本文を、54巻まるごと、加えて、登場人物の系図などを付した6巻と、計60巻が、まとめて刊行された。
 江戸時代は、世が落ち着いて、下級武士、町人、富裕農民層にも学問が広がり、源氏物語を読みたいと望む人たちが大勢潜在していた時期である。このため、200年あまりも、湖月抄はロングセラーでありつづけたのである。

 川端康成がいつ、どこから、この湖月抄を入手したかは、分からない。ただ戦後になって、随想「哀愁」に、自分は戦争が負け戦に転じたころから源氏物語湖月抄を読み始め、敗戦のころは、その半ばまで読み進んだところだったと告白したので、康成と源氏物語の関わりが注目されることとなった。
 私は戦後の川端作品に、源氏物語が深く影を落としている点を、さまざまに立証したことから、この湖月抄に前々から強い関心を抱いていたのである。

 鎌倉長谷の甘縄(あまなわ)神社へタクシーで行き、その境内で撮影担当の水原園博さんと待ち合わせた。川端邸は、甘縄神社のすぐ脇にある。
 インタホンで来意を告げると、すぐ応答があって、私たちは白い枯れ芝を踏んで、庭に向かった広い和風の部屋に上がった。

 康成が鎌倉に初めて住み始めたのは昭和10年、ここ長谷に移ってきたのは戦後間もない昭和21年10月のことである。

 「山の音」の舞台としても知られるこの邸宅は、まことに広く、大きい。格子模様に区切られたガラス窓の内側は、広い縁側と10畳の広い客間がある。そこに通された。書院作りの床の間が美しい

 襖を開け放った隣の八畳間、そのテーブルに、無造作に青い和本が数十冊、2列に積み上げられていた。
 川端香男里先生は、カーディガンのくつろいだ姿で出てこられた。
 ロシア文学の大家である。が、おだやかな笑みを見せて、温かく迎えてくださった。
 挨拶や短い世間話のあと、「どうぞ、ゆっくりご覧になってください」と言ってくださったので、隣室に移り、まず全容を拝見する。

 空色から紺色まで、巻によって濃淡は異なるが、青い表紙で、中央上部に、変体仮名(平安時代から明治まで使われた)で「きりつぼ 1」などと、黄色い紙が貼ってある。柱題というのだろうか。

 美しい、というのが第1の感想だ。色の美しい和本……。それに、大きい。今日の週刊誌より、縦横とも、1センチずつぐらい大きい。
 以前、国会図書館からコピーを取り寄せたので、およその形式は知っているが、現実に、大きな文字で綴られた本物を間近に、手にとって見る歓びは、言葉にできない。
 今から70年ほど前に、康成はこの巻を1冊ずつ手にとって、全巻を読破したのだ。その康成手沢本(しゅたくぼん)を、いま自分は手にとっている……感激と興奮で、私は身体が硬直している。

 いよいよ、最終巻である「夢のうきはし」の巻を手にとった。その巻末を開くと、予想どおり、漢文の「跋(ばつ)」(あとがき)があり、「延宝元年冬至日 北村氏季吟」と記した後に、刊行した書林の主だろう、四人の名が記してある。
 延宝元年は、西暦1673年。徳川幕府が開かれたのが1603年であるから、江戸時代がはじまって、ちょうど70年めの12月に成立したことが確認される。元禄文化の花咲く直前である。

 ところで、康成が購入し、読破したこの湖月抄は、何年に刊行されたものなのだろうか。
 だが、付録6冊のどこを見ても、54巻の主だった巻の冒頭や巻末を見ても、ついにどこにも、刊行年を記した箇所を発見することはできなかった。

 私が存分に見せていただいて礼を述べると,今度は水原園博さんが、撮影を始めた。

 川端康成展は、その残した膨大な古美術の名品とともに、全国で開催されて、静かな波紋をひろげている。だが、これまで、湖月抄を展示したことはないという。私のつよい願望が、湖月抄に光を当て、今後は川端康成展の目玉の1つにするという。

 仕事が終わって一段落すると、お茶とお菓子が饗された。
 香男里先生は、さらに私たち3人に、貴重な本をプレゼントしてくださった。『川端康成賞全作品』(新潮社)の3冊本である。その年度の最高の短編小説に与えられる、名品揃いの書だ。
 まことに、今日の良き思い出となる記念の品である。
 夕暮れが近づいて、3人は、旧邸を辞した。鎌倉駅近くの中華料理店で夕餐をとり、最終の新幹線に乗って姫路に帰った。
 車中で私はいただいたばかりの書を開き、野口冨士男「なぎの葉考」、水上勉「寺泊」などの傑作を読んだ。

                                        『文芸・日女道』550号(2014・2)
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私の執筆儀式

2013-07-28 01:09:40 | エッセイ その他さまざま
私の執筆儀式
                        
吉野 光彦


 井上陽水に出逢うまで、私は森進一に熱中していた。
 昭和47年ごろであったろうか、1枚のドーナツ盤レコードで陽水を聴いた途端、歌謡曲からフォークへ、完全転向したのである。
 それまでは、森進一に惚れこんでいた。

 森進一は、美川憲一と同じころのデビューだった。美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」はなかなかの名曲で、私もいっときよく唄ったが、森進一のデビュー曲「女のためいき」は、声の質も奇妙だし、きわもの、という感じがあった。この歌だけで消える歌手だと思われた。
 ところがそれから数年後、森進一の曲が質的に大転換をした。
 すごい曲が、吉川静夫(あるいは川内光範)、猪俣公章とのコンビによって、次々と送り出されてきたのである。とくに猪俣(いのまた)公章の曲が神がかりのようにすごかった。

 ちょうどそれは、私か東京のながい学生生活を終えて、広島県東部の、山の中の高校教師になって勤めはじめたころであった。
 或る県の高校教員の試験に受かると、その先の運命は完璧に、県の教育委員会の手にゆだねられる。どの学校に採用されるか、されないか、こちらには皆目、見当もつかない。

 ぽつんと、山の中の学校に赴任を命ぜられた。3月末に校長から内定の電報が来て、その学校へ面接に行くのである。あいにくそのとき、私は旧友Kのところへ遊びに行って、四国の宇和島から土佐に抜ける山中にいた。ひとあし先に卒業したKも、やはり伊予の山
奥に赴任していたのである。
 家人の父親から電話がきて「すぐ帰って校長に会いにゆけ」という。「せっかく来たのだから、もう1泊してから帰る」と答えると、温厚な父親がめずらしく怒って「すぐに帰れ」と厳命された。
 翌日、家人と父親に見送られて、福山の駅前から二コニコ・バスという、その名もゆかしいバスに乗った。
 バスは平野を突っ切り、やがて中国山地の山襞(やまひだ)のなかに分け入ってゆく。谷筋こそ違え、井伏鱒二(いぶせ ますじ)の生家のほとりであった。
 それから忘れもしない2時間13分あと、旅亭「出雲屋」前の終着地に、私はひとりで立っていた。

 数知れぬ山なみを越え、いくつもの峠を上り下りした末に、Y町の中心部は、小さな盆地状に広がっていた。そのG郡Y町の最高学府が、広島県立Y高等学校である。
 農業科、畜産科、生活科、普通科を擁する学校で、構内に実習用の牧場があり、町内の希望者にはY高校牛乳が毎朝、配達された。濃厚な、練乳のような牛乳であった。

 むかしこの土地は月にいちど牛市がひらかれ、中国山地一円の馬喰(ばくろう)たちが集結した。絃歌(げんか)の宿もあって殷賑(いんしん)をきわめたという。
 あとから知ったことだが、私たちが食事で世話になった「出雲屋」には、その名残の奇妙な構造が残っていた。

 新米教師には、授業のほかにほとんど雑務はない。授業のない空き時間に、木造の図書館のガラス窓から、小さな町の家並み越しにひろがる県営種畜場の広大な牧場や、その上に重なった山々、層をなした白い雲をみると、「かぎりなく遠くも来にけるかな」の思い
が胸をよぎった。学校のあちこちに植えられたサルビアの赤い花が目にしみた。

 教師用に振り当てられた町営住宅という名の草屋の、小さな谷間をへだてた生徒寮から、朝起きると石田あゆみの「街のネオンがとてもきれいね、ヨコハマ……」と「ブルーライトーヨコハマ」が流れてきた。家が遠くて通学できない生徒たちのための寮だった。
 藤圭子が「15、16、17と、あたしの人生暗かった」と、冥界からの声のように陰々滅々たる声でデビューしてきたのも、この時代だった。

 そのころ、森進一は、鬼気せまる曲を連発していた。「花と蝶」「ひとり酒場で」「年上の女(ひと)」などである。
 たとえば「命かれても」は、こんな歌い出しだ。

  愡れてふられた 女のこころ
  あんたなんかにゃ わかるまい

 こうして文字にしてみると、軽薄な、ありふれた文句になってしまうけれど、前奏につづいて、森進一の、くぐもった、重い、しわがれた声で語りだされると、すさまじく吹きすさぶ寒々とした風のなかに、とり残されて魂消えてしまった女の、やりきれぬ立ち姿が、
ごうごうたる風の音とともに立ち上がってくるのである。

 戦後の暗い影は、すでに世の表面から消えてしまって、すでに日本は高度成長期に入っていたけれど、戦後を生きてきた人たちの心の底には、あのやるせない時代の、底暗い世相や頼りない心根の残影がある。その心持ちが、揺すぶられ、眠っていた亡魂が喚(よ)び醒(さ)まされるような、森進一の歌声であった。

 月にいちど、福山の街に出て、レコードを買ってくる。そのレコードを、息を殺して聴く。全身の神経を研(と)ぎ澄まして、その世界のすべてを自分の内部に再現しようとする……そんな必死の聴き方をした数年間だった。

 森進一のそのような尋常ならざる歌声に気がついたのは、岡山のホテルでのことだった。
 なにかの出張で(たぶん、学校にひとり割り当てられた何かの研修であったろう、新米教師に行ってこいと命令がくだったのだ)、岡山へ行った、そのときだ。

 土曜日の午後Y町をバスで出て、暗くなるころに岡山駅についた。
 駅に近いそのホテルは、学生上がりの私には、別世界の豪華なホテルに思われた。所在なくて、夕食のあと、ひとりで地階のバーに入った。
 私は、アルコールにはつよくない。しかし酔った気分は好きだ。むしろ酔うことで、ふつうの生活と違った感覚が生じてくるのを待つことがある。
 そのときも、そんな気分をもとめて、ひとり大胆にも見知らぬバーに入っていったのだった。
 水割りを頼み、2、3杯も飮むと、酔いがかえって荒涼たる気分をもたらした。

 止まり木のうしろに、ジュークボックスがあった。ドーナツ盤のレコードがいっぱい収まっていて、曲を指定し、100円だが200円だかの硬貨を入れると鳴りだすやつだ。
 リストを見ると森進一の「湯の町の女」という曲があって、それを選んだ。
 酔っぱらった全身に、その曲が襲ってきた。

 歌詞は平凡である。しかし、森進一の声が、湯けむりの立ちのぼる鄙(ひな)びた町で、不実な男のおとずれを待つ女の孤独を吹き上げてきた。
 ああ、やるせない、と思った。

 学生時代から、ぽつぽつ書いていた小説を、本気で書きたいという思いが衝き上げてきた。
 どんな作品になるかは、見当もつかない。ただ、自分の意識の底に渦巻いている混沌とした世界を、表現しないではいられない、という気がしたのである。
 学生時代に源を発する私の執筆儀式は、そのころにはしだいに洗練されて、一流作家(もしくはロマン派の大作曲家)の書斎のような美的形式が成立していた。

 もちろん、だれも闖入(ちんにゅう)することのない静的空間が前提条件である。
 机の上は、ふだんの雑多な乱れを払拭すべく、上等の布巾(ふきん)で広々と清潔に拭って、そこに紀伊国屋書店製、100枚刷りの原稿用紙をどっしりと置く。
 評論のたぐいを書くときはグレーのものを、小説を書くときは萌葱色(もえぎいろ)のものを使用する。
 もちろん、煙草はたっぷりと用意してある。(あと20本しかない、と思うだけで頭脳が制約される。そのようなことがないよう、執筆しようと思うときには、あらかじめ、気合いを入れて、しこたま買いこんでおくのである。)

 いちばんよいのは、もちろんピース。しかし残念ながら若い体力をうしなうにつれて、ロングーピース、ハイライト、マイルドセブンへと軽いものに退化していった。しかし基本はなんといっても、あの両切りのショート・ピースである。
 このピースは、零戦(ぜろせん)とともに、日本国の伝統的美学と近代的技術が産み出した世界に誇るべき傑作の双璧である。

 なかでも、あの高雅な、50本入りの紺青(こんじょう)の地に黄金の文様の彫られたピー缶(かん)こそ、作家の芸術的天分を極限にまで導きだす最高の逸材である。あのピー缶の薄い金属の蓋(ふた)をパキンとあけて、立ちこめる芳醇(ほうじゅん)な香りに包まれたときの恍惚ほど、その後の人生で味わった喜びはなかった。
 (広島カープが初優勝したときも、恋い焦がれた女人と遂にデートできたときも、あの瞬間の喜びには遠く及ばなかったのである。)

 それから珈琲を入れる。コーヒーではなくて、珈琲である。これまた、ネスカフェなんて論外。純潔のブルーマウンテンでなくてはならぬ。もし今度、日本が戦争を始めるとしたら、私はすばやくブルーマウンテンの豆を数年分、買いだめしておくつもりである。
 そして磨き立てられた大きな灰皿。それはクリスタルガラス製の、輝く瑠璃(るり)色でなければならぬ。
 そしてこの準備のもとに、まず最初に、おもむろにモーツァルトをかける。

 ちなみに、モーツァルトの音楽を軟弱な、甘い音楽だと思いこんでいる徒輩(とはい)がいるが、誤解もはなはだしい。芸術の何たるかを知らぬ無学な連中の妄言だ。牛乳の出をよくするために牧舎にモーツァルトの音楽を流すとよい、なんて唱える学者なんぞ、犬に喰われてしまえ。

 モーツァルトの曲ほど、音楽性の極限をきわめ、厳密にして緻密(ちみつ)な論理構造を完璧にそなえたものはない。その精緻きわまる音符の連なりのなかに、突如、天から降ってきたかのような奇蹟のごとき曲想の連なりが、湧き出してくるから、すごいのである。

 私がとくに、畢生(ひっせい)の作品を書く、と思うときにかけるのは、ヴ″ァイオリン協奏曲イ長調K219番だ。
 この曲はもう、秘蹟としか言いようのない、秘曲中の秘曲だ。1楽章ごとに、「えっ、まだこの先があったの?」と思うくらい、新しいテーマが尽きせぬ泉のように滾々(こんこん)とあふれ、流れだし、天空を自在に跳梁(ちょうりょう)するのである。映画「アマデウス」のなかで宮廷音楽師サリエリが嘆いたように、神が与えたもうた恩寵(おんちょう)としか言いようがない。

 この曲を聴いていると、私の全身の細胞が再生される。文字どおり、加齢と日常生活によって衰え汚れたもろもろの汚濁物質が一掃され、ただただ芸術そのものの氷のように澄明で硬質の瑠璃のごとき清冽な水が細胞の隅々にまで浸透し、くれないの鮮血が全身を駆
けめぐるのである。
 こうして芸術的香気が私を充たし、環境がととのえられたところで、私は濃く苦い珈琲をすすり、ゆったりと煙草に火を点ずる。
 紫煙が渦を描さながらゆるやかに立ちのぼり、一酸化炭素と硫化窒素をふくむ多量の微細な粒子が私の肺胞の隅々にまで至り、心臓周辺の冠動脈の1本1本をぎゅっと収縮させる。恍惚とした境地が私をつつむ……。

 仕上げは、森進一である。
 モーツァルトの針をとめ、おもむろに森進一のLPをセットする。 吹きすさぶ暗い情念の世界が私のなかに流れこむ。ああ、これだ、と私は心のなかで叫ぶ。
 暗い港町の光景や、サーカス小屋の道化師、酒場の女の嬌声(きょうせい)や、むかし別れた女人たちの面影が、数しれぬ断片となって私の脳髄のなかをぐるぐる廻りだす。
 私の内部に眠っていた情念に小さな火がともり、熾火(おきび)のように、しずかな炎がちろちろと燃え出す。森進一のくぐもった声に煽(あお)られるように、やがて赤い炎がめらめらと燃えあがる。
 書ける!
 私はおもむろに煙草を灰皿におき、日常生活では使うことのない、とっておきのモンブランのキャップをはずし、ペン先の具合を確かめながら、最初の一行を書き起こすのだ。

 ……しかしながら、歳月は茫々として流れた。
 もはや私は万年筆を使うこともなく、煙草を吸うことさえもやめてしまった。ワープロは最新式のパソコンへと進化し、小説を書かなくなって久しい。画面を見ながらキイをたたく技術は、一流企業のOLにも負けぬ自信はあるが、いったいそれが何だろう。
 私はどこかに、なにかを忘れてきてしまったのだ。
 文章はたくさん書いた。論文らしきもの、評論、エッtイ、長大なルポルタージュ、数々の雑文……。だが、一編の短編小説を仕上げたよろこびは、1冊の評論集を書き上げたよろこびに、はるかにまさる。
 それなのに私は、小説の筆をとることをやめてしまった。唄を忘れたカナリアだ。
 ときおりテレビで、すっかり一流歌手の落ち着きを身につけた森進一の顔を見る。が、歌はもう聴かない。
 森進一は私にとって、もはや過去のひとなのだ。むかし愛しあって別れたひとのように、なつかしさとともに、胸にかすかな痛みを喚び起こすだけの存在だ。
 それでも私は、あの時代、私のなかに確かに彼が生きていた時代をなつかしむ。


                  『文芸・日女道』378号(1999年11月)

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