魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

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カフェ・エランの少女――川端康成の初恋・伊藤初代

2019-06-11 16:35:28 | 論文 川端康成
カフェ・エランの少女―川端康成の初恋・伊藤初代

カフェと文士たち

その序章から


   明治44年(1911)の3月、わが国で最初のカフェ「プランタン」が銀座・日吉町の町角に開店した。東京美術学校(現・東京藝術大学)を出た画家・松山省三が経営に乗り出したのである。
 松山は美術学校時代、恩師の黒田清輝から、たびたび、パリ留学時代の思い出話を聞いたが、そのなかでも最も印象的なのが、パリのあちこちにあるカフェの話であった。
 そこでは香りの高い珈琲やワインが提供され、有名無名を問わず、若い画家や詩人たちが集まってきて、芸術や文学について理想を語り合う。格別に高踏的な空間だ、というのである。
 松山は、日本にもそのような空間ができたら楽しいだろうと考え、たまたま資産家の息子だったので、友人と資金を出しあって店を開いたのだった。

 銀座は、慶応義塾大学のある三田(みた)の丘から近い。早速、永井荷風がこの店に現われ、馴染みの新橋芸者・八重次(やえじ)と待ち合わせ、この店の風雅な趣きを共に楽しんだ。
 3年前、4年間におよぶアメリカ、フランス遊学の旅を終え、帰朝した荷風は、清新で官能的な「歓楽」や、日本の新時代を批判する「新帰朝者日記」「冷笑」を発表するなどして、注目すべき作家として高い評価を得た。
 加えて前年の明治43年4月から、文科刷新をめざす慶応義塾大学の文科教授として迎えられ、かつ、新雑誌『三田文学』の編集主幹を命ぜられて、ライバル早稲田の文科に対抗する切り札として活躍していたのである。

 そんな荷風は、カフェ・プランタンを讃美する即興の詩を作って『三田文学』に発表したり、時には学生たちと歓談したり、カフェ文化を満喫したが、やがて銀座を中心に、「パウリスタ」「ライオン」など、あちこちにカフェが開店して、珈琲や洋食を提供したりした。森鴎外を顧問にいただく『スバル』に拠った北原白秋、高村光太郎、吉井勇、谷崎潤一郎、さらには『青鞜』の新しい女性たちも、カフェにつどった。すなわち、日本にカフェ文化ともいうべきものが花ひらいたのだ。

 しかし大正12年(1923)の関東大震災は、これらのカフェを倒壊させ、焼け跡に出現した新規のカフェは、従来とは趣の異なるものとなった。白いエプロンをつけ、客席で媚びを売る女給たちが、カフェを象徴する存在になったのである。
 大正年間に麻布(あざぶ)市兵衞町に洋風の偏奇館(へんきかん)をもうけて独居凄涼の生活を始めた荷風も、ふたたび銀座のカフェに姿を見せるようになった。荷風が毎日のように立ち寄ったのは、かつての老舗「ライオン」に対抗するように、阿漕(あこぎ)な商売をはじめた「タイガー」であった。

 「ライオン」は、風儀の悪い女給のクビをきったが、「タイガー」は「ライオン」から追放された女給を喜んで採用した。あまつさえ、女給の引き抜きをして美女を集めた。酒を介在し、女給が客から媚びと引き替えに金をむしり取る、新しい形のカフェが流行し、世人の興味と羨望を誘ったのだ。
 荷風は「タイガー」の女給・お久から脅迫されて金を取られたが(もちろん、お久の肉体を堪能した見返りとして)、その代わり、お久をモデルに銀座風俗の変遷を描いた名作「つゆのあとさき」を書いた。
 「タイガー」は、銀座の時事新報社の前にあったから、かつてここに勤めた、文壇の大御所・菊池寛も、この店を贔屓(ひいき)にした。このため、友人の文士たちの多くも、「タイガー」にむらがった。

 そのころ、本郷の高台に、有名な高等下宿・菊富士ホテルがあって、竹久夢二と愛人のお葉をはじめ、種々の作家や学者、畸人変人たちが、ここに住んだ。
 宇野浩二の親友・広津和郎もここに投宿して原稿を書いたが、あるとき、ひとりの女性から「私のこれまでの人生を小説に書いてほしい」と頼まれた。しかもこの女性は「タイガー」の女給であり、北海道から上京して「タイガー」に勤めた最初の夜の客が菊池寛だった。
 菊池寛は彼女に好意を寄せ、多額のチップを渡し、また、食事に誘った。
 広津は、かねてより雑誌『婦人公論』から大衆的な小説を依頼されていたので、この女性をモデルとした小説「女給」を連載しはじめた。菊池寛をモデルとした詩人が、第一回から登場する。『婦人公論』の社長・嶋中雄作は、これを機に雑誌の売上げを爆発的に伸ばそうと、策を打った。新聞の広告に、「文壇の大御所」と「女給・小夜子」を大きな活字で載せ、あたかも菊池寛のスキャンダルがあばかれるかのような宣伝をしたのである。
 広津の作品では、単なる大物詩人であるばかりなのに、嶋中は、わざと「文壇の大御所」とし、読者に菊池寛がモデルだと錯覚させたのだった。
 怒った菊池寛は雑誌社を訪ね、嶋中に抗議したが、嶋中は煮えきらぬ態度をとる。本気で怒った菊池寛は、嶋中を殴りたくなったが、間に大きなテーブルがあったので、仕方なく、隣に座っている若い編集者の頭を一発をポカリと殴った。
 翌日の各新聞は社会面でこの事件を面白おかしく報じた。菊池寛の「女給」事件として、派手に騒がれ、翌昭和6年、単行本が刊行されると飛ぶように売れ、すぐ映画化された。主題歌「女給の唄」も中山晋平の作詞で、大流行した。
 この作品を書いた広津和郎の愛妻(事情があって、生涯、籍が入ることはなかったが)も、カフェの女給であったし、友人宇野浩二の生涯にただ一人の子供を産んだのも、銀座の台湾喫茶「ウーロン」に勤める女性であった。

 そのように、カフェは、この時代を彩る象徴的存在となった。作家も詩人も、こぞってカフェの女性を妻とし、愛人としたし、カフェを舞台とした作品を書いた。真剣な愛もあった。

 谷崎潤一郎の話題作「痴人の愛」のナオミと譲治が出会ったのも、浅草の雷門(かみなりもん)近くのカフェだし、江戸川乱歩初期の名作「D坂の殺人事件」も、カフェが舞台となっている。
 そのように、カフェと文士たちの交流は深い。

 そのようなカフェ文化の坩堝(るつぼ)のほんの片隅に、小さな花が咲いていた。
 大正8年の春ごろ、東京本郷元町2丁目にあった、ミルクホールのような質素なカフェ・エラン。そこに住み込んでいる、数え年14歳の、「ちよ」と呼ばれる色白の少女が、川端康成の生涯を決定する、運命の女性となったのである。


『文芸日女道』610号(2019.02.05)


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戦時下の川端康成 その3

2016-05-22 21:50:16 | 論文 川端康成
戦時下の川端康成 その3

第2節 「日本の母」

日本文学報国会


 1942年(昭和17年)5月に文芸家協会の解散と同時に設立された日本文学報国会は、文士を大政翼賛会の傘下に加えようとする当局の攻勢と、文学の自律性を守ろうとする文士たちとのせめぎあいの中で誕生した、一見、国策推進を標榜した組織、ということができるだろう。

 これに属した作家たちの態度は、おのおので異なった。小説部門の部長となり、また大東亜文学者会議に出席して決議文を起草、宣言したりして、積極的に戦争推進に協力した横光利一と、一歩も二歩も引いて、消極的に報国会に協力した康成とは、対照的であったといえるだろう。

 それでも1942年10月には、康成は日本文学報国会作家という肩書きで長野県伊那の農家を訪問して「日本の母」という記事を書いた(『読売報知新聞』1942・10・30、朝刊)。第48回である。
 この「日本の母」は、1県から1人ずつ、戦死した夫(あるいは息子)のあとを守って健気に生きている「母」を選び出し、その家を作家が訪問して記事を書く、という企画である。
 当時、康成は軽井沢に住んでいたので、比較的近いから、という理由で、長野県下、下伊那郡松尾村の農婦・井上ツタヱを訪問することになった。
 康成が最初に訪問したのは、10月8日だった。が、軽井沢から中央本線の辰野駅まで行き、そこから伊那電鉄に乗り換えて天龍川の流れに沿って飯田まで南下し、さらに飯田から三信鉄道で4つ目の駅「伊那八幡」まで行くには、7時間もかかった。
 康成は、最初の訪問で、書くべきことを何も聞き出すことができなかった。そこで10月24日にふたたび訪ねた。

   さて、ツタヱさんからなにか話を引き出さねばならないのだが、夫の戦死の後のことなど、私は2度会つても、よう聞けなかつた。

 やむなく康成は、軍人援護会長野支部がツタヱの履歴と善行を書いた刷り物をツタヱに渡す。
 「わしや、こんなこと言はれたつて、なにも……。なにも話すやうなことありませんで……。」と、ツタヱは困ってしまう。
 それを無理して話を引き出せるような康成ではなかった。夫を失ったツタヱの悲しみを労(いたわ)っての思いやりである。


残された家族

 一家は、夫の戦死のあと、ツタヱと女の子と、夫の母である姑(しゅうとめ)の、3人が残された。

   その真二さんは蘭封院真正忠肝居士(こじ)といふ戒名の通りに、蘭封(らんぷう)で戦死した。中隊と小隊との連絡兵として任務を果し、ほつと横になつた途端に「ここやられましてな。」と、老母は自分の胸の横をおさへた。老母はまた、ツタヱさんの膝の孫を見ながら、
  「この子の、生れて63日目の写真を見たきりでな。生れた時は、400匁(もんめ)しかない子でありましてな。2度目に送つた写真は、大分ふつくらしてたのに……。」戦死の後に着いた。その美智代さんは、今6つになる。少し弱々しく見えるが、きれいな子である。
  「ほんに、1代暮すうちにや、いろんな目にあはなけやなりませんな。」と、老母は生涯を振り返つた。嫁が遺骨を迎へに行つた晩は、うちに1人でさみしかつたなあと言つた。

 期せずして康成は、この気丈な母の、息子に戦死された深い失意を、読者に伝えているのである。


「『日本の母』を訪ねて」

 康成は、この訪問について、『婦人画報』(1942・12・1)にも書いている。
 ここでは、もう少し客観的に、一家の様子を描いている。

   ツタヱさんの夫の陸軍歩兵伍長井上真二さんは、昭和12年8月に応召(おうしょう)、北支に出征、翌13年5月に戦死した。信州兵の武名を高め、また難戦を重ねた遠山部隊に属してゐた。戦死の時、真二さんは36、ツタヱさんは結婚して8年目で、30であつた。家庭には老母と、2人の義弟と、1女とがあつた。
 姑は60を過ぎ、義弟の1人は病弱、もう1人はまた出征、子供は生れたばかりであつた。かういふ1家をツタヱさんは背負つた。ひたすら農蠶(のうさん)業に励んだ。軍人の遺家族に対する村人の勤労奉仕などは、いつも辞退して、ただ自力で働き通した。恩賜金(おんしきん)のお陰もあつたが、夫の生前からの負債を全く返し、また8畝(せ)の田を買ふところまで、家政を整へて来た。(中略)

   ツタヱさんの家などは貧農の方だらうが、暗影も不安もなかつた。家族の顔色に、平和と希望とがあつた。これがツタヱさんの力であると思ふと戦死者の遺家族として、これほどありがたいことはない。(中略)
   見るからに素朴醇情(じゅんじょう)の「日本の母」に対して私はなにも言ふことがなかつた。

銃後の読者を励ます、多少、舞文の面がないではないが、康成としては、この一家の健気(けなげ)な明るさに、かろうじて自分自身が慰められるところがあったのであろう。


「父の名」

 井上ツタヱの家を2度目に訪問していた10月24日の午後、役場の少女が康成宛ての電報を持ってきた。康成の「母の姉が死んだ報せ」であつた。
 井上家は晩に五平餅(ごへいもち)を作って康成に食べさせようとしていたし、康成も「温いこの家に夜までゐたかった」。

   しかし、86で死んだ伯母は、この間見舞ひに行くと「栄吉つつあんかいな。」と、40年も前に死んだ父と私とをまちがへたことなどを思へば、やはり通夜に帰らねばならない。

 康成は伊那電車の窓から木曽駒の峰にも甲斐境(かい ざかい)の高山にも雪が降っているらしいのを目にしながら、伊那を去る。
 伊那谷(いなたに)の稲刈りは七分通りすんでいた。
 さて、「父の名」は、雑誌『文藝』の1943年(昭和18年)の2月号と3月号に、2回にわたって掲載された作品である。その死の電報を受け取った伯母の、生前のことから書いてある。
 康成の生母ゲンの、姉と弟のことが描かれた作品である。私小説といっていいだろう。

   私の母のきやうだいは、たしか7人だと思ふが、1番上の姉と1番下の弟とが長生きで後に残つた。2人とも私の母とは腹ちがひで、その2人がまた腹ちがひである。正妻の子でないので、小さい時から苦労させられた。姉の方は私の祖父母が養女として嫁がせた。弟の方は他人の家へ小僧に出され、やがて奉公先(ほうこうさき)の金箔屋(きんぱくや)の養子になつた。さういふ離れ方だし、年も大分ちがふので、きゃうだいらしく暮したこと時はなかつたが、後に二人が東京に住むやうになつてから、弟は姉をさがしあてて、きゃうだいの名乗りをした。その時、姉はもう60を過ぎ、弟も50に近かつた。


金箔屋の叔父

 「この金箔屋の叔父は変り者で、自分の自転車から帽子や靴にまで金箔を置いて金色燦然(さんぜん)と出歩いてゐた。」とあるように、本名山田豊蔵という、この叔父は、家業を生かして、身辺のあらゆるものに金箔を貼った。また自分の羽織に、有名人に揮毫(きごう)してもらって、その文字を金で浮き立たせて紋付の代りのように来て歩く、というふうだった。鴈治郎や歌右衛門といった一流の老優を選んで頼むのである。またここから転じて、一流の芸人と一緒に写真を撮ることを道楽とし、その対象は歌舞伎役者、映画俳優から政治家に及んだ。

 この金箔屋の叔父・山田豊蔵のことは、康成初期の「大黒像と駕籠(かご)」にも出てくるが、その姉――田中ソノが、この作品の主人公である。
 1917(大正6)年、康成が茨木中学を卒業して上京し、最初に頼って下宿した浅草蔵前の親戚が、この田中ソノであった。次男岩太郎が医者を開業して、この母を国もとから引き取ったばかりのところであった。もっとも、この作品では医者となっているが、川端秀子『川端康成とともに』によれば、歯医者である。
 いずれにしても、この人たちは康成に、過分といっていいほどの愛情をそそぎ、親身な世話をしつづけた。
 この伯母が85歳で病がちであることを気にしながらも、康成がそのままでいると、金箔屋の叔父が軽井沢まで来て、それとなく、生きているうちに逢ってやってくれ、という意味のことを遠慮がちに言った。
 康成は早速、東京に出て、伯母に逢いに行った。/font>


「栄吉ツつあんか。」
 
   伯母はなにもかも抜けてしまつたやうな顔で、少し口をあけて眠つてゐた。私はただ枕もとに坐つて、伯母を見てゐれば、それでいいので、従兄の嫁が伯母を起すのを止(と)めてゐると、伯母はふつと目をあいて、
  「栄吉ツつあんか。」
   と、きよとんと言つた。私の父の名である。40年前に死んだ私の父の名を、伯母は呼んだのである。

 この数行に書かれた事実――目をさました伯母がきょとんとして、康成を父の栄吉と間違えて「栄吉ツつあんか。」と呼んだ一言が、康成の魂を震撼させたのである。

   伯母は私を父とまちがへたことも、父の名を呼んだことも、自分で気がつかぬ、と言ふよりも、その時はもう私を認めた喜びに、なにもかもなくなつてゐた。よう来とくれた、よう来とくれた、会ひたうて、会ひたうて、とおろおろ言ひながら、涙を流して、這ひ出さうとし、起き上らうとするのを、私は無理に寝かせた。私に会へたのでもう死んでもいいと、伯母は言つた。

 それから従兄夫婦は、伯母が康成に会いたがって、東京駅へ行けばわかるといって承知しなかったとか、さまざまなことを笑い話のように語る。康成は涙をこらえる。

 早く死んだ父母の記憶を、康成はなにも持っていない。夢に出てくる肉親も、16の時まで生きていてくれた祖父一人だけである。
「さういふ私にとつて、『栄吉ツつあんか。』といふ伯母のひとことは、父母の復活であり、父母の誕生であつた」のである。
 信州の伊那の農家で、この伯母が死んだという電報を受け取った康成は、すぐに伊那を立ち、10月末の冷たい雨の降る東京に着く。
 伯母はもう柩(ひつぎ)に入っていた。そして夜半近く、この伯母の娘たち二人が大阪から着く。もう60過ぎの老女なのだが、特に上の娘は若い時から美人として人目を惹(ひ)いていたひとだった。その名残か、立ち居にあざやかなところがあり、仏前にしゃんと坐ると、このひとの娘も器量望みでもらわれて行ったことを思い出す。
 伯母からこの姉娘へ、姉娘から小町娘へと、3代の女が母に似て、母より美しくなりまさってきた事実を、康成は考える。

  「栄吉ツつあんか。」
  と、私の父の名を呼んだ伯母の声が私のなかからも聞えた。

 「父の名」は、伯母の一言を繰り返して結ばれる。思いがけず父の名を呼ばれた経験は、康成に、自分の顔も知らない父の存在を印象づけた。康成は、この一言を契機に、自己の根源を探る思考へといざなわれるのである。


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三明永無(みあけ・えいむ)の役割 川端康成と阿部知二と岡本かの子と――三明永無を接点に――

2016-05-15 15:37:08 | 論文 川端康成
三明永無(みあけ・えいむ)の役割
川端康成と阿部知二と岡本かの子と――三明永無(みあけ・えいむ)を接点に――


   1 川端康成の好意

 川端康成と阿部知二の間には深い関わりがある。とりわけ川端康成から阿部知二にかけた好意の跡がいちじるしいことは、多くの読者が知っていることであろう。

 まず、川端康成や小林秀雄たちが昭和8年に始めた同人雑誌『文学界』 に昭和10年、同人として阿部知二を招き入れたこと。そしてその翌年、1月号から10月号まで、その誌上に「冬の宿」掲載の機会を与え、さらに第10回『文学界賞』授賞に際して「道は晴れてあり」の讃辞を送ったこと。この「冬の宿」の成功によって、知二がいわば国民作家として広い読者層をもつ作家に成長したことは、繰り返すまでもない。
 ちなみに、このとき同誌(昭11・11月号)に寄せた川端康成の「選評」を、37巻本第四次川端康成全集第34巻から抜き出しておこう。

   第10回            阿部知二「冬の宿」
   道は晴れてあり
   新年以来連載10ヶ月の「冬の宿」は完結した。同人に精
  励の範を垂れたばかりでなく、感興自から溢れてみごとな
  長篇をなし、作者自身にも恐らく豁然たる思ひあらしめ、
  冬の宿よさらば、道は晴れてあり、ここに1票を投ず。他
  に保田君の「日本の橋」にも投票したいが。

 この文学界賞選定に川端康成の影響力が強いことは、その第2回に北条民雄「いのちの初夜」を授賞していることからも明らかであろう。

 また昭和25(1950)年、第2次大戦後初めて、国際ペンクラブに日本が招待されて英国エジンバラで大会が開催された際、日本ペンクラブ会長であり、このペンクラブ参加に激しい情熱を見せていた川端康成が、日本代表として、阿部知二と北村喜八を選び、送り出した事実も忘れがたい。
 演劇人であり、ヨーロッパにおける文芸理論に精通した北村喜八は、一高、東大時代から川端の日記にしばしば登場する旧友であり、康成の盟友であったから当然として、英語に堪能であるとはいえ、なぜ多くの作家・詩人の中から、あえて阿部知二に白羽の矢を立てたのか。

 それは知二に寄せる、川端の深い好意を抜きにしては考えられないのである。
 川端が知二に示した好意は、これら2つだけではない。昭和初年、文芸時評を連載して評論家としても強い影響力を持っていた川端は、さまざまな形で阿部知二の名前を出して、その文壇登場を応援していたのである。
 上記全集第30巻に掲載されている、昭和初期の文芸時評を概観すると、川端がいかに無名時代の阿部知二に注目し、応援していたかが読み取れる。もっとも、身びいきのために、力のない作品を推奨するようなことはしていない。

 知二が、当時の有望な新人作家を網羅した雑誌『文藝都市』 に参加したのは昭和3年からであるが、川端がこの雑誌で最初に注目したのは、井伏鱒二であった。早くも昭和4年の「文藝時評」(2―3月)では、「君の愛読する作家は? と問はれるなら、私は言下に答へるであらう。井伏鱒二と。」と書き初めて、井伏の「谷間」(1月~3月号)、「朽助のゐる谷間」(3月号)を挙げ、絶賛している。まだこの時期の知二作品は、川端には未熟と映ったのであろう。

 阿部知二の名が初めて登場するのは、『新文藝日記』昭和5年版(昭4・11・12、新潮社)の「小説界の1年」という文章においてである。「新人では、中本たか子氏が、野心的な作品を続々発表した。それから井伏鱒二氏の古い新しさ、久野豊彦氏、堀辰雄氏の新しい新しさは、最も注目すべきであつた。その他、阿部知二氏、(中略)丹羽文雄氏、深田久弥氏、(中略)今日出海氏、(中略)吉行エイスケ氏、(以下略)。」
 昭和4年に知二は、「或青年の手記―美しい跛足の女」、「森林―或青年の手記」などを『文藝都市』 に発表していたのだが、川端の目には、「その他」の筆頭としてしか、映らなかったのであろう。

 しかし、昭和5年になると、事情は変わる。「新人才華(昭和5年5月)」(昭5・6、『新潮』)において、その最後に「その他」として「その他、私はこの月評のために、5月の雑誌は殆ど皆読んだ。そして、次の3作を選び出した。村山知義氏「日清戦後」(中央公論)/橋本英吉氏「メキシコ共和国の滅亡」(中央公論)/阿部知二氏「白い士官」」
 同月の「新興芸術派の作品(昭和5年5月)」(『文学時代』昭5・6)には、以下のような文言が見られる。

 「新興芸術派の代表作といはれるやうなものを発表してゐるのは、龍膽寺君位しかないが、短いもので、僕の非常にいい作品と思ふものを挙げるなら――/阿部知二君の最近の作品「すちいる・べいす」、「シネマの黒人」、「恋とアフリカ」、堀辰雄君の「眠つてゐる男」「ルウベンスの偽画」、(中略)井伏君の「朽助のゐる谷間」「シグレ島敍景」等。」

 ここにおいて、阿部知二は新人作家として、ようやく川端康成に認知されたようだ。著名な時評家によって、その名前や作品名を記されることが、そのまま文壇登場につながったことは、康成自身の「招魂祭一景」を想起するまでもなく、明らかなことだった。
 つづく「文壇散景(昭和5年6月)」(『読売新聞』昭5・6・12~14、『読売新聞』)では、「近代派」と小題がついて、「私の考へによると、ほんたうに近代派らしい作家は、阿部知二氏や吉行エイスケ氏なんかではないだらうか。その阿部氏すら一脈の――いや多分に近代派作家らしからぬものを持つてゐる。」と評されている。

 さらに「創作界の一年(昭和5年12月)」(『昭和6年新文藝日記』昭5・11・13、新潮社)では、「阿部知二氏は「日独対抗競技」(新潮1月号)、「白い士官」(新潮5月号)その他で、近代的な理知の明朗で構成的な作風を、はつきり印象づけた。」と結論づけている。
 加えて康成は「昭和5年の芸術派作家及び作品」(『新潮』昭5・12)において、「昭和5年中に、傑作または力作を書いた作家、数多くの作品を書いた作家、つまり働いた作家は――」として、その一人に阿部知二を挙げている。「新興芸術派の作家達には、実に無数の小さい作品がある。(中略)しかも、目星いものが非常に少い。傑れたものを拾い出してみると」として「阿部知二氏「日独対抗競技」(新潮一月号)、「白い士官」(新潮五月号)」を抜き出している。
 阿部知二は、昭和5年に「新進作家の地位を確立した」と、これまでの年譜に描かれているとおり、川端康成の時評によっても、その確立ぶりが伺える。言い換えると、知二の文壇登場に、川端康成は十分な役割を果たしているのである。
 その後も康成の知二に対する関心はつづき、『新潮』昭和6年8月号に発表された「航海」についても、次のような述懐を寄せている。

   阿部氏の「航海」は、苦しんだ知識の所産であると思は
  れる。近頃の文壇に移入された心理学を頭に備へつけて、
  しかもそれを抑へつけることに、作者の多分の努力が払は
  れてゐる。これは知識人らしい身だしなみであらうが、読
  者はそのために、作者の懐疑の匂ひを感じてしまふ。人物
  の生彩が伸び上らうとしては頭を切られる所以であらう。

 同年9月の「高原」(『文藝春秋』)についても、康成は評言を寄せた。
 このような川端康成の評価は、疑いなく、知二を文壇へ登壇させ、さらには一人前の作家として自立させる役割を果たしたはずである。
 それは一方では、時評家としての康成の見識によるものであったが、同時に、阿部知二にたいする温かい好意が、その底にあると感じられるのである。
 それは、どこから生じたのであろうか。


   2 三明永無の存在

 川端康成初期の一大事件であった、大正10(1921)年秋の岐阜における、伊藤初代との婚約および破約事件――。これは、連作の中心となった作品名によって「非常」事件と呼ぶべきものだ。その経緯については、私の『魔界の住人・川端康成―その生涯と文学―』(2014・9・30、勉誠出版)上巻に詳しく描いたので、ここでは割愛するが、、この恋愛事件において月下氷人として活躍したのが三明(みあけ)永無(えいむ)であった。

 三明永無の役割と、その演じた重要性については、康成自身、第一次川端康成全集の「あとがき」(のち「独影自命」として、まとめられた)に、次のように書いている。

   「霰(あられ)」の友人は石濱(注・金作)君である。
   「篝火(かがりび)」の朝倉、「非常」の柴田、「南方の火」の友人
  は、「明日の約束」の片桐とも同一人で、今は最早三十年
  近く昔のことだから明してもいいだらうが、E・M君であ
  る。「明日の約束」のはじめにもある通り、ずゐぶん私の
  世話を焼いてくれた。(2ノ6)

 ここに告白されたE・M君こそ、三明永無(みあけ・えいむ)である。

 今から48年前、すなわち昭和43(1968)年、川端康成がノーベル文学賞を受賞した年から川端文学の研究に入った私は、川嶋至 『川端康成の文学』(1969、講談社)や長谷川泉編『川端康成作品研究』(1968、八木書店)などによって、三明永無の名はよく知っていたが、その正体や出自については、まったく知らないままだった。
 ところが今から20十数年前、偶然に、意外なところで三明永無の名前に遭遇し、その出自の一端を知ったのだった。

 あれは、姫路文学館で『抒情と行動―昭和の作家 阿部知二展』が大々的に開催された年だったから、今から23年前の1993年の初夏のことだった。
 9月から開かれる展覧会の準備にあたり、この展覧会を責任担当する阿部知二担当の学芸員・甲斐史子さんが、提供してもらう資料を確認するため、島根県の、出雲大社のほとりにある島根県立大社高校を訪問するという。ちょうどそのころ、阿部知二の評伝を書こうと、同人雑誌『文芸日女道』に「阿部知二への旅 評伝のための基礎ノート』を連載しはじめていた私には、それは絶好の機会だった。
 ぜひ同行させてください、と私は甲斐さんにお願いした。
 大社高校の前身は、旧制杵築(きづき)中学である。この学校こそ、文部省検定試験(通称・文検 〈もんけん〉)によって中学教師の資格を得た、知二の父・阿部良平が、米子中学に1年勤めた後、日露戦争の戦端が開かれたばかりの明治37年4月から大正2年までの九年間、赴任し、博物の教師として勤務した学校である。

 次男であった知二(明治36年6月生まれ)も、満1歳足らずの年から米子より島根県簸川(ひかわ)郡に移り、初めは杵築町の町はずれの遥堪村菱根(ようかんむら・ひしね)に住み、やがて明治42年9月から父が杵築中学の舎監になったので、翌43年の9月から、知二たち家族も中学敷地内の舎監官舎に住む。
 つまり知二と、その父親良平の生涯にとって、杵築は生涯の重要な町であり、杵築中学はおそらく、良平の教師生活の痕跡を大量に残す資料の宝庫であるに違いないのだ。

 季節は初夏であった。前日、別々の行程で松江に着いた甲斐さんと私は大社高校門前で落ち合い、その歴史の長さをしのばせる典雅な同窓会館(現・いなさ館)に招き入れられて、甲斐さんは膨大な資料から展覧会に出品したいものを探し出していた。
 私は同校の校友会雑誌 『七生』 のバック・ナンバーを閲覧させていただいた。この誌名は、楠木正成の「七生報国」から採用されたものであろう。この学校の、古い歴史を感じさせる。
 そして果たして、明治40年4月刊行の『七生』第14号に、父阿部良平の「平年の話」というエッセイが発表されていたのである。今日でいう、生態系のバランスが大切だ、といった趣旨の文章であった。
 他の号にも良平の文章がないかと、さらに頁を繰って、別の号を見ていたとき、私は思いがけぬ人の名を発見したのである。
 三明永無の、名前と文章であった。

 それは大正3年3月15日刊行の『七生』第23号で、そこに3年生・三明永無の「意志の論」という文章が掲載されていたのである。

 「重荷を負うて遠きに行かむには、意志の力に俟たざるべからず。百折撓まず千挫屈せずして、己の初志を遂げむにも亦、意志の力に由らざるべからず。」と始まる、勇ましい漢語調の文章であった。

 「あっ、三明永無は、杵築中学の生徒だったのか!」と、私は驚いた。川端康成の研究で、三明永無の名は私に近しいものだった。だが、一高で川端康成の同級生であったという事実(川端は大正6年、一高に入学している)以外、私はほとんど何も、彼についての知識を持ち合わせていなかったのである。
 しかし、三明永無が大正3年において杵築中学の生徒であること、従って恐らく、この近辺に彼の故郷があることは確かであった。
 ……それから20年余り、この事実は私の胸底に深く蔵されたまま、それを明かす機会がなかった。
 だが、思いがけない契機が、三明永無の出身地を明かし、その生涯のあらましを知る機会を与えてくれたのである。

 一昨年(2014年)夏のことだった。私はその9月、前述の川端康成の著書を刊行する直前で、意気大いに上がっていた。また、その著書を仕上げる半年前に知遇を得た畏友・水原園博(そのひろ)氏との交友に熱中していた。水原氏は、公益財団法人・川端康成記念会の理事、東京事務所代表、という肩書きを持っている。といえば堅苦しい人物を想像されようが、近年「川端康成と東山魁夷展」を全国の各都市で開催している、その企画と実施を担っている、豪放かつ繊細な人物だ。

 私は自分の本の口絵に、川端康成記念会が所蔵している数々の名品や写真を掲載させていただきたいと願った。幸い、理事長である川端香男里先生のお許しをいただいて、自由に撮影してよい、との許可を得た。とりわけ私が掲載を渇望したのは、川端康成が戦中から戦後にかけて耽読した、源氏物語湖月抄であった。

 江戸時代、元禄の少し前の延宝年間、北村季吟(きたむら・きぎん)によって執筆され、木版で印刷されて全国に普及した、源氏物語の本文と注釈書全60巻だ。54巻に、年立て(源氏物語の年譜)などが付されて60巻あるという。
 以前、展覧会でガラスケースの外から見たことはあったが、川端康成が精読した、その本物の写真を私の著書に載せたかった。川端が湖月抄から受けた影響について、私はその書において詳細に描いていたからである。湖月抄は、川端研究に必須の重要資料であった。
 しかし、写真の素人である私には、上手に撮影する技術がない。そのとき、川端康成学会の仲間である平山三男さんが、水原さんを紹介してくださったのだった。
 水原さんは、写真専門誌の表紙を飾ったこともあるほどの、撮影のプロである。また、川端康成について、繊細かつ男性的なエッセイを数多く書いてきた人だった。水原園博氏撮影になる湖月抄など数々の秘宝を自著に掲載できたことは、実にありがたかった。

 さて、その夏7月、水原さんと電話で話していると、「来年の3月、松江で『川端康成と東山魁夷(かいい)展』を開催するよ」と水原さんが口にしたのである。島根県……と耳にした途端、私の胸に三明永無の存在が浮かんだ。

 「それなら、地元の『山陰中央新報』に連絡して、三明永無の故郷を調べ出してもらうと、展覧会の話題づくりになるよ」と私は言った。というのも、その1ヶ月前、2014年7月9日、川端康成の、伊藤初代に宛てた未投函書簡が発表され、この若き日の恋愛と、その折り、岐阜で撮影された記念写真がNHKや全国の各新聞紙上に大々的に紹介されて、全国的に話題となっていたからである。その直後、静岡市、岡山市で開催された『川端康成と東山魁夷展』でも、岐阜の写真と、伊藤初代からの10通の手紙は展示されて、大きな反響を呼んでいた。

 その婚約事件の中心的役割を果たした三明永無(みあけ・えいむ)が、これまでは影の存在であった。しかし、おそらく三明永無の故郷である島根県で開催される以上、三明永無の出身地が具体的に解明されれば、話題は沸騰するであろう……。
 水原さんは行動が早い。ただちに、島根・鳥取両県をエリアとする『山陰中央新報』に連絡した。するとたちまち、文化部の石川麻衣記者に、その解明・探索が委ねられたのである。
 石川記者は事情を知るため、水原さんに連絡をとった。すると水原さんは、姫路に、三明永無や伊藤初代に詳しい、川端文学の専門家がいますよと、私を紹介してくださったのである。
 一方、石川麻衣記者は、たちどころに、三明永無の出身は、大田市温泉津(ゆのつ)町西田の瑞泉寺(ずいせんじ)である、と探り出し、瑞泉寺に連絡をとった。

 石川記者は、探索を委ねられると、すぐ『島根県歴史人物事典』を開いた。そこには、「自謙(じけん)」という傑出した僧侶の名が出ていた。そこに、自謙は大田市温泉津の「三明山瑞泉寺(さんみょうざん・ずいせんじ)」の僧であると記されていたのである。

 石川記者は、この「三明山(さんみょうざん)」が「三明(みあけ)」という珍しい姓を連想させるところから、瑞泉寺と三明永無に深い関わりがあるのではないかと推理した。
 きっと永無と親戚関係にある人物であろうと見当をつけ、その自謙の出自たる寺院・瑞泉寺の電話番号を調べ、電話をかけた。
 現住職の三明慶輝(みあけ・けいき)氏が電話口に出られた。慶輝氏はかねがね、大叔父(祖父・三明得玄の弟)に当たる永無が川端康成や、岡本一平・かの子夫妻と関わりがあったということを聞き知っており、それにも関わらず、世間が三明永無という存在を忘れ去っていることを残念に思っていた。だから電話を受けると、三明永無が間違いなく瑞泉寺の出身であること、その遺品も多く残っていることを告げた。石川記者が「伺ってもいいですか?」と尋ねると、「どうぞ、ぜひおいでください」と快諾した。
 ご住職は、幼時、永無と顔を合わせたことがあった。この偉大な大叔父の強烈な印象が残っている。川端康成や岡本かの子と深い交流のあったことも耳にし、実際に、それを裏づける幾枚もの写真や色紙も眼にしていた。だがこれまで、三明永無の存在は、世の注目を浴びることがなかったのである。

 永無は晩年を故郷に近い、島根県浜田市で過ごし、そこで亡くなった。しかし墓は故郷の瑞泉寺にあり、また遺品の数々も、瑞泉寺で大切に保管されていた。
 その遺品の中には、あの岐阜の、三人の記念写真もあったのだ。石川記者は目ざとく、この写真を見つけ、これこそ先日、全国各紙に流された写真の原本だと直感した。
 石川記者は、その写真も撮影し、発表する許しも得た。
 さて、その三明永無の出身地について記事にするためには、川端康成をめぐる三人の関係などを十分に知りたい。石川記者は水原さんに電話で相談し、紹介されて、姫路に住む私に電話をかけてこられた。

 川端康成と三明永無との関係について詳しく教えてほしい、ついては姫路まで伺ってもいいか、というものであった。もちろん私は快諾した。
 石川記者は、出張の許可を得て、松江から伯備線特急と新幹線を乗り継いで、岡山経由で姫路に来てくださった。
 姫路駅の中央改札口で落ち合うと、20代の、瞳の澄んだ美しいひとであった。私は行きつけの喫茶店パルチザンへ招待して、そこで3時間たっぷり、若き日の川端康成の恋と、三明永無の役割について講義させていただいたのである。

 まもなく石川麻衣記者は、岐阜の記念写真と、それにまつわる詳しい記事を『山陰中央新報』朝刊に、3度にわたって発表した。
 すなわち第1報は、2014年7月23日、「川端康成と伊藤初代の恋 三明永無(大田市出身)が仲取り持つ」、第2報は文化欄に「3人の写真現存 唯一の原本を確認」(7月27日)として掲載された。これは、『山陰中央新報』の石川記者たちと、東京から遙々訪れた水原園博氏が同行して、温泉津町の瑞泉寺を訪問して確認した報告である。三明永無の遺品にあった、岐阜の3人の記念写真とともに、これも遺品の中にあった三明永無の結婚式の記念写真も掲載された。これは岡本一平・かの子夫妻が媒酌人として永無夫妻の両側に席を占め、背後には川端康成や石濱金作も写っている、貴重なものである。

 そして第3報は、「川端康成の初恋と三明永無」(2014・8・2)と題したもので、川端と伊藤初代の恋と、結婚の約束において三明永無の果たした役割を、具体的に解説した内容であった。この記事には、かの子の短歌に、一平がかの子の似顔絵を描き加えた、美しい色紙が添えられていた。
 これらの記事には、岐阜の記念写真の原本に加え、岡本一平の描いた三明永無の肖像画も載せられていたから、島根県ばかりでなく、全国的にも、大変なスクープとなった。
 7月9日に川端康成の未投函書簡が大々的に発表されてから、まだ1ヶ月も経っていない時点だ。全国に、その余韻が残っていた。地元の島根県でも、あの写真に関わりの深い人物が大田市温泉津の出身であったと知られて、大いに話題を集めた。『山陰中央新報』に、読者から、いくつも電話がかかった。投書も寄せられた。瑞泉寺にも、電話がひっきりなしにかかったという。
 そればかりか、未投函書簡の続編という意味もあったから、共同通信系列の全国の新聞も、他の新聞も、いっせいに後追いの記事と岐阜記念写真を載せて、注目した。


   3 岐阜記念写真

 ところで、三明永無の遺品の中にあった、この写真は、いわくつきの、格別な意味を持つものであった。
 この写真は、前述のごとく、その93年前の大正10年(1921年)10月9日、すなわち康成と伊藤初代の結婚の約束ができた翌日、岐阜市の裁判所前にある瀬古写真館で撮影されたものであったが、長い転変の間に、康成も、初代も、この写真を失ってしまっていた。
 昭和47年(1972年)4月16日に康成が自裁すると、その秋、日本近代文学館が主催して、『川端康成展―その芸術と生涯―』が東京・新宿伊勢丹(9月27日~10月8日)を皮切りに、全国11都市を巡回して開催された。
 このとき、準備にあたった一人に長谷川泉がいた。当時の川端研究の第一人者であった長谷川は、すでに三明永無と接触し、旧知の間柄であったところから、三明に、この記念写真を貸してほしい、展示したいから、と依頼した。三人が一葉ずつ持っていた写真だが、康成、伊藤初代は長い歳月の流れの間にこの写真を失ってしまい、三明永無だけが、所持していたのである。最後の1枚だった。

 三明永無はこの写真を長谷川に貸したが、展示は、思わぬ反対が出て、実現されなかった。つまり康成の秀子未亡人が、展示することに同意しなかったのである。
 康成と結婚したころ、康成の心に伊藤初代が生きつづけていることに苦しまされ、その心の傷が残っていたので、康成の死後にまで、伊藤初代が重視されることに耐えられなかったのであろう。
 そこで長谷川はこの展覧会に展示することは断念した。しかし写真の複製を2、3葉つくり、みずからの文章に発表するとともに(「『南方の火』の写真」(『向陵』一高同窓会、昭47・11・15)、岐阜市の、川端文学研究家(川端の岐阜訪問と婚約の経緯を調査していた)島秋夫に1枚を贈呈した。また、財団法人・川端康成記念会にも、この複製を、本来川端家が所持しているべきものとして、返却した。(これらがその後、さらにあちこちで複製されて、現在、日本近代文学館や各新聞社が所蔵するところとなっているのだ。)
 つまり、これまで公表されてきた岐阜の記念写真は、いずれも、長谷川泉が三明永無から借り出した写真を原本とするものであった。その後、果たして長谷川泉が三明永無に確かにこの写真を返却したのかどうかは、40数年間、杳(よう)としてわからなかった。

 だが今回、瑞泉寺の三明慶輝住職が石川記者に見せた永無遺品の中に、セピア色に化した、この記念写真があることに、石川麻衣記者は気づいた。そしてこれを『山陰中央新報』の記事の中に掲載した。
 今回新たに発見された写真は、セピア色に変色し、また、3人の肖像の近くに、白い大きなシミがいくつかあったけれど、まさしく、この原本が生きつづけてきたことを証明していたのである。長谷川泉が三明永無に写真を返却していたことも、ここで確認されたわけである。また三明永無が生涯を通じて、この写真を大切に蔵していたことも判明した。
 私は、瑞泉寺の三明慶輝ご住職と石川記者から、この写真を使用してもよい、との許可を得たので、私の著書上巻の表紙に使わせていただいた。私はあえて、世に普及している、修正された版ではなく、白いシミが幾つも残る、三明永無の遺品である、この本物の写真を使用させていただいたのだ。
 それほどにこの写真原本は、大正10年(1921年)から平成26年(2014年)まで、94年の歴史を生き延びた、特筆すべき写真であったのだ。


  4 三明永無と岡本一平・かの子

 さて、こうして松江市で開催された『川端康成と東山魁夷展』を機に、三明永無の存在は世に蘇(よみがえ)り、川端康成との関わりも、伊藤初代との初恋事件をもとに世間に知られることとなったのだが、三明永無の役割は、これだけに止まるものではなかった。
 石川記者は、三明永無の遺品の中に、岡本一平、かの子夫妻との関わり深い写真や絵画を見つけて、これも意外に思って、紙面に紹介した。

 1つは、岡本一平が若き日の三明永無を描いた、やや戯画調の肖像画であったが、今1つは、三明永無の結婚式披露宴に、岡本夫妻が媒酌人として中央に座っている写真であった。これは、岐阜事件の3年後の大正13年12月、三明永無が東京の帝大仏教青年会館で挙式した披露宴の際に撮影されたものである。この写真には、川端康成も参列者の1人として写っている。
 三明慶輝住職は、永無と岡本夫妻との関わりが深いことも知っておられたが、なぜこのような交流があったか、という次第は、はっきりとはご存知なかったという。
 ところが、川端康成と阿部知二と岡本かの子とを結ぶ強力な1本の線について、その謎が一気に解ける鍵――1つの情報――が、松江から手に入ったのである。


   4 杵築(きづき)中学校の同級生

 かねがね、阿部知二と、彼が幼少期九年間を過ごした出雲(すなわち島根県)との関係を調査し研究をつづけている引野律子氏と、私は面識があった。阿部知二研究の仲間として、引野氏はいつも私に貴重な情報を知らせてくださった。引野氏は現在、松江市に住んでおられる。
 出雲で知二が最初に住んだのが遥堪村(ようかんむら)であったところから、遥堪村に生まれ、遥堪小学校時代に阿部知二の講演を聴いたことのある引野さんは、阿部知二と島根県との関わりについて、熱心に調査をつづけてきた。そしていくつかの論考を『阿部知二研究』に掲載すると同時に、私とメールの交流をつづけていた。

 あるとき、もう10年ほど前であったか、引野さんがメールで重要な情報をくださった。
 それは、「阿部知二が後年、少なくとも8度、島根県を訪れているのは、島根県の恒松安夫(つねまつ・やすお)知事との関係からである。そして知二と恒松知事との知遇は、知二の兄・公平が、恒松と、杵築中学で同級生だったから生じた」という内容であった。

 ちなみに、恒松安夫は杵築中学から慶應義塾大学に進み、卒業後は慶応の教授になった。戦後、島根県知事にかつぎ出され、昭和26年から34年まで2期8年間、知事をつとめている。その知事時代、招待されて知二は何度も島根県を訪れている。

 公平は知二より5歳年長の、明治31年生まれである。そして明治44年、杵築中学に入学し、2年間在学したが、父・良平が大正2年3月末、兵庫県の姫路中学に転勤したので、それにともなって一家は姫路に移り、公平は杵築中学から姫路中学3年に転入したのである。
 公平は広島高等師範学校に進んだが、姫路高等女学校教諭であった大正12年、25歳の若さで結核により姫路市坊主町の自宅で死去した。
 しかし公平は弟知二に、またとない贈り物を残してくれたのである。杵築中学で、公平の同期であった人々との人脈である。
 公平は2年だけで姫路中学へ転入したから杵築中学を卒業してはいないが、第15期生、大正5年3月卒業の人たちと同期であった。2年間、教室を共にした親しい顔見知りだったのである。
 それが三明永無、恒松安夫たちである。しかも、永無も恒松も生家が杵築中学から遠いため、寄宿生であった。つまり、舎監をしていた、人望の篤かった良平のもとにあり、かつ良平の官舎は、寄宿舎と同じ敷地内にあったから、三明永無、恒松安夫と阿部公平は、一つ屋根の下で過ごしたといっても過言ではない。5歳年下の知二の顔を見知っていた可能性もある。

 ところで、岡本かの子の愛読者や研究者なら、恒松安夫の名はよくご存知だろう。大正6年、慶応義塾に進学した恒松は、兄源吉もそうだったことから岡本家に寄宿し、ついにはその家計全般を任されるようになったのである。
 この事実は、諸年譜にも記載されており、また岩崎呉夫『芸術餓鬼 岡本かの子伝』(七曜社、昭38・12・10) にも瀬戸内寂聴 『かの子繚乱』(講談社、昭40・4)にも詳しく記されている。
 恒松は岡本夫妻から深い信頼を寄せられ、関東大震災の直後も、第二次大戦中も、一家は、恒松家の世話で島根県に一時、身を寄せている。また昭和4年から昭和7年にかけての、岡本一平、かの子、太郎の洋行の際にも、恒松は同行したほどだ。
 このように恒松安夫は、岡本家と深い関わりがあった。(岡本家と恒松家との関わりは、前記引野律子氏の発表資料(注1)によれば、源吉・安夫の祖父で衆議院議員であった恒松慶隆と、かの子の父・大貫寅吉(おおぬき・とらきち)が親しかったことから生じたという。)
 さて、岡本かの子年譜に、突然、三明永無の名が現れて、かの子の評伝家を悩ませているのも、この杵築中学を基点とする事実を知っていれば、何でもなく解決できるのだ。
 そう、杵築中学時代に親密であった三明永無と恒松安夫は、上京後も、頻繁に交際した。外交的で明朗であった三明永無は、恒松が岡本家に寄宿すると、すぐに訪問したであろう。そして岡本夫妻とも親密になった。
 この事実を知らなかった岩崎呉夫は、前述の著『芸術餓鬼 岡本かの子伝』において、「三明永無は、かねてよりかの子のファンであったところから交際を求め……」など、想像を巡らせて苦しい創作をしているが、前述の恒松と三明との関係を知っていれば、別段、難しいことを考える必要はないのだ。
 さらに、川端康成と岡本かの子の関わりについても、以上のいきさつを知っていれば、三明永無が両者を仲介したことは、容易に了解される。
 歌人としてはすでに有名であったが、小説家になることを切望したかの子を、康成が、まだまったく小説らしきものを書けなかった時代から辛抱づよく指導したことも、よく知られた事実だ。
 川端康成がようやく合格点をつけて、自分たちの雑誌『文学界』に掲載した、芥川龍之介の晩年を描いた「鶴は病みき」(昭和11、6)によって、かの子が作家として鮮やかなデビューを果たしたのも偶然ではない。恒松を訪ねて岡本家をしばしば訪れ、夫妻とすでに面識のあった三明永無が、かの子を川端に紹介したと解すれば、接点の謎は簡単に解けるのだ。
 実際、三明永無は後年、長谷川泉に慫慂されて書いたエッセイ「川端康成の思い出」(長谷川泉編著『川端康成作品研究』昭和44・3・1、八木書店) において、以下のように述べている。

   岡本かの子はその頃青山にいて、同宿の恒松安夫(後の
  島根県知事)が私の中学の同窓であるという関係から、よ
  く出入りしていたが、新思潮で評判のよくなった川端に会
  いたいというので私が紹介して銀座のモナミというレスト
  ランへ川端を伴い岡本一平、かの子、恒松安夫等に会わせ
  た。

 「岡本かの子年譜」(『岡本かの子全集』第12巻、ちくま文庫、1994・7・21)には、かの子が川端康成の知遇を得たのは大正8年(1919)とある。しかし、これは、おかしい。川端康成らが第六次『新思潮』を発刊し、「招魂祭一景」で名が出たのは、大正10年だからである。三明永無が書いているように、「新思潮で評判になった川端に会いたい」と言ったのは、大正10年でなければならない。
 大正5年3月に杵築中学を首席で卒業した三明永無は翌大正6年、一高文科に入学し、寄宿舎の東寮3番で康成と同室になった。翌年も南寮4番で同室になり、石濱金作、鈴木彦次郎を加えた4人で、伊藤初代のいるカフェ・エランにも通ったのである。
 三明永無のこの文章には、もちろん岐阜行のことも出てくるが、ここでは割愛しよう。
 もう1つ、岡本かの子年譜を見ると、大正11年ごろ、かの子が高楠順次郎の教えを受けた、とあるが、これも、三明永無の存在抜きには考えられない。というのは、一高文科から東京帝国大学文学部印度哲学科に進んだ永無は、みずから、前期の文章に「大正大蔵経の編纂、校訂にあたり」と書いているように、高楠教授の指導のもと、この編纂校訂作業に従事していたのである。そのころ、仏教を必死で研究していた、かの子を、高楠教授に紹介したことが、容易に推察できるのだ。

 ちなみに、三明慶輝住職のまとめた「三明永無略年譜」には、生涯の師として、高楠順次郎が挙げられている。(高楠は昭和19年に文化勲章を受章している。また、現・武蔵野大学(前身は千代田学園、のち武蔵野女子大学)を創設し、みずから校長にも就任している。
 三明永無がハワイから帰国後、この学校に奉職した履歴を持つのも、高楠との師弟関係によるものであろう。


   5 三明永無の生涯

 ここで、瑞泉寺第19世住職である三明慶輝氏のまとめられた資料をもとに、三明永無の生涯の概略を述べておこう。
 初めに、A4用紙一枚にまとめられた「三明永無 略歴」を、そのままに写す。

  三明永無 略歴
誕生 明治29年(1896)6月8日生れ
    瑞泉寺第16世住職 得玄・ミチの次男
    同上17世住職 謙譲の弟
 
学歴 湯里村西田尋常小学校卒業 明治40年3月 10歳
   湯里村湯里高等小学校卒業 明治44年3月 14歳
   島根県立杵築中学校卒業  大正5年3月 19歳
   第一高等学校卒業     大正9年3月 23歳
   東京帝国大学文学部卒業  大正12年3月 26歳

職歴 昭和5年(1930)ハワイへ渡米 34歳
   本願寺ハワイ別院付属ハワイ中学校で教鞭
   昭和18年9月 第二次交換船(帝亜丸)にて帰国 47歳
   宗門立千代田女子専門学校 千代田学園で教鞭
   同上 武蔵野女子学園にて教鞭
   昭和25年 ハワイ教団直属布教師として渡米 54歳
   昭和33年同上開教本部賛事長 62歳
   昭和36年 帰国 東京:代官山にて居住 65歳

家族 結婚 大正13年(1924)12月 28歳
    津山利恵子(新潟県東頸城郡牧村 西念寺出身)
 *子息 大蔵、次朗 *媒酌 岡本一平・かの子

   再婚 昭和38年(1963) 67歳
    原田寿恵(島根県大田市大家 浄土寺出身)
   昭和47年 島根県浜田市へ移住 76歳

逝去 昭和54年(1979)1月11日 82歳
    *院号法名 無明院釋永無
交友 杵築中学時代
    恒松安夫(慶応大学教授;島根県知事)
   一高時代
    今東光(作家;中尊寺貫首)
   一高・東大時代
    川端康成(ノーベル賞作家)
   恩師
    高楠順次郎(東大インド哲学教授;『大正新修大蔵経』編纂)

*文責 三明慶輝 浄土真宗本願寺派三明山・瑞泉寺第19世住職

 以下、平成8年11月25日に刊行された『瑞泉寺縁起史』を中心に、私の知見を多少加えて、瑞泉寺と三明永無について、若干の補足をしておきたい。
 瑞泉寺は、鎌倉時代の末、嘉暦2年(1327)に真言宗として開基された、7百年の歴史を有する名刹である。開基からほぼ2百年後の天文9年(1540)、浄土真宗に改宗された。
 天文年間といえば戦国時代の真っただ中、石見銀山の権益をめぐって、尼子、大内、毛利の戦国大名が激烈な争奪戦を繰り広げた時代であった。石見銀山から、海浜の温泉津(ゆのつ)に至る街道に面する瑞泉寺は、まさしく石見銀山の興亡とともに歴史を歩んできたといっても過言ではない。
 今日においても、壮麗な山門、豪放な本堂などから、往時の殷賑(いんしん)ぶりを十分に想像できる、歴史を生き抜いてきた寺院だ。
 だからこの瑞泉寺からは、歴代の名僧を輩出した。なかでも江戸後期の宝暦元年(1751)から幕末の弘化3年(1846)まで96年の長寿を保った、前述の自謙は、全国にその学識を謳われた傑僧で、本山の勧学に任ぜられて、石州学派の名を轟かせた。勧学の筆頭に任ぜられ、三業惑乱と呼ばれた法難の時代に、その卓越した学問によって、本山の秩序を護ったのである。
 ちなみに、勧学とは、広辞苑によれば「浄土宗、浄土真宗の本願寺派・興正寺派における最高の学階」である。

 また、幕末の嘉永6年(1853)に生まれた範嶺も、明治・大正を生き、やはり勧学に任ぜられ、大谷光瑞門主より篤い信頼を寄せられた。
 このような才質を受け継いだためであろうか、三明永無も幼時から秀才ぶりを示した。遺品の中には、杵築中学卒業時における名簿がある。「島根県立杵築中学校第15回卒業生成績表」と題されたもので、全生徒の全科目の成績一覧表を兼ねている。その筆頭に、三明永無の名前と成績があるのだ。つまり首席である。「席次」が「1」と記されていることは、いうまでもない。抜群の成績である。志望校も書いてあり、「高等学校」と明記されている。(私も後日、瑞泉寺を訪問し、これらの遺品を閲覧させていただき、写真撮影もした。)
 なお、永無が杵築中学を卒業したのは大正5年3月、川端康成が茨木中学を卒業したのは大正6年3月である。あるいは、さすがの三明永無も1浪して一高に入学したのかもしれない。
 なお、永無の生年月日を見ると、明治29年6月だ。康成は明治32年6月だから、3歳違いである。康成の恋愛においても、同級生ではあっても世間を知らず、奥手であった康成を、3歳年長で、明朗闊達な永無が何かとリードし、応援した実相が見えてくるのである。
 康成が前引の「あとがき」(2ノ6)において、「今は最早30年近く昔のことだから明してもいいだらうが、E・M君である。「明日の約束」のはじめにもある通り、ずゐぶん私の世話を焼いてくれた」と書いたとおり、兄貴分としての三明永無のはたらきがあってこそ、康成は伊藤初代との結婚の約束を取りつけることができたのだった。(1ヶ月後に、この約束は一方的に破棄されてしまったが……。)

 なお、三明永無の生涯でもう1つ重要なことは、日系人の多いハワイにおいて教鞭をとり、あるいは布教師として活躍したにもかかわらず、太平洋戦争の勃発により、強制収容所に入れられ、第2次交換船で日本に帰国した、という事実である(注2)。三明慶輝氏によると、このとき永無は妻子と別れて帰国したそうだ。
 前述の引野律子氏は、この事実を重視して、永無もまた戦争の犠牲者であったとして、その視点から三明永無の生涯を改めて見直そうとしておられる。


   6 結語

 以上述べてきたように、三明永無の杵築中学卒業という経歴から、その人脈によって、多くのゆたかな人間関係が生じてきたことは、明らかになった。
 阿部知二と恒松安夫(つねまつ・やすお)の親交についても、前記引野律子資料には、興味深い事実が述べられている。『恒松安夫追悼録』(1965・5・15、新文名社)に、慶応普通部の教え子・大原胤政「教え子の追憶」の1文があり、その中に、次のような一節があるのだ。

   恒松さんが野球部長になったのと、奥さんをもらったの
  とどっちが早かったか思い出せない。野球部長になってか
  ら、誰の発案か時折虎ノ門の晩翠軒(井上恒一さん)で、
  戸川秋骨さん,奥野信太郎さん、和木清三郎さん、阿部知
  二さん、それに私達(中略)なんかが何となく集まりをも
  った。戸川先生を囲む会だったのか、野球部長を激励する
  会だったのか、そこいらがはっきりしない。会は割合長く
  続いた。私達が岡本かの子さんのお供をして、歩き廻った
  のも此の頃である。

 恒松が野球部長になったのは昭和8年だという。知二が文壇で旺盛な筆力を見せたころと重なっているが、この時期に知二が恒松安夫と親密な間柄にあった事実の背後に、三明永無の存在があったことは、否定する方に無理があろう。この時期、岡本かの子とも、大原胤政ら恒松の教え子たちの交流があったことによって、三明永無の存在がいっそう大きく浮上するのである。
 とすれば、最初に述べた、阿部知二に寄せた川端康成の好意も、三明永無に淵源を持つことが、もはや自明であろう。

 おそらく、阿部知二の名が文壇の片隅に出てきたころ、三明永無は川端康成に、「阿部知二の父親は僕の杵築中学の恩師で、兄・公平は僕と杵築中学で同期だったんだ」と告げたことであろう。
 親友のこの一言によって、川端康成は阿部知二に並々ならぬ関心と好意を寄せ、それが文芸時評や『文学界』、さらに戦後の国際ペンクラブ・エジンバラ大会派遣という好意につながったと私は考えるのである。

(注1)引野律子「続・知二と遥堪と私」(阿部知二研究会第22回知二忌発表資料 2014年4月20日、於 姫路文学館)
(注2)引野道生「明窓」(『山陰中央新報』、2014・7・29)
 この他にも、この稿を書くにあたり、引野律子氏より、多くのご教示をいただいた。記して謝意を表したい。

写真1
 大正10年(1921)10月9日、婚約の翌日に瀬古写真館で撮影された、岐阜市における記念写真(左より川端康成、伊藤初代、三明永無)。島根県瑞泉寺・三明慶輝氏ご提供による。

                ">(『阿部知二研究』第23号。2016・4・23)



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川端康成と伊藤初代 岐阜記念写真の原本

2016-05-08 15:04:03 | 論文 川端康成

(右端は、三明永無。島根県温泉津町・瑞泉寺・三明慶輝氏ご提供)
川端康成と伊藤初代 岐阜記念写真の原本


3人の記念写真

 最近、ふたたび、川端康成と伊藤初代の恋について、話題が再燃している。
 新聞にも、岐阜で撮影された三人の記念写真が掲載されて、読者の注目を集めている。

 しかし、現在、新聞に掲載されている写真は、複製につぐ複製の結果、残っているもので、これらの複製写真の原本となった一枚が、現存するのである。
 それが、ここに掲げる写真だ。

 よく見ていただきたい。伊藤初代の顔の上方に、かなり大きな白いシミがある。他にも、白い小さなシミが、いくつか、ある。しかし、そう、これこそ、大正10年(1921年)から95年後に現存している、正真正銘の原本なのである。
 この写真原本は、一昨年2014年秋、島根県大田市温泉津(ゆのつ)町西田の古刹・浄土真宗本願寺派 三明山(さんみょうざん)瑞泉寺(ずいせんじ)で発見されたものである。


三明永無(みあけ・えいむ)という人物

 この写真の右端に写っている人物、この人こそ、川端康成と伊藤初代の恋を取り持ち、大正10年10月8日、岐阜市の長良川沿いの宿で二人の結婚の約束ができた、そのお膳立てをし、何かと康成を助けた三明永無(みあけ・えいむ)である。
 
 そして上記の瑞泉寺は、三明永無の誕生した寺であり、今も三明永無が眠る寺なのだ。



カフェ・エラン

 三明永無は一高(第一高等学校)文科の、川端康成の同級生であり、寄宿舎で同室の親友であった。
 この同室の四人の学生(他に、鈴木彦次郎、石濱金作)が大正8年から、寄宿舎の近くにあった、本郷のカフェ・エランに通いつづけ、そこで「千代」と呼ばれていた伊藤初代と親しくなった過程は、このブログ「運命のひと 伊藤初代」の章で、くわしく述べた。
 翌大正9年、エランは店を閉じ、伊藤初代は、マダムの故郷、岐阜の貧しい寺に預けられた。
 その初代をたずねて、まず三明永無が岐阜を訪問し、ついで康成を誘って一緒に岐阜へ行き、初代と会ったのである。

 このまま岐阜にいたくない、東京へ出たい、という初代に、康成の恋心は再燃した。
 その心を汲んだ三明永無が、二人の恋の成就(じょうじゅ)と結婚を応援することになり、その年の秋、9月と10月の二度、岐阜を訪ね、永無の努力で、康成は初代と、結婚の約束をすることができたのだ。
 それが大正10年10月8日のことだった。



瀬古写真館の記念写真

 翌日、3人は、岐阜市の繁華街、裁判所の前にある、瀟洒(しょうしゃ)な写真館、瀬古写真館で記念撮影をした。
 写真は2種類あった。1つは、康成と初代の2人だけが写ったもの、もう一つは、三明永無も入って3人で写ったものであった。
 それから東京に帰った康成と、岐阜の初代との間に、頻繁な手紙のやり取りがあった。初代から寄せられた10通が、一昨年7月、公開されたことは、周知のとおりである。そこには、次第に高まる初代の恋心が切々と表現されていた。



突然、途絶えた手紙

 しかし突然、初代からの手紙は途絶えた。10月23日に投函された手紙が最後だった。
 そして初代から突然に手紙の途絶えたことに苦しみ、寂しがった康成の手紙――それは、書かれたものの、あまりにしつこいことを懸念してか、ついに投函されずにしまったもの――が、一昨年(2014年)7月9日、新聞各紙に掲載されたものである。
 やがて、11月8日(それは、結婚の約束をしてから、ちょうど1ヶ月後のことだった)、久しぶりに初代からの手紙が届いた。しかし、そこには、驚くべきことが書いてあった。



「非常」事件

 「私には、或る非常があります。(中略)それを話すぐらいなら、死んだ方がましです」という内容の手紙だった。初代から、一方的に、結婚の約束を取り消すと言って寄越したものだった。
 私は、この手紙を「非常の手紙」と呼び、この事件を「「非常」事件」と呼んでいる。

 その後も、さまざまな経緯はあったが、結局、初代の心は戻りはしなかった。
 初代は上京し、カフェからカフェへと勤めるが、翌大正11年(1922年)、ついに川端康成の前から姿を消した。



全集「あとがき」に発表

 それでも、康成の、初代に対する激しい恋心は消えることはなかった。その思いを切々と書き綴った日記を、およそ30年後、川端は、活字にして発表する。
 それは、太平洋戦争の終わったあと、昭和23年(1948年)から刊行され始めた川端康成全集の「あとがき」においてであった。
 岐阜で写した写真を取り出し、初代に想いをめぐらす康成の真率(しんそつ)な心が、そこには描かれている。



失われた写真

 この全集は、全12巻だった。第一次全集と呼ぶ(川端康成の全集は、これまで、4度、出ているので、最初の12巻の全集は、「第一次全集」と呼ぶのが、ふさわしい。)

 この全集の各巻末尾に書かれた「あとがき」は、川端康成の秘密をさらけ出した重要なものなので、第三次全集には、まとめて掲載することになった。このとき、川端康成自身が命名して「独影自命」と呼ばれるようになった。
 この「あとがき」によると、康成はこの2種類の写真を大切にしていたが、色んな事情で、とうとう失ってしまった。
 一方、伊藤初代の方も、二度の結婚後も、大切にしていたが、晩年、とうとう、これらの写真も、康成から受け取った写真とともに、失ってしまった。
 では、これらの写真は、永遠に失われたのか?



三明永無が保持していた!

 昭和47年(1972年)4月16日、川端康成は、自宅のある鎌倉から近い、「逗子マリーナ・マンション」の一室において、みずから多量の睡眠薬を飲み、ガス管をひねっておいて自裁した。
 その秋、日本近代文学館が主催して、『川端康成展――その芸術と生涯――』が開催された。新宿伊勢丹を皮切りに、全国諸都市を巡回したのである。
 その展覧会の準備にあたった、当時、川端康成研究の第一人者であった長谷川泉は、この機会に、川端康成の青春、いや生涯にわたって大きな影響を与えた伊藤初代のことも展示したいと考えた。
 長谷川泉は、すでに、川端の親友であった三明永無とも昵懇(じっこん)であった。

 そこで、岐阜の写真を持っているのは、三明永無しかないので、この写真を展覧会に貸してほしいと言った。三明は、応じた。(2種類の写真のうち、2人だけの写真は、川端と初代しか持っていなかったので、すでに散逸して、失われていた。3人の写真が1枚だけ、三明永無が大切に保存して、残っていたのである。)



原本を複製

 この展覧会には、事情があって、この写真は展示されることがなかった。(その事情は、別の項で、語ろう。)
 そこで長谷川は、この写真を3枚ばかり、写真館に依頼して複製し、その3枚は、1枚は長谷川自身が持ち、1枚は川端家に返還、そして最後の1枚は、当時、岐阜と川端康成の関係を掘り起こししていた岐阜在住の研究者・島秋夫に渡った。
 岐阜では、この島秋夫所持の写真が、さらに複製されて、出回っているようだ。
 また、川端家は、現在、公益財団法人・川端康成記念会が保持し、日本近代文学館に寄託されている。そこで、各新聞社は、この写真を用いるとき、(所定の料金を支払い、)日本近代文学館から取り寄せて、紙面に掲載するのである。



三明永無の遺品の中にあった!

 ところが、一昨年秋、それまで、名のみ知られて、その故郷も出自も明らかでなかった、三明永無の故郷が明らかになった。
 (これについては、この発掘に一役割を果たした私の論考がある。近日、このブログに発表する予定である。)
 三明永無の墓があり、誕生した寺でもある、島根県瑞泉寺を、『山陰中央新報』の石川麻衣記者が訪ねると、永無の遺品は大切に保存されており、その中に、「岐阜記念写真」も発見されたのだ。
 90年余りの歳月を隔てたため、写真はセピア色に変色し、ところどころに、白いシミが浮き出ていたが、その裏面には「大正十年秋」と、永無自筆の書き込みがあった。

 つまり、このとき発見された写真こそ、現在出回っている、岐阜の3人の記念写真の原本なのである。
 『山陰中央新報』は、この発見を何度も紙面に発表し、石川記者の署名記事も出て、全国紙も後追いの記事と写真を載せた。
 ところが惜しいことに、このとき『山陰中央新報』は、三明永無遺品の写真を修正してしまった。つまり、白いシミのない、きれいな写真にして、掲載したのである。このため、それ以前に発表された、長谷川泉経由の写真と区別がつかなくなってしまったのだ。



私は、三明永無遺品の写真を尊重する!

 しかし私は、新しく発見された、三明永無の遺品として残された、このシミのある写真をこそ、重視するものである。永無が終生、生涯の大切な記念として身につけていたものだからだ。大正10年の息吹がこもっている。
 幸い、瑞泉寺ご住職の三明慶輝(みあけ・けいき)氏も、『山陰中央新報』文化部も、「自由に使ってくださって結構です」と許可をくださったので、一昨年刊行の拙著『魔界の住人・川端康成―その生涯と文学―』上巻(勉誠出版)の表紙にも、口絵にも、使わせていただいた。
 今、多くの皆さんに知っていただきたいと、ここに掲出する次第である。


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小谷野敦「川端康成伝―双面の人」荒唐無稽な妄説と基本的ミスのオンパレード

2016-05-08 11:57:44 | 論文 川端康成
小谷野敦「川端康成伝」荒唐無稽な妄説と基本的ミスのオンパレード 

 小谷野敦氏「川端康成伝―双面の人」は、あり得ない荒唐無稽な妄説を記し、また基本的誤りの多い書である。この書は、素朴な読者に、とんでもない虚偽を信じこませかねないので、ここに、はっきり、これがいかに、でたらめな妄説であるかを、以下に記したい

契約証」の示す事実
 明治35年1月、川端康成満3歳にもならないとき、姉芳子と弟康成の母が病死した。父栄吉は、前年に死んでいる。両親を亡くした二人を養育するため、親族協議の上、男子で跡取りの康成を、(父方の)祖父母・川端三八郎とカネは、川端家の原籍地・大阪府三島郡豊川村宿久庄(現・茨木市)に帰って育てることにした。

 老夫婦が2人の子を育てることは難しい。そこで姉の芳子は、実母ゲンの妹タニが引き取って育てることにした。タニは、衆議院議員をしている名望家・秋岡義一に嫁いでいたので、芳子は秋岡家に引き取られる。叔母が育てることになったのだ。妥当な措置だ。
 このとき、二人の遺児の将来のため、保護者である3名が「契約証」を作成した。
 祖父三八郎、母ゲンの兄・黒田秀太郎、秋岡義一である。


黒田家の女(むすめ)ゲンが川端栄吉に嫁し、康成芳子の子女を産んだという記述

 母ゲンが遺産として現金3,100円を残していたので、これを基金として、二人を将来にわたって養育し、大人になったら独立させ、婚姻させるという覚え書きである。

     契 約 証
  一金参千壱百円也(一金 3,100円)
  右黒田家ト川端家ハ旧来親族ニシテ黒田家ノ女ゲンハ川端家ニ嫁シ康成芳子ノ子女ヲ挙ケ死亡シタル縁故ヲ以テ康成成年ニ及ヒ生計ノ基礎ヲ立ツル為メ資本ヲ要シ芳子婚姻ノ為メ費用ヲ要スルニ至レハ其資本費用トシテ分配贈与可仕条件ヲ以テ秋岡義一ニ於テ黒田秀太郎ヨリ預リ申処実正也前記場合ノ到来シタルトキ秋岡義一ニ於テ夫々仕渡可申候尤モ其割合ハ秋岡義一ニ一任スル事

  一右贈与スヘキ場合ニ至ル迄康成芳子の祖父母タル川端三八郎同カ子ニ対シ秋岡義一ハ黒田秀太郎ニ代リ別ニ毎月金弐拾参円弐拾五銭ヲ仕送リ可申事尤モ康成又ハ芳子ニ対スル贈与ノ何レカノ場合生シタルトキハ其後ハ此特別仕送金モ其割合ヲ以テ減額スヘキ事
  此書面ハ三通ヲ作リ黒田秀太郎川端三八郎秋岡義一ニ於テ各一通宛所持スルモノナリ
    明治参拾五年拾一月拾八日(明治35年11月18日)
         川端三八郎
         黒田秀太郎
         秋岡 義一


芳子の将来の結婚までを配慮
 両親を失った康成と芳子にたいする、親族たちの手厚い保護と気配りを見せた、胸に迫る文面である。なかでも康成の将来を考え、「康成成年ニ及ヒ生計ノ基礎ヲ立ツル為メ資本ヲ要シ」とした部分と、「芳子婚姻ノ為メ費用ヲ要スルニ至レハ」と述べて芳子の将来の「婚姻」まで考え、「其資本費用トシテ分配贈与」すると記した部分に、親族たちの深い愛情と深慮がこめられている。

小谷野敦『川端康成伝――双面の人』の妄説

 ところが、このように重要な契約書が110年以上のちも現存しているというのに(たとえば『新潮日本文学アルバム 川端康成』(新潮社、1984・3・20)の7頁)、この文言を無視して、荒唐無稽な妄説を提起した書がある。小谷野敦『川端康成伝―双面の人』(中央公論新社、2013・5・25)である。

驚くべき嘘

 小谷野は康成の出生前後を詳細に研究した羽鳥徹哉、川嶋至、笹川隆平の名を挙げて、以下のような驚くべきことを書いている。
 
   恐らく羽鳥は気づいていて、筆をよそへ向けており、笹川は気づいて一切書かなかったのだが、称随は三八郎の愛人であり、芳子の母であろう。そう考えて、「故園」と、「父母への手紙」の、姉に触れたところを熟読すれば、まったくそうとしか思えなくなる。それなればこそ、父母が死んだあとで川端家養女とし、芳子が死んだあとで称随だけが行き、さらに称随は離縁され、郷里へ帰って恐らく自殺したのである。  (第1章49頁)

 小谷野は序文において、「(伝記で)重要なのは、なるべく事実に迫る努力をすることである」と書いているが、自分の言葉にも背いて、これほど事実を遠く離れた妄想を繰り広げて、先学の努力を侮辱した書は、これまで見たことがない。
 小谷野敦は、驚くべし、康成の姉芳子が父栄吉と母ゲンの子ではなく、康成の祖父三八郎が、のちに川端家の私寺如意寺の尼となった称随との間にもうけた子である、と述べているのである。


見た瞬間にわかるデタラメ
 専門の川端文学の研究者なら、見た瞬間、これがデタラメであることはわかる。
 すぐ頭に浮かぶのは、芳子が生まれた明治28年前後、三八郎夫妻が故地宿久庄を離れて、妻カネとともに親戚の家々に逼塞していた、という事実である。
 羽鳥の詳細な研究に誌されているように、明治18年、三八郎は「3つの蔵と築地塀の一部分だけを残して」先祖代々の山林、田地、屋敷の大半を抵当に入れ、翌19年ごろには、宿久庄を離れた。夜逃げ同然に故地を逃れ去ったのである。それ以後は妻カネの実家である西成区豊里村大字三番の黒田家(現、東淀川区豊里)、ついで豊中岡町の良本家(川端富枝『文豪川端康成 生誕百年を迎えて』〈私家版、1999・6・吉日〉第8章による)、さらに豊能郡熊野田村(現、豊中市)の小寺秀松家など親戚の離れと「親戚まわり」をしていたのである。


愛人をつくり、子をもうける余裕があるはずもない

愛人をつくり、子をもうけるなどの余裕があろうとは思えない。
 三八郎が妻カネとともに宿久庄に戻るのは、栄吉とゲンの相次ぐ死亡によって、孫を養育する必要があって小さな家を建て、ふたたび住むようになった、明治35年だ。
 すなわちおよそ15年間、三八郎は妻カネとともに親戚間を彷徨していた(居候していたのである)。その三八郎のどこに、称随を愛人として芳子を産ませる余裕があったというのか。


芳子が父・栄吉と母・ゲンの間に生まれた歴然たる証拠3点

 芳子が父栄吉とゲンの間に生まれたという事実には、動かしがたい証拠が、少なくとも、3点もある。

戸籍に明記

 まず第1に、川端三八郎の戸籍(明治45年3月23日付、大阪府三島郡豊川村戸籍吏細川庄兵衛作成、前掲『新潮日本文学アルバム 川端康成』9頁)に、芳子は川端三八郎の孫として、「二男栄吉長女」と明記されていることである。

母ゲンの実家で誕生

 第2に、川端富枝『文豪川端康成 生誕百年を迎えて』第4章「川端家年譜」にも「明治28年8月17日、三番村黒田家で芳子誕生」と、芳子がゲンの実家・黒田家で誕生したと誌されている。


黒田ゲンが川端家に嫁して芳子と康成を産んだから、遺産で養育する

 さらに第3に、前掲の契約証がある。そこには、「黒田家ノ女(むすめ)ゲンハ川端家ニ嫁シ康成芳子ノ子女ヲ挙ケ死亡シタル縁故ヲ以テ(中略)芳子婚姻ノ為メ費用ヲ要スルニ至レハ其資本費用トシテ分配贈与可仕……」と記されているのである。

 すなわち黒田ゲンが川端栄吉に嫁し、康成と芳子を産み、死亡した事実にもとづいて、芳子の将来の「婚姻ノ為ノ費用」までをおもんばかって基金を設けているのである。

 いったい、栄吉とゲンの子ではない、ゲンにとって舅(しゅうと)にあたる三八郎がよその女に産ませた子に、将来の婚儀にまで及ぶ配慮をするものだろうか。

 芳子が栄吉とゲンの間に生まれたという厳然たる事実は、これら3つの文書が明白に証している。


称随が葬儀に出たことは、証拠にならない

 およそ通説に遠く離れた説を述べるためには、通説を打ち破るに足る十分な事実の提示が必要であろう。この3点の明白な証拠に対して、小谷野が挙げているのは、芳子の葬儀に称随だけが行ったという事実と、栄吉らの死後、三八郎が称随を養女としたこと離縁したことの2点だけである。

 ところが、称随のいた如意寺は、古く鎌倉時代から川端家が保護する寺であり、称随が栄吉の死亡のときも、ゲンが死亡したときも、導師として焼香順の冒頭に挙げられている(笹川隆平『川端康成――大阪茨木時代と青春書簡集』和泉書院、1991・9・20の第1章)。

 芳子の葬儀に参列したのは、尼僧称随の導師としての当然の義務だったのである。葬儀参列の事実を以て芳子の実母であるとするのは、まったく論拠になっていない。


称随が自殺したとは、まったくの憶測。根拠はない。

 次に養女にしたことと、のちに離縁したことであるが、これは如意寺が川端家の尼寺になっていたことから、その尼さんを川端家の戸籍に入れることは、江戸時代からの慣行だったので、別に不思議はない。

 称随を離縁にしたことは、羽鳥が述べているように「何かうまくいかないことがあって、郷里へ帰った」のだろうと推測するしかない。

 小谷野が挙げた条項は、芳子が栄吉とゲンの子であるとする厳然たる事実の前に、論拠としてあまりに薄弱である。


強力な証言・栄吉が名前について書いていた

 さらに芳子の出生については、別に、強力な証言が残されている。
 康成が引き取られて育った宿久庄の、旧三八郎宅を買い取ってその家に長く住んだ川端種次郎の妻である川端富枝の書いた文章である。

 富枝は、三八郎旧宅の土蔵から出てきた資料を次々と発掘して『川端康成のふるさと 宿久庄』(私家版、1989・4・18)を刊行しているが、その第10章「父栄吉氏と康成氏の誕生」の一節に、以下のような文面がある。

   その翌年明治28年(8月)17日康成氏の姉芳子さんが三番黒田邸で誕生されました。
   この時にこんなエピソードがありました。父の占(うらない)を至上のものと信頼しておられた栄吉氏は出産の為里帰りしている妻の産室の方位をたずねられ、第1子の命名に附いては「本年清国征伐の時天皇の詔に「国威を宣揚す」の語あり。故に男子に候はば「宣揚」即ち「ノブタケ」と読み是を名とせば如何と存じ序ながら御尋ね申上候。」と。

 又女の子ならば下に何子又は何々子とつけるのが流行致し候ゆへ 子をつけ候て如何と存じ たとへば綾子とか何とか字の下に子をつけ度と存じ候」と色々内意を述べられ、(一方)父上は「守」は如何なものかといっておられました。

 このような、まことに具体的でリアルな証言もある。


小谷野敦氏の屁理屈

 小谷野敦はこの証言に難癖をつけ、日清戦争は前年の明治27年なので1年違うとか、妻への手紙に「御尋ね申上候」と敬語を使っているのはおかしい、さらにこの手紙の出所が明かされていないから信用できない、と書いている。
 しかし、開戦の詔勅が国民の間でつよく意識されていた時期だから、その1年後は、少しも不自然ではない。
 また、妻への手紙であっても書簡体において敬語を使うことは定型であって、何らおかしいことはない。
 出所を明かしてないというが、手紙の出所が「旧三八郎邸」の蔵であったことは明白である。

 このような明証の数々があったので、羽鳥も笹川も川嶋も、芳子の出生について何ら問題を感ずることがなく、書かなかった。書く必要がなかったのである。


全くのデタラメ

 それを「恐らく羽鳥は気づいていて、筆をよそへ向けており、笹川は気づいて一切書かなかったのだが」と、さも曰(いわ)くありげに書くのは、文飾に過ぎない。「なぜその川嶋が、称随について書かなかったのか不思議である」と小谷野は書いているが、これは事情に通じない読者を欺く、質の悪い、卑怯な文飾である。

 泉下の羽鳥、笹川、川嶋は、さぞ憤慨していることだろう。


根拠のない憶測と虚

 「さらに称随は離縁され、郷里へ帰って恐らく自殺したのである」とも書いているが、これまた、まったくの憶測である。何の根拠もない。資料は何もないのである。

 さらに前引の文章につづいて、小谷野は驚くべき虚言を吐いている。

   「16歳の日記」の本文を書いた時、子供の川端はそれに気づいていないが、「父母への手紙」と「故園」を書いた時には気づいている。

 のちの康成は、芳子が祖父三八郎と称随の子であることに気づいていた、と小谷野敦は言うのだ。
 「父母への手紙」には、よく知られているように、第5信(初出「あるかなきかに」『文藝』1934・9・1)に次のような一節がある。


父栄吉が残した、二人への遺訓

    父のあなたは死の床に起き上つて、まだ頑是ない姉と私への遺訓のつもりで、姉のためには「貞節」と、私のためには「保身」と、字を書いてくれました。

 ここには、姉芳子と弟の自分にたいする父栄吉の深い愛情を素直に喜び、感謝する康成がいる。どこに、姉は祖父が称随に産ませた子だと気づいた痕跡があるというのか。(これらの遺訓は、語句はほんの少し異なるが(康成の記憶違いだろう)、今日も残されていて、各地の川端康成展で展示されている。)


「故園」でも、明らか

 また「故園」の第6章には、こんな一節がある。

   西国巡礼が始終通るやうな畿内の片田舎で、巡礼に出る習はしも村に残つてゐたし、いろんな仏事のしきたりが、まだ昔の心でなつかしまれてゐる時分だつた。私は神仏の信仰の厚い老人に育てられた子供だつた。

 「信仰の厚い老人」は、もちろん主として三八郎を、従として祖母をも指すだろう。だが、称随がすでに尼だったとしたら、尼僧に手を出して子を産ませるような人を、「信仰の厚い老人」と書けるだろうか。また、当時は俗人だったとしても、自分が子を産ませた愛人を自家の寺に入れて尼僧にするような人を「信仰の厚い老人」と呼ぶだろうか。
 康成は素直に、祖父も祖母も、「神仏の信仰の厚い老人」と述べているのである。

 第10章でも、祖父は死に際に痰が切れなくて胸板をかきむしって苦しんだのだったが、ずっと祖父と康成だけの家を手助けしてくれたおみよ(モデルは田中ミト)が、次のように言う場面が描かれている。

祖父・三八郎は「慈悲を施し功徳を積んだ」人

   祖父が死んだ夜、おみよは、
  「仏さんみたいなお方やのに、往生際になんでこないお苦しみやすのや。」
   と訴へるやうに言つた。この世で慈悲を施し功徳を積んだ祖父のやうな人は、
  「極楽の仏さんがお迎へに来やはらへんのかいな。」
   と、怨じて涙をこぼした。

 村の隣の百姓女で、数十年間にわたって祖父の家政を手伝いしてきたおみよのこの言葉は、三八郎が周囲にどのような人物として映っていたかを如実に物語っている。
 その言葉を思い出して作者康成は「この世で慈悲を施し功徳を積んだ祖父のやうな人」と、おみよの言葉を肯定し、追慕しているのだ。

 祖父の品行を疑うような要素がまったくないことは明らかである。


明白な虚言

 このような「父母への手紙」や「故園」の一体どこに、芳子は祖父三八郎が尼の称随に産ませた子であるというような、荒唐無稽な事実が顔を出しているというのだろうか。小谷野敦の記述は、明白な虚言である。

栄吉を庶子とする嘘も

 小谷野はまた、父栄吉をも、三八郎の「二男」ではなく「庶子」であろうと、これまた戸籍謄本の語る事実を離れた荒唐無稽な説を開陳している。「庶子」であるのなら、その実母を指摘してみよ。指摘できないだろう。そんな女性は存在しないからである。
 反論は容易であるが、紙幅の都合で次に進みたい。

 この書の持つ、基本的ミスの数々は、つづきに書こう。


 

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