魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

ライアンの娘

2013-07-22 23:49:28 | エッセイ 映画
 ライアンの娘
 
吉野 光彦

 
 むかし読んだ司馬遼太郎さんの「愛蘭土(アイルランド)紀行」に、その苛酷な自然を描いた文章があった。
 たとえばアラン島は、一枚の巨大な岩盤から出来ている島である。島人は、つよい海風が吹き運んでくる土や塵を両掌ですくいとり、岩盤上の畑に置きつづけて、少しでも畑の上をふやそうとする。
 また、男たちは岩盤をくだいて石くれをつくる。石垣をきずいて、せっかくの畑の上が吹き飛ばされないようにするのである。
 さて、これまた海風がはこんできた海藻を若妻が背負い、岩盤を上ってゆく場面がある。わずかな土壌を助ける肥料とするためである。

 アイルランドとは、およそこのような国であると、私には強烈に印象されている。
 私が映画「ライアンの娘」を見だのは、多分それより以前であったが、画面を一瞥しただけで、この国のおかれた厳しい自然条件は納得された。
 題名の「ライアンの娘」というのは、ライアン家の娘、という意味で、ライアンは父親の名前である。もっとも、ライアン家といっても、立派な資産のある家ではない。アイルランドの寒村で、しがない居酒屋をいとなむ家である。

 ライアンの娘ロージーは、しかし珍しいことに、この島で教育を受けた。教育といっても、村に赴任してきた教師から、聖書やその他についてわずかな知識を吸収したに過ぎなかったのだが、娘の心に火がついた。
 彼女はこの教師を、一人の尊敬する男として愛し、結婚したいと願ったのである。
 教師は切々と、自分はそんなに立派な学殖があるわけでもなく、精神も平凡な男で、要するにたいした男ではない、あなたは私の中に、何か別のものを夢想しているのだと説くが、彼女は耳をかさない。
 ――確かに私はバイロンやベートーヴェンを教えはしたが、私は彼らとは違う。私はただの田舎教師だ。
 彼はまた、こうも言う。「生徒が教師に好意をもつのは、よくあることだ。心の惑いだよ。安物の鏡を、太陽と思いこむようなものだ。」
 しかし彼女の心が変わることはなかった。
 村人たちが参加して、質素な結婚式が行われる。

 私はそれと知らずに映画館に入ったのだったが、この映画の監督は「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」を撮った名匠デヴィッド・リーンであった。名匠らしく、彼はこの骨太の作品でも、独特の工夫をこらした。
 それは背景の音楽がすべてベートーヴェンの交響曲だということである。このことによってこの作品は、いっそう悲劇的で荘重な内容を獲得することができたのである。

 教育を受けるということが、娘の中にひそんでいた夢想家の夢を花開かせるというのは、フローベルの「ボヴ″ァリー夫人」と同じ構造である。ライアンの娘は、人生の最初に出会った教師に、彼女のありあまる情熱を傾けたのである。

 しかしやがて、当然ながら、彼女は平凡な生活に失望し、生活に倦(う)んでくる。夫は、村人だちより少しだけ知識のある、平凡な男に過ぎなかった。アイルランドの寒村そのものが、卑小で退屈な日々で成り立っている。教師の家も、それと変わりはなかった。

 アイルランドという国が苛酷な状況に置かれているのは、自然だけではなかった。英国軍がこの島に侵攻して以来、この国は幾世紀にもわたって、その圧政に苦しんできたのである。
 時は第一次世界大戦のさなか、英国がドイツ軍の猛攻に耐えているときであった。
その間隙をぬって首都ダブリンで叛乱が起こり、鎮圧されたのち、イギリスはいっそうこの国を警戒した。
 村はずれの丘には要塞があり、そこに、村人たちを監視する英国軍が駐屯していた。
 その要塞で指揮をとっているのは、学校を出たばかりの若い士官だった。彼は西部戦線の生き残りであろうか、酷薄な精神と、ひきずる足をもっていた。

 この若い将校が、夕暮れの中、ほの赤い夕空を背景に、岩の上に立ちはだかる場面は圧巻だ。貴族的な容貌と、背筋をぴんと伸ばした英国将校。だが彼は、大きく足を引きずっているのである。
 足を負傷している彼は、それだけにいっそう精神は厳しい。その彼がアイルランド人たちの憎悪の洗礼を受けるのがライアンの居酒屋だ。
 警戒心もなくこの小さな居酒屋に入った彼は、狭い店内の村人たちから、憎悪のこもった言葉を浴びせられる。スノッブ!(俗物め!)が村人たちの合い言葉だ。

 この将校と、ライアンの娘ロージーが出会ったのは、どういう経緯だったのか、今では思い出せない。
 が、とにかくロージーは彼の内に何かを見出した。そして秘密の恋が始まった。
 村人たちにとって英国人は、これ以上ない仇敵だ。ましてその長官である将校には、村人の憎悪が一身に集められている。
 しかしロージーは彼の冷徹な意志の底に、心をふるわせる何かを見出したのだ。

 二人の秘密の恋がはじまる。彼の駆る白馬に乗せられて、ふたりは遠い森の中へゆき、そこで激しい愛が燃え上がる。
 アイルランドにも、こんな美しい緑があったのかと思わせるような、木立にかこまれた桃源郷のような塲。ふたりの愛は狂おしい。

 どのくらいの期間がたったろう。この恋は村人たちの知るところとなり、父ライアンは村人たちから厳しい罵倒の言葉を浴びせられる。彼には返す言葉もない。ただ彼は、なぜ娘が、選(よ)りにも選(よ)って、敵国の長官と愛し合うようになったか、理解に苦しむばかりである。
 娘は見せしめのために長い髪を切られ、囚人のようなざんぎり頭にされてしまう。
 ……そして、娘が村を出てゆく日がやってくる。

 荷車に、わずかばかりの家財を積んで、彼女は石ころ道を、車を引いてとぼとぼと出てゆく。家々の窓から、冷たい蔑(さげす)みにみちた眼が、彼女の逐(お)われてゆく後ろ姿を、どこまでも見送っている。
 そこに、観客を驚嘆させる事実が加わる。何と、彼女の荷車を後ろから押して、ともに村を出てゆくのは、あの教師なのである。

 彼には罪はないはずだ。ただ妻を寝取られた男としてみっともなさに耐えれば、それでいいのである。しかし凡庸な教師は、愚かな妻と罪を分かち合うことを決意し、村人たちの視線の中、とぼとぼと石の多い道を、どこまでもたどって行く。
 観客は、彼の内部にあった、或る崇高な精神に心うたれるのである。

 それにしてもこの物語は、アイルランドの一地方の、それでも人間は生きてゆけるのか、と思えるほどに厳しい環境の中で進められてゆく。
 ひとりの娘の内面の劇が、ベートーヴェンの交響曲と共に、大きなうねりをもってスクリーンにくり広げられてゆくのである。
 そして最後に、村の老神父の言葉であったか、呪文のようなささやきが胸に残るのである。
 夢を見るのは仕方がない。だが育ててはいかん。夢で身を滅ぼすぞ――。


            『文芸・日女道』447号(2005年8月)


「失楽園」遺聞

2013-07-18 01:11:54 | エッセイ 映画
「失楽園」遺聞
                吉野 光彦

 広島市の西方に、楽々園という土地がある。明治のころ干拓によって出現し、海辺の保養地として発達してきた町である。近くにJRの駅があるので、近年は広島のベッドタウンとして、それなりに活気のある町となっている。

 しかし、誰の仕業か、この土地に「楽々園」とノーテンキな名がつけられたことから、100年後に、その悲劇は起こった。

 ……それは、ひとりの好色な作家の書いた小説が世を惑わし、翌年になってもブームがつづいている末期的な年代の、春の終りの出来事であった。

 夕方、ひとり住まいのアパートに帰ってくると、留守電が入っていた。「広島の、楽々園公民館ですが、またお電話します」
 聞いたことのあるような声であった。しかし誰だか思い出せない。
 へえ、楽々園にも公民館があったのか、というのが、私の感じた正直な感想であった。

 そして夜――。
 「今晩は。わたし、Y公民館におりました、H(特に名を秘す)です。この春、楽々園公民館に転勤しました」
 「ああ、その節は、お世話になりました」
 HさんがY公民館の主事であったころ、彼女の企画した」講座に幾度か講師として呼んでいただいたことがあった。
 Hさんは、年のころ30代の後半、ちょっと危ない感じのする、それだけに怪しい魅力を細みの体から発散する、公務員らしからぬ感じの女性である。
 「ところで、早速ですが、この夏、こんな文学講座を企画しました。
 《『楽々園』で『失楽園』を考える》というテーマです。
 近代文学から、「不倫」と「心中」をテーマに、五回、講義してしただきたいんです。
 この講座って、講師はぜったい、吉野先生しか考えられません。ねっ、ねっ、そうでしょ?」
 Hさんは、うれしそうな声でいった。
 「…………」
 するとHさんは、私か乗ってこないことが心外そうに、

 「ね、先生。素敵な企画でしよ。わたしが考えたんですよ。『楽々園』で『失楽園』を考える!――これって、タイトルがイケテルでしよ。やりましょうよ」
 「あの~、どういうコンセプトで考えておられるんですか?」
  私は警戒しながらたずねた。
 (まさか、コンセプトは、『映画館』から『公民館』ヘ――なんて考えてるんじやないでしょうね)
 そのころ、この小説が黒木瞳主演で映画化されて、話題をよんでいたのである。

 「その点ですけど、講座を夜間にして、男性でも女性でも、おつとめの帰りに、ちょっと聴いて帰る、というのは、どうかな、と思いまして」
 つまり、お勤め帰りに、不倫について考えましょうというコンセプトである。彼女はつづける。
 「いえ、別に、不倫や心中を、お勧めする、つていうわけじゃないですけどね」
 (当たり前じゃ。公民館で不倫を奨励してどうする)
 「じゃあ、川端か谷崎でも(それなら、予習をしないで出来る)」と私はいった。
 「えっ、川端も谷崎も、心中したんですかァ? 不倫と心中をセットで、やりたいんですよ。太宰治とか、宇野千代と尾崎士郎とか、
有島武郎の軽井沢とか――。ほかにどんな人がいますかねえ。5組は揃えないと――」
(おう、よう知っとるわい。勝手に揃えるがいい。わしは知らんぞ。だいいち、夜は広島カープの試合を見にゃならんわ)
 「では、先生、お願いしますね。詳しいことは、またお電話します。(ラン、ラン……)」
 ほとんど私に言わせないで、彼女は電話を切った。

 翌日、私は本屋に行き、山のように積まれている、上下二巻のそ本を手にとった。
 これは、ひどい。
 のっけから、そういう場面が出てくる。それは、まあいい。しかし文章が粗雑すぎる。何よりも文学的香気というものがない。純文学で鍛えた私の鑑賞眼は、この作品を受けつけなかった。

 数日後、Hさんから電話があった。
 「先生。館長の許可かおりました。面白いねって」
(ほんとうかなあ。館長は、Hさんの色香に押されて、しぶしぶOKって、いったんじやあないかなあ)
「でも、『失楽園』で五回も無理ですよ。一回だって、ぼくには、きついな」
「いいえ。何も 『失楽園』ぽかりでなくっていいんです。タイトルだけでいいんですから。内容は、先生におまかせします」
 その数日のうちに、私も考えないではなかった。この作品を論ずるのはいやであるが、テーマ自体は、それなりに面白い。

 不倫--姦通--恋愛……と考えれば、ほとんどの恋愛小説は、本来あってはならない状況で恋に陥るのであるから、不倫小説であり、姦通小説である。そして恋愛小説という範疇(はんちゅう)なら、「アンナ・カレーニナ」に始まって、「ボヴァリー夫人」、そして「チヤタレ
イ夫人の恋人」……と連ねていけば、5回の講座だって、できないことはない。
「じやあ、失楽園は1回ぐらい、どこかにちらりと入れるぐらいにして、全体を、恋愛文学を語る、といった内容にしましょうか」
「わあ、よかった。じつは館長から、こんなテーマで引き受けてくれる先生がいるのかって言われてたんです」
(そうだろう、そうだろう。どうせ俺は馬鹿だから)
 そんな次第で、大変な講座を引き受けてしまった私が、そのためにその後、どれはどの苦労を重ねることになったか、誰も知る者はない。

 時あたかも、映画「失楽園」が封切りとなり、わが姫路でも大劇が上映することになった。「これは、見ないわけにはいかないな」と私は腹をくくった。

 幸い、この映画の監督は、森田芳光であった。彼は、漱石の「それから」を、松田優作と藤谷美和子で撮(と)った男である。明治のあの時代を、現代の浮薄きわまりない時代に、観衆に受け入れられるような映像に作れるものだろうか、というのは、制作発表のニュースを聞いたときの私の心配であったが、それはまったくの杞憂であった。
 映像はしっとりと落ち着いて、近代日本最初期のインテリゲンツィア(知識人)の憂悶(ゆうもん)を、みごとに描きだしていた。
 松田優作は、その屹立(きつりつ)する精神の苦悩を、十分に内面化して演じていたし、いわば敵(かたき)役を演じた小林薫も、俗物と堕している男、しかし最後に人間的な弱さを一瞬だけ垣間見せる男を、巧みに演じていた。
 青春の輝くようなまぶしい日々の回想場面と、現実に直面する現在の重たい日々とが、あざやかに対比されていた。

 その記憶があったから、森田芳光の「失楽園」なら、それなりの値打ちはあるだろう、と予想したのである。

 平日午後の大劇には、30人前後の観客があった。映画産業の衰退した今日では、稀有(けう)のことである。
 中年杉の主婦たちが4、5人連れで来ているのは、あやしむに足りないが、残りの大半が、不思議なことに6、70代の、老年の夫婦者である。
 いったい彼らは、いかなる目的をもってこの映画を見るのか、と私は心配になった。映画を見て刺激されたとしても、それでどうにかなりそうな年齢とは思えない。
 が、とにかく映画が始まった。私は持参の紙袋からノートを取り出し、鉛筆で、印象的な事項を記していった。本を読まずに作品を語ろうというのだから、映画くらいは見ておかなければ話にならないではないか。
 まあ、この映画を、ノートをとりながら研究的に見だのは、日本広しといえども私ひとりではなかったろうか。

 予想どおり、とてもいい映画だった。
 きれいな映像とうつくしい音楽で、抒情性ゆたかな、そして相当に説得力のある作品に仕上げていた。
 2時間05分が、まったく退屈しなかった。

 そういうシーンも、もちろんいろいろあっだけれど、想像していたほど多くはない。それも、美化し抽象化して、全体が見えないようにして、品位を保っていた。声だけが、ちょっとリアルであった。
 マイク‘タイソンのボクシングではないが、耳をかむシーンもあった。

 前半は、ふたりの恋愛が急速に進行する過程。もとは敏腕の編集長であった役所広司演ずるところの久木(くき)が、左遷されて、小坂一也や寺尾聡(宇野重吉の息子)が先客として逼塞(ひっそく)している閑職に追いやられる。それが発端である。久木の失意と落魄(らくはく)感。
 ……内面的必然性がなければ、ほんとうの恋は始まらない。

 ふたりがデートする20世紀末の、高層ビルが林立する超近代都市東京と、自然の残された近郊の景色がうつくしい。
 印象的だったのは、久木が凛子(りんこ)を送って、飯能(はんのう)行きの終電ちかい電車を見送る場面。
 動きだす電車のドアにたたずむ凛子と、ホームに取り残された久木の、食い入るようにみつめあう表情。よくある光景なのに、東京で過ごした青春の日々がふと強烈に思い出されて
せつなくなった。


 そして、後半の50分は一転して、ふたりが周囲から1つ1つ、段階的に追い込まれていく過程。
 これは、近松門左衛門の登場人物たちが、経済的と世間的、の2つの側面で追い込まれて心中に至る過程とそっくりである。おそらく原作の渡辺淳一は、意識的に近松をなぞったのであろう。

 久木は50歳。凛子は、38歳。この年齢が、男と女の、不倫するのに、まあ端(はた)から見ていられるぎりぎりの限界、と作者は繰り返しているようである。

 ちなみに、この12歳ちがい、というのは、近松作品のキーワードである。むかし大学の輝峻(てるおか)康隆先生の講義で学んだ。
(じつはその翌日、出張で尼崎の園田学園女子大に行ったら、近松門左衛門についての講演があり、講師が同じこと――12歳の年の差が重要――と強調したので驚いた。この講師も映画を見たばかりだったのだろうか。)


 しかし近松の時代と現代では、人間の寿命が違う。この12歳は、現代では2倍くらいの感じではなかろうか、というのが、私の、願望をこめた意見である。

 それから、この映画で痛感したことが1つあった。
 それは、現代の日本において、不倫するのに絶対必要なものがある、ということである。今日では常識だが、それは――携帯電話である。
 映画を見ていると、この文明の利器が、不倫を促進するのにどれほど大きな貢献をなしているかがよくわかる。不倫に必携の機器であると知っていい。

 もし読者の近くに、携帯に夢中になるような年代ではないのに、急に携帯電話を買う、などといいだす人がいたら、その人は、不倫中、もしくは近々のうちに不倫をしたいと思って
いる人である。きっと取り押さえ、きりきり白状させなければならぬ。

 ……そんなふうに勉強をして、夏休みに入って広島に帰ると、楽々園公民館の講座が始まった。
 シリーズの第1回には、始まる前に、主催者である公民館長の挨があるその挨拶で、初老の館長は苦渋にみちた表情で訴えた。

「当館の催します生涯学習の講座は、本来、地域住民の皆さま方に高い文化を普及啓蒙することを目的としております。--しかしな
がら、今回ばかりは、そのような趣旨で開催するものではございませんことを、皆さまよくよくご承知の上で、学習はあくまでも単な
る机上の学習として、皆さま十分な学習を積んでいただきますことを祈念いたします」

 ……そうして5週間にわたる「失楽園」講座は、好評のうちに、何事もなく終了した。
 取り上げられた東西の不倫文芸作品は、30を超えた。

 講師をつとめた私か心筋梗塞の発作で倒れたのは、それから3週間後のことであった。この講座と発病の間に因果関係があったのかどうかは、神様だけが知っている。

 Hさんから、その後、連絡はない。

秋吉久美子とともに

2013-07-16 22:21:17 | エッセイ 映画
 秋吉久美子とともに
                           吉野 光彦



 そのころ私は、秋吉久美子が大好きだった。彼女はまだ若く、笑うと、えくぼが頬に浮かぶ。あどけない表情なのに、どこか小さな悪魔のような危険さを感じさせる少女だった。

 私は彼女の出演する映画はたいてい見た。「赤ちょうちん」「あにいもうと」「バージンブルース」、そして「昭和枯れすすき」――。

 「赤ちょうちん」は、もちろんかぐや姫のヒット曲を映画化したものだが、秋吉久美子と、新人の高岡健二扮するカップルが新鮮だった。
 二人は池袋界隈(かいわい)のアパートに同棲している。電車が轟音(ごうおん)をたてて通り過ぎると、部屋はがたがた揺れる。そんな中で二人は睦(むつ)みあっている。すると電車の窓の明かりが、彼らの貧しい部屋を照らし出す。からみ合った二人の背の上を、揺れながら電車の窓明かりが通り過ぎてゆくのである。

 「妹」も、かぐや姫の曲をもとにした物語。映画の冒頭、ごうごうと地下鉄が駅に入ってきて、長いホームを、秋吉久美子演ずる妹がゆっくりと、あてどなく歩いてくるシーンが忘れられない。彼女の持っている資質が、そのままヒロインの姿に重なってくるようだった。

 「バージンブルース」は、少女が旅をする物語である。倉敷あたりが舞台だった。アイビーの絡まった煉瓦色の建物の前で、野坂昭如がギターを弾きながら「黒の舟唄」を歌っている。男と女のあいだには、暗くて深い河がある。誰も渡れぬ河なれど、えんやこら今夜も舟を出す……黒眼鏡にジーンズ姿の野坂を、珍しそうに見ながら秋吉久美子が通り過ぎてゆくシーンを、昨日のことのように覚えている。

 いずれも監督は日活の一時代を築いた藤田敏八。テンポが速く、生き生きと、青春のきらめきと残酷を写し出していた。

 のんびりした時代であった。私も若かった。授業でしばしば、私は見てきたばかりの映画と秋吉久美子の魅力について語ったのである。すると秋の文化祭のあと、ひとりの女子学生が私の研究室の扉をノックした。

 先生、いいものあげる――。
 そう言って彼女が拡げたのは、「十六歳の戦争」のポスターだった。中央に、まだ少女の秋吉久美子が、湖の中に裸身をさらして、まぶしげに微笑んでいる。

 映画はATG系の監督、松本俊夫が撮ったもので、戦争末期の女子挺身隊の少女と学生の、みづみづしい恋を描いた作品である。そのなかでも、まだ十代半ばの秋吉が、湖で裸身を見せる情景は、美しくて、忘れられないでいた。そのシーンをデザインしたポスターは、私が憧れて、でも手に入れられないでいたものである。

 あー、これはいいなあ。
 私が感嘆してポスターを眺めていると、学生は訳(わけ)を話してくれた。
 映画研究サークルで、文化祭の行事として内外の映画ポスターの展示をすることにした。そのとき集めたなかに、このポスターがあったのだという。

 先生は秋吉久美子が好きでしょう。だから、持っていってあげようって、みんなで話したんです。
 まことに教師にとって学生は神様である。こんな有難い学生がいるからこそ、このしがない職業もつづけることができる。

 ――それから、これは、あたしからのプレゼント。
 そう言って彼女は、もう一枚の、くるくる巻いたポスターを拡げて見せた。

 ああ、これもいいなあ。
 私はふたたび感嘆の声を放った。

 それは「昭和枯れすすき」のポスターで、これには、ちょっと大人びた秋吉久美子が映っている。ポスターの中央を占めるのは、色とりどりのネオンだ。夜の街にあやしくネオンの数々がともっている。その上方に秋吉久美子、下方に高橋英樹が映っている。

 ちょうどこの映画が封切られて間もないころだった。この学生は、映画館の支配人に頼み込んで、無理矢理このポスターをもらってきたという。

 だって、先生を喜ばせてあげたかったんだもの。
 それから学生は言った。この映画、一緒に見に行きません?
 男子たるもの、こんな大胆な提案に、どうして臆してなんぞいられよう。

 土曜日の午後、私たちは広島の繁華街、流川で待ち合わせて、日活の映画館に入ったのである。
 切ない映画だった。
 青森の田舎から都会に出てきた兄妹がある。兄の高橋英樹は真面目な警察官だが、同じ部屋に住む妹は、どうしても素行がおさまらない。食堂からバー勤めへと、どんどん転落してゆく。
 兄は必死でそれを引き留めようとするが、どうにもならない。ついには、やくざの愛人ができる……。
 「昭和枯れすすき」という曲がヒットしたことがあった。貧しさに負けた、いえ、世間に負けた……さくらと一郎というデュオが歌った退嬰的なもので、映画はこれをヒントに作られたものである。脚本は、新藤兼人。

 私はこの悲しい物語にすっかり共鳴してしまった。秋吉の不良娘ぶりが実にいい。
 こんな映画につき合ってくれた学生に、私は夕食をご馳走して、さよならした。学生は、もう帰るの、という顔をしたが、そこをさらりとかわすのが教師の技?というものである。

 ――そのころの私は、秋吉久美子が理想の女性であった。可愛くて、幼さが残っていて、それでいてどこかに破滅的な影をただよわせている……。

 私の夢は、秋吉久美子のひもになることだった。「昭和枯れすすき」の映画は、そんな私の思いをいっそう掻き立てた。
 自分はやくざな男である。日々、競馬競輪にうつつを抜かし、収入はない。秋吉は、そんな私を助けるために繁華街で働いている。いや、働かせられている。それも、最も肉体を酷使する仕事……。

 深夜、私は繁華街を少しはずれた暗がりで、建物の壁にもたれて煙草を吸っている。するとまもなく、身も心もすり減らして、ぐったりした彼女が店先から出てくる。私は煙草を闇の中へ放り捨て、「よう。帰ってきたね」

 そう言って彼女の両肩をつつむように抱いてやる。
 疲れただろう。オレが、うまいものを作ってやるから。
 心をこめた、やさしい声でささやきかける。女はこっくりうなづく。

 そのまま介抱するように彼女を抱きかかえて古いアパートの階段を上がる。赤錆びた鉄の階段は、踏むたびに、ぎしぎしと大げさな音をたてるのである。

 狭い四畳半について、小さな台所。そこで私はネギを刻み、胡椒をふりかけて、特上のラーメンをつくってあげる。
 彼女は黙ってそれを食べ、それから二人は煙草を吸い、やがて灯火を消す……。

 翌日、二人が目を醒ますのは昼近くなのである。

 ……こんな夢を、私はしきりに描いた。そしてそれを教室で語った。二人でどこまでも堕ちてゆく。それがオレの理想の人生だ――と、若かった私は声を張り上げた。

 先生はどうして、そんなに悲しい夢を見るの?
 ひとりの女子学生が訊ねた。
 わからない。ただ、こんな悲しい夢を見ていると、心が落ち着くんだ。

 私の脳裡に浮かんでいるのは、焼跡の光景であった。その光景に重なるように、田端義夫の「帰り船」と岡晴夫の「啼くな小鳩よ」のメロディーが聞こえてくる。どこまでも堕ちてゆくのが快い――そんな根源的な願望が、私の中には抜きがたく存在しているのであった。

ベニスに死す

2013-07-15 01:32:17 | エッセイ 映画
ヴェニスに死す

                            吉野 光彦


 その日曜日は、幸福な一日であった。朝には高橋尚子が会心のレース運びで勝利を飾り、夜にはNHK教育テレビの世界名画劇場が、ヴィスコンティ監督「ヴェニスに死す」を2時間余り、一切の解説なし、もちろん字幕つきの完全版で放映してくれたのだ。

 ルキノーヴィスコンティは、私の最も好きな監督だ。イタリアの没落貴族の家系に生まれた故であろうか、失われゆくもの、腐敗し滅びてゆくものを撮りつづけてきた。

「山猫」「家族の肖像」「地獄に堕ちた勇者ども」が有名だが、「ペニスに死す」も代表作の一つ。

 若いころ、劇場で見たときの記憶が鮮明に残っている。三十年たって、どんなふうに見えるか楽しみであった。寝部屋の明かりを消して、むかしの映画館のような闇の中で映像と対峙する。

 いきなり、ほのぼのとした夕暮れのナポリ湾が画面いっぱいに現れる。薔薇いろにつつまれた、荘厳なまでの黄昏――。

 ああ、なんと心にしみる夕暮れなのだろう。映画を見る歓びが身内からわき上がってくる。
 その、天も海も染まった景色の底に、黒い煙を吐いて、凪いだ鏡のような水面をすべるように過ぎってゆく一隻の蒸気船が見えてくる。今しも港に着こうとしているのだ。


 着岸の光景のなかにごった返す甲板にたたずむ、白い服を着た初老の紳士の姿がある。ダーク・ボガード扮する、主人公のマッシェンバッハ教授だ。世界的に知られた作曲家にして指揮者。ミュンヘンから来た。だがその表情は疲れ切っている。

 主人公は、トーマスーマンの原作では小説家だが、映画では作曲家に変えられている。
 彼を迎えた弟子アルフレッドのピアノを聴きながら彼は心のなかでつぶやく。

  「……思い出す。父の屋敷にも、砂時計があった。砂が残り少なくなったことに気づくのは、終わりに来たときなのだ。」

 そう、この映画は、老作曲家の、ひとりごとのような呟きによって語られているのだ。彼の眼に映じたもの、彼の脳裡を過ぎってゆくもの、そして彼の心に浮かんできた言葉が、この映画の全体だ。

 そして映画の主題は、すでにここに提示されている。
 残り少ない老年に与えられる残酷さのすべてが、これから1つ1つ彼に襲いかかってくるのだ。

 アルフレッドとの対話が象徴的だ。

 美は、精神へのだゆみない接近の結果である、という主人公の持説に対して、すでに名をなした、かつての愛弟子は、冷たく答える。

 いいえ、美は、努力によって成るものではなく、天才と同様、偶然の結果なのです。

 また、彼が音楽に精神を、厳密さを、純粋さをもとめるのに対して、弟子は主張する。

 いいえ、美は、精神ではなくて、感覚に属するのです。悪や、官能や、感覚が、美を生み出すのですと。

 すでに自分の時代が去ったのではないかとおびえている彼の前を、あの少年が通り過ぎる。

 ……時代は多分、第一次大戦前。ヨーロッパの支配階級にとっては幸福な、平和な、最後の時代。

 古い秩序が形を保ち、しかし爛熟が内部から忍び寄っていた時代。
 ホテルが、今日のように、庶民が平気で出入りできるような存在ではなく、特権階級の人々だけが利用する存在であったころのこと。
滑稽なほどに厳粛で、選ばれた人々の、装飾過剰な人々が出入りする。

 そのホテルの一角で、彼は見たのだ。船で出会った、金髪で、灰色の瞳をもった、紺色のセーラー服―水兵服―をきた少年を。

 少年から青年へと成熟する直前の、あやうい、壊れやすい陶器のような、ひとときの輝き。マッシェンバッハのうちに戦慄が走る。

 少年の一家は休暇をこの地で過ごすために滞在するのだ。
 ホテルで、海岸で、彼は少年の姿を見かける。少年の名がタジオであることも彼は知る。
                ゛
 あるとき彼は、少年がロビーの古ぼけたピアノを、たわむれに弾く光景にであう。「エリーゼのために」。
 そのおぼつかない音から、たちまち彼のうちに、苦い記憶がよみがえる。

 はじめて娼婦と夜を過ごしたとき、その娼婦が客のために弾いたのが同じ曲だった……。

 今も彼を苦しめるみじめな記憶と、少年を見るつかのまの歓びが、交互に彼をおとずれる。

 仕事が終わり、ミュンヘンに戻ろうとした彼は、ホテルのカウンターで偶然に、少年と出会う。少年はなぞのような微笑みを彼に投
げかける。それは単に、邪気のない精神が周りの誰にも見せる意味のない微笑にすぎない。だがマッシェンバツハにとってそれは、神
の恩寵のように思われたのだ。

「さようなら、タジオ。神のご加護を」と彼は胸のうちで祈る。

 ホテル側の手違いで、滞在が延びることになった。

 映画はここから一気に、後半の悲劇に向けて走り出す。
 すでに、街のあちこちに、コレラの危険を告げるイタリア語のビラが貼られている。ペニスのコレラ発生を報じた外国の新聞を、ホテルは急いで隠す。

 俺はいったい、ここで何をしているのだ。

 自己嫌悪と過去の忌まわしい記憶の数々に苦しむ彼。

 だが少年の他愛ないしぐさが、彼に幸福を与える。少年の海水着すがたと、浜辺で友達とたわむれる姿。とつぜん、彼のなかに、清らかな旋律が流れる。
 ビーチパラソルの下で、浮かんだ楽想を書きつける彼。恩寵のようなメロディー。だが、それは、がっての整然とした構想の中の楽曲ではなく、思いつきの、断片に過ぎぬ。

 哀しみにみちた顔で、彼は街をあるく。

 すでにベニスの街を、死の色が覆い始める。

 教会の鐘の音が殷々とつづき、石畳の上を、黒い喪服を着た地元の人々が横切る。鳩が舞い上がる。
 消毒液を、石垣にまく人。鳴り続ける弔鐘。
 町中を消毒薬のにおいかつつむ。
 ホテルで演奏する音楽師たちの無気味な哄笑。破滅の予感が画面をおおう。
 観光客が引き上げて、がらんとした広場。喪服の土地の人々だけが黙して行き交う。
 映画のなかで音楽がとだえる。……

アマデウス

2013-07-14 02:11:09 | エッセイ 映画
アマデウス
                      吉野 光彦




 1984年に米国で制作された映画「アマデウス」は、モーツアルトが毒殺されたというスリリングな設定によって大きな話題を呼び、世界中で興行的に大成功した。アマデウスというのは、モーツアルトの洗礼名である。

 しかしこの映画を見た世界中のモーツアルト・ファンは、大いに失望したのである。なぜなら、そこに描かれたモーツアルトは軽薄で騒々しく、ふざけちらしてばかりいて、その崇高で清澄な音楽とあまりにかけ離れていたからである。私も失望したひとりであるが、しかし映画の描かんとしたことはよくわかった。

 モーツアルトより少しばかり年長の音楽人に、サリエリというひとがいた。ウィーンの宮廷音楽長を長くつとめた人で、その作曲した曲やつくった歌劇は、今日もわずかに残されている。生存中には、モーツアルトがどうしても得ることのできなかった世俗的な地位を得ていた人で、名声もそれに相応したものだった。

 ところがモーツアルトがこのサリエリに毒殺されたという説は、モーツアルトの没後まもない時期から確かにあったのである。

 最近刊行された水谷彰良著『サリエーリ』(音楽之友社)でも取り上げられているように、確かにモーツアルト没後まもない時期から、その噂はあった。晩年のサリエリがその噂に苦しめられた記録も残っている。

 しかし水谷氏によれば、それらの噂はいずれも捏造で、まったく問題にする価値もない空疎な風説にすぎないという。
 しかし、にもかかわらず、この説が200年もたった現代にいたって蒸し返され、映画化されたりするのは何故だろう。

 実はこの主題――モーツアルトとサリエリを対比するという設定は、モーツアルトの没した数十年後、すなわち19世紀において、ロシアの文豪プーシキンによって提示されたものであった。
 すなわちプーシキンは、天才と、天才ならざる者の対比、芸術上の嫉妬という新しい主題を、モーツアルトに関して提示したのである。もちろんプーシキンは、古めかしい毒殺説からヒントを得てその戯曲を書いたのである。

 この戯曲は「モーツアルトとサリエリ」と題されたもので、モーツアルトの音楽のあまりに天才的なものであることに絶望したサリエリが、嫉妬と、神への懐疑に悩み、そのあげくモーツアルトを毒殺してしまった、とするものであった。

 少年時代から神童と謳われたモーツアルトに、サリエリは会う以前から好意と関心を抱いていた。ところが初めてモーツアルトに会う会場で、どの人物がモーツアルトかと探したサリエリは、ひどく失望させられる。人々の中で最も騒がしく、猥雑で品がなく、最も軽蔑すべき者と思われた若者が、モーツアルトそのひとだったからである。

 にもかかわらず、モーツアルトの天才ぶりは疑いようもなかった。その場で、ふざけちらしながら聴いていた曲をいとも簡単に「ええ、もう覚えてしまいました。こうでしょう」と弾きこなす異常な記憶力――。ほんのちょっとした主題を与えられただけで、それを縦横に駆使して一つの楽曲を仕上げてしまう才能――。

 モーツアルトの正式の名前は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト。モーツアルトは、姓である。

 彼は小さな王国ザルツブルグで宮廷副楽長をつとめる音楽家レオポルトのひとり息子であった。5歳違いの姉ナンネルが父のレッスンを受けているのを傍らで遊びながら見ていて、彼はいとも簡単にそれらを覚えてしまうのだった。

 6歳のとき、アマデウスは、何かを熱心に書いていた。「何をかいているんだい?」と父親がたずねると、「クラブサン(当時のピアノ)のための協奏曲だよ。もう少しで第1楽章が終わるよ」と鼻歌まじりにペンを動かしながら父にそう言った。

 まだ文字を知らないアマデウスの、その書きなぐった楽譜を、父は疑わしげに見ていたが、途中から父親の表情が変わった。

 そこには、すでに自立した一つの音楽が存在していることに父親は気がついたのだ。この子は天才だ! 青ざめた顔でレオポルトは思った。

 息子を天才だと信じた父親レオポルトの、それから悲惨なまでの努力と献身の日々がはじまる。彼はまず、この小さな息子を天才的なピアニストとして世に知らしめなければならなかった。このため父は姉ナンネルとアマデウスを連れての大旅行を企てる。はじめは西ヨーロッパへ、ついで音楽の先進地イタリアへ。

 この時代、音楽の才能に恵まれた者が求めたのは、自分の才能と力量にふさわしい宮廷音楽家の地位につくことだった。父レオポルとが副楽長をつとめるザルツブルグは、この神童にとって、あまりにも片隅の小さな王国でしかなかった。父は息子に自分の夢を託した。

 そのためには、まず認められることである。この点において父は有能な演出家であった。アマデウスは至るところで神童の名と盛名をほしいままにし、王侯貴族に謁見し、技を披露した。高価な贈り物を得ることも数知れなかった。だが父が息子のためにいちばん望んでいたウイーンの宮廷やハプスブルク家の宮廷に役職を得ることはできなかった。

 一方、サリエリはどうだったか。倒産した商人の息子に生まれた彼は運よく才能を認められて音楽の道に入ることになった。そして努力の末に、ウイーンの宮廷楽長という、世間から尊敬される地位を得た。同時に彼は敬虔なキリスト教徒であった。その彼が、ウイーンに舞い戻ってきたモーツアルトの、作品の一つ一つに衝撃を受ける。

 そのころモーツアルトは歌劇に手を染めていた。当時、歌劇は音楽の中でも最も民衆に愛された音楽で、いい歌劇の作者はその圧倒的な讃辞と莫大な報酬を得ることができた。

 みずからも歌劇に手をつけていたサリエリは、しかしモーツアルトの「フィガロの結婚」を聴いて衝撃を受ける。

 不幸なことに、サリエリはモーツアルトの天才を理解することができた。人々が単にモーツアルトを賞讃しているときに、サリエリばかりは、モーツアルトのアリアの一つ一つに天上の楽想が入っていることをっていた。

 映画「アマデウス」のなかでも最も象徴的な場面がそれである。

 サリエリは神に語りかける。
 神よ、私は忠実な信徒として懸命に音楽の道に励んで参りました。また人間として最も正しい道を歩むように今日まで努力して参りました。そのことは、神よ、あなたがいちばんよくご存じでしょう。

 それなのに神は私に、凡庸な才能しか分けてくださらなかった。あのアマデウスが、私の何分の一、神に愛を捧げているというのですか。それなのに、彼の一曲ごと、一節ごとに、私は神を感じるのです。どうしてあのような、神の恩寵としか感じられない天上の楽想が、あのように次々と湧きだしてくるのでしょう。

 神への愛――それなら私は決して誰にも負けはしない。音楽の努力だって……。それなのに、神の恩寵は私にではなく、あの若僧に与えられたのですね。

 サリエリは身を投げ出して神に抗議する。

 この痛切なサリエリの嘆きこそ、プーシキンの創造した主題であった。

 現代の奇才ピーター・シェーファーはプーシキンの発想を借り、それに古めかしい数々のエピソードを列ねて脚本を書き、それをミロス・フォアマン監督は映画化し、アカデミー賞をはじめ、数々の賞を総なめにしたのである。

 


























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