大きな樹の下で。

大きな樹のようなヒトになりたい。
みんなの憩いの場となる樹のような、
心の広い、
でっかいヒトに。

喫煙考察

2007-11-26 03:21:29 | Weblog
平謝りには定評のある僕ですが、タバコはすいません。
はい、軽快に滑り出しました。

( ´_ゝ`)こんばんは、お呼びじゃないですね、僕です。


喫煙所で生まれる関係ってやつに、ちょっとした憧れがあります。


喫煙所って、別に出会いが目的じゃなくて、
目的は、喫煙ですよね。

喫煙を目的に、スモーカーが集まるわけです。

わりと狭い、そのスペースで、
なんでもない会話が始まって、
「あ、おたくはLARKですかー!」とか、
「それ、おいしいですかー?」とか、
まぁ、とりとめもないような会話が発展したりしなかったり。

人と会話するときって、何もすることがなくて手持ち無沙汰だと落ち着かなくないですか?

飲み屋に行っても、とりあえずツマミとかないと話しにくかったり、
ご飯食べにいっても、割り箸の入ってたので遊んで鶴を折っちゃったり、
【会話】しながら、何かしらしてないと落ち着かないんですよね。
あれ?僕だけ?

だから、
タバコって、良いんだなって思うんです。

スパーーーってふかしながら、とりとめもなく話す。

喫煙文化って、おもしろいなぁ。


先日のALL関西教育フェスタ’07のキーワードは、「つながり」。

どの先生も、キーワードとして「つながり」を挙げていた。
しかし、これは別に打ち合わせがあったわけではないんですよ。

つまり、大事なのは、「つながり」なんだ、ってことなんだと思います。

有能な人は、うまく人を頼ることができる。
どんな天才だって、その才能を人が認めてくれなかったらただの奇人。

人は、人との「つながり」の中で生きている。

別に、教員志望とか関係なく、これは大事なテーマなんだと思います。


さぁ、ここで、僕は何ができるか。

このフェスタでもらった熱、モチベーションを、
周りに伝えたい、伝えたい、伝えたい。

でも、どうしていいかわかんない。
どうしよう。



そこにレジュメがあって、そこに講師がいて、
都合が合って、そして、
そこに得るものがあれば参加するけれど、
自分から、価値のあるものを作り出そう、
得たいものを得られる機会を作りだそう、というモチベーションはない、
そーゆー学生には、もう正直、うんざりしているところがある。

試行錯誤して、情報を流したり、
呼びかけたりするけれど、結局は、みんな受身、なんだよなぁ。

「すごいね、行動力あるね。忙しそうだね。」って、そこで終わり。


うーん、別にいいけどさぁ、
講義に出て、本を読んで、ゼミに出て、あるものをこなすってのも大事だけど、
今だからこそできること、いける場所、感じれるものってのがあると思うし、
自分の中にあるテーマを探し出して、
もっと、ハングリーに動いてもいいんじゃないの?って、よく思う。

確かに僕はアレコレと予定を入れすぎかもしれない。
それで、周りに迷惑をかけているのも事実。
そこは反省しなくちゃいけないと痛感している。

けれど、
逆にさ、「え?そんなに忙しいの?」とも思ってしまう。
「今のまんまでいいの?」なんて、お節介なことも思ってしまう。

良くないなら、あなたも動いたら良いんじゃないの?、と。


僕は、ホイホイとあっちこっちに行ってるイメージがあるかもしれないけれど、
実はけっこう臆病で、行動力あるように見えて超ビビリ。

でも、結局は自分の中のテーマに突き動かされた、とでも言うのかなぁ。


バイトも良い、サークルも良い、遊びも良い。

でも、そんだけで良いのかなぁ。


フェスタで、今村先生が僕らに突きつけた質問を、ここでも突きつけたい。
この日記を見ている誰かに。

「お前は何で教師になりたいんや?」

教師にはならないけれど、教育に携わりたい僕にも、この質問は突き刺さります。
教育ってものに関わりたい、教育を考えたいって人には、
ぜひ考えてもらいたい、一緒に考えたい、です。


今村先生は、こんな言葉を付け加えました。

中途半端な覚悟なら教師はやるな。
それが自分自身のためにでもあり、子どものためや。




西川先生は、こんな話をしてくれた。

教師はもっとも創造的な職業です。
すべての子どもは教育を受けるんですからね。

言い換えれば、
それだけ影響力がある職業だってことですよね。


知らないってのは悪いことじゃない。
考えが狭いのも悪いことじゃない。

知らないことを知れた、考えが狭いことに気づいた、
その気づきに、気づくこと、が大事なんだと思います。

「自分は気づけた」ってことへの「気づき」。

なるほど、たくさんのことを知っているかもしれないけれど、
知らないことがあることへの気づきがない、
「もっと」がない学生が、将来、教育に関わるのかもしれないと思うと、
僕は不安でしかたないのです。


教師に完璧を求めるつもりはないし、
そもそも、「良い教師像」なんて人それぞれで良いと思います。

だけど、
ハングリーに動ける人、
知ること、動くことに貪欲な人が、良い教師に近づけるんじゃないかな、とは思います。

教師にとっては、何百人、何千人という生徒のうちの1人かもしれないけれど、
子どもにとっては、ある学年、例えば小学3年生の1年間における、
唯一無二の「せんせい」なんです。

良い先生像は色々だろうけど、
先生の質の格差があるのはいただけないです。
毎年、30人としたら、5年間で150人もの生徒の
人生の「ある1年」の「せんせい」として存在し、大きな影響を与えるわけですからね。