大きな樹の下で。

大きな樹のようなヒトになりたい。
みんなの憩いの場となる樹のような、
心の広い、
でっかいヒトに。

自分と向き合う作業

2007-10-20 03:27:56 | Weblog
東京の上野で、空軍のゴーグルを買いました。

いや、ただ、かっこいいなーって思って、買っただけですよ。
だから、
なんで(首から)かけてるの?って言われると、それらしい返事はできず、
ただ、ちょっと、ばつが悪いというか、居た堪れない気持ちになるのです。

バイクに憧れはないけど、ゴーグルは好きです。
水泳はやってないけど、ゴーグルは好きです。
軍隊そのものは好きじゃないけどゴーグルは好きです。

ゴーグルをかけているキャラも好きです。
ウソップとか、パウリーとか、ナルトとか、ね。
326の絵にも、ゴーグルかけているやつがいます。

たぶん、アニメっぽいのが好きなんだと思います。
世間で言うところの、かっこいい、とか、おしゃれ、とかには鈍感だけれど、
その分、そういう自分の勘というか、本能みたいなのを信じています。


そのくせ、他人の目を人一倍気にしてしまうから、これはまた生き難い。

「不適応」と書いて、「なつき」と読みます。
どうも、お粗末な僕ですいません、こんばんは。


今、僕の中には静かにマイナスイオン(もちろん、鬱的な意味で)が流れています。
それもこれも、
夜中に「嫌われ松子の一生」なんて見てしまったからでしょう。


ふとGEOに寄ろうと思い、ふと目についたこのDVD。
それも、最後の1本でした。

これも、なんかの縁でしょう。
そう思うことにします。



周りは、就職活動をぼちぼち始めているけれど、
僕は今も相変わらず、悶々とした日々を送っています。

誰に答えを出せと迫られているわけじゃないけど、
自分に向き合う作業からは逃げちゃダメだと思うから。

過去、学校という環境で逆境を経験した僕は、
その経験からか、心理学に興味を持つようになって、
いつからか、なんとなく、臨床心理士の資格を取って、
カウンセラーになりたい、と思うようになりました。


その、いつからかわからない、なんとなく、を、もう少し、はっきりさせたいんです。
なんとなくのままで、なんとなくうまくいって、
それはそれで結果オーライなのかもしれないけれど、
院に行けばお金も時間もかかるんだから、盲目的に院進学を希望したくないんです。


僕が人のこころに興味を持ち始めた頃なんて、
あの頃なりに、僕なりに、一生懸命だっただろうけど、
それでもやっぱり、視野も価値観も狭かったし、
「働く」ってことに対する考えも未熟だったんだと思います。

そして、それはたぶん、今も。。。

ちっさいころ、ウルトラマンになりたい、だとか、先生になりたい、だとか、サッカー選手になりたい、だとか、
みんな、おんなじよーなこと、考えてました。

でも、その夢ってのは、どんどん現実とすり合わせを強要されます。
自分の学力で入れる高校、大学、自分の身の丈にあった、手に入りやすい、
手ごろな夢を集めるようになりました。

そして、さらに僕たちは、その、手が届きそうで、手ごろな範囲の中で、
「自分らしい生き方」なんてものを追い求めています。

「自分らしい生き方」、それは真にけっこうなことかもしれないけれど、
なんとも、ぜいたくな悩みを抱いているんだなぁ、と思ったりもします。

中卒で働かなければならなかった時代を引き合いに出すつもりはないけれど、
今だって、経済的な理由で大学や大学院進学、
いや、高校進学にだって制限がある家庭は少なくありません。

「それほど、やりたいことなのか?」と自問しています。




僕はまだ、自分と向き合う時期みたいです。

東京にて

2007-10-15 03:28:50 | Weblog
金曜日の夜から東京に行き、今朝、名古屋に戻ってまいりましたー。

ただいまー\(^o^)/

東京とは、やはり不思議な魅力を持っていますね。
田舎もんだからなんて言わないでください(つД`)・゜・
凝りもせず、毎回、目的地とは逆方向の電車に乗ってしまった僕は
鉄道社会にも不適応ということですね。
本当にありがとうございましたOTL

しかし、まぁ、駅ってのはやはり、どこか魅力的なところがありますね。


なんつーかなぁ、なんか、駅にいると、センチメンタルな気分になっちゃいます。


名古屋でもそうですけど、
電車の乗り降りとかで多くのひとがすれ違うじゃないですか?
どわーーー⊂ニニ( ^ω^)ニ⊃ って。

そこに、ひと、と、ひと、の、接触はあるけれど、
それは、すれ違いであって、摩擦ではない、っていうか。

摩擦って、エネルギーを生むもので、
すれ違いっていうのは、エネルギーを生まないものっていうか。

多くの人が荷物ごとぶつかって、すれ違って、
でも、そこには体温はなくて。


昔と比べてどうだ、とか、よくわかんないけど、
スキマだらけで、虚しい気持ちになりました。

いや、別にね、駅でハートウォーミングなふれあいを期待しているわけじゃないですよ?
ただ、駅にいると、そんな社会のある一面を垣間見てしまったような気持ちになるんです。



車内マナーを丁寧にアナウンスする駅職員さん。

割り込みは他のお客様のご迷惑となりますので、って、
「最近の若者が」なんていう大人の気持ちはわからないけれど、
こんな不必要で親切すぎるアナウンスが必要な社会で
大人から何を教われと言うんでしょう、と、思春期めいたことも思ってしまいます。
言ってみれば、当たり前、のはずで、
学生に限らず、それができない人が多いからあーゆーアナウンスがあるわけですよね。

まだまだモラトリアムを脱しきれない三輪少年は、そんなことを思っていたわけです。
そうそう、そんなことを思っていたから逆方向のでんs(以下略


とにかく、
いろんなこと、いろんなひとに刺激をもらい、揺り動かされた3泊4日でした。

エネルギーって、人に与えててもなくならないどころか、
相乗効果で⊂ニニ( ^ω^)ニ⊃ ぐーんとupするんじゃないかって思います。
もちろん、そのエネルギーに耐えられない、とか、
その相互作用がうまくいかずに、逆のお互いが奪い合ってしまう場合もあるとは思いますが、
健全な相互作用があれば、
それはもう、足し算ではなく、掛け算になるような結果を生むと思います。
ええ、そりゃぁ、もう、掛け算の連続だったわけですよ。


どこかで聞いたような表現だけれど、【ひと】、とは、【本】なのだと思いました。


僕は苦手ですが、
活字を追うこと、文学に触れること、って大事だと思います。
本を読むという行為ならでは、文学作品ならではの良さもあるので、
そういった意味では
人に出会い、ともに語る、ということは、
本を読む、ということにはならないのかもしれないけれど、
自分が知らなかった世界に触れたり、または、自分の感じていた世界に似たものに触れることができる、という意味では、
人に出会い、ともに語る、ということは、本を読む、ということなんじゃないか、と思います。


この3泊4日で、僕は多くの人に会い、語り、多くの本を読んできました。


メンタルフレンドの代表が僕に言ってくれたことばですが、
「あのね、自分がやってきた!!って胸はれることじゃないと語れないよ。」

はい、そういうことですね。

これだ!ってやつを、刻むわけですな。
一文字、一文字、ね。
斜線引いたり、下線引いたり、フォント変えたり、サイズ変えたり。



14日は発達障害の勉強会と、サポーター交流会があり、
さらのその後にはサポーターだけの交流会もありました@和民

充実しすぎていて怖いくらいでした。

サポーターとの交流を通して学んだのは、
これは「にちがく」においてもそうですが、「メンタルフレンド」でも、
結局は、「にんげんと、にんげん」なんだ、ってことです。

これはあくまで持論であって、
違和感を覚える人がいるのは当然のことだし、
自然なことなので、そんなもんだと思って読んでもらえたらいいです。

僕らは、学生であって、支援者ではない、アマであって、プロじゃない、んですよね。
なにも、無理に背伸びをする必要はないし、
身の丈以上のことをしようだなんて、肩に力を入れる必要もないんです。
等身大、それが大事なんじゃないか、って思うんです。

メンタルフレンドにはお金が発生しているのでボランティアではないけれど、
発生しているお金をサポーター側が解釈するならば、
「成果」に対する「報酬」というよりは、
それなりの責任感を持たせるためのもの、って言った方が良いのかな、と思っています。
つまり、
なんかすげぇことをしろ、とか、金に見合うだけの成果を出せ、とか、
そういうものではないんです、僕の中では。

普段の対人関係でも、よっぽどないような不適切な言動でもない限り、
自分なりの関わり方で良いんです。
僕らは、支援者じゃないんですからね。
ヘルパーさんとか、お医者さんとかね、
支援者は、支援者のやり方で関わるし、
僕らにできないことは、できる人がやってくれたらいいじゃん、ってね。
だから、僕らは、僕らができることをやればいいんですよ、きっと。

できる、っていっても、何も特別なことじゃなくって、
ただ傍にいるだけでも良いし、一緒に話して、遊んで、って、そんな感じで良いんですよね。

友達が髪を切ってきたり、染めていたり、いつもよりおしゃれだったりしたら、
「あれ、今日、なんか良いじゃん☆」って思うし、それが言葉に出てきますよね。
それ、どこで買ったの?とか、今、どんな音楽聴いてるの?とか、
そういう、なんでもないような場面が大事だったりするんですよね。

つまりは、
繰り返しになりますが、「にんげんと、にんげん」、ってことなんです。


「にちがく」でも、「メンタルフレンド」でも、前提として受容的な姿勢があるという点では、
日常の対人場面とは若干違うけれど、
相手のことを知りたい、とか、自分のことを知ってほしいとか、一緒になにかしたい、とか、
そういうのって、「にんげんと、にんげん」ってことなんじゃないかなって。

最近では、アスペルガー症候群やら、LDやら、
今までもクラスにいた「ちょっとかわった子」に「名前」がつくようになりました。
そのこと自体は悪いことではないし、
正しい理解、対応につながるのであれば大いにプラスです。
でも、それが理解・対応のための「区別」に留まらずに、
色眼鏡や対人関係におけるハードルを
無駄に高くしてしまうようなことになればマイナスですよね。

別に、違う星に住んでいる生き物なわけじゃなくて、おなじ「にんげん」なんですよ。
きれいごとにしか聞こえないかもしれないけれど、
きっと、こういう認識って大事なんだって思っています。

大事なんだ、っていうのは、裏を返せば、
ついつい忘れがちだから忘れるなよ、という自分に対する戒めでもあります。


これ以上、話を広げると誤解も多く生みそうなので、この辺でやめておきます。


動いていないと不安だったり、無駄な動きが多い僕ですが、
合理的に生きるのが良いのか、というと、それもどうかなって思うんで、
これからも、こんな感じで良いんじゃないか、ってね、そう思っています。

あー、あたまんなかにあることを、かぽっと引き出して、
ずばっと適切な表現にできる能力があったらなぁ、と、一瞬思ったけれど、
それもなんだか切ないので却下します。

頑張ってチューニングしてください。
和音になったらいいな、なんてね。

充実

2007-10-06 03:30:30 | Weblog
今日は、普段お世話になっている不登校の学習塾の先生のお誘いで、
第45回 東海・近畿教育研究サークル合同研究集会ってのにお邪魔してきました@岐阜大学

わりと大きな規模の集会で、
それゆえに、なかなか議論がまとまらないところはあったけれど、
いろんな団体、サークルの、いろんな立場、考えの人が一同に会して、
ああやって意見を交わすっていうのは、とても意義のあることだと感じました。

集会では、大学の教授や、地域の方、不登校児のためのフリースペースの方、現役中学校教師などがパネラーとして、教育に関する報告をしました。
中でも印象的だったのは、地域の方の報告でした。
なんでも、この岐阜県に特徴的らしいんですが、学校にはいくつかの班があって、その班は持ち点があり、
2分前着席ができない生徒がいたら減点、シャツ出ししてたら減点、私語があったら減点、といった具合に、減点制があるらしいです。
しかも、
それが班の持ち点に関わるから、子どもたちはお互いを監視し合うようになります。
あいつがいなければ、あいつは迷惑だ、などど、お互いを批判し、傷つけあっている現状があるそうです。
しかも、
そのチェック項目について教師からは特に説明もなく、生徒たちはよくわからないけれど、とにかく内申点を確保するために必死なんです。

かと言ってね、子ども同士で監視し合うのは置いといて、点数をつけるってことについて言えば、
客観的な点数とかがないと、うちの子が1なんておかしいとか、5をくれ、だとか、文句をつけられるわけです。
内申はテストの点数だけでつけられるものでもありませんから、
提出物をチェックしたり、私語や挙手の回数をカウントでもしないと客観性を持たせられないという現状があるのも仕方が無いことなのかもしれませんね。
聞くところによると、
最近では、
その点数化のためにチェックリストみたいなの持ち歩きながら授業をする先生もいるらしいです。
学校も学校で大変ですよね。
でも、大人に付き合わされる子どもも大変ですよね。


こんな学校に毎日通って、子どもたちは息苦しいだろうなぁ。

こどもたちがその点数制度に疲れ果てて家に帰っていくという話を聞くと、
なにがどうなっているんだろう、なにが歯車を狂わせているんだろう、と、虚しくもなります。

しかも、
相対評価から絶対評価へ、なんて言っちゃっても、実際は内申に信頼性を持たせるために平均を3にしましょうって決めている学校もあるみたいです。
だから、結局、みんなが5ってのもありうるし、1ってのもありうるんだよ、なんていうのは、理屈の話で、実際は相対評価となんも変わっていないって言うからアボーンです。
しかもしかも、
その内申を受け取る側の学校の先生は、
「こっちも内申はアテにしていません。」とか言うから、もう(つД`)・゜・です。


ろくに教育関係の本も読んでいないし、ニュースも見ていない僕が
えらそーに教育を語るのもおこがましい気もしますが、
なんだか言いようの無い怒りとも諦めともつかない気持ちになりました。
でも、
あーゆーちゃんとした集会でパネラーとして前に出ているのに、
帽子をずっと被ったまま全体の前で教育を語る中学校教師よりは、まだ大丈夫な気もします。


全体は大きく分けて2部構成になっていて、後半は分科会がいくつか開催されていました。
僕は、不登校・登校拒否の分科会に顔を出して、まぁ、ちょこっと発言もしたりしました。

僕は今まで、主に臨床から不登校・ひきこもりという問題にアプローチしてきました。
今やっているメンタルフレンドもそうだし、
大学で学んでいるのも臨床の分野が主になっています。

しかし、
この不登校・ひきこもりという問題ってのは、
臨床からのアプローチでは不十分で、
かと言って、教育からのアプローチだけでも不十分なわけです。

そういった意味では、
今日の集会に参加することで、
いろいろな教育関係者の方のお話を聞くことができてよかったです。


分科会に参加して思ったことは2つです・
1つは、
犯人探しをしても仕方が無い、ということ。
もう1つは、
不登校児の進路の現実は厳しい、ということです。

まず、犯人探しをしても仕方がない、というのは、
やっぱりみなさん、「~~が問題だ!」とか言いたがるんですよね。
もちろん、それだけじゃないってのはわかっているんだろうけど、
あれが悪い、これが悪いって、そういう意見ばっかりでした。
確かに、何が、どう良くないって認識することは大切です。
でも、そこで終わっちゃ意味がないんですよね。
その次につながるヒントや足がかりもなく、ただ批判に終わっている意見を聞いていると、
ああ、なんだ、批判したいだけじゃん、って思ってしまうわけです。

学校に無理難題を要求するモンスターペアレンツという存在も話題になりましたね。
でも、保護者ってのはうまいですよ。
「最近じゃぁ、モンスターペアレンツなんていう言葉もあって、親としても学校に意見しにくくなっているんですよ。」と、今度は弱い立場に出てきました。
そのくせ、先生と話す機会も増えて学校に意見しやすい学校の役員はやりたくないんですよね。
そんなに学校に対して不満があるなら、積極的に役員でもやって先生に直接意見を言うチャンスをつくればいいのにさ。

そしたら今度は学校の先生が挙手。
「先生も大変なんです。これが先生の現状です。」と必死に語っていました。

みなさん、批判ばかりで、自己弁護に回っている印象を受けましたね。



学校にしても、保護者にしても、
~~が悪いって、そればっかり口にしているうちは、何も変わらないだろうな、って思います。
不登校の子を持つ親御さんには、学校不信、教師不信の方が多くいますが、
まぁ、批判はけっこうですけど、どこか責任転嫁というか、ピントがずれている気がしなくも無いです。
お父さん、お母さん、批判はいいから子どもと向き合ってください、と、そう思うことは、よくあります。
自分に自信がなかったり、自分の非を認めたくなかったりすると、人はよくしゃべるもんです、べらべらと。
まず、親御さんが自分を受け入れることができなかったら、子どもを受け入れることなんてできるはずないのに。

そして、2つ目の不登校児の進路の現実は厳しいってのは、
やっぱり授業に出ていないと内申はオール1になるから、進学が難しくなるみたいです。
出席数は、いくらでも誤魔化しちゃっているし、
敷地内に入ったら出席にするとか、保健室に来たら出席にするとかしているみたいなんですけどね、
単位は、というと、やっぱり1がついちゃうみたいです。
どんなに能力がある子でも、授業に出ていなければ1がつきます。
だから、当然、本人の実力に見合うような進学は難しいですよね。

全日制の学校っていうのは、学力に合わせていくつかありますけど、
定時制の学校って、いろんな事情を持った、いろんなレベルの子が一緒になるから、
そりゃぁ授業だって生徒のレベルに合わせるのは難しくなりますよね。
そういう難しさも、実際にあるみたいです。

それと、これは地域差もあるとは思いますが、
概して、学校っていうのは不登校児に対して冷たいようです。
学期末にまとめてプリントを届けてきたり、
保護者会のお知らせをしてくれなかったり。
進路についても何も教えてくれないって不満はよく聞きます。
さんざんほったらかしで、卒業証書だけちゃんと渡しに家まで来てもねぇ?

なんかの指定校になってたりすると、
学校側としては教室に座っているだけで挙手もしないよりは、むしろ来ないでくれた方が良い、という空気もあるという話も聞きました。
まぁ、とにかく、学校側からしても、ぶっちゃけ面倒な存在なわけです。
(すべての学校において、そうだとはもちろん言いませんが、多くの不登校児を持つ親御さんが、学校の対応の悪いさを指摘しているってことから、まぁ、言いすぎでもないかなぁ、とは思います。)

とにかく、
今日はいろんな刺激をもらい、
しかもしかも、その集会の後には今日の集会に誘ってくれた学習塾の先生(不登校・ひきこもりに取り組み始めて30年のベテラン)と、これまた愛知の不登校・ひきこもりの取り組みにおいては草分け的な存在、現在78歳のスーパーカウンセラーさんと喫茶店でお話もしてもらって、もう、ほんとに充実した1日でした。