倖田來未が白い服を着ていると、
なんだか不純なイメージを抱いてしまうのは僕だけでしょうか?
どうも、僕です。
同窓会の会場に忘れ去られていたプラレール、
機関車トーマスのエドワードを
景品に選んだのは僕です、ごめんなさい。
エドワードは、今、我が家にいます。
心が広くて、人望も厚いエドワードは、忘れ去られていました。
なんとも皮肉ですね。
2007年を振り返り、この1年を漢字で表すならば、
まさに、動く、動かす、感動する、「動」でしたね。
英語のmoveに、感動させる、という意味がありますが、
人が動き、人に出会い、刺激を受け、また動く、
まさに、僕が2007年を振り返ったときの「動」とは、
英語で言えば「move」ですね。
後輩に、先輩に、同輩に、
学内に、学外に、
西に東に、
あっちこっち行って
あっちこっちで刺激をもらって、
んで、もって、
いくらかの発信をしました。
情報と、出会いと、価値観、刺激の濁流の中で、
流されないように、自分を見失わないように、と、
必死に動いていた1年でした。
でも、
もがけば、もがくほどに、
自分らしさ、というか、自分の現在位置はぼやけていくばっかりで、
理論や誰かの価値観の塗り直しになっているような気もしていました。
つまるところ、
学習と学問の違い、という話なのかもしれませんが、
この1年のほとんどは、学び、習った1年であって、
学び、問うことが十分にできた1年ではなかった、と思います。
いや、学び、問うことに十分という言葉は不適切かもしれませんが、
もっとできたのにな、という気持ちがあるのは事実です。
動くこと、出会うことに満足してしまったいたところも否めません。
受験生が本屋で参考書選びに時間を費しているような、
そんな感じの時期もありました。
ひとりが好きでも、
人はひとりでは生きてはいけないわけで、
なんらかの社会に所属することになります。
組織、そして、大人。
僕を悩ませしめた2つのキーワードです。
多くは語りませんが、
組織というものには、価値観がうごめき、摩擦し、
それでも、そのカタチを維持し、
進むべき方向を見定め、進んでいかなければならないんだな、ということを、
身をもって痛感しました。
そして、
僕は、そういった意味で組織というものに不適応なんだなぁ、と
再確認しました。
組織が、学生だけならば、そこまで悩みませんが、
そこに社会の大人が関わっていると、そうも生きません。
これから、
社会に出て、たくさんの大人と関わっていくわけですが、
一抹どころか、100抹くらいの不安を抱えている次第でございます。
なぜ、大人は話を聴いてくれないのか。
なぜ、自分の価値観ばかりを並べて、聴いたふりをするのか。
この1年で、僕なりに出した暫定的な結論ですが、
僕ら、まだ社会に出ていない子どもと、
社会に出ている大人で決定的に違うのは、「責任感」です。
大人は、社会で2本の足で立ち、
自分を、家族を支え、生きていくんですからね、
ヌケヌケとすねかじっている僕ら学生とは、
抱えているもんが違うんですよ、きっとね。
だから、
自分の価値観、それに裏付けられた意見ってものにも、
当然、責任がつきまとってくるわけです。
「おまえはどうなんだ?」という問いに、
「責任」をもって、「わたし」という名前をつけて、
もの申すわけですからね、
そりゃぁ、融通も利かなくなる、というか、
子どもにしてみれば一方的な会話になるのは
ある意味では当然かもしれません。
とにかく、組織と大人には苦労した年でした。
視野を広く、そして、深く。
僕のテーマは、今年も、そして、来年も、「これ」です。
イメージするなら、軸のある人工衛星かなぁ?
ぐるーーーーって、
ものごとの表も裏も見つめることができる上に、
その細かいところまで見つめることができる目を持っている。
でも、それだけじゃない。
自分自身も、
みつめられる存在として回り続けるための「軸」を持ちたいです。
そんなこと、できるのかよって思われるかもしれないけれど、
それを同時にこなさなくたっていいんです。
ときには、広くみて、
ときには、拡大してみて、
ワイドとズーム、使いこなせる人であったら良いんです。
2008年も、きっとたくさんの出会いがあるんだと思います。
まだ見ぬ、出会うべき人たちとの出会いを思うと、とてもわくわくしちゃいます。
人と出会う上で心得ておきたいのは、
自分自身が語れる人間でありたい、ということと、
語らせるような会話、の2点です。
2007年、お世話になったみなさんも、
2008年、これからお世話になるみなさんも、
どうぞ、よろしくお願いします。
なんだか不純なイメージを抱いてしまうのは僕だけでしょうか?
どうも、僕です。
同窓会の会場に忘れ去られていたプラレール、
機関車トーマスのエドワードを
景品に選んだのは僕です、ごめんなさい。
エドワードは、今、我が家にいます。
心が広くて、人望も厚いエドワードは、忘れ去られていました。
なんとも皮肉ですね。
2007年を振り返り、この1年を漢字で表すならば、
まさに、動く、動かす、感動する、「動」でしたね。
英語のmoveに、感動させる、という意味がありますが、
人が動き、人に出会い、刺激を受け、また動く、
まさに、僕が2007年を振り返ったときの「動」とは、
英語で言えば「move」ですね。
後輩に、先輩に、同輩に、
学内に、学外に、
西に東に、
あっちこっち行って
あっちこっちで刺激をもらって、
んで、もって、
いくらかの発信をしました。
情報と、出会いと、価値観、刺激の濁流の中で、
流されないように、自分を見失わないように、と、
必死に動いていた1年でした。
でも、
もがけば、もがくほどに、
自分らしさ、というか、自分の現在位置はぼやけていくばっかりで、
理論や誰かの価値観の塗り直しになっているような気もしていました。
つまるところ、
学習と学問の違い、という話なのかもしれませんが、
この1年のほとんどは、学び、習った1年であって、
学び、問うことが十分にできた1年ではなかった、と思います。
いや、学び、問うことに十分という言葉は不適切かもしれませんが、
もっとできたのにな、という気持ちがあるのは事実です。
動くこと、出会うことに満足してしまったいたところも否めません。
受験生が本屋で参考書選びに時間を費しているような、
そんな感じの時期もありました。
ひとりが好きでも、
人はひとりでは生きてはいけないわけで、
なんらかの社会に所属することになります。
組織、そして、大人。
僕を悩ませしめた2つのキーワードです。
多くは語りませんが、
組織というものには、価値観がうごめき、摩擦し、
それでも、そのカタチを維持し、
進むべき方向を見定め、進んでいかなければならないんだな、ということを、
身をもって痛感しました。
そして、
僕は、そういった意味で組織というものに不適応なんだなぁ、と
再確認しました。
組織が、学生だけならば、そこまで悩みませんが、
そこに社会の大人が関わっていると、そうも生きません。
これから、
社会に出て、たくさんの大人と関わっていくわけですが、
一抹どころか、100抹くらいの不安を抱えている次第でございます。
なぜ、大人は話を聴いてくれないのか。
なぜ、自分の価値観ばかりを並べて、聴いたふりをするのか。
この1年で、僕なりに出した暫定的な結論ですが、
僕ら、まだ社会に出ていない子どもと、
社会に出ている大人で決定的に違うのは、「責任感」です。
大人は、社会で2本の足で立ち、
自分を、家族を支え、生きていくんですからね、
ヌケヌケとすねかじっている僕ら学生とは、
抱えているもんが違うんですよ、きっとね。
だから、
自分の価値観、それに裏付けられた意見ってものにも、
当然、責任がつきまとってくるわけです。
「おまえはどうなんだ?」という問いに、
「責任」をもって、「わたし」という名前をつけて、
もの申すわけですからね、
そりゃぁ、融通も利かなくなる、というか、
子どもにしてみれば一方的な会話になるのは
ある意味では当然かもしれません。
とにかく、組織と大人には苦労した年でした。
視野を広く、そして、深く。
僕のテーマは、今年も、そして、来年も、「これ」です。
イメージするなら、軸のある人工衛星かなぁ?
ぐるーーーーって、
ものごとの表も裏も見つめることができる上に、
その細かいところまで見つめることができる目を持っている。
でも、それだけじゃない。
自分自身も、
みつめられる存在として回り続けるための「軸」を持ちたいです。
そんなこと、できるのかよって思われるかもしれないけれど、
それを同時にこなさなくたっていいんです。
ときには、広くみて、
ときには、拡大してみて、
ワイドとズーム、使いこなせる人であったら良いんです。
2008年も、きっとたくさんの出会いがあるんだと思います。
まだ見ぬ、出会うべき人たちとの出会いを思うと、とてもわくわくしちゃいます。
人と出会う上で心得ておきたいのは、
自分自身が語れる人間でありたい、ということと、
語らせるような会話、の2点です。
2007年、お世話になったみなさんも、
2008年、これからお世話になるみなさんも、
どうぞ、よろしくお願いします。