大きな樹の下で。

大きな樹のようなヒトになりたい。
みんなの憩いの場となる樹のような、
心の広い、
でっかいヒトに。

総括

2007-12-31 15:12:44 | Weblog
倖田來未が白い服を着ていると、
なんだか不純なイメージを抱いてしまうのは僕だけでしょうか?

どうも、僕です。
同窓会の会場に忘れ去られていたプラレール、
機関車トーマスのエドワードを
景品に選んだのは僕です、ごめんなさい。

エドワードは、今、我が家にいます。
心が広くて、人望も厚いエドワードは、忘れ去られていました。

なんとも皮肉ですね。




2007年を振り返り、この1年を漢字で表すならば、
まさに、動く、動かす、感動する、「動」でしたね。

英語のmoveに、感動させる、という意味がありますが、
人が動き、人に出会い、刺激を受け、また動く、
まさに、僕が2007年を振り返ったときの「動」とは、
英語で言えば「move」ですね。


後輩に、先輩に、同輩に、
学内に、学外に、
西に東に、
あっちこっち行って
あっちこっちで刺激をもらって、
んで、もって、
いくらかの発信をしました。


情報と、出会いと、価値観、刺激の濁流の中で、
流されないように、自分を見失わないように、と、
必死に動いていた1年でした。


でも、
もがけば、もがくほどに、
自分らしさ、というか、自分の現在位置はぼやけていくばっかりで、
理論や誰かの価値観の塗り直しになっているような気もしていました。


つまるところ、
学習と学問の違い、という話なのかもしれませんが、
この1年のほとんどは、学び、習った1年であって、
学び、問うことが十分にできた1年ではなかった、と思います。
いや、学び、問うことに十分という言葉は不適切かもしれませんが、
もっとできたのにな、という気持ちがあるのは事実です。



動くこと、出会うことに満足してしまったいたところも否めません。

受験生が本屋で参考書選びに時間を費しているような、
そんな感じの時期もありました。

ひとりが好きでも、
人はひとりでは生きてはいけないわけで、
なんらかの社会に所属することになります。

組織、そして、大人。

僕を悩ませしめた2つのキーワードです。


多くは語りませんが、
組織というものには、価値観がうごめき、摩擦し、
それでも、そのカタチを維持し、
進むべき方向を見定め、進んでいかなければならないんだな、ということを、
身をもって痛感しました。

そして、
僕は、そういった意味で組織というものに不適応なんだなぁ、と
再確認しました。


組織が、学生だけならば、そこまで悩みませんが、
そこに社会の大人が関わっていると、そうも生きません。

これから、
社会に出て、たくさんの大人と関わっていくわけですが、
一抹どころか、100抹くらいの不安を抱えている次第でございます。

なぜ、大人は話を聴いてくれないのか。
なぜ、自分の価値観ばかりを並べて、聴いたふりをするのか。


この1年で、僕なりに出した暫定的な結論ですが、
僕ら、まだ社会に出ていない子どもと、
社会に出ている大人で決定的に違うのは、「責任感」です。

大人は、社会で2本の足で立ち、
自分を、家族を支え、生きていくんですからね、
ヌケヌケとすねかじっている僕ら学生とは、
抱えているもんが違うんですよ、きっとね。

だから、
自分の価値観、それに裏付けられた意見ってものにも、
当然、責任がつきまとってくるわけです。

「おまえはどうなんだ?」という問いに、
「責任」をもって、「わたし」という名前をつけて、
もの申すわけですからね、
そりゃぁ、融通も利かなくなる、というか、
子どもにしてみれば一方的な会話になるのは
ある意味では当然かもしれません。

とにかく、組織と大人には苦労した年でした。






視野を広く、そして、深く。



僕のテーマは、今年も、そして、来年も、「これ」です。


イメージするなら、軸のある人工衛星かなぁ?



ぐるーーーーって、
ものごとの表も裏も見つめることができる上に、
その細かいところまで見つめることができる目を持っている。

でも、それだけじゃない。


自分自身も、
みつめられる存在として回り続けるための「軸」を持ちたいです。


そんなこと、できるのかよって思われるかもしれないけれど、
それを同時にこなさなくたっていいんです。

ときには、広くみて、
ときには、拡大してみて、
ワイドとズーム、使いこなせる人であったら良いんです。



2008年も、きっとたくさんの出会いがあるんだと思います。
まだ見ぬ、出会うべき人たちとの出会いを思うと、とてもわくわくしちゃいます。

人と出会う上で心得ておきたいのは、
自分自身が語れる人間でありたい、ということと、
語らせるような会話、の2点です。


2007年、お世話になったみなさんも、
2008年、これからお世話になるみなさんも、
どうぞ、よろしくお願いします。

皮肉な生活

2007-12-27 15:16:12 | Weblog
ひきこもりは「なぜ」治るのか?(斉藤環 著)を読みながら、
1日中、実家のこたつに潜り込み、
夕方からは「ハケンの品格」の再放送を見ている、
そんな僕です。

なんとも皮肉な生活。



クリスマスを満喫していた方にとって
非常に不快な日記を書いたからでしょうか、
日記を書いた後、歯ぐきがものすごく痛み、寝れず、
気になって舌を使って、歯ぐきをいじっていたら、
今度は舌が腫れました。


人間関係における腫れ物です、こんばんは。
つける薬はあったとしても、
つけてくれる人がいません、どうも僕です。



シルクハットをかぶって外出しようとしたら、
そんなのをかぶったら、彼女もできない!と、
おばあちゃんに、しつこく注意されました。

おばあちゃんは、
どうやら僕が結婚するまで生きていたいらしいんですよね。

まぁ、下手な期待を抱かせるだけ酷だと思ったので、
「おばーちゃん、期待しない方が良いよ。結婚する気はないから。
ひ孫が抱きたいなら、次男にお願いしてやー!」


すると、おばあちゃん、間髪入れずに、こう言いました。

「や!この子、結婚しないってよ!

          み っ と も な い !」


みっともない孫で申し訳ないです。

いつもなら、
周囲の人に何を言われても、何が結婚だ、と、
スカして笑っていた僕ですが、
おばあちゃんに向かってムキになって、

「何で結婚しないとみっともないんだよ!そんな狭い価値観が悲しいね!」
と言い返している自分が、
それこそ、

みっともない

・・・そう、思えるわけです。



家の中で、ひきこもって暮らしていて、
外部との接触がなければ、そこに、自分と、自分と比べる対象という、
「自己-対象」という関係が生まれません。

みっともない、という評価も生まれません。


「あなた」がいるから、「わたし」というもののカタチがわかる。


つまり、
「あなた」がいる世界にいれば、
そこには常に、自分を発見するチャンスがあるってことなんですよね。


秋から年末にかけて、
就職活動で「自己分析」に躍起になっている人を多く見かけましたが、「自己分析」って、何も就職活動の一環じゃなくたって、
やっていて当然、というか、
やっているもんなんじゃないかなぁ?と思うわけです。

もちろん、
就職活動の一環としての自己分析と、
「私って何だろう?」といった思春期的な葛藤や疑問とは、
質が違うというか、完全にイコールではないかもしれませんが、
生まれて、今日まで、いろんな「あなた」と出会ってきて、
今更のように、「就職活動のために自己分析をしよう!」っていうのは、
なんだか、不自然な響きを覚えます。

就職活動の一環というか、ひとつのステップとして流れ作業的に自己分析をするのは、なんだか馴染めないんですよ、僕は。


でも、
自己分析をする、というのは、大事なことだと思うし、
そのきっかけが就職活動でも、もちろん、良いんだと思います。

ただ、
就職活動のためには、まず、自己分析だぜ!みたいな広告や、雰囲気、
それを煽る企業とかが、なんだか嫌なんですよ。




ある友達が吐き捨てた言葉が、とても印象的でした。

「就職活動で『私は成長しました』って、おまえ、どんだけショボいんだよ!っていう話だよ!」




就職活動で「成長できる」のは事実だろうけど、
就職活動で、「もう、私はめっちゃ成長したのよー!」
って人の話を聞くと、
「え?大学生活、それまではどうだったのかなぁ?」と、
ついつい、つっこみたくなってしまう僕としては、
とても印象的な言葉でした。


社会不適応が、何、就職活動を斬ってるんだよって思われてもしかたないですけどね、我が国では表現の自由が保障されているので、
すいません、見逃してくださいな。

では、失礼します。


Q:どうしても、彼のちょっとしたところが気になって、彼に対しての不満がたまってしまうの。どうしたらいいのか教えてください!

A:ちょっとしたところなら良いんじゃないの?それ以上言おうもんなら、逆にふられるだろうね。姿見を貸してやろうか?手鏡じゃぁ足りないだろうからな。

クリスマスと聞きつけて。

2007-12-24 17:58:20 | Weblog
クリスマスっていうと、思い出すんですよね。
コンビニのバイトをしてたころに、
外に出て窓拭きをしていたら、ディスプレイの女性誌が目にとまって、
そこに書いてあった文字に、なんだか切なくなったんです。

「幸せそうに見える着こなし」

これで購買意欲上がったら、それはそれでどうなんだ、と。


ああ、今日はイエス様とネロとパトラッシュの命日だということで。
メリークリステルです。
サンタさん、彼女はいらないので愛人をください、
どうも、精神的不健康と書いて、僕です。


クリスマスって、なんでもないことが、なんでもなくなる日ですよね。

クリスマスにバイトとか、クリスマスに友達と遊ぶとか、
クリスマスに帰省とか、クリスマスに和食とか、
なんか、365分の1日でしかない、今日、この日、
商業戦略の先駆け的存在の1日に、
かくも行動を制限され、かわいそうな目で見られるのは心外だ、と、
僕は言いたいわけですよ。

今、みじめな日記だと思いましたか?
そう思った人は、もうマジョリティーという安全地帯の人間ですね。
なにが、ノーボーダーだっつーの。


しかしですね、
逆に、行動を制限される人たちもいるってことなんですよね。

「クリスマスだから」

だから、祝いたくもない祝いをして、
寒い中、働いてためたお金をはたいて、
笑顔で言うんです。

「メリークリステル」って。

関係があるがゆえに、
ある程度、枠にはまった行動パターンを
無意識的に、「なんとなく」要求されるっていうのも、
それはそれで滑稽な話ですよね。

いや、もしかしたら、

クリスマスという日に制限されて、
幸せな時間とやらを演出し、または演出されなくてはならない方が、
しんどいのかもしれませんね。お疲れ様です。


クリスマスですか、いろいろと妄想ができそうですね。









今日はクリスマス。
でも、ジョンはなんだか浮かばれない顔をしていました。


どうせ、うちにはサンタさんなんか着てくれやしねぇんだ。

だって、僕の家には煙突もないし、加湿器もない。
あるのはローンと二重窓。
それに、パパもママも、いつも僕のことでけんかしている。
こんな家に、サンタさんがきてくれるはずもないんだ。



おい、ジョン、おまえはクリスマスに何をお願いするんだ?

いや、僕の家にはサンタさん来ないと思うから、何もお願いしないよ。

は、おまえ何いってんの?サンタって、あれ、パパとママのことなんだぜ。おまえ、しらねーの?幸せだな、ふぁっきん。

え?そ、そうなの?

そうだよ、だから、まぁ、高望みはせずに、
パパとママがなんとかしてくれそうなお願いにしておくことを勧めるぜ。


ありがとう。




ねぇ、ママ。
クリスマスのことなんだけd・・・

クリスマス?そんなこと言っていないではやく寝なさい!

おまえはどうして、そんなに声を荒げるんだ!?

あなただって声を荒げているわ!
ジョンのことはいつも私に押しつけて、都合の良いときだけいい顔しないでいただけます?このメタ坊や。

ふぁっきん!なんだと、そのシュレッダー書けたプリントみたいな髪の毛をひっこぬいてやろうか!

なによ!

なんだよ!



ジョンは静かに、自分の部屋に戻りました。





今日はクリスマス。
枕元には、サンタさんへ手紙がありました。



サンタさんへ


笑顔のパパとママをください。


ジョン


















翌年、パパとママは離婚し、
ジョンのもとには新しいママがきました。




パパも、ママも、笑っています。





ジョンは、非行に走りました。



みなさん、メリークリステル。



今日の恋愛相談は、
ペンネーム:デスマスクさんからです。

Q:もう、いい加減、結婚してもいい年だって思うんですけど、なんだか結婚っていうと、ピンとこないし、気が引けちゃって。結婚って、どういうことなんですか?

A:過去、愛し合ったという幻想の同一直線上にある、惰性を前提とした紙面上の契約関係、かな。


カラオケ

2007-12-21 17:59:23 | Weblog
カラオケって、
けっこうコミュニケーション・スキルが試される空間だと思うんです。


人が歌っているのに割り込む前に、「一緒に歌っていい?」って聞くとか、
連続で曲を予約したら周りがいやな気分になるとか、
誰に言われるわけでもなく、自然と要求されるものがあるじゃないですか?


人が歌っているときには、
もちろん、曲を聴きつつ、話しつつ、曲を探しつつ、で、
けっこういろんなことをやっています。


友達とカラオケに行ったときって、
ただひたすら歌いたいだけ歌って終わりますか?
もう、むしろ何で一緒に来たの?っていうようなカラオケ。

きっと、
「あー、この曲、いいよね」とか、
「これ、あの車のCMで流れてたやつだよ」とか、
「この曲、なんて曲?」とか、
「うまいねー」とか、
「この曲、サビが高くて無理だー」とか、
そういう会話がちらほらあるんじゃないですかね。

相手の選曲や、相手の歌について何かコメントしたり、
逆に、自分の選曲や歌に興味を持ってもらったり、
そういう会話の中で、
お互いを知ることができたりもするんじゃないですか?

自分の好きなものを知ってもらえるって、うれしいことだし、
まさか、相手が自分と同じものを好きになってくれなくたって、
自分に興味を示してくれるって、それだけでうれしいもんです。

それは、逆もしかりです。

カラオケも、なかなかあなどれないですね。

ひきこもりシンポジウム

2007-12-19 02:38:02 | Weblog
先週末の日曜日に、「ひきこもりシンポジウム」に行ってきました。


今更ですが、
この「ひきこもり」という言葉はどうにかならないものか、と思いました。

「ひきこもり」って、馴染みやすいですよね。
言葉が難しくないですし、「ひきこもる」という動詞もあります。

まさか、
「統合失調性る」や、「脳卒中る」なんて動詞はないわけです。

「今日は朝から家にひきこもってたー。」なんて台詞、
僕らの感覚としては、誰が使っても違和感はないですよね。

「ひきこもる(u)」という動詞にもなり、使い勝手が良く、
日常生活でも何気なく使われる、この「ひきこもり」という言葉。


じゃぁ、
朝からひきこもってたよーとか言っちゃっている学生と、
この「ひきこもりシンポジウム」でいう「ひきこもり」は同じ人を指し得るんでしょうか?

うーん、なんだか、違うような気はしますよね。

でも、
そこまで深刻なイメージはない、そんな気もしませんか?
いやいや、
深刻なイメージはある、という人もいますか?


「ひきこもり」って気軽に使うわりに、
「ひきこもり」の深刻そうなイメージは持っていて、
深刻そうなイメージを持っている一方で、
「甘え」だ、「怠け」だというネガティブな感情を抱いている。

甘えだの、怠けだのっていうのは、
「朝からひきこもてったよー」って人のような気がします。

それと、ゴッチャにしているんでしょうかね?

私が家でひきこもるのは、甘えや怠けで、
事実、遅刻したり、欠席すれば社会的に「甘え」や「怠け」と非難されますからね。

イコール

ひきこもってるやつは、
超甘えているやつか、超怠けているやつだ、って認識につながる、と。



話題になっている「ひきこもり」と、何気なく使う「ひきこもり」が
同じ状態、同じ人を指さないだろう、という感覚はあるけれど、
文字にしてみれば同じ「ひきこもり」。

「イメージのしやすさ」は、「考えるきっかけ」を奪います。
正しい理解をしないまま、「わかったつもり」になりがちになります。

これは、怖いことです。



実際のイメージと違う、ってことは、誤解です。
誤解は、距離を生みます。

ホントのところはどーなんだ?という追求をしないまま、
「ひきこもり、って、そんな感じでしょ?」とイメージに惑わされてしまう。

それは、
当事者を社会的に追い詰めることにもつながります。


あなたが持っている「ひきこもり」のイメージを思い浮かべてください。





多くの人が、「そういうイメージ」を持っている社会で、
自分が、または、自分の身内が「ひきこもり」になったら、


どうですかね。




家の外に出たくても、同級生に会うかも知れませんね。
同級生や地域の人には、どう思われているんでしょうか。

正月、親戚に会ったらどうします?
あいさつに行かないといけませんよね。

職場の同僚に、
「お前んとこの息子、今度、受験生だろー」とか言われたら、どうします?

うちの子、勉強しないのよー(笑)、などと、気軽に相談できますかね。




また、
この、「ひきこもり」という言葉は
支援機関とのマッチングにおいても不都合を生んでいるようです。

「ひきこもり」は一つの状態像を指す便宜上の言葉でしかありません。

実際はいろいろな状態があます。

医療的な介入は必要か?
日常生活のレベルは満たしているのか?
どれくらいの範囲なら出ることができるのか?
どれくらいのコミュニケーションができるのか?

また、↑のような状態に加え、
年齢や家族、本人の状況もあわせて捉えれば、本当に様々な「ひきこもり」があります。
中には、最近話題の発達障害を持っている人もいるかもしれません。

・・・かもしれません、というか、
実際のところ、わりと高い割合で発達障害を持っている人がいるっぽいです。



「ひきこもり」という1つの言葉にひっくるめられているけれど、
様々な状態があります。

それは、イコール、
その状態に見合った援助が必要だ、ということです。

医療的な介入が必要な状態なのに就労支援の団体に援助してもらってもミスマッチです。
逆に、医療的介入が必要じゃない状態なのに精神科にかかってもミスマッチです。

じゃぁ、
その状態に見合った援助を受けられるところに行けばいいじゃんか、
と思うかもしれませんが、
そういうわけでもないみたいです。

誰が、その判断をするんですかって話ですよ。


まず、ひきこもりについて幅広い知識があり、
かつ、様々な援助機関の特徴を把握していなければ、
「うちよりも、こっちに行った方がいいですよ」っていうアドバイスはできません。

援助機関の横のつながりっていうのは充実しているんでしょうか。



シンポジウム自体は、いろいろはお話を聞くことができたし、
また、いろんな問いも自分の中に生まれ、考える「きっかけ」をもらえたという点で、
参加してよかったな、って思っています。


さて、

しかし、
ひきこもりの理解と支援をテーマにしていたのに、
結局のところ、支援につながるためにはどうしたらいいのかっていうところを
もっとしっかり触れなくてよかったのだろうか。

「ひきこもりには、いろんな状態があるんですよー」、
「これはあくまで、僕の場合ですがー」と、
ひきこもりの多様性を語り、その意味で理解は広まったのかもしれないけれど、
支援っていう部分が弱かったと感じたのは僕だけでしょうか。

<ゴール>

2007-12-13 01:38:21 | Weblog
ひきこもりの<ゴール> 
―「就労」でもなく「対人関係」でもなく (石川良子 著)

という本を読みました。

ひきこもりの<ゴール>って、「どこ」にあるんでしょうか?



書店で、この本のタイトルが目に留まり、しばらく考えてしまいました。



不登校・ひきこもりの家庭への訪問サポートをしているものの、
僕はサポートの中で、これといった<ゴール>を強く意識していませんでした。

というか、
この本のタイトルにもあるように、
例えば、対人関係を獲得したら、働くことができたら、そこが<ゴール>なのか?と。


そうでしょうか?


僕は、不登校やひきこもりの家庭に訪問しても、
僕が何かを変えてやろう!だなんて思っていません。

僕には、そんな力はありませんからね。




親御さんは、
「とにかく家の外に連れ出してください」と願います。
「何か、こう、打ち込めるものがあれば良いと思うんです」、と、言います。


そうでしょうか?


家の外にでたら、解決でしょうか?

何か打ち込めるものが見つかったら、解決でしょうか?

家族以外の人間と関係を築けたら、解決でしょうか?


ひきこもりを抱える親という立場にない僕は
親御さんたちの焦り、不安や悩み、訴えに共感することはできませんが、
察するに、その深刻さは相当なものでしょう。

この子は、将来どうなってしまうのだろうか!?
学校にも行かず、働きもせず、
この子は生きていけるのか??

そんな不安や悩みを抱えていれば、
悠長に「まぁ、なんとかなるらー」と構えていられるわけがありません。

だから、(痛みを想像できる、想像したい、という意味で)僕は、
親御さんたちの抱える不安、焦り、悩みが「わかります」。

しかし、
そうかといって、
何をもって解決とするかは、さて置き、
早急に解決を期待するのは如何なものでしょうか?




この本の中で石川さんは、
ひきこもりを「実存的問題」として捉えています。

いかに生きるべきか?
何のために働くのか?
その存在に価値はあるのか?

行為が成り立っていること自体が、その問いの答えになる、と石川さんは言います。
実存的な問いに、僕たちは「行為」のレベルで答えを出しているです。

しかし、
石川さんは、「とりあえず働け」、「動けば、なんとかなるから動いてみろ」というような、
社会参加を迫るような脅迫的なメッセージは
当事者には響かないし、むしろ、さらに苦しめる結果しか生まないだろう、と指摘しています。
つまり、
「行為」があれば良いってもんでもないんだ、ということですね。


さらに石川さんは、
ひきこもる「かれら」が向き合っている問題は、
「わたしたち」のものでもあるという認識を持つことの重要性を指摘しています。


勉強する意味ってのは、
勉強しない人だけの問題ではないし、
生きる意味ってのは、
自殺志願者だけの問題でもありません。

同じように、
なぜ自分は存在するのか、どう生きていくのか、という
社会に存在することへの問い、実存的な問いというのは、
なにも、ひきこもり当事者だけに課されたものではないんですよね。

しかし、
「実存的な問い」に対する「答え」を出すのは、おそらく、想像以上に苦しい作業になります。

ひきこもりは、「甘えだ」、「怠けだ」と多くの批判に晒されています。
それは、
「お前らは楽しているんだ。社会に参加している私達の方はよっぽど辛いんだ!」と、
言わんばかりの批判です。

そんな批判は、さらに「かれら」を追い込み、ひきこもらせます。


そう、まずは、
当事者の経験を理解することで、
ひきこもりを排除する社会の構造、社会に根付いた価値規範を見直す必要があるんでしょう。



また、
ひきこもりには「実存的問題」という側面以外にも、
「適応の問題」という側面があることも忘れてはいけません。

ここでは、
「社会性の問題」、「コミュニケーションの問題」、「精神的な発達の問題」といった
社会参加に必要な側面の問題を
総合して、「適応の問題」と呼ぶこととします。

ひきこもりの時期にもよりますが、
家族以外の人間との対人関係を閉ざしてしまえば、
もちろん
社会性やコミュニケーションスキルを身につける機会はありません。
そして、それに伴い、
精神的な発達も遅れます。

ある程度、歳相応の社会性、コミュニケーションスキルが身についていなければ、
集団に馴染めず、いづらさを感じることは容易に想像できますよね。

社会性やコミュニケーションに障害を持つ自閉症などの発達障害が、
ひきこもりの背景として指摘されているのも納得できます。

あいさつもできない、
どんな反応をしたらいいのかわからない、
会話のキャッチボールができない。

社会性やコミュニケーションなどといった「適応」の課題というのは、
僕たちがそれでも、それなりに、そこそこ問題なくクリアしてきた課題です。

こういった課題は、長い時間と他者との相互作用を通した発達の中で
時間をかけてクリアされていく課題なので、そういった課題の遅れ、未解決は、
適応において大きな影を落とすことになるわけです。

しかし、
この「適応」という課題も、何もひきこもりだけの課題ではなく、
ひきこもりではない人にとっても同じ課題だということを忘れてはいけません。


つまり、つまり、つまり、

ひきこもりも、ひきこもっていない人も、
同じトラックの上を走っているだ、ってことですよね。


自分が経験していない「痛み」を共感することはできませんが、想像することはできます。

想像してください、いや、想像しましょう。



同じトラックの上を走っています。
でも、コースは違います。

その違いは、ひきこもりかどうかの違いではなく、
「わたし」と「あなた」という違いでしかないんですよ。