大きな樹の下で。

大きな樹のようなヒトになりたい。
みんなの憩いの場となる樹のような、
心の広い、
でっかいヒトに。

学び

2008-04-29 20:36:30 | Weblog
みなさん、さようなら。

社会における白内障的存在、僕です。
見かけたら、見なかったことにしてください。


最近、ふと思ったんですけど、
僕のこと、ひどい男だの、付き合いたくないだの、いろいろと言う人がいますし、
僕は何を言われても別に良いんですけど、
むしろ、もう、事実、兼、ネタみたいなところもあるんですけど、

よくよく考えると、、、
僕の周りに誉められるような恋愛をしてきた人がいるのかっていう、ね、
そんなつっこみをしてみたくなったんですよ( ゜д゜)


みんな、所詮、そんなもんでしょ。




モラトリアムって言葉、知っていますか?
本来は経済学の言葉らしいんですが、
心理学の分野では、
「モラトリアム」とは、大人になるための準備期間であり、
心理的にも社会的にもまだ発達の途中である青年の
社会的な責任や義務をある程度、猶予している期間を意味します。

どんだけ~このモラトリアムが許されるかは、
文化や時代によっても異なってくるわけですけど、
まぁ、とりあえず、僕がMr.モラトリアムであることは間違いないですね。

社会で、それなりに生きていくためにも、
今や短大なり、専門なり、大学なり、と、高校の「其の先」に進むことは
何も珍しいことではありません、よね。

んで、ね。

僕が思うのは、

大事なのは、大学だとか専門に通うことじゃなくて、
モラトリアムを「満喫」すること、「充実」させること、なんじゃないか、と。


大学生の本分は、勉強だ、と言う人がいます。
それは、そうです。

「大学では、こんなことが勉強したい!」って、それなりの希望や妥協を持って
みなさん、進学なさるわけでございますよ。

勉強も、うん、大事なんだけれどね、
じゃぁ、高校を卒業してから大学の間に得たいもの、むしろ、
足りないもの、未熟な部分があるとしたら、
それは大学の講義や演習の中で見つかるものなんかなー?


極端な話、義務教育を終えてから、社会に出るまでに得たものは、
「知識」と、「単位」だけって、それってどうなんでしょう?


かと言って、じゃぁ、知識でも単位でもないものは、
どうやったら得られるの?と聞かれたときに、
僕は、僕なりの「応え」しか持ち合わせていないわけだけれど。


テキストに書いてある「ポイント」みたいに、
得ようと思って何かを得る、んじゃなくって、
中学生時代の部活動みたいに、
何かに向かっていく中で、気がついたら得ていたもの、講義じゃ教えてもらえないものが、
きっと、あるし、その類のものが、
社会に出ていくためには大事になってくるんじゃないかな、って、思うんです。


もう、なんだかんだで大学4年生。

其の先の進路はまだ未定です、が、このモラトリアムに
僕は、どんだけ~心理的に、社会的に、発達できたんだろう?

善意の道は

2008-04-12 20:34:59 | Weblog
今、静岡にいます。


高校に入ったのに携帯電話を買わない弟。

兄)欲しくないの?みんな、持っているでしょ?

弟)いや、別にみんなが持っているからって
絶対に必要なわけはないじゃん。
俺はね、それでも持つ必要があるのか、
その必要性を考えているんだよ。

携帯電話を持っていない5%の人間なんだよ、俺は。

兄)いや、でもさ、95%の人が日常生活で使っているんだよ?
昔はなくても良かったかもしれないけれど、ほんとに持たなくても良いものだったら95%も所有していないら?と、言うと、

弟)んー、まぁ、そうだけど。

兄)欲しくないの?

弟)・・・欲しい。明日、買いに行くけどね。


やっぱり、僕の弟ですね。

家に帰ると、wiiのマリオカートがありました。
ハンドルのコントローラーは弟が使い、
僕はキューブのコントローラーを使いました。

なんだか調子が良くって、上位にランクインしていた僕でしたが、
ちょっとステージのトラップにひっかかり、最下位に。

最下位になった僕に向かって弟が言いました。

「そうそう、なつき兄ちゃんは最下位が似合ってるよ。」


僕の肩こりは、他人様を見上げることから来ているような気がします。


ATフィールド、今日も全開です。

どうも、絶望のスナツキンです。

友達に誘われた買い物で友達よりも買い物をしてしまう人です。



善意の道は地獄に通ず。



「ひきこもり狩り」という本に出てきた言葉です。
僕に「支援」という言葉の意味を深く考えさせてくれました。

教育に携わる人、携わりたいと思っている人には、
この言葉の意味を、一緒に考えてほしいです。

支援。


善意ほど、美しくて、タチの悪いものはない、
とは言い過ぎかもしれませんが、

「お母さんは、あなたのことを、こんなに考えているのに!」とか、
「私は、あなたのことをこんなに好きなのに!」とかね、
言われた方からすれば、「しらねーよ」って言う話です。

いや、また言い過ぎました。


言いたいのは、「善意」の押し売りほど迷惑で、
ときに人を追い詰めるものはないんだ、ということです。

僕は、「やりがい」だとか、「夢」だとか語る人が教師になることに
幾ばくかの不安を持っています。
いや、理想や、やりがい、それ自体はすばらしいと思いますけど、ね。


「善意の道は地獄に通ず」とまでは言いませんが、
「こんな子どもにしたい。」、「子どもに、こんなことを伝えたい。」などと、一見、子どもの目線に立っているような発言でも、
それは、本当の意味で「子どものため」なのかっていうところを
あえて問い直してみたい、のです。

それは、自分の教育観とか、理想の教師像の実現のために
周りを巻き込んでいるんじゃないか、と。

僕がかつて出会った、自分の理想だとか、教師像を持った
「我流」の先生たちも、きっと、「子どものため」という旗掲げていたはずなんですよ、きっとね、きっと。

「子どものため」という旗を掲げて、愛するわが子を追い詰めていく親、というイメージは持ちやすいかもしれませんが、
同じようなイメージは教師にも当てはまると思うんです。


そうなり得る可能性を、イメージを、
教育に携わる人たちはどれだけ抱いているのだろうか、と、ふと思うわけです。

社会人っていう枠組みで言えば、教師も同じ「社会人」なんですよ。
お金を稼いで、食っていくんですよね。養っていくんですよね。

ところが。

教育系の学生は
お金を稼ぐ、ということに対してネガティブなイメージを持っている、
という印象があります。

お金のためなんかじゃないんだ!
俺は、私は、子どものために汗を流すんだい!!ってね。


やりがいや理想に生きるのも、それはすばらしいことですけど、
あまりそれに傾きすぎると、それこそ、
善意の道はどこに行くのかわかりませんよね。


理想や夢、やりがい、といったものは、自分の中から出てくるもので、
教育や支援、といったものは、「相手」が不可欠であって、
個々人のやりがいや、理想、夢が、

必ずしも、

教育や支援に対してプラスに影響する、とは限らないんです。


まどろっこしい文章で、すいません。

つまりは、
「子どものためだ!」と、理想に燃えている人こそ、
融通が利かなくなったときに怖いものはない、ということを
僕はあえて言いたかったのです。

ネガティブパンチ

2008-04-09 20:33:53 | Weblog
先日、ボーリングにいったんですけどね、
まっすぐ球は転がっているのに、びみょ~に残るんですよ。

友人いわく、
心がひねくれているからだ、そうです。

スコアは108でした。

友人いわく、


煩悩じゃん。


生ける煩悩、どうも、僕です。


文字通り、痛快に始まりました。
今日も、なまあたたかい空気と、
「これくらいのことでイラつく自分にイラつく」と言わせしめる内容を目指して頑張ります。

三途の川は、平泳ぎで泳ぎます。どうも、僕です。



先週末の日曜日には、語りbar@名古屋がありました。


段取りが悪かったり、笑い声がうるさかったり、みなさん申し訳ないです。
自分の好みで「KIRIN THE GOLD」を買っちゃって申し訳ないです。


こう見えて僕は、自分から話の輪に飛び込んでいくのが苦手で、
積極的に語り歩いたかと聞かれると自信はありませんが、
けっこう濃い時間を過ごすことができて、僕自身はわりと満足している方です。

あんだけお酒を飲んだのに覚醒しなかった自分を誉めたいです。



今回の日記に綴る思いは、
僕が心理系に収まらず、教育系にも強く関心を持ち、
こうやってフェスタのスタッフまでやっている原点、というか、根本に関わってきます。


僕は、超個人的な理由で、教師という職業が嫌いです。

それはまず、自分の両親が教師というだけで
されたくもない評価をされ続けたこと、
僕自身ではなく、教師の息子という呪縛に苦しんだことが理由の1つです。


教師の子ども、すべてが僕のような悩みを持つとは限らないし、
割合で言えば、僕のようなケースはマイノリティーかもしれません。



でも、いつだか読んだ本の中に、
僕と同じような苦しみを持っていた女性が、
教師の子どもの精神的健康について論文を書いていたのを知り、
少なくとも僕だけじゃない、と、少しホッとしたのを覚えています。

小学生あたりの子どもとその保護者は、
政治家、芸能人、医者や社長のように教師を並べていました。

今はもう、教師の位置づけも変わってきたかもしれませんが、
僕の少年時代は、「そういう時代」でした。


あまり詳しいエピソードは控えますが、
仲良くしたい友達の家で、友達のお母さんが
「うちの子は頭が悪いから、なつき君の爪の垢でも煎じて飲ませてやってよ。」と
その友達の前で僕をダシに嫌味を言うことが日常でされていれば、
どういう友人関係に陥りやすいかは想像つくと思います。




僕は、別の理由でも教師という職業が嫌いです。

一見、「もっともらしい」意見のように聞こえることでも、その原点は、
超個人的なネガティブな学校体験・教師体験から発しているので、
「お前の意見は偏っている」といわれれば、僕はそれを否定できません。

少なからず、そういうところはありますからね。


語りbarで語っていて、改めて確信した思い、
言葉にして、すっきりした思いがあります。

それは、

僕は教師という職業が嫌いだけれど、絶望はしたくないし、
僕が「アンチ教師」を掲げるのは、それだけの期待があるからなのだ、ということ。

好きの嫌いは、無関心、ということです。

僕は、教師という存在、教育というテーマに「関心」があります。



語りbarで言われました。

なつきはズルイ、と。


教師や学校を批判するばかりで、「じゃぁ、どうすればいいか」がない、と。


はっきり、と、ストレートにぶつけてもらってすっきりしました。


確かに、僕はズルイ。今のままでは、ね。

だから、僕は「現場」に入りたい、と思っています。

スクールカウンセラーでも良いし、不登校児の支援施設、適応指導教室でも良い。
学齢期の子どものいる、「教育の現場」に入りたいです。

制度だとか、組織だとか、大きなもんは変えられないけれど、
「なるべく、たくさん」を目標にして、目の前の「1人」から僕は関わりたい。

でも、今の僕には、まだできない。
だから、僕はそういう意味でズルイ。

まぁ、具体的にどうしようもない状況で批判することがズルイということならば、
同じように夢や理想だけを並べるのもズルイということになるのかもしれない。


ズルイという評価も甘んじて受けて、あえて打とうと思います。

ネガティブ・パンチ。

夢や理想なら、僕意外の人間と語れば良いからさ。




アスペルガーって何?とか、自閉症って引きこもりのこと?とか、
平気な顔して言ってる人が教師を目指していることが、怖くて仕方ないです。

学校の先生であれば、不登校児を学校に登校させるのが使命だ。
自分は学校が好きだったから、ぜひ学校に来てほしい、と、
そういう発言を聞いてしまうと、僕は現場を知らない、知ったかぶりであろうと、
隣にそういう子がいたら、僕は黙っていらんないんですよ。


勉強がどうしてもできない子、忘れ物をしてしまう子を
毎朝、1時間、「愛」という理由でみんなの前でお説教していた先生や、

発言が苦手な子、なかなか挙手ができない子を
机ごと教室の後ろに追いやることを正当化し、恐怖で授業を支配した先生、

目の前で、何人かの生徒にどつかれる生徒が「見えない」先生、

校門をくぐって庭を車で一周したら登校扱いにすると持ちかける先生、

学期末には、それまでの配布物をいっぺんに送りつける先生、

卒業証書を渡すときだけ訪れる先生、

みなさん、ご自分の美学と愛を持って学級を運営されていました。

こーゆー先生と、僕はどういうわけがご縁があったんですよねぇ。

だから、美学とかロマンとか掲げて、自分流を貫く先生を僕は「怖い」と思っています。


「すごい先生」とか、「カリスマ先生」は増えなくても良いから、
「可もなく不可もない先生」が増えたらうれしいです。





ここで、ひとつ。

繰り返すけれど、僕は教師や学校を批判して、ぼろ糞に言って、
それで、はい、おしまい♪に、したいわけじゃない。

そんなマスターベンション的なもんじゃない。

夢と理想に目を輝かしている教師志望の学生に
ネガティブ・パンチを喰らわしたいんですよ。

んで、一緒に語ってほしい、考えてほしいんです。

だって、きっと、
少なくとも僕が生きているうちは、学校はなくならないだろうし、
批判だけ言ってても変わらないんだとしたら、
僕は、教師志望の学生と語り合い、育ちあい、
つながって、一緒に共同戦線をはりたい次第でございます。





最後に。

語りbar@名古屋で、ふと思ったことだけれど、
教育系の人間に「仕事に求めるもの」をアンケートしたら、
「やりがい」や、「自己実現」のような項目の得点が高くて、
「お金」とか、「安定した収入」といった生々しい項目の得点は低いんじゃないかなぁ、って。

自分で統計を取ったわけでもないし、そういう資料を見たわけでもないけれどね。

そして、
それが良いとか悪いとかを、ここで語ろうとも思わないけれどね。


どうですか?

僕の直感は。

エネルギー

2008-04-03 20:32:05 | Weblog
ふと思い立ってね、眼科に行ったんですけどね、
そういう日に限って休診だったりするんですよね。

世界を救う「新しいエネルギー」っていうのは、
効率の悪い僕から出ている「無駄なエネルギー」だと思うんですよ。

だから、世界の研究者のみなさんは、僕みたいな無駄の多い人間から
エネルギーを抽出する装置を開発してください。
そのためにかかる経費及びエネルギーこそ、「無駄」ですけどね。

どうも、人を不快にさせることには定評のある僕です。

思い出したくない、想像したくないことを、2日連続で夢で見てうなされて起きた上に、
朝から腹痛に襲われ、回復してから駆けつけた眼科には「受付は終了しました」の看板。

もう、「僕、終了のお知らせ」かと想いましたね。


せめて再起動になると信じながら、今も生きています。一応。





無批判に受容すること、逆に、コテンパンに批判すること、
それらって、どちらも「楽」なんだなぁ、と思います。


いいよいいよって、見えている問題にも目をつむり、
問題が顕在化したときには一緒に反省会っていう傍観者も楽だけど、
あれがだめだ、これがだめだ、と、個人を否定し、集団、組織を批判することも、
問題解決から逃げている、直面しているようで背を向けている、という点で
どちらも「楽」をしているんだなぁ、と思います。


必要なのは、「じゃぁ、どうすればいいか」というところですよね。



物理的にも精神的にも余裕がないときは、
ついつい批判精神に走ってしまいがちですが、そんなときこそ、
「じゃぁ、どうすれば個人は、集団は良くなるのか」ってところに
取り組まなければいけない、と、そう思うわけです。

それはエネルギーの要ることだし、しんどい作業です。
問題に対峙し、それに働きかけるんですからね。



感情もあるし、矛盾だってある、不完全な人間なんですから、
不平や不満を言うな、とも言わないし、批判もいいですけど、
対峙すべき問題からは逃げたくないですね。