大きな樹の下で。

大きな樹のようなヒトになりたい。
みんなの憩いの場となる樹のような、
心の広い、
でっかいヒトに。

書中お見舞い申し上げます。

2008-08-08 03:39:51 | Weblog
教育実習でお世話になった母校と担任、クラスのみんなに手紙を送ったんですけど、
今日、郵便受けを見たら、クラスの子が暑中見舞いを送ってきてくれました。

クラスへの手紙は、担任宛に書いたので、
たぶん、担任にでも聞いて、封筒の裏に書いてあった住所を知ったんだと思います。
まさか暑中見舞いなんて来ると思わなかったし、
それ以前に、「あれ?何で住所知っているの?」って感じでしたからね、
うれしいサプライズでした。

はがきに、初音ミクがプリントしてあったのは秘密です。

教育実習的に、こうやってハガキもらうのってマズイですよね。
でも、学校に出した手紙に書いた住所を見て書いてきてくれたとなると、
それは仕方がない気もしますしね。

・・・あ、もしかしたら、こういうことも考えて、
学校宛に出す手紙には住所を書かないべきだったのかもしれない・・・。

しかし、もう、過ぎたことは仕方がないですね。
・・・事実、暑中見舞いは僕のマンションの届いたわけで・・・。

みんな、元気にしているかなぁ。

院の受験勉強がつらくなると、
教育実習でもらった色紙を読み返しています。

僕は、なぜ、教師ではなく、臨床家として教育に関わりたいのか、
どういう臨床家になりたいのか。

自分が働く上で大事にしたいこと、ゆずれないものは何なのか、
そういったことを、思い出させてくれます。

お金や安定も大事だけれど、
それが何よりも譲れないものだったら臨床家は目指さないですからね。

結局、オールAの仕事に就くのってなかなか難しい気がするんですよね。
安定とか、転勤とか、職場の雰囲気とか、給料とか、仕事の内容とか、
将来性とか、やりがいとか、いろーんな要素があって、
それらすべてにAを求めてたら社会になんか出れませんよね。

どこかで妥協は必要だし、自分の中の譲れないものがあるなら、
それを基準にすればいいんだと思います。

いろいろ悩んできましたけど、
僕にとっては、色紙や手紙を読んだり、
不登校やひきこもり、教育の話をしているときに湧き上がるものに、素直でいよう、と、
そう思います、今は。

よし、夏休みを充実したものにするぞ、うん。


と、決意を新たにしたところで、どうも、僕です。
そうです、モナ騒動に心を痛めている僕です。

勝手に騒ぐ世間に、「お騒がせして申し訳ありません」っていうのに、
やっぱり納得がいかないです。


勉強しているときに、
「よし、ここまでいったら休憩しよう」って思っているのに、
その直前でコックリしてしまい、気がつくと机に突っ伏している、そんな経験はないですか。


尊敬する先輩や、できる友達の話を聞いていて、ある共通点を感じます。

それは、
いかに効率良く成果をあげるか、ということを常に考えている、ということです。
そして、それを実践していて、結果、効率が良いんです。

僕はアレです、頭では考えているけれど、実践が伴わないし、
どこかでコストを削っても、どこかで大きな無駄が生じて、
結果、やっぱり効率悪いっていう残念な子です。はいはい、お疲れ様。


思考が拡散していく一方で落ち着かないし、
時間とエネルギーをかけるべきところなのに、その先に進めることに囚われて手薄になり、
んでもって、また、「あ、あれ、なんだっけ?」って戻ってきて、ロスが生じる、というね。

あーあ。

わかっているのに、なかなかこれが改善できないんですよね。


努力という「免罪符」を手に入れようとして必死なのかもしれません。


THE 学校文化の適応児って感じですね。


これは、努力と効率の話ですけど、
そもそも
すべてのエネルギーを一点に集中できることって、
それだけで恵まれているんだなって、そう思います。

効率の悪さを努力でカバーできる状況にある、ということがね。

仕送りがもっと少なかったら、
勉強に必要な書籍代とか、生活費のために、もっとバイトしなければいけなかっただろうしね。


関わっているサークルなどの団体にも、迷惑かけちゃっています。
大変ですねって言ってくれるけれど、
その言葉に甘えちゃいけないなっていう気持ちもあります。

ごめんなさい。


たかがサークルかもしれないけれど、
勉強を本業としたら、副業になるかもしれないけれど、
当然のようにブッチするのは、なんだかなって思うんです。

まぁ、参加できない、協力できていないっていうレベルでは同じなんですけどね、
気持ちの問題です、自分の中の問題です。

だから、
自分のことで、さも当然にあらゆることを切れる人は
ある意味、すごいなって思ってしまうし、違和感を感じます。

そういう人に限って、自分が関わっているものに関わらない人がいると、
その人に対して辛らつな言葉を吐いたりするんですよね、これは偏見ですけど。


自分の都合で周りを動かす人って、
よくよく見てみると、人の都合に合わせることに抵抗ない人や、
長子っぽい人が周りにいるんですよね。

お互いが、そういう関係に依存しているのかもしれないですけどね。


だから、我がままな人には、それを許してしまう、我がままを聞く人がいるってことですよ。
ちょっと考えるとアタリマエですけど、実際にそういう人間関係を見ていると
これはまた、理屈で納得する以上に納得してしまいます。

少し話がそれましたが、

今、この効率の悪い僕が、それなりにも努力でなんとかしようともがくことができる、
この環境に感謝したいですね。

っしゃー、今日も1日、頑張るぞー。


自分を生きる。

2008-08-08 03:39:16 | Weblog
「君は君のままで良いと思うよ」的な発言ってあるじゃないですか。

例えば、
世間には迎合しないであろう価値観を持った青年に対して
「なっちゃん(仮名)は、それで良いと思うよ。
そういう人とは違う価値観を持てるって良いと思う。」ってね、あれ。

受容的な態度とかね、相手の尊重とかね、言葉の上では簡単なんですよ。
でも、ホントの意味で受容とか尊重ってなかなかできないと思います。

しかも、
その受容的で尊重的な態度は、一見、「認めている」ようで、
それはどこか「切り離し作業」的なニュアンスを感じてしまいます。

君はそれで良いと思う、の裏にある「私は違うけどね!!」というメッセージ。


本人がそれでいいなら、それでいいじゃんっていう、あれね。
それはもう、関わることを放棄している態度とも取れますよね。


僕はよく言われるんですよ、「良いと思うよ!」って。

ああー、また自分の価値観を前面に出しすぎて
めんどくさいと思われてしまったのだろうな、とちょっぴり反省会。

いやー、だって、めんどくさそうに言うんですもん。
「ははは、あー、もう、あんたはそれでいいんじゃない?」的な感じでね。


別にわかってもらおうとか、受け入れてもらおうとか思って話していないので
それは別に良いんですけどね、表面的には平和的に「いいとおもうよ」とつくろっておいて、
衝突を華麗にスルーする、というね、これもまた適応方略なり。



多くの人からの尊重を頂いております、
今日の僕があるのもみなさんの暖かい尊重と侮蔑のおかげです。
どうも、僕です。


今日も、元気です。


最近、「よい子」の問題について考えています。

「よい子」ってのは、
親や教師、友人の期待をすぐに察知して、自分の気持ちや意見を抑制してでも、
周囲の期待や要求に応えようとする子のことです。

いかにも、
教育学部生や、教師や医者の子どもに多そうですね。
これは完全に偏見ですけど。

かくいう僕も、よい子でした。

ご近所では、どうしたらそんな風に育つのかしら、と評判でしたよ。


笑っちゃいますよね。
僕みたいなのが再生産されていったらカオスですよ、社会は。

僕みたいなのは、例外で良いんですよ。
時々いるじゃないですか、変な色のカラスとか、鳩とか。

教科書配布でいうところの「乱丁・落丁」ですね。
プレミア感のかけらもない。


「よい子」ってのは、周囲の期待や要求に応えることで自分の存在を確認します。
周囲の期待する自分が自分であり、
その自分を失うことは、死を意味します。

それとなく学校に適応してきた子って適応努力はすごいけれど、
穴埋めが得意であって自由記述は苦手なんですよねー。イメージだけど、どうですかね?

こうすれば認められる、こうすれば大丈夫っていうアルゴリズムみたいなのが
もう身体に染み付いているんですよ、きっと。


で。


何が問題なんだっていうとですね、
そうやって周囲から塗り固められた、よい子像という型に入っていて
その型を破ることができないと、
「自分」ってものが成長しないと思うんですよ。

自分で確立した「自分」ではなくて、
親や教師の期待で作られた自分を「自分」と錯覚している場合もあるんじゃないでしょうか。

「自分」を生きることができないまま、身体だけ大人になってしまう、
そんなよい子コースを進んでいけば、おそらく、どこかで大きな挫折を味わうでしょう。

よい子の息切れ型ってのが不登校の類型でありますけど、
ひきこもりのケースを見てても「こんなはずじゃない!」ってね、
挫折を受け入れきれずに退却してしまうったケースが見受けられたりします。

求められている自分とのギャップを自覚している場合も大変です。
求められている自分と、自分の中の「そうじゃない自分」のギャップが特に強く、
思春期の「自分崩し」に大きな困難を抱えることが予想されます。

僕の場合はまた極端な例かもしれませんけど、
小学校時代の僕は、「先生の息子の」という形容詞が付きまとってきました。
よい子、という前提で認められる自分、というものを
小学校時代から感じていましたし、
その自分を崩したい、「でも」できない、という不全感も感じてきました。

一見、「気まま」に生きている非行生徒に強い憧れと嫌悪感を持っていました。
いや、気ままに見えるだけで、彼らは彼らなりの葛藤や悩みとかあると思います。

でも、当時は、
自己制御せずに、言いたいことを言って、やりたいことやっている彼らが
嫌いで、うらやましくって、アンビバレントな感情を抱いていましたね。

こんな話を教育実習で実習仲間に話したら激しく同意されました。
最初はとても驚いていて、
「なぜ、自分の気持ちをこんなにリアルに話す人が目の前にいるのか」
というようなリアクションでした。
「なんで、なんで?」って、うれしそうでしたけど、思い出して、つらそうでもありました。


よい子は、一回、どこかで「死」ななけれなばいけません。

よい子じゃなくても認めてもらえる、
良くない自分でもいいんだ、という体験をする必要があると思います。


大学に入学して何回か呑み会を経験し、
「酔いたい」と思ってもどこかで身体が無意識にセーブしていて
どうも不完全燃焼で終わっていた僕を
駐車場で寝るなんていう馬鹿な行為にいたるほど
自分を解放できた、させてくれた大学の友人には感謝しています。

気がついてみれば、
その良い子の病理が卒業研究につながっていたりします。

最近、気がつきました。


条件付きの受容じゃなく、
ありのままの受容、そのものの承認って大切ですね。


望んで生まれたわけでもないこの命。
人のために神経すり減らして生きてたら、馬鹿らしい。

自分を生きたいものです。

何になるのか、何をするのか。

2008-08-08 03:38:38 | Weblog
最近、麦わら帽子がお気に入りです。

いつもインドアな生活を強いられているので、
気分だけでもサマータイムってことで、夏の男っぽく振舞っています。見かけだけ。

ろくに外出していないのに、
「よくやけてるね」って言われるんですよね。

浪人生のときは、アドバイザーに「まっくろじゃーん。遊んでるね~」と言われました。


いやいやいや、
世間が夏休みに入っても僕は毎朝、予備校に通っていたっつーの。

自宅と予備校の往復で、
日中の最高気温を感じることもなく、クーラーと蛍光灯にあたってる生活の中の、
どこに「良く遊んでる級」にやける要因があると?


どうも、僕ですよ、僕。


最近の僕といえば、もっぱら院試験の勉強です。


やはり、知る、ということは楽しい。


臨床心理学も、社会心理学も、教育心理学も、精神医学も、
とにかく、あらゆる分野の心理学に触れている最近は、充実しています。



と、いかにも、一心不乱に勉強しているような自己呈示をしてしまいました。



しかし、実際のところ、やはり僕もニンゲンであるからして、煩悩は尽きません。


取り留めのないことを限りなく考えだし、妄想にふけり、焦り、凹んだり、
軽躁状態になって覚醒した状態がしばらく続いたり、
なかなかどうも、一心不乱とは難しいものです。



つい最近、ふと自分の中で了解できたことなんですけどね、
やっぱり、大事なのは、何になるか、ではなくて、何をするか、なんじゃないか、と。

あくまでも、僕にとっては、ですけど。



臨床心理学に興味がある人って、だいたい、「なんか」ある、んですよ。
・・・おそらく、この表現で大方は伝わると思います。


だから、
ともすれば、個人的な問題や葛藤と切り離せないまま、
それを動機に臨床の道に進んでいる、んじゃないか?という人は時々見受けられます。


以前、僕も、そういったところで悩んでいました。

援助したいのは、どうにかしたいのは、
誰かじゃなくって、自分自身なんじゃないのか、と。

それっぽく理由を貼り付けてるけど、結局、そこなんじゃないか、って。


まぁ、でも、それでもいいのかな、と。

そういう自分の中の問題を認識して、距離を置くことができたら、それでいいのかな、と。

自分の中の問題と、臨床家としての自分を切り離して考えられず、
とても個人的な理由で臨床にこだわりを持っているんだとしたら、それは良くないですよね。


ただ「なりたい」だけで、
どんな教師になりたいのか、を言えないようなやつは、教師にならない方がいい、と、
以前、ある先生がおっしゃっていました。

「子どもがかわいそうだ。」と。

それはきっと、臨床家にも言えることなんだろうな。




何で臨床家になりたいのか、なって、何をしたいのか。


できるかどうかは問題じゃない、今は目指している段階なんだから。

「不適王に、俺は、なる!!」(どん!!)

2008-07-08 03:37:29 | Weblog
これは、不適王をめざす成人男性が、
社会とつながる秘宝、「普通」を追い求めながらも、
対人関係や世間の常識や教養、情緒などを学習していくお話です。



先日、心理学の演習の打ち上げで院生さんに言われました。

「君は、日本人らしくないね。」


なんでも、言うべきだと思う場面ではなるべく発言したいですし、
逆に、何で周りは発言しないのかが不可解だ、みたいな話をしていたら、
そんなことを言われました。

たとえ、うまく言葉にできなくても、
なんとなくでも伝わるように、最悪、言えばよかったって後悔しないように、
思ったことは相当な見切り発車はしない程度に言うようにしています。

でも、周りは、違ってたらどうしよう、とか、
自分から進んで発言するのは気が引ける、とか、
もじもじ、悶々しているみたいで、でも、何も考えていないわけじゃなくって、
授業後にはいろいろと言っている、みたいなんですよね。

講義の、「何か質問はありますか?」に対する発言じゃなくって、
「みんなで意見を出し合って議論を深めましょう」って授業で発言しないのが
僕にはわからないし、僕の利益にもならないから発言してくれって思うんですけど、
なかなか、そういう雰囲気にもならないんですよね。

僕とか、一部の人間が発言しちゃうから余計に良くないんだ、と思って
しばらく黙り込んでみるけど、
なんで僕が、そんなことを気にしなければいけないんだと馬鹿らしくなったりもして。

しかも、授業後に言われたんですよ、「何が言いたいのか、わかんないときがある」。


じゃあ、それを言えよ、と若干、切れ気味に返答してしまいました('A`)

「発言の意図がわからない」ことを表明することが、
自分だけのマイナスですまないことを知ってほしい。

僕がうまく、意図を伝えられなかったのであれば、それは僕のマイナスにもなるわけで、
そこを指摘してくれるのは、一緒に議論するメンバーしかいないわけですよ。

まぁ、普通じゃない、というか、世間一般からズレテイルのは百も承知です。
習字を習っていたのに、まっすぐ机に向かって字が書けない僕です。


なんか、こう、いわゆる世間一般には迎合しないんですよね、僕。


僕がよく噛み付く話題なんですけれど、
イベントのときの女子生徒の涙は嫌いだーみたいな話をこの前もしました。

しかも、
女子のランチメンバーに混ぜてもらっていたところで。
こういうのを、KYと、不適応と、いやな感じのやつ、と、言うんですね、わかります。

でも、不思議じゃないですか。
ある一人が泣いたら、周りも、わーーーーって泣き出しちゃって。
泣くことが美しい、みたいな。そんなわたしたち、いけてる?かわいい?みたいな?

'`ァ'`ァ(*´Д`*)

泣くこと自体を否定はしませんけど、
キレイな涙ばかりじゃないと思いますよね。

いわゆる、一つのコーピング(対処行動)としての涙だったり、
同調みたいな現象だったりするんじゃないんですかね。

影ではぼろ糞にけなしている友達が転校することを知り、
送別会で泣いて抱き合った女の美しい友情を見てからというもの、
僕は女の涙は怖いということを学習してしまいました。

中学一年生でしたね。



悲しいから泣くのではなくて、泣くから悲しいのだ、とかいう説がありますけど、
まさにソレかもしれませんね。

泣くことで、よりセンチメンタルな気分とか、悲しい気分とか、
そういうのを高揚させてたりするのかもしれませんね。

弱った女の涙に弱い男も、不純だったりしますよね。
これ見よがしの、「良い男」を演じちゃったりしてね。

僕の認知が歪んでいるのもありますけど、
たまに、いるじゃないですか、これ見よがし君。

待ってました、といわんばかりに、いきなりモードに入る男を見ると、
あーーーはいはい、いっていらっしゃい、慰めてらっしゃい、と、
僕は冷めた視線とエールを送るわけです。

もう、さりげない優しさを心がける男とか、もう、なにそれって思いませんか。
「良い男」とは?みたいなのに影響されすぎだし、
それを心がけるってなんか違う気がするし、
まず動機が不純だし(それでもいいと思うけれど)、
それを好評価する女も女でどうなんだかって思ってしまったり。

どんなに着飾ったって、虚しくなるだけじゃないんですかね。
着飾った自分を好きになってもらっても、なんか、逆に切なくなりませんかね。

そんな、自己呈示と、ロマンスというイリュージョンが織り成す自己満足を、
世間一般の健全な男女は求めているんだとか、いないんだとか。


まぁ、いいです。

こんなこと書いていると、また、
「なっちゃんとはマトモな恋バナができない」とか
言われちゃうんだろうなー別にいいけど( ゜∀゜)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

好きなタイプとかいないの?って聞かれたら
「滝川クリステル!」と即答するのに取り合ってもらえない僕です。


こんな話をすると、だいたい決まって聞かれるのが「子どもはほしくないの?ですが、
僕の遺伝子を半分持って社会に出たら、それこそ申し訳ないですね、世間様に。

きっと、また、この世間といわれるものには迎合できない子になると思います。
だって、遺伝的にも、環境的にも、不適応にならないわけがないじゃないですか。

こんな僕が愛着を研究しようとしていたことが、いまとなってはネタですね。

それでは、今日の冒険(書くこと自体が)はここまで。

君の不適応に、乾杯☆

教育実習生

2008-07-01 03:36:31 | Weblog
教育実習の事後レポートやら、実習録のまとめをしていました。


なんだろう、ことばが自然と湧き出てくるような、そんな感じでした。


紡ぐための「ことば」も、「おもい」も、
すでに僕の中に用意されていて、あとはただペンを握るだけ、っていう、
そんな感じがしました。

「おもい」を「ことば」にする、
そして、「ことば」から「おもい」を感じるっていう作業は、
「自分との対話」なんだなって思うんです。


それはちょうど、
夢に出てくるものが、無意識の中にある何かのイメージの象徴だったりするように、
自分の「おもい」ったやつを、どんな「ことば」で紡ぐのか、
または逆に、誰かの「ことば」から、どんな「おもい」を抽出することができるのかって、
そのための「機構」みたいなやつが、僕らの中にはあるんだと思う。

なんとなくだけど。


だから、
誰かの言葉や、歌詞なんかがビシっと届くときっていうのは、
偶然なんかじゃなくって、むしろ必然じゃないか、と、そう思うわけです。

逆にね、
自分の内的な「おもい」をビシっと「ことば」にできたっていう感覚も、
それが巧みな表現であろうが、稚拙な表現であろうが、やっぱり、必然なんだと思う。

自分の内的な部分と、ちゃんと対話できたからこそ、ビシっとはまるし、ビシっと届く。


「この気持ちはなんだろう」って、もやもやしているうちは、まだ対話ができていないんだな。


だから、
この教育実習に関して、
よどみなく「おもい」が「ことば」に変換されていく感覚は格別であり、爽快です。



そして、今さっき、
後輩の実習生に伝える事項を書き終えました。


要約すれば、こういうことです。

実習生としての立場をわきまえろ、ということです。


僕の実習生としての立ち振る舞いが適切だったとは言いませんが、
いや、口が裂けてもそうは言えませんが、
やはり忘れたくはないし、後輩の実習生にも伝えるべきことだと感じました。

教師として「あるべき姿」を抱きすぎているのは危険だと思います。

いろんな人がいて、いろんな教育観があって、
「なんでもあり」ってわけじゃないけれど、「これしかない」ってものはないはずでしょ。

良い教師はいないけれど、良い教師集団ならありうるっていう、
ヤンキー先生の言葉がなんとなく、ずっと印象に残っています。

環境って、そういうもんでしょ。
特定の二者間での相互作用だけの環境って、まず有り得ないじゃん。

家族にしろ、学級にしろ、地域にしろ、
人は一人で生きてはいけない以上、社会的動物である以上、
環境とは、そういうもんでしょ。

その環境が総じて、こどもにとって良いものであればグゥーなわけで、
一様に、「こうあるべき」という信念を持ち、またそれを周囲に押し付けるのは迷惑な話です。

そして、その思い入れ、信念は、教育実習でも発揮されてしまいます、きっと。

教育実習生って、先生じゃないんですよね、アタリマエだけれど。
もちろん、「大人」として、「実習生」として、こどもに指導すべきことは指導します。
服装だとか、時間を守るだとか、落ち着いて掃除に取り組むだとか、
そういうことは言うべきです。

危険が予測される場合はとめなければいけないし、
その場、その場で、適切な判断、行動をしなくてはいけません。

ただ、その域を越えて、「先生」になってしまうのは如何なものなのか、と。

僕は実習中によく考えていました。


限られた時間の中の、限られた関わりの中でわかることなんて、本当に些細なこと、
そして、ある1コマ、ある1つの側面にしかしか過ぎないわけです。

それなのに、意気込んで生徒を指導しようとしたり、
生徒間やクラスの問題に過度に介入してしまうのはNGじゃないですかね。


指導には責任と覚悟が伴います。
そして、あまっちょろい教育実習には、それがないんです。いや、僕にはないです。

わずかな期間しか関わらないのに、勝手なことはできませんもん。


っていうか、
教育実習生は、「教育実習生」として、振舞えばいいし、
教育実習生としての「強み」は「強み」として活かせばいいんだと思うんです。

教育実習生は、若い。
生徒とは、知っている知識や話題など、何かと距離が近い。

それは、当然のこと。

だから、それでいいじゃん、ってね。
学校側も、そう言ってたし、強みは強みとして発揮したらいいじゃんね。


「教育実習生」という立場をわきまえた上で、
「教育実習生」としての関わりをすればいいんじゃん、ってことです。



そういえば。


僕は実習中、生徒からオタク扱いされてたわけですけど、
オタクについて語ってくれる先生って、いるんですかね、なんて思うわけです。
ずばり、オタク教育ってされているんでしょうかね。

冗談でオタクという言葉を使うことはあると思うし、それが悪いとは言わないんですが、
オタクって人たちを本当に蔑視しているんだとしたら、
それってどうなのって、思うんですよね、僕は。僕は、ね。

別に自己防衛したいわけでも、正当化したいわけでもなく、
何かに夢中になるという意味でのオタクは
決してネガティブなことではないと思うんですけどね。

オタク扱いされてたことをネタにしておきながら、
こんなこというのも都合良い感じがしますけど、けど、言わせてくださいよ。


何かに「こだわり」があることは、悪いことじゃないし、
むしろ、何かについて詳しいってのは、すごいことだと思うわけです。

野球オタクとかサッカーオタクは認められて、アニメは迫害されるなんておかしいってばよ。

個性だ、自分らしさだ、なんだと言われて久しいけれど、
アニメが好き、オンラインゲームが好きってのは許容されない社会なんて、



ポイズンだーー(つД`)・゜・