遺体屋の仕事

日常生活では見ることも聞くこともない「遺体屋の仕事」とは・・・

死して尚、役立つ話

2008-01-29 11:50:39 | Weblog
「世界初、顔面移植手術に成功」のニュースを聞きました。
フランスの話でこれは大変な偉業のようです。
飼い犬に昏睡中、襲われて鼻・唇・顎などを失った女性は
移植直前に首吊り自殺した女性ドナーのものを移植したそうです。
術後、女性の体調は全く順調であり、移植による継ぎ目も特に見られないと。


ひとつ重要な点があり、移植する皮膚は“生きている皮膚”であるということです。
今回は首吊りによる脳死状態であったドナーから顔面の皮膚組織、筋肉、動脈と静脈が女性に移植されたそうです。
ドナー自身は昏睡状態で組織提供の承諾をする事ができません。
家族の承諾から提供となったのでしょう。

死者からの顔面移植、大火傷の患者に実施かとの記事もありました。
記事の写真を見て頂ければご理解いただけるでしょうが
交通事故の車輌炎上により以前の美しい面影は微塵も感じられないほどの
痛ましい姿になってしまいました。
生きる事に絶望している事故後の写真の姿は、顔色が肌色に戻っているだけで
見た目は私たちが仕事で接する“焼死”のご遺体(もちろん真っ黒)にそっくりです。
特殊メイクで生前の面影に近づけようにも重度の火傷による皮膚のゆがみや組織の変形はなおす事はできません。
肌色のお化粧と焼け落ちた鼻や口などを特殊メイクキットで作る事になりますが
失ったものを完全に元通りにする事は出来ないのです。

移植は大きくリスクを伴います。
術後、患者は一生の間、身体が新しい顔に拒絶反応を示さぬよう、強力な免疫抑制剤を飲み続け、この薬はガンなどの非常に強い副作用が予想されること。
それでも危険を犯してなお“手術が必要と”されるような、顔をひどく損傷した患者にのみ施術する予定であるといいます。
死にたかった人の顔は、苦しくても生き続けることを望む人の顔になるのです。
ドナーになるべく組織提供を承諾する家族にとっては
「人の役にたてた」「無駄な死ではなかった」と思いから了承したのでしょうか?
臓器提供のドナーカードは日本にもあります。
何かを失い、本当に苦しんでいる人はきっと沢山いるのでしょう。
提供するものが顔でも自分の臓器だとしても
成功すれば患者は多少なりとも救われます。
人を助ける事が出来ます。
神経再生がうまくいかなければ(失敗)移植された顔面はまったく無駄なものになります。
自分の死後、本当に必要な人の為に自分の顔や体を生かし続ける。
皆さんならどうされますか?







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3 コメント

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Unknown (Unknown)
2008-01-29 22:00:49
ここも静かになったね。



よかった。
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Unknown (Unknown)
2008-01-30 04:53:27
>死にたかった人の顔は、苦しくても生き続けることを望む人の顔になるのです。

なんだか考えさせられました。
死にたくて死んだ人の顔は、本人が死してなお生きることを運命づけられる。罰であり、希望でもあるのですね。
これが顔でなく、臓器移植だったら、また違う感覚を覚えます。それだけ顔は、やはり象徴的なものだということかもしれません。
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命の尊厳、人権を死んだ人には認めなくていいという価値観って、テロリズムに起源してますよね? (takokuro)
2014-12-29 15:36:33
顔でも肉体でも、基本、親から授かったということは、自然の選択肢に従い、
自然の支配を尊厳するということだとすると、、、

美醜を数値化、デジタル化した価値基準で測るってこと自体、命を物質として見なしてるような気がする?

芸能界やドラマで出てくるような美男美女って、
現実生活をしないから維持できてる、夢の世界の人だから、憧れることができるんじゃあないのかしら。
その憧れって、現実社会からの一服の現実逃避で、現実生活に現れると、入り込んでくると、、色々矛盾を封じ込めたりしなくちゃならなくなってしまう。。
阪神大震災、911テロ後の日本は、どうも?日本人らしからぬ感性の人が増え、
発言力を強く持ってきてるのを思います。

死んでもその遺体に、思い出のある物に魂が宿ってるように感じるばかり日本文化や習慣では、いくら美しくても、思いつめて死んだ顔を自分の顔にするなんて、
怖いことですよね?
幽霊みたいということ?
ひどいストーカーか人間関係を、自分が引き継いでしまうってこともありますし。。。
やはり、顔はその人のもので、自分のものでないと意味がない
ヤケドを修正してもらって、自分が自分であることを証明する一部だとおもいます。
自分が美しくなるのは嬉しいですが、
自分が他の人にたとえ、見かけだけでもなるというのは、
根本的に恐ろしいことに思います。
お芝居の世界だけのこと、それ以外は、北鮮のかつての将軍様の影武者みたいな人たちってことですよね。
テロリズムがあるからこそ、そういう存在が必要であるということからも、
昭和期の日本では、そういう不気味なことを考えることさえ、
なかったこと思い、かなり、実質として恐ろしい時代になってきてるのを思います。
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