昔の望遠鏡で見ています

昔の望遠鏡による天体観望と、その鏡景写真についてご紹介します

星の林について

2021-01-29 | 天体望遠鏡
 今まで、望遠鏡をたくさん並べたところを「望遠鏡の林」と呼んできた。これは単に、重なり合う三脚や鏡筒が、まるで樹木が集合しているように見えることから、そのままを呼んでいたのであるが、「星の林」という言葉も意識していた。「星の林」は、現代では不思議な言葉ではあるが、国語辞書には載っているようだ。このことをもう少し詳しく知りたいと思っていたところ、関連した文章を見つけたので紹介したい。日本の古代文学について、自然がどのように感じられ表現されているかを、語彙の方面から述べた” 花鳥風月誌(池田亀鑑 著、昭和22年、版元 齋藤書店)” の中の「星」の項目に、解説されている。

 星の空を「ほしの林」「ほしの原」又は「ほしの宿(やどり)」などという。萬葉に「詠天」と題して、「天の海に雲の波たち月の船、星之林にこぎかくる見ゆ」とあり、夫木抄十九俊頼の歌に「ほしの林やうづもれぬらん」同經信の歌に「雲の林の星原や」同為家の歌に「さゆる夜の雲みる星の林より」等と見え、他にも所見が少なくない。「林」とは多い意、「原」とは廣い意であらう。「星の宿」は、新千載秋、經信の歌に「たなばたの星の宿に霧たちわたる」夫木抄十九家隆の歌に「祈りこふ星の宿も雲はれて」等とあるもので、平安時代の末葉に近くあらはれた語と思はれる。日月五星の宿る所即ち「天」の意である。二十八宿、二十八次(次は舎である。)などといふのも、みな同様である。(天文道の思想によるもので、上代の思想に基くものではない。)なほ宇津保の菊宴に「星の位」とあり、後代に至って「星を連ぬ」というのは、殿上人をさすのであって、「雲の上人」というに比したのである。

 「望遠鏡の林」の写真は、独りよがりではあるが撮影(当ブログ2019.4.14参照)しているので、次は「望遠鏡の原」を、どこかの星まつりで撮ってみたいものである。



 これは、「望遠鏡の川」。

ポーラーファインダー

2021-01-22 | 天体望遠鏡
 昔、タカハシの65Sセミアポ屈折赤道儀で、星野写真を撮りに行ったことがありました。その当時は、車は持っていませんでしたので、50CCのバイクで行きました。長い鏡筒(Φ=65mm f=1,000mm)を、忍者の刀のように背負い、赤道儀は後ろの荷物台に置き、三脚は車体の脇に固定して運びました。傍から見たら、きっと異様な格好だったと思います。行った場所は、山の神社の昇り口にある空地です。寒い時期で、手動ガイドを行った後に手がかじかみ、バイクのマフラーで暖を取ったことも憶えています。(通常は、熱いので触れません。)

 ガイド撮影をする前には、極軸を合わせなければなりませんが、その頃は極軸望遠鏡などというものは有りませんでした。それでは、どのように行うのかというと、当時のタカハシの鏡筒のファインダーには、北極星を入れるように二重の同心円が設けられていましたので、ファインダーを覗きながら、所定の位置に北極星が来るように、赤道儀を調整しました。高度調整は、三脚の抜き差しで行いましたが、今考えると、とても大変な作業だったと思います。
 その後、極軸望遠鏡が付いた赤道儀が開発されていくわけですが。その中間の時期に作られたのが、次のポーラーファインダーです。








 ポーラーファインダーを、四方から見たところです。口径25mmのファインダーを流用したものだと思います。単三の電池ホルダー、暗視野照明のオンオフスイッチと明るさを調節するボリュームが付いています。黒い立方体のプリズム固定金具も、がっちりとした造りです。

 赤道儀への取付方法は、極軸延長上のキャップを外し、そこにねじ込みます。





 ポーラーファインダーを覗く位置は、任意の方向に調整できます。キャップを外した画像では、赤緯軸が貫通しているのが判ります。この10cm反射赤道儀は、鏡筒径140mm用のもので、現在ミザールの10cm鏡筒用として利用しています。



 この赤道儀は先の65S赤道儀とは違い、高度調整用のボルトが付いていますので、微妙な調整が可能です(黄色の矢印)。赤の矢印のボルトを緩めて高度を調節します。また、三脚架台の底部にはボルトがあり、架台を回させることもできます。なお画像では、ウエイト軸は省略し、三脚はミザール製と思われるアルミのものを使用しています。
 
 





 


接眼鏡の散開星団

2021-01-15 | 天体望遠鏡


 防湿ボックスから出てきたドイツサイズ接眼鏡を、並べた散開星団です。こんなに集めてしまいました。でも、球状星団に比べたら少ない少ない?!

右京太夫も見た木星と土星

2021-01-08 | 日記
 大晦日に近くの親戚の家に行く途中、北西の空に夏の大三角が綺麗に掛かっていた。ベガの輝きも、透明な空で一層引き立っている。
 このような美しい星空を見ると思い出すのが、次の建礼門院右京太夫の歌である。

 月をこそながめなれしか星の夜の
 深きあはれを今宵知りぬる

 現代語訳
 月をながめることは慣れていましたが 星の夜の
 深い趣を今宵知りました

 その詞書も深い情感を感じさせる。新村 出 は ” 南蛮更紗(大正十三年初版発行  改造社) ” の ’ 月星夜 ’ という章で「日本の文学ではとにかく古今独歩ともいうべき文字がうかがわれる。」と称賛している。

 十二月の朔日の頃なりしやらん夜に入りて雨とも雪ともなく打散りて村雲さわがしく一つに曇りはてぬものから、むらゝ星うちきえしたり。ひきかづき臥したるきぬを、更けぬる程、丑二つばかりなどにやと思う程に、ひきのけて空を見上げたれば、殊にはなれて、浅葱色なるに光ことごとしき星の大きなるがむらもなく出でたる、なおめならず面白く、紺の紙に箔をうち散らしたる様に似たり。今宵はじめて見そめたる心地す。さきざきも星月夜見なれたることなれど、折からにや異なる心地するにつけても唯物のみおぼゆ。

 現代語訳
 十二月一日頃(新暦の十二月三十一日に相当)、雨とも雪ともつかないものが降りそそぎ、ちぎれ雲が湧いては消え、全くの曇天というわけでもなく、星々が雲間から見え隠れしていました。夜具を頭からかぶって寝ていましたが、午前二時頃に夜具を引きのけて見上げてみると、空は晴れて、あさぎ色(淡い青色)の空に大きな星がはっきり出ているので、ひとかたならぬ興趣を感じました。まるで紺色の紙に金箔を押したようでした。今晩はじめて気が付いた気持ちがしました。今までも月星夜は何度も見たことはありましたが、これまでと違った気持ちがして万感胸に迫る思いがしました。


 新村は「これほど星月夜を賛美した散文韻文は、この外私の未だ日本文学に見かけない所である。紺紙に金銀砂子をちらしたような冬の真夜中のはれわたった空を、追懐と愛情とに満ちた彼女は見上げて、『ただ物のみ覚ゆ』と嘆じた、紺紙に箔を散らした様だと形容したのも、書道の家に生まれた彼女として、始めて意味のある文句であった。美い意味に於いてのお里をあらはしたものである。」と評している。

 そこでは、どのような星を見ていたのかと気になるのであるが、草下英明の ” 星の文学・美術 (1982年発行 れんが書房新社)” の ’ 建礼門院右京太夫の見た星空 ’ を見ると、東京天文台技官だった小川清彦が、天文月報第23巻6号(1930年6月発行)に「右京太夫の見た星について」という短文を発表していることが判った。小川は、この歌が詠まれたであろう西暦1186年1月1日午前2時頃の星の配置を、惑星の軌道計算を試みることによって確認している。その結果は、なんと昨年(令和2年)と同じく木星と土星が、この時はおとめ座付近に見えていたのである。
 同夜を想像すると、歌の作者の頭上には澄み切った冬空が広がり、西にはオリオンやシリウスの豪華絢爛たる星々、そして南東の空にはスピカに加え木星や土星が大きな星として輝いていたのであろう。しかし、一旦床に入ったのち、また真夜中に起きて星を見たのだという。それも真冬の時期である。よっぽどの星好きだったのかもしれない。