このタグはレストア中のオールドダホンに取り付けてあります。
1972年のハワイのオールドダホンをガレージから引っ張りだして・・と言うコンセプトでレストア中です。
ですからあえてこのオールドダホンはプレームの再塗装はしないことにしています。
木曜日は透析日でベッドの中で放送大学の講義を見てました。
6時になりあと、30分と言うところでTBSのニュースを見ていると三島由紀夫の肉声テープが発見されたとう内容が流れた。
あ!三島由紀夫だ。あの市ヶ谷の割腹時間があって、公務員的な自衛官がしらけていたことを思い出す。
私は小学校5年でした。
70年代は激動の時代だったなぁ・・と思いだす。
小学校5年の担任は早稲田大学を卒業したばかりの教師で、挨拶の第一声を思い出した。
「君たちは中核派ってしっているかい?先生は中核派です。」これです。
今なら問題発言ですよね。
この先生の児童への洗脳教育がその日からはじまりました。
朝、帰りの会の歌は反戦歌か労働歌です。
いまでも歌は覚えているもので「赤き土を破りて~♪沖縄を返せ!沖縄を返せ!」こんな歌でした。
私の小学校は当時の日教組の巣窟で「国歌を歌わなくて良い」とか変な教育をしていました。
そう言えば「先生たちは今からスト権ストに入ります」と何やってんだ!と子どもながら思いましたし、「給食指導の時間は超過勤務だ!」今も思うのですが、ならば給食を食うな!って反抗期に入っていた私は思ってました。
この先生はある日アサヒグラフを見せてそれは自衛隊特集で陸海空の自衛隊の写真を見せて「君たちはこれをどう思う?」と児童に問うのです。
模範解答は「いけないと思います」だったのですが、海上自衛隊の護衛艦や潜水艦の写真を見せられて思わず私は「カッコイイ!」と言うとピンタされて廊下に立たされました。
反抗期ですから、先生の逆の思想に走る訳で、その頃、三島由紀夫の縦の会の存在しり、私は大きくなったら縦の会に入りたいと作文に書くと親は呼び出し、「どういう教育してるのですが、と母親は叱られて、貴方は黙ってなさい」母親も言われて、帰路の母親は「私は縦の会も良いと思う。三品由紀夫の文学は貴方には今は難しいけど、もう少し大人になったら必ず読みなさい」と言われました。
まぁ、小学5年の私は中核派よりいいぞ!と思ってましたから教師=日教組=駄目な大人と思ってました。
中学、高校と何度も読み返しましたが、三島由紀夫という人物は作品より難解だと思って、成人になって読みかえすと彼は少年の心を持った大人で、死生観を持って割腹自殺したんだな・・と思いました。
ああっ!歌を思い出す。「ああ許すまじ原爆を~♪三度許すまじ原爆を~♪」こんな歌朝から歌ったらモチベーションが下がるよね。
平和を維持することは大切です。
自衛隊=特別国家公務員が死んだら・・なんて論議はナンセンスで、あの市ヶ谷駐屯地で三島由紀夫が激を飛ばしても、しらけた顔していた公務員の自衛官の表情は今も思い出す。
実際のスクランブルやソ連の銃撃で無くなった自衛官もいますが、事故死として処理されていることも自衛官から訊いています。
警察官だって殉死される方々がいるのに、自衛隊はブリキの兵隊なのでしょうか?
核実験とミサイルで日本は脅かされているのに、話し合えば・・?そりゃ無理でしょ。
アメリカが守ってくれる?日本はアメリカの防波堤程度しか思われていないだろう。
70年に日本人は名誉白人だと言っていた評論家がいましたが、経済大国になって勘違いしていますがやはりイエローモンキー、ジャプ扱いでしょ。
やんちゃな大統領は万里の長城をメキシコの間に作って金払え!アメリカに工場を造らないと課税をするトヨタを脅かす!
某大統領は70年代のバットマンの番組に出てくるジョカーだなぁ。
そんな幻想よりいっそスイスのように永世中立国宣言して、国民も戦争に備える方が現実的です。
某国は空母を太平洋まで出して、ここは我が国のものと言われて、どうする日本。
サンゴを盗まれても何もできない日本。
売国奴・朝日新聞の慰安婦問題も詫びるでもなく、隣国は金を返せば良いんだろう慰安婦像はどんどん作れと脅かされている弱腰日本。
今こそ三島由紀夫の激の声が聴きたいねぇ・・。
彼は自分の死後50年100年ってば私の考えがわかるだろとテープの声は言ってました。
本当ですよね。
その三島由紀夫の肉声は市ヶ谷駐屯地での決起を呼び掛ける半年前の肉声でしたが、20代で感じた人物像だったと思いました。
あれ、あの事件は1970年代だったなぁ・・と思いだすと1972年のライセンスプレートに魅かれた訳が解ってきたような感じがしました。
高校になると安楽な本ばかり読んでました。遠藤周作、北杜夫、星新一などなど、たまに純文学も読みましたが、今考えると変わった高校生でしたね。
中学の時はディープパープルを聴いていたら、高校に入りとブルーノートしか聴かない主義でジャズ喫茶で話しをしないで難しい顔してわかって無いくせにジャズを聴く。
なぜかレフトアローンが好きでレコードが擦り切れるほど聴きました。
成人後のレコートからCDに時代は変わるのですが、あの頃、CDの音は良くない、良くするためにはCDの裏を傷付けろみたいな迷信のような話を真に受けました。
思春期は反抗したり、外に眼が向くものです。
輪行の旅をしたのもこの頃からで、感受性が高かったんでしょうね。
人間曲がったことが大嫌い。憂国の何処が悪い。と思ってました。
ですから三島由紀夫という人物に魅かれたのでしょうね。
70年代は大阪万博があり、世界ジャンボリーがあり国際的な流れが出はじめた頃です。
日本が戦後で無くなってきたなと感じたのは70年からです。
80年代や60年代とは違う時代ですよね。
世界ジャンボリーの会場でアメリカのスカウトとネッカリングを交換した時、はじめて黄色のスマイルマーク存在を知り、アメリカのスカウトが来ていた赤のジャンパーに憧れて、指導者になった50代まで着ていました。
そう言えば日本のスカウチィングも地に堕ちた。
40代後半に当時の隊長と再会したのですが、はやり筋の通った良い男でした。
ああいう生き方をしたいなぁと思います。
ウイットとリーダーシップがあり、日頃はつなぎを着たモータースの社長でしたが、いまでも尊敬しています。
今はアメリカも品の無い大統領を選ぶ三流国家になってしまいましたが、メイド イン アメリカはお洒落でヘインズのTシャツの襟がよれよれになるのがお洒落だと思って頃です。
今の日本が良いか悪いかは私は評論できませんが、自分の国を誇れるような市民でありたいです。やっぱり、1970年代は面白い年代でした。
しかりしないとね 日本。
めんどくさい事は先に延ばして逃げて回ったつけだね。
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