9.11について

2001年の9.11事件や、その他色々な感想、思い、などを書いていけたらなと、思っています。

9.11について 「天皇の陰謀」 その3 ディヴィット・バーガミニ著

2019年11月08日 | 日記

とあるスナックで

コー

この本の目次をみてみよう、7冊分を。

[Ⅰ]・・南京大虐殺と原子爆弾

[Ⅱ]・・ポツダム宣言と天皇人間宣言

[Ⅲ]・・満州事変ー泥沼のはじまり

[Ⅳ]・・二・二六(2.26)事件と天皇の裏切り

[Ⅴ]・・東条英機と真珠湾への道

[Ⅵ]・・世界最終戦の勝利と敗北

[Ⅶ]・・帝国の没落と東京軍事裁判

 

小林

コーさんはこの一冊目を読んだんですよね。やっぱり南京大虐殺はあったんでしょうね。一体何人ぐらいの人が犠牲になったんでしょう。

コー

p-64にはこう書かれている。

・・・・。

1937年に松井の率いる軍隊は、目ざましくも野獣的な四か月の戦闘のうちに、上海港から揚子江の峡谷を百七十マイル攻め上がって南京を占領し、不気味に亢進するテロルの六週間、南京を蹂躙した。十万から二十万の中国人が処刑された。少なくとも五千人の婦人、少女、女児が、殺される前に強姦された。市内のすべての価値ある財物が略奪され、それは多くのアメリカ人に初めて、防共協定を結んでドイツ側に立った支配体制が極悪のものであることを、確信させたのである。

熱海の上の傾斜地に、半分揚子江の、半分国産の粘土で建てられた慈悲の女神は、すでに1938年に、南京に対して犯された日本の国民的罪業の確認のために建てられたものであった。一世代後、合衆国との間にさらに幾多の残虐と戦争が犯された後に、絞首にされた七名のための標柱が、観音像の背後に秘かに付け加えられた。・・・・。

 

小林

いつから日本の軍人はこんなことをするようになったんでしょうね、無抵抗の人間、女、子供を強姦して殺すようなことを。

日清、日露戦争の時もこうだったんでしょうか。

コー

うーん、どうだったんだろう?

 

 

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9.11について 「天皇の陰謀」 その2 ディヴィット・バーガミ著 1983年4月

2019年11月08日 | 日記

とあるスナックで

コー

この本の P-14 「著者から読者へ」 

・・・・・。

およそ一年後の1938年9月、私は父とともに、中国の聖地とされる廬山の洞窟の入り口に座っていた。その洞窟は、草履をはいて読経する仏僧たちが寺院にしていた。夏季の廬山ーー漢口から南京の方へ揚子江を半分ほど下ったところーーは、西洋人の避暑地だった。双眼鏡で、父と私は、5千フィートの急斜面の下にある、日本の占領軍の前線を見下していた。この距離なら、ちょうど、日本兵の一人ひとりがはっきり見えるのだ。彼らは折しも一つの村を報復攻撃し、住民に銃剣を突き刺し、組織的に民家に火を放っているところだった。村から空に立ち昇った煙は、晴雨にかかわらず働いている、戦争であろうと平和であろうと働いている林間の炭焼きから立ち昇る数条の煙をも、すっかりおおい隠してしまった。明日は私たちの山頂に新しい避難民、大部分は孤児で、無残にも銃剣で傷つき、ほんの少しだけ年上の姉に背負われたよちよち歩きの子供らが、殺到することだろう。そして明日の夜には、山頂を握っている中国人遊撃隊が平地に新たな突撃をかけ、二、三人日本人の首級をあげてそれを竹槍の先に掲げて持ち帰り、勝利の行進で引き回すだろう。

私はその時にはもう日本人の同調者ではなくなってしまっていた。私が少年期になるまでにその中で育った、優しく、思慮深く、礼儀正しく、親切な人々は、いまや、なんとも訳のわからないうちにぞっとするほど変身していた。ここ戦場で、日本人兵士は戦争をしていただけではない。彼らは威張って歩き、ビンタを食らわせた。彼らは飢えた者から食糧を、家のない者から携帯寝具を、貧窮者から小銭を徴収した。彼らは年端のいかぬ少女を強姦し、妊婦の腹を切り開き、幼児を放り投げて銃剣で受けた。彼らは拷問された者の自白以外に真実を認めず、脅迫以外に統治の術を知らなかった。私にはなぜ彼らがそんな風に行動するのかさっぱり理解できなかったが、日本人の行動としては別に不思議はないと思うようになった。何人かの父の友人たちは例の”日本人の劣等感”のせいにした。中心街の下手に住む或る中国人の将軍は、咎むべきは日本の指導者だと述べた。日本は世界を制覇しようと望む下劣な皇帝によって支配されていると。と彼は言うのだ。将軍の説明が単純なので、私はなるほどと思ったものだ。

・・・・・。・・・かぶの漬物もたっぷりあるのを見つけご相伴にあずかった。戦場の外では、驚いたことに日本兵は、私の記憶通りの、にこにこした、思いやりのある人びとであることを私は知った。彼らの多くは、私の父が建てた東京の大きな聖路加病院をよく知っていた。彼らは、私の父が長年日本の建築に尽くしたことを、本当に感謝しているようだった。・・・。

 

P-47

・・・・。

また、私は、”陰謀”--乱用と国威宣揚主義の故に、怪しげとなった言葉であるがーーの指導者として描かなければならないだろう。極東国際軍事法廷は日本の戦争指導者に対し「侵略戦争をするための陰謀(共同謀議)」の評決を下し、1928年から1936年の間に日本の進路を方向づけた陰謀を八つだけ暴き出した。陰謀は日本文化のなかで古く、誉れ高き位置を占めていた。戦前の日本の方面軍は、正式には「謀略部」と呼ばれる幕僚班をそれぞれ持っていた。私は連合国判事がまとめた名簿に六つの陰謀を追加し、それらすべてを中央の裕仁の皇室の陰謀と結び付けた。裕仁は、第一に日本を西洋との戦争に導き、次いで、敗北した場合に記録を不分明にするために、少数の者と隠密裏に画策していたのである。

断固として、私は私の著書に「天皇の陰謀」という表題をつけた。私の調査から最も枢要な事件を選び出し、色彩をほどこして生きたものにしようと着手した。・・・・・。

 

小林

この本の題名がなぜ、「天皇の陰謀」でなければならないかということなんでしょうね。

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