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<経産大臣指定伝統的工芸品> 和歌山 紀州漆器 

2021-07-10 08:03:06 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「紀州漆器」

 Description / 特徴・産地

 紀州漆器とは?
 紀州漆器(きしゅうしっき)は、和歌山県海南市の北西部にある黒江地区を中心に作られている漆器です。そのため、紀州漆器は黒江塗り(くろえぬり)とも呼ばれています。
 紀州漆器の特徴は、シンプルで丈夫、日常生活で気軽に使える実用的なところです。紀州漆器は、江戸時代から庶民の日用品として親しまれてきました。
 また、紀州漆器は、朱塗りの表面から下地の黒が浮き出た文様でも有名です。この文様は、和歌山県岩出市にある根来寺(ねごろでら)で始まった根来塗(ねごろぬり)が起源となっています。
 根来塗は、僧侶たちが寺で使用する膳・椀・盆・厨子などを自ら作ったことに始まります。そもそも寺で日常的に使う実用品だったため、根来塗は黒漆で下塗りをし、その上に朱漆を塗っただけで仕上げるシンプルなものでした。そのため、使用中に表面の朱塗りが摩耗して下塗りの黒漆がところどころ表に現れて朱と黒の文様ができ、それがかえって趣があるとして喜ばれました。
 紀州漆器は、伝統的な根来塗風の漆器に加えて、蒔絵(まきえ)などの装飾がなされた漆器、合成樹脂素材の大量生産品などさまざまなニーズに応えています。

 History / 歴史
 紀州漆器は、室町時代に紀州の木地師(きじし)によって、渋地椀(しぶじわん)が作られたのが始まりとされています。これに加えて、僧侶たちが寺で使用する膳・椀・盆・厨子などを自ら作った実用的な根来塗が、紀州漆器に影響を与えています。
 1585年(天正13年)、豊臣秀吉が根来寺を攻めた際、漆器を作っていた僧たちが難を逃れて黒江に来たことから漆器づくりが広まりました。江戸時代には紀州藩の保護下で、日用品としての紀州漆器は大いに発展します。
 その後、1826年(文政9年)に膳などの堅地板物の製作に成功し、1852年~1860年(安政時代)には蒔絵(まきえ)による装飾がほどこされるようになりました。明治維新によって紀州藩の保護を失いましたが、1870年(明治3年)に本格的に海外貿易を始めて次第に活気を取り戻します。さらに、1879年(明治12年)に沈金(ちんきん)の装飾技術を導入、1898年(明治31年)には京都より蒔絵師を招いて蒔絵の改良を図りました。昭和時代になって天道塗・シルク塗・錦光塗などの変り塗が考案され、紀州漆器は革新的な漆器として発展し続けています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/kishushikki/ より

 日本の究極の美・蒔絵
 チャイナといえば、ヨーロッパでは磁器をさす。それではジャパンといえば、それは漆器のことである。特に蒔絵が施されたものがその中心となっている。日本独特の発展を遂げた蒔絵の技法は、日本的な情緒に富み、多彩な表現方法をもっている。蒔絵の深淵について名匠に話を伺った。

 
 蒔絵とは?
 漆器の製造工程の最後が加飾ですが、その中の一つの技法が蒔絵です。漆で描いた絵が乾かないうちに金、銀などの粉を蒔きつけて装飾するのが蒔絵である。なぜこれほどまで蒔絵は人をひきつけるのか。名匠・出口譲爾(でぐちじょうじ)さんは「蒔絵は50年やっても今だ勉強中です」と奥の深さを語る。天候や乾燥具合に左右されやすいのである。季節は春に制作するのが一番難しいという。


 技法から蒔絵の魅力を探る
 実際に蒔絵の技法を見てみると、その魅力がよくわかる。3つの代表的な技法があるが、それは蒔きつける粉の大きさ、漆の塗面の盛り上げ方、塗面の研ぎ出しをどうするかなどによって分けられる。まずは「平蒔絵」。これは塗面に漆で文様を描き、塗り上がった画面の上に効果的に金粉・銀粉を表現しようとする技法である。次は「高蒔絵」。文様の部分を漆や下地を使ってレリーフ状に盛り上げ、その上に文様を描き金銀粉を蒔き固めて磨いて仕上げる。「高蒔絵」の盛り上げ方法は次の3つが代表的だ。漆上げ(高一ともよばれる)、炭粉上げ、トン錆、である。3つ目の技法は「研出蒔絵」。塗面に漆で文様を描き、その上に粗い金・銀粉を蒔きつけ、その粉が埋まるまで漆を塗り重ねてから、炭で研ぎ出して文様をあらわす技法である。いずれも簡単な技法ではないが、特にこの「研出蒔絵」は何度も何度も漆を塗り、金粉を炭で研ぎ出すがその加減が難しい。どれほどまで研ぎ出すのか伺ってみると「金粉の断面積が最大になる部分まで研ぎます。その部分が最も輝きが増すからです。それより浅くても、それより深くても金の輝きが鈍くなるのです。」と出口さんは説明された。実際「研出蒔絵」と「平蒔絵」の両方を見せていただいたが、一見「平蒔絵」の方が光っているように見えるが、よく見ると上品で奥行きが深いのは「研出蒔絵」である。しっとりと落着いた美しさを出している。蒔絵が日本人の心情をあらわしているものであり、魅力あふれるものであることがわかる。


 古い伝統を今に生かす
 「伝統を守るのももちろん大切だが、それを今に生かすにはどうするか」を常に念頭において制作にうちこむ出口さん。額、水牛の角や象牙を使った装飾品、ブローチなどの制作にも積極的に取り組んでいる。「時代と共にそれぞれのものの用途が代わってきているので、これまでにとらわれずにいきたい。」と新しいチャレンジを続けられている。こうした姿勢からなのか、お名前が「譲爾(ジョージ)」ということからなのか、外国からのお客様が多い。直接出口さんを尋ねる方もいるとのこと。もちろん出口さんは大歓迎。平成10年には歴史街道推進協議会のゲストとして、アメリカのデトロイトとロサンゼルスにて蒔絵の実演と体験指導を行われた。また後継者育成については、毎週2回7~8人の生徒の指導をしている。今後のますますの活躍に期待したい。


 職人プロフィール

 出口譲爾 (いでぐちじょーじ)

 出口譲爾・蒔絵歴48年・江戸末期の初代冷水三四郎(しみず)から数えて5代目。和歌山県名匠。伝統工芸士。周りのものを包み込んでしまうあたたかい人柄がとくに印象的。

 こぼれ話

 黒江の町並みを歩く

 紀州漆器のふるさと黒江。万葉集にも歌われている町です。その昔、このあたりが美しい入り江だった頃、干潟の中に牛の形をした黒い岩があったため、黒牛潟(黒牛の江)と呼ばれていたのが黒江の名の由来とされています。そこには今も昔のままの町並みが残っています。JRきのくに線「黒江」の駅で下車し、熊野街道を歩いていくと15分ぐらいで黒江の町の本通りともいうべき「川端通り」に着きます。ちょうど左角に目印となる「温故伝承館」があります。ここは江戸時代から漆器職人に愛された造り酒屋で、今は江戸時代の酒造りの方法と道具や商いの記録が展示されている資料館になっています。川端通りの周辺には昔の漆器職人たちの住居兼職場や問屋が規則正しく並んでいます。江戸末期には千三百余戸・四千五百人が住む町場として大いに栄え、今に残る歴史的町並みができあがりました。しかし町並みがなにか変です。まっすぐに並んでいません。家々がこちらを向いているような気になります。
 よく見ると家々は通りに面して「のこぎりの歯」のように規則正しく並んでいます。どうしてこうなったのでしょうか。画家で郷土史家でもあった故・雑賀紀光さんの言によれば「家相という説、箱車を置くのに便利だという説、川から荷上げをした時の置き場の説などたくさんある中で、もとここは海であって池崎という半島のため汀が斜めに出来た.その波打ちぎわに沿って道ができ、埋め立てがなされ、それと中央の排水路(今の川端通り)が直角にならず、平行四辺形の土地になってしまった。そのため、四角い家を建てると表と裏に三角の空き地が出来たのであろう。」ということです。古い家に目を向けると、とても趣のある作り。外観は上部が白壁塗りで下部は紀州連子格子の板張りと京風の作りです。中に入ってみると昔ながらの農家風な間取りで落ち着いた気分になります。少し横丁の中に入ってみると突き当たりに、黒江村の生土神を奉っている「中言神社(なかごと)」があり、ここは紀州名水百選の一つで「黒牛の水」が湧くことで知られています。川端通りに戻りはずれの方まで歩いていくと、金比羅大権現がありました。これは海運の守り神なので、ここが昔埋め立てられたという証明になるかもしれません。こうして黒江の町並みを歩いていると、タイムスリップして何百年も前に戻っているような気になります。さっき道を教えてもらったおばあちゃんの話し方もゆっくりしていました。ここにいるとあくせくする必要がなくなっていくような気がします。

*https://kougeihin.jp/craft/0520/ より


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