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<小京都> 福井 小浜 2.

2022-07-14 08:16:28 | 小京都

 「若狭の小京都 福井 小浜」

 =福井県の小京都・小浜市の観光ポイント=
 江戸時代からの「城下町」

  小浜市内を流れる北川と南川に挟まれた合流地点に築かれた「海の見える城」小浜城。京極氏2代にわたり普請され、代わって酒井忠勝が武州川越から入国し、天守閣は寛永13年(1636)完成しました。往時には三重の天守が建てられていたが、明治4年(1871)12月二の丸櫓から出火し、旧城大部分を焼失、明治6年(1873)の廃城令を受けて、明治7年(1874)に解体されました。現在では、本丸の北半分の石垣を残すのみとなったが、本丸跡は小浜藩祖酒井忠勝を祀る小浜神社(写真上左)の境内地になっており、往時の姿を今に伝えています。

  小浜城を中心に、南側の現在の大手橋を渡った地域は、上級家臣の武家屋敷町が置かれていました。今では城下町特有の町並みはほとんど見当たらないが、かつての武家屋敷町の西にある三丁町には、べんがら格子や出格子の家並みが残っています。

  郊外には国宝の三重塔のある明通寺(同上右)、奈良東大寺の二月堂への「お水送り」神事が有名な神宮寺、行基の創建と伝えられる羽賀寺、京の都から祇園祭の流れをくむ例祭「放生会」の八幡神社(同下)など多くの史跡が残り、また都風の祭や行事が若狭各地に伝わっています。

  若狭からは多数の道が京都・奈良・丹波などに通じています。古代より朝廷へ食材を納めていた「御食国」、鯖などの若狭の海産物や特産物を運んだ「鯖街道」で知られています。

*https://www.usagitabi.com/obama.html より

 名刹の「お寺」がある

  小浜の歴史と御仏への信仰
  古代、若狭国(わかさのくに)の中央部に位置する小浜は、奈良や京都の都の食文化を支える「御食国(みけつくに)」として、また海を渡って往来する人と物資の大陸との玄関口として重要な役割を持つ拠点として存在していました。古の時代から「美し(うまし)小浜」と呼ばれた山紫水明のこの土地は、陸と海の両方から様々な人と文化が行き交う国内外に開かれた稀有な場所として豊かに発展を遂げてきたのです。
  仏教が政治的にも勢力を持った時代、小浜にも神社、寺院が数多く建立されました。若狭の仏像の特徴として、奈良や京都の仏像の造形に近い、優れた仏像が数多く伝わっていることが挙げられます。若狭国が都に近かったこと、そして若狭湾に面し、農林漁業だけではなく製塩や廻船などで栄えた豊かな地域であったことから、都の仏師へ仏像を依頼する財力があったことなどがその理由として考えられます。
  現在も、国宝や重要文化財を中心とした古刹や仏像が狭い地域の中に集中して数多く現存しています。古くは飛鳥時代、都が奈良の平城京にあった頃から、悠久の時を経てこの地を優しく見守る仏像も存在します。長く荘厳な歴史を持つ寺院だけではなく、集落の小さなお堂に仏像を祀る場も残ります。地域の人々の信仰の対象として、そして身近な存在として、心の拠り所になっている祈りの場がこの土地には多く在るのです。
  小浜の人々の篤い信仰心はどこから生まれたのでしょう。仏教が伝わる以前から、この地に住む人々は、豊かで穏やかなこの地の風土を信仰してきました。それが仏教と融合することで、深い信仰の対象となったのではないでしょうか。山岳信仰のある山懐に抱かれ、豊かな海に面した若狭小浜。大きな戦に遭うことなく、地域の人々によく守られた祈りの場は、長い歴史によって培われた 時間を優しく伝えてくれます。

*https://www.obama-8-temples.jp/history/ より

  小浜八ケ寺

  「霊応山 神宮寺」「棡山 明通寺」「石照山 多田寺」「護国山 国分寺」「地久山 圓照寺」「鳳聚山 羽賀寺」「岩屋山 妙楽寺」「延宝山 萬徳寺」

*https://www.obama-8-temples.jp/temples/#temples_8 より

 京都ゆかりの「寺院」がある
 京都の影響を受けた伝統の「お祭り」が今も続く

*https://www.little-kyoto.com/fukui/obama.html より


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