東京の田舎から

日々の雑感や思いを書いています。

南澤あじさい山・・初夏

2020-07-01 15:10:55 | 旅行

  東京都の西端にある「あきる野市」にある「南澤あじさい山」を久しぶりに訪れた。ここを訪れた記事は、2019年4月21日に「山里の春・・・南澤あじさい山」、(ジャンル;旅行)として書いている。

 しかし、前回は「あじさい山」の“あじさい”ではない「桜」の記事であったが、今回は「あじさい」を見に行った記事である。

 6月15日の昼頃に出かけた。既に、何回か行っているので道は覚えているので気楽である。筆者の自宅からは自動車で30分程の場所である。

 あじさいを見ての感想では、残念なことに時期が少しだけ早かったようである。あじさいは山への入り口付近は満開であったが、それより先では5分咲きというところであった。

 この日の数日前、NHKラジオ深夜便で紹介されていたが、あじさい山の管理に「後継者」が入っているとのこと。南澤忠一さんが50年がかりで、一人で作り上げた「あじさい山」も「更に見事になっているだろう」と期待して行ったのであるが・・・、あじさいの景色はさして変化がなく、何やら「お祭り的」な「いわば学園祭的な」雰囲気を感じるものになっていた。筆者としては?! である。後継者として入った、あるいは、この時期の協力者であろう若い人とは、感性が異なることを自覚した一瞬である。

 まずは、久々の訪問であるので、後述する、天然記念物の表示にある地名と同じ名前の、南澤忠一さんに挨拶をしようと、あじさい山への登り口の横にある居宅に向かう。居宅への入り口には、後述する“セッコク”が着生した大きな木(樅?)と、大きな錦鯉の泳ぐ池があり、これを見ながら玄関に向かう。玄関の中には、メダカの入った大きな水槽が置いてある。

 南澤忠一さんは、昼寝の最中であったようである。わざわざ起きてきて、筆者を見て「昨年(あじさいの季節に)、来なかったのでどうしたかと思っていた」とのこと。忠一さんが立ち上がると、今年90歳とは信じられない程に、ピンとしている。毎日の「あじさい山」の手入れが健康の元なのであろう。

 ひとしきり雑談をした後に、あじさい山を登った。

 あじさい山の順路は、コロナの流行で、一方通行とのこと。月曜日であるからか? 感染の危険を感じる程には人はいない。入り口付近は通路に懸るほどにあじさいが満開である。

 なお、この文章を書くために写真を見て驚いた。残念なことに、満開のあじさいの写真を撮って来てなかったのである。何とも「ボケた」話であるが、あじさい山の風景は、既に見ているので、何となく、既に撮っていると思ってしまったようである。そのようなことで、あじさい山の全景等の写真はこのブログにはない。

 下の写真は、あじさい山の地図である。元々が、山の中程にある墓地への墓参のとき、その道を「花で飾りたかった」と考えてあじさいを植えたのが始まりとのことである。しばらくは、満開のあじさいが道に懸かるようにして咲いている。

 途中に、左側に下る細い道(図では下方方)があるが、こちらは帰路である。そのまま順路の通りに進むと、山の斜面に植林された、檜と思われる樹の間に、無数のあじさいが植わっている。こちらは、5分咲きというところであろうか・・・。

 道の途中には、あじさいを植えてから「10年目」「20年目」と書かれた表示がある。一人で、ここまで植えるのは「大変な努力であったのであろう」などと考えながら通り過ぎる。そして、さらに進むと、ここまでの登りの暑さが急に涼しくなる。空気が違うのである。ここ迄でほぼ片道である。

 ここから小さな川を渡るための、丸太で作った橋が架けられている。対岸のあじさいの中を進む道である。

 この道を進むと、先ほどの細い道の分岐に戻る。ここまでの道では、対岸の斜面からあじさいを見ることができる。

 なお、先ほどの登り道の手前に休憩所がある。その脇には、あじさいの他に、野菜等を植えている畑がある。ここには、これから植えるためのものであろう、新しい品種と思われる、珍しいあじさいが植えられていた。

 あじさいを見て、再度、畑にある新品種であろうあじさいを見て、山を下った。

 帰りがけに、南澤忠一さんが丁度、庭先に出ていたので挨拶をしたところ、池の鯉の餌を用意していて「餌をやって良いよ」とのこと。雑談をしつつ、餌を投げると鯉が「猛烈」と表現して良いほどの勢いで集まって来る。餌を投げる場所を変えるとそちらに猛烈に移動して集まる。鯉が餌に集まるのが面白くて、鯉には悪いが、暫し、遊ばせてもらった。

 今回も、山の自然で「清らかにされた」が如くの空気を思う存分に身体の芯にまで浴び、また、昔話にあるような丸木橋を渡るなどして楽しみ、勿論、あじさいの花(正確には「ガク」)を堪能し、加えて、南澤忠一さんの元気な姿に、日頃「トシかな・・」と考えていた筆者は「まだまだ大丈夫」と、何やら自信を持てた次第である。元気を得られた楽しい一日であった。

 なお、ここで書いた「南沢あじさい山」は、NHK出版「趣味の園芸」2020年6月号の22頁から25頁に紹介されている。本の写真、右下の「90歳のあじさい物語」とある丸の中が、南澤忠一氏である。

あじさいを見に行った件は、ここまで。

 

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さて、以下は、前回に訪れた時の話しである。

 2019年4月21日に書いた、「『山里の春・・・「南澤あじさい山」』は、4月17日に訪れたときのものである。その後、5月29日に『セッコクの花が咲いている』とのことで訪れたときの話しを、書けなかった。珍しい話しもあると考えるので、遅まきながら以下に書く。

 「セッコクの花」、「セッコク」、漢字では「石斛」と書くが、最近では余り知られていないように思う。これは着生ランの一種であり、他の植物から養分を吸い取る「寄生植物」とは異なるものであるが、古木に着生している観点からは同じように見える。ただ、寄生植物ではないので、着生している樹木から養分を吸い取ってはいない。従って、岩や石にでも着生するとのことである。

セッコクの花・・・何とも儚げな花である

樅ノ木?に着生している様子

 南澤忠一さんの居宅の入り口に、樅ノ木の古木がある。この古木にセッコクが無数に着生している。訪れた時には、その花が満開である。木の幹から花が直接に咲いているが如としである。そして、暫しの間、セッコクの花と着生の様子などをみていた。

 その後に、居宅の裏側にある石垣とその上に生えた「ユキノシタ」の満開の花を見た。ユキノシタは、筆者宅のような狭い場所にあると、殆ど雑草であるが、広い場所で群生すると見事であることを知った。

ユキノシタの群生

 そして、その横から少し登ると、小さな池がある。その池には「アオキ」であろうか? 水面に覆い被さるように枝が張りだしている。その枝に、手のひら大の大きな泡が3個ほどぶら下がっている。南澤さんの妹さん? の話しでは「モリアオガエル」の卵とのことであり、孵化すると「おやたまじゃくし」が、この泡の中から出て来て、下の池に落ち、その後に「カエル」になるとのことである。筆者は、そのようなカエルがいることは知っていたが、実物を見たのは初めてであった。

モリアオガエルの卵

おたまじゃくしの落ちる小さな池

 今回は、初めて見たセッコクの花、初めて見たモリアオガエル、今まで、雑草に見えていた「ユキノシタ」も群生すると、随分と綺麗な花に見えることなど、初めて見るものばかりであった。

 なお、セッコクが着生した樅ノ木の下には、大きな池があり、見事な鯉が泳いでいる。

鯉の泳ぐ大きな池

 駐車場に行くと、「東京都指定天然記念物」「南沢の鳥ノ巣石灰岩産地」と題した表示板が建っている。その脇には「天然記念物」と書かれた石碑が建っていた。

天然記念物の石碑

今回は、初めて見たセッコクの花、初めて見たモリアオガエルの卵、そして、今まで雑草の類いであると思っていたユキノシタも、群生すると随分と綺麗な花に見えることを知った。

そして、これらの花の他にも、名前を知らない花々が咲き誇り、まさに「山里の春・・・春から初夏へ」の気分に浸れた一日であった。


鬼鎮神社の節分祭

2020-02-24 17:30:45 | 旅行

 武漢ウイルスのことを書くのに時間を取られてしまい、鬼鎮神社の豆まきを書くのが遅くなってしまった。これでは、「今頃に」と「鬼に笑われてしまっても仕方がない。しかし、珍しい神社のことなので、ここに書いておくことにした。

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 埼玉県比企郡嵐山町に鬼鎮神社(きじんじんじゃ)という「鬼を祀っている」神社がある。あの「赤鬼」と「青鬼」である。凡そ、「鬼」と言えば「悪い奴」とされている。これが神様として祀られているとのこと。このような鬼を祀っている神社は、青森県弘前市の鬼神社、福岡県添田町の鬼神社、大分県天満社の鬼神社とのことで、関東圏では唯一、この鬼鎮神社である。

 このことを知って「これは珍しい」と考え、さらに筆者宅から車で1時間弱でもあり、節分の豆まきを見に行った。

 鬼鎮神社 拝殿

それでも境内には大勢の人が詰めかけている。内部は下の写真の通りであり、多くの神社と同じように見える。

 神社の内部

神社の表には、鬼にちなんでこん棒が奉納されている。

 奉納されている「こん棒」

 その脇の、絵馬掛けには、何種類かの絵馬が掛けられていた。

また、境内とそれに続く道には屋台も出でいて、「お祭り気分」を盛り上げている。

 このような雰囲気を楽しんでいると、豆まきの30分前頃から、豆まきの舞台の前に人が集まり始めた。集まった人数は500~600人であろう。筆者は、幸いに気付くのが早かったので、割と前に立つことができた。その時である、参道に「鬼様」が入ってきた。そして、鬼様が神社に入り、豆まきの舞台に登場した。鬼様に続いて、地元の何かの役にある人であろう。続々と続く。総数20余名である。

中央やや右に赤鬼

そして、豆まきである。

豆まきは、大豆は当然として、ミカンや饅頭、神社暦などが投げられた。これらを受け止めて戴いた。

そして、筆者は、確かに赤鬼に豆をぶつけられた。顔に当たると、少しだけ痛い。しかし、これで、悪気が払われたと勝手に理解して、少しだけ清々しい気持である。

豆まきは、少しの時間で終わった。見ていると、鬼様と舞台の上にいた人々が退場する。そして、神社の横では、鬼様が大サービスで、写真撮影に応じていた。

赤鬼と青鬼が、写真撮影のサービス

 帰りがけに、神社で売っていた「こん棒」を買ってきた。因みに、もっと大きな、重いものもあった。

 

 そして、人々の帰りに合わせて、今年は良いことがあるだろうか? などと思いながら帰宅した。

鬼に豆を「ぶつけられる」などは中々経験できないことである。なかなか面白い一日であった。

 なお、駐車場は神社から離れた場所に、臨時駐車場として用意されていた。


天覧山と能仁寺

2020-01-03 15:36:55 | 旅行

 12月の初旬に、昔、同じ勤務先にいた、友人でもあり、また、世話にもなった先輩に誘われて、埼玉県にある天覧山とその周辺を歩いた。当日は、天候は晴れで、12月にしては暖かい日であった。

 天覧山の名称は聞いたことがあったが、果たしてどの程度の山なのかは知らなかった。ただ、先輩の話によれば、「随分と昔に子供たちと登ったことがある」とのことで、それ程に険しいものではないだろう程度には考えていた。

  始めにまず、麓にある能仁寺を訪れてその境内を見た。能仁寺は、曹洞宗の寺院であり、山号は武陽山である。ここで、その由緒を見た。ここは、今から150年余ほど前の飯能戦争の舞台となった場所である。この戦争で寺は、幕府軍の陣営に使われ、官軍との戦いで破壊されたとのことである。現在の本堂は昭和11年に再興されたものである 

能仁寺 山門

 

 

山門額

 

 

本堂

 

 

  能仁寺 境内

 

 なお、飯能戦争とは、上野(東京)で官軍と幕府軍が戦った戊辰戦争で、敗れた幕府軍の生き残りと、既に彰義隊を離れていた振武隊が合流して、官軍と戦った戦争のことである。

 宏大な境内には振武軍の碑が建っていた。

 

 振武軍の碑

  天覧山への道は、この寺の脇から入るようになっていた。

 天覧山の頂上までは、登山というよりも、散歩道である。筆者としては、全く見当もつかないので、途中の休憩所では「後、どれだけあるのか?」と考えていたが、それから然したる距離もなく頂上であった。何と海抜195メートルの「丘」である。

 

天覧山 山頂

 

それでも、周囲に高い山がないため、飯能市内を一望できて、何やら高い山に登ったが如しの気分ではあった。

 

 山頂の展望台からの見晴らし 

 

展望台の下には、未だ紅葉が残るドウダンツツジであろうか・・陽に映えて綺麗である。

 

陽に映えるドウダン

 

 暫しの休憩の後に下ったのであるが、今度は、道のりが判っているので気楽である。

 途中の木漏れ陽の中に、今度は、春に咲く筈のツツジが咲いていた。

 これは、秋の気温や日照時間が春と似ているために、木が間違えて花を咲かせる現象であろう。因みに、このような花を「帰り花」、「狂い花」、「二度咲」などと言うとのことである。

 

 春と間違えて咲いたのであろうツツジ

 

なお、麓の能仁寺の山門から少し離れた脇にも同じように白のツツジが咲いていた。

 

能仁寺に咲いていた白のツツジ

 その後、帰路の途中、蕎麦屋に寄り、本日の「フラリ旅」を終えた。久々に、そこそこ元気? な先輩にも会え、また、丘のような山ではあったが、山歩きができ、元気をもらえたような一日であった。


満開の曼珠沙華

2019-10-04 18:18:15 | 旅行
 曼珠沙華、すなわち、彼岸花のことである。
 この植物は、花の時期に葉がなく、晩秋に葉を出して、冬から春にかけて葉が茂るとのことであり、多くの植物とは逆の成長の仕方をする。
花の時期に葉がないことと、そして、茎だけがあるところに、妖艶な花を咲かせることから、その名称はいろいろである。別名としては、幽霊花、狐花、死人花などと、余り良い名前ではない。しかし「法華経」などの仏典に由来すると言われる「曼珠沙華」は、天上の花との意味があり、その場合には「めでたい兆し」とされることもある。但し、この植物は毒草である。

 この花、咲く前に時に見ると、まるで「棒ねぎ」である。しかし、このことを売店のおばちゃんに話すと「いや・・・アスパラだ」とのこと。


棒ネギかアスパラか?

 筆者はインターネットの情報を信じて、満開を少し過ぎた頃と思いつつ、9月24日に埼玉県日高市にある「巾着田曼珠沙華公園」の曼珠沙華を見に行った。
 案内によれば、500万本の曼珠沙華が咲き、一面が赤い絨毯を敷き詰めた如くになるとのこと。
 ところが、今年は、例年に比べて、開花時期が遅れていた。残念なことに、棒ネギかアスパラの如しの、茎ばかりであった。入園料が無料であり、少しばかり「変だな?」とは思ったのであるが・・・。しかし、園内は、臨時の売店が立ち並び、催し物もある「お祭り」であった。
 
 
曼珠沙華公園入り口

そして、公園の外には、清らかな水が流れる場所があり、時期には、「蛍が舞う」とのことである。そして、水中には、魚の泳ぐ姿が多く見えるのである。また、蛍が舞うとのことから、タニシは当然として、淡水シジミであろうか? シジミの殻が無数にあった。加えて、水路の下流側には水車小屋もあった。思わず童謡・春の小川の歌詞・・・「♪♪ 春の小川は さらさらいくよ ♪♪」が脳裏に浮かんだ程に素晴らしく昔懐かしいものであった。
 なお、水車は「昔は粉を引いていたが、今は、水車が廻っているだけ」とのことである。



清らかな水の流れる水路


水車小屋

 園内を見ても、余り綺麗ではない。売店で聞くと、「祭りは1週間延ばす」とのことで、10月6日までが、その期間に変更されているとのこと。そこで、前回から1週間後の10月1日に再度行った次第である。

 今度は、満開である。一緒に行った友人の「わー綺麗!!~」の一言は、まさにその通りであり「出直して良かった」との思いであった。
 その景色は、案内に書いてある通り「一面に赤い絨毯を敷き詰めた如し」であり、曼珠沙華の間にある樹々の作る陽の光と影が織りなす明暗が、花の美しさを引き立てている。
 この景色は、有名で、平成29年9月20日には、上皇上皇后両陛下が行幸啓されているとのこと。その記念碑が建っていた。


上皇上皇后行幸啓の記念碑



満開の曼珠沙華1









 なお、地名の「巾着田」は、高麗川の蛇行によって作られた形が「巾着」の形をしているためとのことである。


巾着田散策マップ

 前回に行ったとき、公園の外で直売していた「おじさん」が、栗を売っていた。おじさん曰く、小さい方がホクホクしていて美味しいとのこと。勧められるままに買ってきたが、ホクホクとは言い難いものであった。そして、今回、会場な内の売店で売っていた、大きな栗を買ってきたが、こちらは「ホクホク」していて美味しかった。なお、日高市は、栗の産地とのことである。



 巾着田曼珠沙華公園の祭りは10月6日の日曜日までである。
 素晴らしい満開の曼珠沙華は一見の価値はある。




青梅丘陵散策

2019-04-22 10:24:04 | 旅行
JR青梅線・青梅駅の北側にある丘陵は「青梅丘陵」と呼ばれている。この丘陵の東の端には青梅鉄道公園がある。そして、この辺りは「永山公園」とも呼ばれている。さて、ここから、ほぼ西へ、丘陵の尾根を伝って、所々青梅の市街地を望みながら、青梅線の軍畑(いくさばた)駅の近くまで林間の散策路が続いている。そして、初心者には、途中で下山できる路がある。
 今回、平成31年4月15日は、永山公園から散策を開始して、宮ノ平(みやのひら)駅に至る経路を歩いた。
同行者は「あざみ」や「スミレ」が大好きとのことである。そこで「あざみ」を探したが、この散策路には全く生えていなかった。また、「スミレ」は、紫色の花の咲く一種類だけで、色違いの白の花のものは全く見られなかった。この丘陵は、植生の多様性が少ないのであろうか? それでも、やはり山である。ふと見るとウラシマ草が生えていた。この草は珍しいが余り気味の良いものではない。
 この散策路は、少し前よりも随分と幅されていた。なにやら、市街地の公園にある散策路の如しである。そして、所々に「熊、鹿の出没注意」の立札が立っている。「注意」と言われても、どう注意したら良いのかは判らない。そのため、立て看板の注意は、取りあえずは「我がこと」という認識はない。それが普通であろうと思っていた。

 そして、この散策路と、その昔に切り通しで作られたと思われる峠道が交差するところに「むらさめばし」という、コンクリート橋が架かっている。この橋を渡った所の藪に、持参していた「カラスウリ」のタネをばら撒いた。このカラスウリは、私宅の庭にいつの頃からか、生えていたものである。昨秋に取っておいたタネを、ここで元気に育ってくれることを願いつつ山に戻した次第である。
さて、そこから更に進むと、「ミイラ」のある場所がある。昔、筆者が子供の頃には、今にも崩れそうな建物があり、その中には「ミイラ」があると、誰からか聞かされていた。そのため、「怖い」と走って通り過ぎたものである。ここを数年前に通った時は、宗教施設と思われる、それらしい建物があり、それなりに整備されていた。説明では「即身仏」が安置されているようである。
   今回、その施設は少し荒れているように感じた。ここを通り過ぎて、暫く行くと、軍畑へ至る道と、宮ノ平に下る道とに分かれる。軍畑まで行きたいとの気持ちもあったが、時間と体力を考えて宮ノ平に下る道とした。この道は通る人も少ないのであろう。随分と荒れている。暗いヒノキの林を下っていると、いきなりの「ギャッ!!」である・・・同行者と鹿とが数メートルの距離で遭遇した。「鹿と眼があった」とのこと、筆者は、鹿が逃げる音に吃驚して気が付いた。しかし、随分と大きな鹿であり、色は殆ど黒であった。そして、逃げて行ったものだと思っていたら、斜面の上の方から、筆者と同行者とを覗っているのである。万一のために道に落ちていた棒切れを持ち、警戒しつつ通った。そして、立て看板を「我がこと」と実感した次第である。
   道を下るにつれて、明るくなってきた。それまでは、余り手入れされていない、杉やヒノキの植林帯であった。この植林帯を出て明るい陽の光を見た時はホッとしたものである。植林帯を出ると明るくなり野生の山吹が咲いていた。随分と綺麗である。しかし、その右手の長い距離はトタンの波板で囲われている。「何なのであろうか?」と、少しの切れ目から覘くと「萱(かや)」が沢山生えている。もしかしたら? 萱の生産をしているであろうか?
 そして、更に下ると、人家が見えてきた。しかし、筆者の子供の頃の記憶では、この辺りは、石灰石の採掘跡で、その穴には青緑色の水が溜まっていた。しかし、それから何十年? 今は採掘跡の面影は全くなく、住宅が立ち並んでいる。そのため「ここはどこ?」という感じである。そのまま進むと「宮ノ平駅⇒」の立札があり、そのまま宮ノ平駅の跨線橋に繋がっている。この入り口の脇には、見事なタンポポの群落があった。
 ところで、この跨線橋が随分と華奢な感じであり、凡そJRの施設とは思えない構築物である。筆者としては「落ちやしないか?」と少々怖かったものである。この跨線橋から改札口もなく、そのままホームに行けてしまった。ホーム上にはSuicaをタッチする機械があった。しかしSuicaを持っていなかったので、そのまま青梅駅まで電車に乗って行くしかない。当然に、宮ノ平駅から乗車したという証明は何もない。そして、改札口で「宮ノ平から乗って来たんですが・・」と言うと、駅員は、「はい140円」とのこと。しごく当然という対応であり、少しばかり不思議な光景であった。過疎地であることは知っていたが、ここは「東京都」である。尤も、線路は単線で、電車は4両編成、1時間に1本ないし2本しか運転されていないところであり、殆どは無人駅である。
今回の散策では、鹿と遭遇し、また、丘陵の植生は杉やヒノキの植林が多く、単純であり、余り豊かな森林・自然ではないということを感じたところである。