かんたん

2004.12ブログ人でスタート、2014.10gooブログに転居。

祖母の葬式

2006-06-26 15:00:00 | 日記・エッセイ・コラム

この文章は、本日掲載の「6月2日からの大分行きのこと」という文章の続編です。

6月8日に東京に戻る。僕も元気はでない。でも祖母はまだ持ちこたえてくれそうか。僕は今年も倉木麻衣さんのライブに多めに行くつもり。ちょうど今チケットがあちこちで発売になりつつあり、申し込みをしているところ。ぴあやイープラスなどに申し込む。6月11日からそのチケットの購入の都合で八代市と大分市に行った。6月12日大分市のホテルキャッスル大分に宿泊。

夜中午前3時ごろ母親から電話、4時ごろ叔母からメール。祖母が亡くなったそうだ。とうとうというか。あっけない。冷静さを保とうとすることが悪あがきのよう。朝早くホテルを出て、バスで大分空港へ。朝一の飛行機で東京に向かい、帰宅。準備し、午後の飛行機でまた大分県国東市安岐町へ。着替えをし、準備をし、通夜の席へ。祖母の4人の娘と三女の叔母の亭主、僕の母親の亭主(義父)、従兄弟では、三女の叔母の長男、四女の叔母の長男の二人、それの祖父の弟の長男、祖母の弟の子息、などがすでに詰め掛けていた。

祖母に会った。化粧を施され、まるで別人のような祖母。この前話をしていた祖母が今はもう何もしゃべらない。

三女の叔母の長女夫婦も戻ってきた。三女の叔母の長女ももちろん従兄弟で最近子どもが生まれたばかり。その亭主とははじめて会った。翌日は火葬、葬儀。納棺し、マイクロバスで火葬場へ行く。祖父のときは安岐町下原の火葬場だったけれども今回は国東町の中田というところらしい。待合室にいた。遠くに海が見える。景色のいいところで、みんな心の中ではいろいろ感じているのだろうが、湿った雰囲気はない。葬儀という儀式の最中で、まだ祖母の死にきちんと向かい合うという段階までいかないのだろう。

火葬された祖母。骨を拾う。

葬儀の行われる安岐町のコスモス会館に向かう。次女の叔母の次男と四女の叔母の長女も駆けつける。久しぶりに会う。次女の叔母の次男も26~29年ぶりくらいかな。関西の某国立大の助手として働いていると聞いている。四女の叔母の長女と話をしているようだったが、そういえば四女の叔母の長女も関西の某国立大院卒だった。みんなそれぞれの世界でがんばっているようだ。ちなみの僕は無職である。やはり祖母にとって一番の心配の種は僕だっただろう。

葬儀の席は久しぶりに見る人もいた。弔辞も懐かしい名前を聞く。家に戻る。読経。食事。家督を相続する三女の叔母の長男と僕と二人だけ残り、他の従兄弟たち、親戚筋は皆引き上げていく。僕も早めに席を去った。

親は僕にもうおばあちゃんが亡くなったのだから今後は困ったことがあったら親に相談してくるようにといってきた。でもうちの親はいつも僕の発言や行動を捻じ曲げて解釈したり、語呂合わせで解釈しようとしたり、反対のことを言うと決め付けようとする。消去法など悪用することもある。要するに僕の親は僕の発言を正しく理解しようとする姿勢がないのだ。それで相談に乗るのは無理でしょう。親の発言は言葉は立派だが、いつも実情に合わない。

翌日菩提寺に行く。小雨日和。お参りし、和尚さんの話を聞く。納骨堂の祖父に参拝。ここのお寺、西白寺のあるところが朝来地区。雨にしっとりとした山の樹木の緑色が印象的。透き通った水に満たされた水田。子どものころよく見た風景。僕の育ったところ。ほんのわずかに滞在し、また三女の叔母の家の戻る。

準備をし、僕と母親と父親の三人は、一足先に帰途へ着く。次女の関西の叔母夫婦はそのあと帰るらしい。僕の親は飛行機で東京へ向かう。僕は急ぐ必要も特になく、気分的にゆっくりしていたいという気持ちもあり、JRで特急と新幹線を乗り継ぎ東京へ。

僕に対する最大の理解者であった祖母の死。なんともいえぬ空虚感。相変わらず世間の付きまといなどの嫌がらせはすさまじい。少し気持ちを整理して、今年は、倉木麻衣さんのライブに行き、ライブを楽しみ、そしてそのあと再就職の予定。

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