さぬきの歴史

さぬきの歴史やお寺のことなど

「空海の風景」

2021-06-30 22:00:35 | 活動報告
「空海の風景」

司馬遼太郎の「空海の風景」を紹介した動画を見つけました。

空海は佐伯氏出身なのですが、この「佐伯氏」がどのような氏なのか
気になっていました。

以前、私はこんな記事を書いています。

「日本書紀」では、東北の蝦夷・毛人を、俘虜としてまず、熱田神宮に献上。そこで大騒ぎし、非常に無礼ということで、熱田神宮から三輪山へと移動。
そこでも問題を起こしてしまったので、今度は瀬戸内海沿岸の、兵庫・広島・徳島・愛媛・香川へと左遷され、そこで「佐伯部」になったということです。

つまり、空海のご先祖は、東北の蝦夷? 

この動画の中にこんな表現が。
 空海が亡くなるときに書いた「御遺告(ごゆいごう」の中に、
「私の父は毛人征討の時に、讃岐に土地をもらった家系」
と書いてありました。
「佐伯氏」は、毛人(蝦夷)とそれを統括した国造もまとめて「佐伯」と
呼ばれたので、どっちかな?とずっと疑問に思っていたのですが、

司馬遼太郎は「空海は毛人そのもの」と言っています。

そして、違う言語を話す人種だったから、語学に堪能で、天才たり得た、と言っています。

(つづく)

紀貫之

2021-06-15 23:07:05 | 活動報告
漫画アプリで、「超訳 百人一首」という漫画があることを知り、
毎日少しずつ読んでいます。
 
今日は紀貫之
 
幼名を「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという。貫之の母が内教坊出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。
延喜5年(905年)醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上。


記紀などの所伝によれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角を始祖とするが、この2代はともに母方が紀伊国造家の出自であったとされており、この関係から紀氏は早くから武門の家柄として大和王権に仕えたらしい。

 天智天皇朝には大人が御史大夫となり、奈良時代に入ってからは、麻呂が大納言、麻路が中納言、飯麻呂が参議となっている。諸人(贈太政大臣)の女橡姫と志貴皇子との間に生まれた白壁王が光仁天皇として即位すると、その外戚としてさらに繁栄し、桓武天皇朝までに広純と家守が参議に、船守と古佐美が大納言に昇った。彼らは奥羽における蝦夷叛乱の鎮定など軍事面での活躍も特筆されるが、平安時代初期には藤原北家の隆盛に圧倒されるようになる。広浜・百継以降は公卿に昇る者が途絶え、名虎が娘を入内させるが家運は好転せず、応天門の変で夏井が配流されると一族は衰退した。宇多天皇に重用された長谷雄より後は、政治・軍事面で活躍する機会がほぼなくなり、淑望・在昌や貫之・友則・時文などの文人・歌人を輩出するに留まる。 


今、漫画アプリで、「応天の門」という菅原道真の漫画も読んでいるのですが、

 
お話の中でいつもドジを踏んでいる 紀長谷雄 って、
実在したんですね。(笑) しかも偉くなっている!

そして、讃岐の国司として、領民に人気のあった紀夏井が「応天門の変」で
罰せられ、土佐へ流されることに😨 
「応天の門」の中で、度々、悪事を働いていた、獣のような男・紀豊城が、紀夏井の弟だったとは!😱 

歴史の本を読んだだけではなかなか頭に入ってきませんが、漫画で読むと
わかりやすいです。漫画、おすすめ。



運慶

2021-04-04 22:06:24 | 活動報告
「運慶とは何者か」というテレビ番組を偶然見まして、
初めて、「運慶」のことを詳しく知りたいと思いました。

実は志度寺の仁王門にある仏像
「運慶作」と伝わっています。そうだと思っていました。
でも、この番組によると、運慶作だと言われているものは、
わずか31体で、その中に志度寺の仁王像は残念ながらありません。

こちらの番組も似た内容です。


東大寺南大門の金剛力士像


志度寺のは?

志度寺の金剛力士像は昭和49年に解体修理が行われ、
解体中に吽形の首筋の後ろから見つかった、
縦18cm横9cmほどの木札に
「作者、運慶。修理、国主左近衛少将源頼重公。云々
 寛文11年(1671)」
とあったそうです。

左近衛少将源頼重公というのは、初代高松藩主松平頼重公のことですね。
江戸時代の修理が雑だったため、像の傷みが激しく、「運慶作」のお墨付きが
得られないらしいのですが、本当の所はどうなんでしょうね。

奈良仏師の運慶がなぜ志度寺に? とも思いますが、
志度寺は藤原北家の祖、藤原房前に深い縁があるお寺で、運慶たちは
藤原氏の氏寺である興福寺を活動の拠点にしていたそうですから、

全く縁がないというわけではありません。

「運慶とは何者か」というテレビ番組みたいに、この像にCTスキャンを
かけて、真相を突き止めたいですね。


藤原宮子

2020-12-16 22:41:39 | 志度寺
志度寺に伝わる「縁起絵」の背景を探っています。

志度寺には縁起文7巻と縁起絵6幅が伝わっています。
そのうち、
「讃州志度道場縁起絵」⑴⑵では、
志度浦に来た藤原不比等と地元の海女が結ばれて、不比等の二男、「房前」が生まれたことになっています。

藤原不比等で調べてみると

  • 父:藤原鎌足(ただし、前述の通り一書に天智天皇の皇子と記される)。
  • 母:車持与志古娘(車持国子の女。ただし、不比等の母は鏡王女とする説が有力)。
  • 妻:蘇我娼子または媼子 - 蘇我連子の女
    • 長男:藤原武智麻呂 (680-737) - 南家祖
    • 次男:藤原房前 (681-737) - 北家祖
    • 三男:藤原宇合 (694-737) - 式家祖
  • 妻:五百重娘 - 不比等の異母妹。もと天武天皇夫人
    • 四男:藤原麻呂 (695-737) - 京家祖
  • 妻:賀茂比売 - 賀茂小黒麻呂の女[11]
    • 長女:藤原宮子 (683?-754) - 文武天皇夫人、聖武天皇母
  • 妻:県犬養三千代(橘三千代) - 県犬養東人の女。もと美努王妻で文武天皇と聖武天皇の乳人
    • 三女:藤原光明子(安宿媛、藤三娘)(701-760) - 聖武天皇皇后(光明皇后)、孝謙(称徳)天皇母
  • 生母不明
    • 二女:藤原長娥子 - 長屋王室
    • 四女:藤原多比能(吉日) - 橘諸兄室
    • 五女?:藤原殿刀自 - 大伴古慈斐室[12]
『麻績氏系譜』では「中臣不比登」は「妻麻貫玉取ノ子ヲ養嗣」とし、それが房前公であったとしている。  (ウィキペディア)


房前は、歴史上では、蘇我娼子の子供となっています。
それが「志度道場縁起」では、志度の海女が生んだ子となっています。
どうして、そんな話ができたのか、もしかして、本当にそんなことがあったのかな、と思わせてくれるのが、古代史の面白いところなのですが、
今日、不比等の長女で、文武天皇夫人、聖武天皇母の藤原宮子に、
「海女だった説」があることを初めて知り、驚愕しました。

紀州の海女説
梅原猛は、『海人と天皇』新潮文庫(9503)で、宮子は不比等の養女であり、紀州の海女であったとする説を考証している。
「文武天皇が紀州御坊へ療養の旅をしていたとき、美しい海女を見初めたが、いくら美女でも海女の娘では后にはなれないので、権力者・不比等が一旦養女とし、藤原の貴種として嫁入りすることとなった」というのである。
(ウィキペディア)

もうこれ、絶対、不比等と海人族との間に深いつながりがあるとしか思えません。


ここで面白いブログを見つけました。


それから気になるのが
宮子の母とされる賀茂比売 。

志度寺の近くに、房前の母である海女が息絶えた真珠島いうのがあるのですが、その島のある土地は、「鴨庄」「鴨部」という名の地なのです。
この地に昔、加茂族がいたという証ではないのか、と以前からうっすらと思っていました。

房前の母親も加茂族だったのかな~?
縁起絵では「凡直」だったと言われています。
「凡直」も海人だったらしいです。

これも気になりますね。↓

『麻績(おみ)氏系譜』では「中臣不比登」は「妻麻貫玉取ノ子ヲ養嗣」とし、それが房前公であったとしている。  

志度庄

2020-12-14 22:10:05 | 活動報告
志度寺に伝わる「縁起絵」が作られた背景を調べています。

太田昌子編著「志度寺縁起絵」という本の最後の方に
「志度寺の歴史と謎」 菅原昭英 という論文があります。p277~
以下はそこからの抜粋です。



志度寺縁起文は13世紀~14世紀中頃までに成立したとされています。

志度寺縁起によると、志度寺建立は推古天皇33年(625)。
しかし、「志度」という地名が文献で確かめられるのは
九条兼実の日記「玉葉」(1181年)の頃です。

志度寺本尊、十一面観音菩薩像は10世紀後半の造立と想定。

九条兼実は藤原北家の人です。

この人の日記に出てくる「志度庄」は、この時代、
後白河法皇が建春門院平滋子に基づいて建立した最勝光院に寄進され、最勝光院を本所とし、
後の天台座主、慈円(1155~1225)が領家職でした。

慈円は、九条兼実の弟で、親鸞が9歳の時(1181年)慈円の元に入門しています。

12世紀後半、志度庄は、上皇の荘園で、天台座主が領家ということは、志度寺は天台宗と関わりがあったのかもしれません。

そして、志度寺縁起絵の一番最初のお話、「御衣木縁起」は
12世紀中頃に成立したとされる伝菅原道真撰「長谷寺縁起文」を拝借したものらしいです。
 え? この「長谷寺縁起文」、菅原道真が書いたということでしょうか?


  • 寛平8年(896年)2月10日、勅命により道真が長谷寺縁起文を執筆していたところ、夢に3体の蔵王権現が現れ、「この山は神仏の加護厚く功徳成就の地である」と、告げられたという。[113](ウィキペディア)

長谷寺縁起に出てくる近江国の地名と大和国長谷寺を結びつける話は、10世紀に成立した「三宝絵詞」などから見え始め、それらを再編成したのが、「長谷寺縁起文」なのだそうです。

菅原道真さん、讃岐の国司だったこともありますねえ。

菅原道真 承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日)。  
 仁和2年(886年)讃岐守(讃岐国司) 
寛平2年(890年)任地より帰京 

長谷寺縁起を書いたのは、讃岐から帰ったあとみたいですね。
菅原道真は、讃岐にいたとき、「桃太郎」や「竹取物語」を書いたとも言われているようです。

今日はここまで