一葉と桜4:上野車坂・半井桃水
山櫻今年も匂う花影に散りて帰らぬ君をこそ思へ
この歌は明治24年4月、19歳の一葉が詠んだ歌である。
一葉はこの年から本格的に日記を書き始め、
その日記の最初の日に書かれた歌でもある。
この頃の一葉は
①明治20年一葉の兄泉太郎が24歳で死去
二番目の兄寅之助は染付けの職人の修行中の身、
その上徴兵逃れのために別の家の戸籍になっていた。
一葉の父は頭が良く、しっかりしている一葉に期待したのだろう、
樋口家では一葉を樋口家の相続戸主にした。
戸主として母や妹の面倒を見なければならないという
責任感が後に一葉が文学を書き始める原動力になった。
②明治22(1889)年父の事業の失敗と死 父享年58歳
樋口家に多額の負債を残したという。
一葉の家が貧しくなった第一の原因である。
③阪本(渋谷)三郎との婚約破棄事件
渋谷三郎は一葉の父が江戸に出てから世話になった郷里の先輩
真下専之丞の孫で早稲田大学に通っていた頃、一葉は婚約をしていたが
父の死後、樋口家にお金がない事を理由に渋谷家から、婚約を解消された。
渋谷三郎は後に検事や早稲田大学の法学部長に出世した。
この事は一葉の心を傷つけ男性への不信感が生まれたが
一葉の結婚への願望は生涯消える事はなかった。
一葉の初期の作品「闇桜」等身分違いの片思い文学が多い。
④萩の舎での住み込みの助手への幻滅
一葉は父が死んでから5ヶ月ほど歌塾「萩の舎」に住み込み、
内弟子生活をした。
あまり家事が得意でない一葉には辛かったようだ。
師匠の中島歌子は女学校の教師の口を紹介してくれる
約束であつたが学歴のない一葉には無理な話である。
住み込んでいれば歌塾や中島歌子の実像がみえてしまい、
その花鳥風月的な歌に疑問をもち批判や幻滅が生まれた。
又、歌子に付き添い上流階級の家に出稽古に行くなかで
上流階級の家の裏側を見てしまう。
小説「おおつごもり」は萩の舎の住み込み体験談。
一葉はその後,社会の底辺に住む人にも目をむけ
人間の本質を見つめることができるようになり
一葉の文学は花開くことになったが
一葉の上流階級への憧れは消えなかったと思われる。
⑤父親の死後母親と妹邦子は染付け職人の修行中で
高輪に住んでいた次男寅之助と同居するが母親の気性と
芸術家肌の寅之助と折り合いが悪く同居がうまく行かない。
一葉の小説「うもれ木」のモデルとなった。
明治23年9月本郷菊坂70番地(現在の本郷4丁目32番地1)に
母の滝、一葉それに妹の邦子の3人は家を借りる。
現在の東大の赤門と後楽園との中間地点で
菊坂から中程の一段下がったうなぎの寝床のように谷間である。
現在も一葉も使ったという井戸がそのまま残っている。
菊坂の中程には樋口家が通った『伊勢屋質店』の建物がある。
本郷菊坂周辺地図
http://homepage3.nifty.com/namm/index2.htm
http://www.kitada.com/keiko/ichiyou.html
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/1203.html
本郷の菊坂に越して借家住まいの始めたが
針仕事,洗濯の仕事和服の仕立てや洗い張りで
生計を立てる状況で、樋口家の生活は苦しかった。
当時の仕立賃は、袷(あわせ)1枚、15ー20銭、
3人で収入は月5円から6円程度と計算される。
そのうち家賃が2円50銭必要であつた。
一葉は博覧会の売り子にも応募したがうまく行かなかった。
自分で歌塾を開けるほどの資金はなかったし、
一葉が歌塾を開くことは中島歌子に反対された。
参考
明治23年、漱石、子規は東大の英文科に進む、
漱石は奨学金を年額85円貸与された。
子規は松山藩の給費生として月額7円が給付されていた。
明治21年9月鴎外、ドイツから帰国、
明治23年鴎外「舞姫・うたかたの記」を発表
その頃、萩の舎の先輩田辺花圃が「藪の鶯」という小説を書き
原稿料33円を貰ったことを聞く、一葉は花圃が書けたなら、
自分も小説を書いて、親子3人の生活費を稼ごうと考えた。
一葉の家では妹邦子の女友達の野々宮きくの紹介で
東京朝日新聞の小説記者:半井桃水の家の洗い張りの仕事を頼まれていた。
一葉は花圃が坪内逍遥を師として、小説を書いたように
自分も桃水を師として小説を書こうと考えた。
野々宮きくを通して、半井桃水に弟子入りの希望を伝えると
桃水から、「今、東京朝日新聞に「月黄昏」という連載小説を書いていて、
4月12日に連載が終わるから、4月15日にお会いしたい」という連絡を受けた。
半井桃水の写真
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/09.html
朝日新聞で売れている小説を書いている桃水に弟子入りできれば、
自分も小説が書けるに違いない、
桃水は5代目歌右衛門に良く似た美男子だという。
一葉の心には不安よりも、期待のほうが大きく膨らんでいった。
一葉にも心のゆとりが生まれたのだろう。
4月11日「萩の舎」の同僚、吉田かとり子の向島の隅田川のほとりの家で
開かれる花見の宴に出かける余裕がうまれた。
一葉が本格的に書き始めた最初の日記「若葉かげ」は
明治24年4月11日
「花にあくがれ月にうかぶ折々の心をかしきもまれにはあり、」
という書き出しで始まる。
その日、向島の吉田かとり子の家に行く前に、一葉は
久しぶりに妹を連れ出して、二人で上野の山に桜見物に出かける。
樋口家は父の在世時代、下谷御徒町(現在の御徒町駅付近)や
下谷黒門町(現在の上野駅付近)に住んでいた事がある。
明治24年の9月には上野~青森間全線が開通するので
上野駅の周りも父と住んでいた数年前と比べて大きく変化した。
上野の山の桜を見てから、向島に行くため、車坂に通りかかる。
(車坂は上野駅の公園口からアメ横の入口までの坂道)
父と住んでいた数年前の面影は上野駅のまわりには残っていない、
あの頃、父と一緒に櫻の花を良くながめたねと妹の邦子が語る、
一葉は日記を続け、一首を詠む
「 むかしの春もおもかげにうかぶ心地して、
山櫻ことしもにほふ花かげにちりてかへらぬ君をこそ思へ
心細しやなどいふま々に、朝露ならねど二人のそではぬれ渡りぬ」
福岡哲司さんの詳細な上野浅草散歩レポートです。
2005年4月11日の一葉と同じ散歩コースが楽しめます。
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/ichiyounikkisanposumidagawa.html
日記は続く、
一葉は4日後の4月15日、
雨が少し降る、昼過ぎ、半井桃水の家に
小説書きの弟子入り願いのために
芝の南佐久間町の家まで一人で行く。
(現在の山の手線新橋駅の近く)
一葉は桃水の前で完全に上がってしまう、日記には
「耳ほてり唇かわきて、いふべき言もおぼへず」と
述べるべき挨拶の言葉も出てこない、
状態になってしまった、と書く。
さらに、一葉は日記に桃水の印象を書く。
「色いと白く面おだやかに少し笑み給へば
誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆる」
一葉は桃水に対して,憧れ以上の感情を持ってしまった。
これは一葉の父離れの瞬間であり、
少女から、恋する乙女へと変化する動きを
一葉が自らの日記のなかに書きとめた事になる。
半井桃水は一葉が生涯忘れられない恋人となった。
一葉の小説家としての才能を最初に見つけた人である。
一葉に対して,小説の書き方を直接指導し、
翌年、3月には桃水が発行した同人誌「武蔵野」に
一葉の最初の小説「闇桜」が掲載される事になる。
小説家「樋口一葉」誕生の第一歩に
大きな力を貸した人となる。
以上
山櫻今年も匂う花影に散りて帰らぬ君をこそ思へ
この歌は明治24年4月、19歳の一葉が詠んだ歌である。
一葉はこの年から本格的に日記を書き始め、
その日記の最初の日に書かれた歌でもある。
この頃の一葉は
①明治20年一葉の兄泉太郎が24歳で死去
二番目の兄寅之助は染付けの職人の修行中の身、
その上徴兵逃れのために別の家の戸籍になっていた。
一葉の父は頭が良く、しっかりしている一葉に期待したのだろう、
樋口家では一葉を樋口家の相続戸主にした。
戸主として母や妹の面倒を見なければならないという
責任感が後に一葉が文学を書き始める原動力になった。
②明治22(1889)年父の事業の失敗と死 父享年58歳
樋口家に多額の負債を残したという。
一葉の家が貧しくなった第一の原因である。
③阪本(渋谷)三郎との婚約破棄事件
渋谷三郎は一葉の父が江戸に出てから世話になった郷里の先輩
真下専之丞の孫で早稲田大学に通っていた頃、一葉は婚約をしていたが
父の死後、樋口家にお金がない事を理由に渋谷家から、婚約を解消された。
渋谷三郎は後に検事や早稲田大学の法学部長に出世した。
この事は一葉の心を傷つけ男性への不信感が生まれたが
一葉の結婚への願望は生涯消える事はなかった。
一葉の初期の作品「闇桜」等身分違いの片思い文学が多い。
④萩の舎での住み込みの助手への幻滅
一葉は父が死んでから5ヶ月ほど歌塾「萩の舎」に住み込み、
内弟子生活をした。
あまり家事が得意でない一葉には辛かったようだ。
師匠の中島歌子は女学校の教師の口を紹介してくれる
約束であつたが学歴のない一葉には無理な話である。
住み込んでいれば歌塾や中島歌子の実像がみえてしまい、
その花鳥風月的な歌に疑問をもち批判や幻滅が生まれた。
又、歌子に付き添い上流階級の家に出稽古に行くなかで
上流階級の家の裏側を見てしまう。
小説「おおつごもり」は萩の舎の住み込み体験談。
一葉はその後,社会の底辺に住む人にも目をむけ
人間の本質を見つめることができるようになり
一葉の文学は花開くことになったが
一葉の上流階級への憧れは消えなかったと思われる。
⑤父親の死後母親と妹邦子は染付け職人の修行中で
高輪に住んでいた次男寅之助と同居するが母親の気性と
芸術家肌の寅之助と折り合いが悪く同居がうまく行かない。
一葉の小説「うもれ木」のモデルとなった。
明治23年9月本郷菊坂70番地(現在の本郷4丁目32番地1)に
母の滝、一葉それに妹の邦子の3人は家を借りる。
現在の東大の赤門と後楽園との中間地点で
菊坂から中程の一段下がったうなぎの寝床のように谷間である。
現在も一葉も使ったという井戸がそのまま残っている。
菊坂の中程には樋口家が通った『伊勢屋質店』の建物がある。
本郷菊坂周辺地図
http://homepage3.nifty.com/namm/index2.htm
http://www.kitada.com/keiko/ichiyou.html
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/1203.html
本郷の菊坂に越して借家住まいの始めたが
針仕事,洗濯の仕事和服の仕立てや洗い張りで
生計を立てる状況で、樋口家の生活は苦しかった。
当時の仕立賃は、袷(あわせ)1枚、15ー20銭、
3人で収入は月5円から6円程度と計算される。
そのうち家賃が2円50銭必要であつた。
一葉は博覧会の売り子にも応募したがうまく行かなかった。
自分で歌塾を開けるほどの資金はなかったし、
一葉が歌塾を開くことは中島歌子に反対された。
参考
明治23年、漱石、子規は東大の英文科に進む、
漱石は奨学金を年額85円貸与された。
子規は松山藩の給費生として月額7円が給付されていた。
明治21年9月鴎外、ドイツから帰国、
明治23年鴎外「舞姫・うたかたの記」を発表
その頃、萩の舎の先輩田辺花圃が「藪の鶯」という小説を書き
原稿料33円を貰ったことを聞く、一葉は花圃が書けたなら、
自分も小説を書いて、親子3人の生活費を稼ごうと考えた。
一葉の家では妹邦子の女友達の野々宮きくの紹介で
東京朝日新聞の小説記者:半井桃水の家の洗い張りの仕事を頼まれていた。
一葉は花圃が坪内逍遥を師として、小説を書いたように
自分も桃水を師として小説を書こうと考えた。
野々宮きくを通して、半井桃水に弟子入りの希望を伝えると
桃水から、「今、東京朝日新聞に「月黄昏」という連載小説を書いていて、
4月12日に連載が終わるから、4月15日にお会いしたい」という連絡を受けた。
半井桃水の写真
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/09.html
朝日新聞で売れている小説を書いている桃水に弟子入りできれば、
自分も小説が書けるに違いない、
桃水は5代目歌右衛門に良く似た美男子だという。
一葉の心には不安よりも、期待のほうが大きく膨らんでいった。
一葉にも心のゆとりが生まれたのだろう。
4月11日「萩の舎」の同僚、吉田かとり子の向島の隅田川のほとりの家で
開かれる花見の宴に出かける余裕がうまれた。
一葉が本格的に書き始めた最初の日記「若葉かげ」は
明治24年4月11日
「花にあくがれ月にうかぶ折々の心をかしきもまれにはあり、」
という書き出しで始まる。
その日、向島の吉田かとり子の家に行く前に、一葉は
久しぶりに妹を連れ出して、二人で上野の山に桜見物に出かける。
樋口家は父の在世時代、下谷御徒町(現在の御徒町駅付近)や
下谷黒門町(現在の上野駅付近)に住んでいた事がある。
明治24年の9月には上野~青森間全線が開通するので
上野駅の周りも父と住んでいた数年前と比べて大きく変化した。
上野の山の桜を見てから、向島に行くため、車坂に通りかかる。
(車坂は上野駅の公園口からアメ横の入口までの坂道)
父と住んでいた数年前の面影は上野駅のまわりには残っていない、
あの頃、父と一緒に櫻の花を良くながめたねと妹の邦子が語る、
一葉は日記を続け、一首を詠む
「 むかしの春もおもかげにうかぶ心地して、
山櫻ことしもにほふ花かげにちりてかへらぬ君をこそ思へ
心細しやなどいふま々に、朝露ならねど二人のそではぬれ渡りぬ」
福岡哲司さんの詳細な上野浅草散歩レポートです。
2005年4月11日の一葉と同じ散歩コースが楽しめます。
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/ichiyounikkisanposumidagawa.html
日記は続く、
一葉は4日後の4月15日、
雨が少し降る、昼過ぎ、半井桃水の家に
小説書きの弟子入り願いのために
芝の南佐久間町の家まで一人で行く。
(現在の山の手線新橋駅の近く)
一葉は桃水の前で完全に上がってしまう、日記には
「耳ほてり唇かわきて、いふべき言もおぼへず」と
述べるべき挨拶の言葉も出てこない、
状態になってしまった、と書く。
さらに、一葉は日記に桃水の印象を書く。
「色いと白く面おだやかに少し笑み給へば
誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆる」
一葉は桃水に対して,憧れ以上の感情を持ってしまった。
これは一葉の父離れの瞬間であり、
少女から、恋する乙女へと変化する動きを
一葉が自らの日記のなかに書きとめた事になる。
半井桃水は一葉が生涯忘れられない恋人となった。
一葉の小説家としての才能を最初に見つけた人である。
一葉に対して,小説の書き方を直接指導し、
翌年、3月には桃水が発行した同人誌「武蔵野」に
一葉の最初の小説「闇桜」が掲載される事になる。
小説家「樋口一葉」誕生の第一歩に
大きな力を貸した人となる。
以上