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華の会

日本文化を考える

一葉と桜 半井桃水

2005年04月30日 | 文学
一葉と桜4:上野車坂・半井桃水

山櫻今年も匂う花影に散りて帰らぬ君をこそ思へ

この歌は明治24年4月、19歳の一葉が詠んだ歌である。
一葉はこの年から本格的に日記を書き始め、
その日記の最初の日に書かれた歌でもある。

この頃の一葉は
①明治20年一葉の兄泉太郎が24歳で死去
 二番目の兄寅之助は染付けの職人の修行中の身、
 その上徴兵逃れのために別の家の戸籍になっていた。
 一葉の父は頭が良く、しっかりしている一葉に期待したのだろう、
 樋口家では一葉を樋口家の相続戸主にした。

 戸主として母や妹の面倒を見なければならないという
 責任感が後に一葉が文学を書き始める原動力になった。

②明治22(1889)年父の事業の失敗と死 父享年58歳
 樋口家に多額の負債を残したという。

 一葉の家が貧しくなった第一の原因である。

③阪本(渋谷)三郎との婚約破棄事件
 渋谷三郎は一葉の父が江戸に出てから世話になった郷里の先輩
 真下専之丞の孫で早稲田大学に通っていた頃、一葉は婚約をしていたが
 父の死後、樋口家にお金がない事を理由に渋谷家から、婚約を解消された。
渋谷三郎は後に検事や早稲田大学の法学部長に出世した。

 この事は一葉の心を傷つけ男性への不信感が生まれたが
 一葉の結婚への願望は生涯消える事はなかった。
 一葉の初期の作品「闇桜」等身分違いの片思い文学が多い。

④萩の舎での住み込みの助手への幻滅
 一葉は父が死んでから5ヶ月ほど歌塾「萩の舎」に住み込み、 
 内弟子生活をした。
 あまり家事が得意でない一葉には辛かったようだ。
 師匠の中島歌子は女学校の教師の口を紹介してくれる 
 約束であつたが学歴のない一葉には無理な話である。
 住み込んでいれば歌塾や中島歌子の実像がみえてしまい、
 その花鳥風月的な歌に疑問をもち批判や幻滅が生まれた。
 又、歌子に付き添い上流階級の家に出稽古に行くなかで
 上流階級の家の裏側を見てしまう。

 小説「おおつごもり」は萩の舎の住み込み体験談。
 一葉はその後,社会の底辺に住む人にも目をむけ
 人間の本質を見つめることができるようになり
 一葉の文学は花開くことになったが
 一葉の上流階級への憧れは消えなかったと思われる。

⑤父親の死後母親と妹邦子は染付け職人の修行中で
 高輪に住んでいた次男寅之助と同居するが母親の気性と
 芸術家肌の寅之助と折り合いが悪く同居がうまく行かない。

 一葉の小説「うもれ木」のモデルとなった。

明治23年9月本郷菊坂70番地(現在の本郷4丁目32番地1)に
母の滝、一葉それに妹の邦子の3人は家を借りる。
現在の東大の赤門と後楽園との中間地点で
菊坂から中程の一段下がったうなぎの寝床のように谷間である。
現在も一葉も使ったという井戸がそのまま残っている。
菊坂の中程には樋口家が通った『伊勢屋質店』の建物がある。

本郷菊坂周辺地図
http://homepage3.nifty.com/namm/index2.htm
http://www.kitada.com/keiko/ichiyou.html
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/1203.html

本郷の菊坂に越して借家住まいの始めたが
針仕事,洗濯の仕事和服の仕立てや洗い張りで
生計を立てる状況で、樋口家の生活は苦しかった。
 当時の仕立賃は、袷(あわせ)1枚、15ー20銭、
3人で収入は月5円から6円程度と計算される。
そのうち家賃が2円50銭必要であつた。
一葉は博覧会の売り子にも応募したがうまく行かなかった。
自分で歌塾を開けるほどの資金はなかったし、
一葉が歌塾を開くことは中島歌子に反対された。

参考
明治23年、漱石、子規は東大の英文科に進む、
       漱石は奨学金を年額85円貸与された。
       子規は松山藩の給費生として月額7円が給付されていた。
明治21年9月鴎外、ドイツから帰国、
明治23年鴎外「舞姫・うたかたの記」を発表

その頃、萩の舎の先輩田辺花圃が「藪の鶯」という小説を書き
原稿料33円を貰ったことを聞く、一葉は花圃が書けたなら、
自分も小説を書いて、親子3人の生活費を稼ごうと考えた。

一葉の家では妹邦子の女友達の野々宮きくの紹介で
東京朝日新聞の小説記者:半井桃水の家の洗い張りの仕事を頼まれていた。
一葉は花圃が坪内逍遥を師として、小説を書いたように
自分も桃水を師として小説を書こうと考えた。
野々宮きくを通して、半井桃水に弟子入りの希望を伝えると
桃水から、「今、東京朝日新聞に「月黄昏」という連載小説を書いていて、
4月12日に連載が終わるから、4月15日にお会いしたい」という連絡を受けた。

半井桃水の写真
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/09.html
朝日新聞で売れている小説を書いている桃水に弟子入りできれば、
自分も小説が書けるに違いない、
桃水は5代目歌右衛門に良く似た美男子だという。
一葉の心には不安よりも、期待のほうが大きく膨らんでいった。
一葉にも心のゆとりが生まれたのだろう。

4月11日「萩の舎」の同僚、吉田かとり子の向島の隅田川のほとりの家で
開かれる花見の宴に出かける余裕がうまれた。

一葉が本格的に書き始めた最初の日記「若葉かげ」は
明治24年4月11日
「花にあくがれ月にうかぶ折々の心をかしきもまれにはあり、」
という書き出しで始まる。

その日、向島の吉田かとり子の家に行く前に、一葉は
久しぶりに妹を連れ出して、二人で上野の山に桜見物に出かける。

樋口家は父の在世時代、下谷御徒町(現在の御徒町駅付近)や
下谷黒門町(現在の上野駅付近)に住んでいた事がある。
明治24年の9月には上野~青森間全線が開通するので
上野駅の周りも父と住んでいた数年前と比べて大きく変化した。

上野の山の桜を見てから、向島に行くため、車坂に通りかかる。
(車坂は上野駅の公園口からアメ横の入口までの坂道)
父と住んでいた数年前の面影は上野駅のまわりには残っていない、
あの頃、父と一緒に櫻の花を良くながめたねと妹の邦子が語る、
一葉は日記を続け、一首を詠む

「 むかしの春もおもかげにうかぶ心地して、

山櫻ことしもにほふ花かげにちりてかへらぬ君をこそ思へ

心細しやなどいふま々に、朝露ならねど二人のそではぬれ渡りぬ」

福岡哲司さんの詳細な上野浅草散歩レポートです。
2005年4月11日の一葉と同じ散歩コースが楽しめます。
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/ichiyounikkisanposumidagawa.html


日記は続く、
一葉は4日後の4月15日、
雨が少し降る、昼過ぎ、半井桃水の家に
小説書きの弟子入り願いのために
芝の南佐久間町の家まで一人で行く。
(現在の山の手線新橋駅の近く)
一葉は桃水の前で完全に上がってしまう、日記には
 「耳ほてり唇かわきて、いふべき言もおぼへず」と
述べるべき挨拶の言葉も出てこない、
状態になってしまった、と書く。
さらに、一葉は日記に桃水の印象を書く。
 「色いと白く面おだやかに少し笑み給へば
  誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆる」

一葉は桃水に対して,憧れ以上の感情を持ってしまった。
これは一葉の父離れの瞬間であり、
少女から、恋する乙女へと変化する動きを
一葉が自らの日記のなかに書きとめた事になる。

半井桃水は一葉が生涯忘れられない恋人となった。
一葉の小説家としての才能を最初に見つけた人である。
一葉に対して,小説の書き方を直接指導し、
翌年、3月には桃水が発行した同人誌「武蔵野」に
一葉の最初の小説「闇桜」が掲載される事になる。
小説家「樋口一葉」誕生の第一歩に
大きな力を貸した人となる。

以上