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華の会

日本文化を考える

一葉の父樋口則義 桜木の宿

2005年04月17日 | 文学
一葉と桜3 「桜木の宿」

一葉の父大吉と母あやめの山梨の故郷の村を出てきてからの
江戸での軌跡を書いてみる。

「私の力不足から、一葉の父の評価が纏まりませんでした、
 面倒かもわかりませんが簡単な略歴を読んで見てください。
 江戸から明治という変革の時代に生きた一人の男の姿が浮かび上がります。
 江戸末期の1両は現在の10万円位と考えられます。
 一両と一円は同じといいますが当時の一円は現在の3万円位でしょうか。」

安政4年(1857)6月 母あやめは長女ふじを出産後、娘を里子に出して、
             旗本 稲葉大膳(2500石)の娘鉱の乳母にあがる。
            乳母の給金は月3両・仕着料1両・里扶ち+小遣だった。
       同年7月 26歳の大吉は同郷の先輩 真下専之丞の世話で
             蕃所調所(幕府の西洋学問所)の小遣に採用される。
             大吉はABC(英語)を勉強していると日記に付けた。
             (現在の感覚なら臨時採用のアルバイト)
安政5年(1858)8月 大番組与力 田辺太郎に従い大阪に行く。 
             大阪城の警備の仕事に就く。
             (一年契約の臨時雇い契約社員)
安政6年(1859)10月 御勘定組頭 菊地大助の中小姓になる。
              この時、給料は月4両一人扶ち(私設秘書)
文久2年(1862)    主人の菊池大助が勘定吟味役役料300俵に出世する。
文久3年(1863)   さらに、大目付に昇進,表高壱千石の外国奉行を兼任する。
            それに伴い大吉も出世、公用人(本採用)となった。

 大吉は勤めを替えるたびに出自を偽るためか何度も名前や履歴を変えた。
 しかし、頭も良く、故郷の父への詳細な報告や日記、家計簿が残っているのでも
 判るように筆まめで字もきれい、勤務態度も、誠実で真面目だったのだろう。
 酒色に近づかず、役得の金をコツコツ貯めて武士になる機会を狙っていた。
       
慶応3年(1867)5月、村を出てから10年、36歳の大吉は
 南町奉行配下八丁掘同心浅井竹蔵(30俵2人扶持)の株を入手する。
 同心株100両+浅井家の負債肩代り金300両の合計400両を支払う。
(内250両は50年の分割払い)
(現在の金額に換算すると約4000万円位だという)
八丁堀同心として坪100坪、建坪8坪の大縄組町屋敷に住む。

陸軍奉行並にまで大出世した同郷の先輩真下専之丞の後ろ盾で、
 現在なら4000万円という金の力を借りて農民から武士になれた事になる。

慶応3年(1867)10月徳川慶喜の大政奉還で江戸幕府は瓦解
慶応4年(1868)5月21日官軍の命令で南町奉行所は廃止

  大吉が武士でいられたのは1年足らずだったが、
  明治維新後、横滑りのような形で東京府庁記録方に勤務できた。
  東京府庁、警視庁での大吉の官位は最後まで九等官で終わった。 
  最初の月給は10円、明治20年の警視庁退職時は25円だったという。

漱石の父 夏目直克は大吉よりも15歳年上で警視庁では上司であった。
漱石の家は代々名主の家であつた。
江戸時代の名主は村の行政、治安業務の役目をになっていた。
明治政府は名主の仕事を継続する為、維新後も警視庁で雇ったのである。
夏目直克は警視庁で6等級、月給30円という記録がある。

明治5年(1872)3月25日(新暦では5月2日)に
樋口一葉は江戸から東京になったばかりの東京で生まれた。
幸橋内東京府庁砲地旧郡山藩柳澤邸長屋
東京府第二大区一小区内幸町御門内一番屋敷
(現在の千代田区内幸町1-5-2)
大吉41歳、母37歳次女として、生まれました。
新緑の美しい頃で「なつ」と名付けられた。
二人の間には長女ふじをはじめ、長兄泉太郎、次兄虎之助、
次女奈津(一葉)、三女邦子の計5人の子供に恵まれました。

平成17年、旧暦で一葉の誕生日に当たる3月25日に
樋口一葉の生誕地である内幸町に記念碑が建てられました。
千代田区内幸町1丁目5番地2は山の手線の新橋駅の近く、
第一ホテルと東京電力本社の間にある、
T&Dファイナンシャル生命本社ビルのあたりのようです。
隣の千代田区内幸町区民会館に記念碑があります。
http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/news/release/20050325/0325_2.htm
http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/tokusyu/chiiki/koujimachi/20050414/0414.htm
 現代風に考えれば大吉は37歳で会社が倒産、運良く、別会社に就職できたが
それまで何かと後ろ楯になってくれた郷土の先輩は幕府の瓦解で隠居をした。
これで出世の望みも絶たれたと大吉は考えた。

 そればかりかそれまでの漢字が中心の社会から、
欧米に追いつこうと英語が重要視される時代になっていた。
大吉は明治という大変革の時代についていけなくなった。

出世の望みのなくなった大吉はそれまで以上に副業に精を出すようになった。
又、自分の出来なくなった夢を子供にかけるようになり、
子供の教育を熱心に行った。

一葉の父は明治になってから、則義と改名届を出している。
これからは一葉の父は則義と書く

第一、一葉の父則義の副業

明治になってから東京府の下級官吏として樋口則義は
戸籍係や屋敷取調係、社寺取調係を歴任していた。
これらの職務には裏収入があったようだ。
①屋敷取調係で得た知識でその頃,藩々置県で
 郷里に帰った武士の屋敷を払下げてもらい
 土地売買をして利益をあげた記録が残っている
②社寺取調係の時に知り合った社寺の借地を管理して、
 借地料や貸家料の1割を管理料として収入を得ていた。
③郷里の知り合いなどにお金を貸し、年3割という、
 現在のサラ金なみの利息を取っていた。
 多い時には月300円も貸していたという。

高利貸しをしていれば今のサラ金のようなトラブルもあつた。
「明治20年5月31日 関根孝助に貸金取立訴訟に勝つ」という記録がある。
父親の貸し借りによるトラブルを小さい頃から、一葉は見ていた。
後年の一葉が「お金を浅ましいものと」考えた、金銭感覚の育成に
父則義の高利貸しをした事の影響がないわけはないと思われる。

明治初期の日本は江戸から明治への変革期であった。
廃藩置県で江戸を離れた、武士の藩邸が沢山余り、
不動産売買は量も多く、インフレで利ざやが稼げた。
現代のバブル景気の成金のように、
明治初期に土地売買を副業にしていた一葉の父も景気が良く、
その頃、一葉の家に訪ねて来た山梨の郷里の者に、
則義が金の延べ棒を見せて自慢していたという記録がある。

明治14年の政変 
     明治政府は近代国家への社会経済施設の整備
     武士への多額の退職金の支払などで貨幣の発行が急増していた。
     そのため明治初期の経済社会は急激なインフレ経済になった。
     この頃、大蔵大臣になった松方正義はデフレ政策に変更した。
   
明治17年頃の日本は不況が激しくなり、会社や銀行の倒産が多くなった。
   現在のバブル経済の破綻と同じような経済社会になった。

樋口家が貧しくなった理由①この頃から、父の副業もうまく行かなくなった。

明治20年  57歳の則義は警視庁を退職
明治21年6月59歳の則義は自ら荷馬車運送の組合設立に取り組む
  当時,開業した鉄道駅の近くに運送会社を作るという発想は悪くはないが
  当時のデフレ政策の影響を受けた経済情勢と
  一緒に事業を立ち上げた仲間が悪かったようだ。
明治22年2月59歳 荷馬車運送の組合設立事業は失敗に終わる。
明治22年7月    一葉の父則義は病没する。

樋口家が貧しくなった理由② 父の事業の失敗で多額の借金が残ったという。

第二、一葉の父の子供たちへの教育
    一葉の父は子供たちの教育に熱心だった。

①一葉の9歳年上の兄泉太郎の経歴
   樋口家では長男で頭の良かった泉太郎に期待する所は大きかった。
   しかし、病弱で明治17年1月結核療養のため熱海に出掛けた。
明治18年明治法律学校(現明大)に入学した。
   当時、大学進学は珍しいことである。
明治20年6月明治法律学校を中退して、大蔵省に勤める
同年9月 外出先で喀血
同年12月27日 死去 享年24歳

その頃、漱石の父夏目直克は警視庁で一葉の父の上司であった。
明治20年、夏目家でも漱石の二人の兄大助と栄之助を失った。

 漱石の兄・大助 安政3年(1856)~明治20年の経歴
明治12年  肺を病んで東京開成学校(東大)を中退
   同年2月 警視庁翻訳係に勤める       月給40円
明治14年(1881)1月 警視庁から陸軍省に転職 月給45円          
明治20年(1887)3月21日死去 享年31歳

夏目大助が警視庁の翻訳係に勤めていた頃、一葉の父も同じ職場にいた。
その頃、一葉には大助或は漱石との婚約話もあったという話がある。
兄樋口泉太郎の葬儀では夏目直克から香典50銭、という記録がある。

樋口家が貧しくなった理由③兄泉太郎の治療費が家計を圧迫した。

②一葉の教育
一葉は小さい頃から、本を読むのが好きな子だった。
一葉の父は一葉に沢山の読み物を買い与えた。
歌の才能もあったようだ。

ほそけれど人の杖とも柱とも
思はれにけり筆のいのち毛

一葉が小学校の頃に詠んだ歌だと妹邦子が書いている。
あまりにも出来すぎた歌であるが後に社会の底辺を見つめた
一葉の文学の萌芽が感じられなくもない。

一葉は母の反対で小学校を途中退学した。
女には学問はいらないと考えられた時代である。
学校を途中で止めたことはそれほど非難される事ではない。
一葉は家事の手伝いをしながら、
当時の花嫁修業である裁縫などを習ったが裁縫はあまり得意ではなかった。
そのような一葉を見ていた父は古典文学の素養をつけて、
将来、書や歌の先生として生計を立てさせようと考えるようになった。

当時の上流階級の令嬢達が通った「萩の舎」に和歌の勉強に行かせた。
14歳の一葉は源氏物語などの古典文学と和歌を勉強する機会が与えられた。
ここから、後に和文擬古文のような一葉の文体が生れる事になる。
又、萩の舎の同僚は一葉が作家になるための女性応援団になった。

最後に樋口一葉の生涯で一番裕福で幸福であったと思われる
時期と場所について書いておく。
それは一葉が4歳から9歳(明治9年4月から明治14年7月)までの5年間
本郷の東大赤門と道を隔てた法真寺の隣地に住んでいた時代である。

一葉の父は明治7年8月45歳の時
東京府知事から士族であつた代償として476円を受け取った。
内訳は家禄13石の6年分で米78石(右代金220円現金、250円公債証書)
その金とそれまでの蓄えとを加えて、本郷の法真寺の隣で
宅地230坪、建坪45坪の屋敷を当時の金550円で買った。

一葉が住んだ場所、現在の東京都文京区本郷5丁目26
法真寺の玄関前の、現在、駐車場になっている所である。
法真寺の境内には一葉記念館があり、
毎年、一葉の命日には「一葉祭」が開かれている。
http://homepage3.nifty.com/namm/index1.htm
http://www.kitada.com/keiko/ichiyou.html

一葉が住んだ本郷のお屋敷には大きな桜の木があったという。
晩年の一葉は、本郷の家を懐かしみ
自ら「桜木の宿」と命名して随筆に書いている。

「かりに桜木の宿といはばや、
忘れがたき昔しの家にはいと大いなるその木ありき,
狭うもあらぬ庭のおもを春はさながら打おほふばかり咲きみだれて、
落花の頃はたたきの池にうく緋鯉の雪をかづけるけしきもをかしく
松楓のよきもありしかど、これをば庭の光りにぞしける。」
    晩年の手記から  雑記「詞がきの歌」より

法真寺は関東大震災にも、東京大空襲にも焼け残ったという。
一葉が見たままの山門が現在も残り、
一葉が小説「行く雲」の中で
「腰ごろもの観音さま、濡れ仏にておはします御肩あたり、
膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて、
前に供えしシキミの枝につもれるもおかしく」と書いた。

腰ごろもの観音さまは現在、本堂の左脇に置いてある。
本堂の前の桜は里桜(普賢象)なので4月中旬、花開いている事であろう。
花びらが観音様の膝のあたりに、はらはらとこぼれている事であろう。
                            以上