南方熊楠は、1899年(明治32年)に『簡易科學』誌に寄稿した「生物学汎論」で次のように言っています。
「曼荼羅のことは、曼荼羅が森羅万象のことゆえ、一々実例を引き、すなわち箇々のものについてその関係を述ぶるにあらざれば空談となる。抽象風に原則のみいわんには、夢を説くと代わりしことなし。そのうち小生目の当たりいろいろの標本を示し、せめては生物学上のことのみでも説き申し上ぐべく候。」
この記述は、真を述べる科学者、哲学者、仏教の者、神道の者の全てに共通の矜持です。この矜持と覚悟があれば、理屈を捏ね下手に長々と書き散らす迷惑事も後々には許される事になるのかも知れません。
曼荼羅とは仏教用語では仏の顕現になり、神道では森羅万象ということになります。仏教は成仏を願い。神道は万物に宿る神々への帰依です。融合して日本人になっています。
大乗仏教での誓願は、自分だけではなく全ての人や物が「成仏」することです。万巻の経典では、成仏とは何か。成仏の方法とは何か。が、一人ひとりに向けて説かれています。成仏すると無量無辺の仏になるのですが、その説明と理解のために、百年千年、千人万人もの先人が「成仏」を語って来ました。そしてその多くが言葉を使用しているにも関わらず、真の理解には「言葉での理解や思考を離れなければならない」と言っています。
さらに「悟りを得て涅槃に逝く」とは、心と身体が分離して、やがて「心」の方は現実意識である言葉での理解や思考を離れて涅槃に向かい、「身体」は分解し土に帰ることになる。と教えています。
幼少より仏教に親しみ、これまでたくさんの仏教経典を読んできましたが、その熟読研鑽だけでは成仏できない事がわかってきました。斎戒沐浴、瞑想、出家をして念仏や坐禅をしたとしても、言葉の方法で理解や思考をしていれば、成仏を招来できないことが分かってきました。多くの仏典にその事が書かれています。でもその教えが紙に印された文字や話し言葉で伝えられ学ばされて来たのは何故なのでしょうか。
では根本的に、その言葉や言語思考とは何なのか。それから離れることとは何なのか。そして死で分解してしまう身体とは何かについてこれからお話ししようと思います。
「言葉での理解が理解の全てになっている。」、では真理とは?
現代では、「言葉での理解が理解の全てになっている。」とお話ししてきました。AIなどの言語思考の進歩でさらにその理解の技術が深められようとしています。そうするとますます成仏から遠のくことになるのでしょうか。これまでの努力は無駄になってしまうのでしょうか。
仏教では、人間を「身」「口」「違」の三つのカテゴリーに分けて分析をしています。
その中で「口」の役割は言葉であり、「意」で真理と言われるのは下記の「言葉」になります。
・物事には必ず原因(因)があって条件(縁)があって結果(存在、現象)がある。(因縁)
・因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)
・因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)
・カルマがつくる煩悩。 煩悩がつくるカルマ。それらがつくる輪廻転生から脱することが、成仏である。(四聖諦)
言葉で表すと、このような長さになります。これら教えは、一つのものを別々の観点から眺めたもので、すべては同時に存在し、常に変化して止まないのです。
この長さの文字を読むと、無意識に文節内容を一つ一つのまとまりとして捉えるゲシュタルトの法則が働きます。そしてその意識の一つ一つのまとまりに、名称を与え言語化し、それが「存在」と言われるものになっていきます(例えば「因縁で生じた物事」という存在)。
それから、これら存在同士を突き合わせ理解が進みます。この文脈を読み終えるまでこの思考は続きますが、この砂糖が溶けるのを待つような思考の間は、心は判断と変化を止めていて、次に動くまで時の空白が生ずる事になります。
このように一般に思考するという行為は、言葉が主導し、言葉により存在が発生し、存在が消えれば言葉も思考も消えてしまうという、ノロノロとした繰り返しが続きます。これが言語思考に特有の思考と理解の方法であり、言葉が煩悩を生む所以なのです。その間にも現象は動きを止めず、心臓も動き続けているというのにです。
仏教の瞑想は、言語思考とは別の意識思考です。
瞑想とは心を静め言語思考から離れることを言います。そうするとこれは脳を動かさず何も考えないに集中すること。と誤解してしまいます。しかしその窮屈には長くは耐えられず、坐禅では思わず動いてしまい、警策で打たれ何も考えない努力が中断させられてしまいます。
人間の身体や頭脳には言語思考の意識の他に、例えば無意識と言われる中にも幾つか別の意識思考があります。レンマの思考。体感で意識思考する。六感を働かす。というものなど他にたくさん(仏の数だけ)あります。
仏教の瞑想とは、脳を止めるのではなく言語思考のスピードを意識的に急速に働かすと、言語思考は追い付けなくてそのノロマの正体を表します。すると無意識の中から別の感覚、意識、思考が湧き上がってきて思考理解を助けに来ます。そこから成仏を実感できる意識思考を見つけ出し、その意識に止まり続け、脳と身体感覚を働かせて成仏の理解につなげるようにしてみます。そしてこの一連の動きを続け熟達してくると真の瞑想に近づいていきます。
真の理解とは
「身」(身体)を認知理解(体感)する方法は、言語思考とは違う作法になります。 身体に向けた意識は、まず自分の身体からの多種な感覚(体感)を、無意識がひとつのまとまりとして捉えます。
無意識が腹に手を当てさせます。その手の動きと体感から、言語思考が言葉化し「腹痛」の言葉を生みます。同時に「お腹が痛い」との存在が生まれ理解をします。「昼食が悪かったのかな、薬を飲もうか」など言葉を出すことができます。しかしその前に、すでに身体の各機関は、腹に異変を感じた時点で体感し理解しそれぞれの役割で対応を始めています。言葉の理解より前に、血圧と動悸が少し上昇し、血液やホルモンが動き、白血球は免疫機能を発動したりしています。
これが言語思考以外の別の意識思考の作動例になります。身体意識思考(体感)は常時瞬時に働いているので、言葉がノロマでも、毎日毎時安心でいられるのです。
このことから分かることは、「口」による言葉での理解が働く前に、「身(身体)」と「意(心)」は、常に変化して止まないレベルで即座に動き、素早い認識と思考理解で状態を把握しその対応も始めているのです。それから漸くノロマな言葉と存在が生まれてくるのです。
真の理解とは、脳の働きが常に変化して止まない状態にあって、素早く動き、臨済禅師から喝を喰う前に、ノロマな言葉以外の別の意識思考で実行される事なのです。
これが「言葉での理解や思考を離れなければならない」と言われる理由の一つなのです。
つまり言葉で書いてある上記の仏の教え(因縁など)は、ノロマな教えと思っていた方が良いのです。
言葉の理解のその方法とは、例えばゴルフの教則本を読むと、言葉と図形でスイングを細かく分析し解説しています。しかしその分析通りに身体でスイングしてもボールはうまく当たってくれないのは皆十分に分かっています。仏典経典を生涯にわたり沢山読んでも成仏は得られないのに似ています。
そしてその言葉のノロマ性に気付かせ排除するために、仏教では身体をセンサーする身体感覚のスピード感を利用します。
仏教の様々な宗派、例えば密教(インド、チベット、中国、日本)や禅宗などでは、言葉のノロマ性に気づかせ、さらにその弊害を「身」「口」「意」の働きからも除く方法として、例えばヨガ、瞑想、坐禅などの身体の技法を実践します。これらは言葉でモグモグしていると、当然、臨済禅師からは直ちに喝を喰らう迅速レベル(頓悟)でです。
では、「身」「意」「口」を、常に変化して止まない状態で働かせば「成仏」は可能になるものなのでしょうか。どうもそれだけではないようなのです。
東洋の「気(エネルギー)」
言葉は、人間の思考や理解に染み付いているので心(意)から引き離すのが難しく、身体感覚のスピードを覚えさせると思考も自覚して成仏が早くなるのでは、と東洋の先人は考えたのかもしれません。そのためなのか身体は、言葉中心の心(意)から離れた言わば借り物感覚で扱われます。
その方法は、身体を動かすエネルギーを自覚、認識することから始まります。
科学でも、エネルギーがなければ細胞身体は動かないのと同じです。
東洋の思想では、エネルギーは身体を巡る「気(プラーナ)」と考えます。
「気(エネルギー)」には、人間が生まれながらに体内に持つ原初のエネルギー(原気、クンダリーニ、ルン、拙火)と、外部の宇宙や自然現象や鉱物や動植物にあって、それを「食物」や「呼吸」や「無意識」「意識」で取り入れている外気のエネルギーがあります。
身体を巡る「気(エネルギー)」
次にその「気(エネルギー)」が巡る身体のことを知らなければなりません。
西洋医学では、身体は解剖図として示されています。そこには骨格、筋肉、各器官、血管、神経、皮膚が描かれ、そしてそこを巡る血液、体液、ホルモン、そして呼吸などがあります。
この解剖図を参考に、自分がミクロン単位の「小人」になったと想像し体内に入り、自身の身中を巡ります。各部、各器官の有様を自分の感覚で観察探索し記憶する。こんな漫画の様な方法を実行します。
小人になった自分には、自分の眼、耳、鼻、舌、手、声があります。例えば気管支から末端の肺胞に入り、触って、目で見て、色、匂いなどの感覚を働かせます。また肺胞内で声(あ~)を響かせ同調する音の周波数に声を上下させたりします。場合によってはその部分の細胞に潜り込んでみたりします。丹念に足の先から頭頂まで、その作業を続けて、体感の記憶(言語化ではない)による全身の図を作ります。その作図には、言語化させた記憶も補助に利用します。言語思考や言語記憶には外付けのハードディスクのようにフラッシュメモリーと比べスピードは遅いが確実性があるからです。
初めは想像の世界ですが、長くやっていると色が見えたり匂いが感じられるようになります。
これは、「存思」という、タオ流の解剖によらない全身図作成の方法です。図の完成には20年程はかかるでしょうか。しかしこの身体感覚による記憶を身につけておくと、例えば右足の親指の第一関節と意識すると瞬時にピンポイントに意識をそこに飛ばすことができ、その部分の様子が直ちに体感と記憶に現れてきます。これを習得すると後々のヨガやタオなどの身体の技法の実践では、体感効率が格段に上がります。捉え難い「気」の存在も簡単に実感できてコントロールも容易になります。
このような準備を整えておけば、タオ流に経脈や経絡を通し「気」を全身に巡らしたりすることが意識的に出来るようになります。また後に述べるクンダリーニの覚醒、中央脈官の貫通、チャクラの覚醒の獲得で待ち構える障害もスムーズに乗り越えられます。これらの達成により、何よりも日々全身にエネルギーを巡らす所作が無意識的に素早く簡単に出来るようになります。
こうして、「存思」による全身体の詳細な記憶。クンダリーニ覚醒による原初エネルギーの解放。エネルギーを全身に巡回させる意識の開発。そして「外気」の感知。などが全て整っていることを前提に、次のエネルギーの種類と取り入れ方、使用法についてお話しします。
憤怒尊、静寂尊、父母尊のエネルギー
チベット仏教の仏尊の名称で、憤怒尊、静寂尊、父母尊の三つがあるように、エネルギーを発生させる方法にはこの三尊に関係する三つの種類があります。
静寂尊のエネルギーは、先に示した「意(心)」の真理である「因縁」「縁起」「諸行無常」と究極の「空」を心に、静寂尊を仰ぎ、深く瞑想(言語思考を離れ)をしていると顕れてくるエネルギーの象徴です。
祈祷、念仏、坐禅をして静寂尊を観想し、仏との同一を願い、続けると、体内にエネルギーの象徴が生じてきてそれが長年次第に蓄積して行きます。
日本の顕教、密教の修行で、「空」を極めた高僧の佇まいから発してくる柔らかな光芒のようなオーラがこの静寂尊のエネルギーです。
心(意)から発生するエネルギーと言えます。
次に憤怒尊のエネルギーです。主に「口」の言語思考と関係します。
言語思考は二項分類(選択)が基本原理です。
例えば、「明るい」の言語概念は「明るい」しか無い世界では存在しません。片方の「暗い」があって初めて存在ができます。始めに感覚や意識が動き、明と暗の二項の言葉(二項分類)があり、そこから明を(選択)すると「明るい」が存在してきます。明と暗の「存在」という概念の違いもはっきりと発生します。
さらに進めると、科学は言語思考から発生していますが、物理学では素粒子より小さいものは?とか、宇宙論では宇宙の果てのその先には何があるの?の問いが生じてきます。これは先ず現状のものがあって、それと二項分類となる(よりより小さいもの)や(果ての果て)の言葉(存在)を想像するからです。
問いとは、現在の言葉による問いの先にそれとペアになる言葉(存在)を求める行為です。このようにして人は謎を解いてゆくのですが、しかし回答の終りには、ではその回答(言葉)の先には何があるの?と、又、二項分類(選択)の想像要求は際限が無いのです。これを飽くなき追求の良き人間の態度と言ったりしますが、でもこれは究極の原理と言っていながらその先をいつも問うてくる、言語思考の自己矛盾なのです。これを超越的第三者の目と先の回でお話ししましたが、どうなのでしょう?。
つまり究極の原理の探求には初めから終わりが無く、言語思考を用いてはいけないのです。
言語思考の二項分類(選択)はこのように対立思考です。対立は人間の頭脳に常に摩擦を発生させます。憤怒尊の観想をすると、何かに向い憤怒する対立自己作用が生じます。怒りにはそれと二項対立する「鎮まる」存在(言葉)が必ずあります。この怒りと鎮まるの対立が怒りのエネルギーとして現れ、その差が大きいほど爆発的な憤怒として発現されます。観想を続けると憤怒尊の激しい怒りの対立摩擦が自身の内にも招来してくる事になります。戦国武将が観想すると、憤怒が激しく大きいほど良い憤怒尊として望まれたりもします。
憤怒尊とは仏の化身ですから、その観想とは、仏の無量のエネルギーの馬力と伝播力、そしてそれを包容する無辺の仏の容量を自己の身と心に実現させる修行になるのです。
しかしこの憤怒の激しいエネルギーは、生身の人間では受け止められません。身体が壊れてしまいます。憤怒尊を観想することは、命懸けですが、自己の鍛え上げた身体感覚を生起させ、ただ、憤怒の凄まじいエネルギーの強度と深度を身体の記憶として覚えさせる事しかできません。身体に記憶すると、その記憶をベースに体内に同じエネルギーの発生を再現出来るようになるのです。憤怒尊が現前になくても繰り返し再現ができて、観想修行が進められるのです。戦国武将は小さい憤怒尊の仏像を腹に携帯したりもします。
なぜこんな無謀をするのか。これは身体が無量無辺でなければ、どうして仏になることができようか?の誓願が成仏には必要だからなのです。
ではその修行で身に得られたエネルギーで何をするのでしょうか?
その前に、憤怒尊の観想について、この記述をしているだけで、身体からメラメラと炎があがって来るようなエネルギーを感じます。記述つまり言葉ですから意識思考が言語思考の二項分類(選択)なので、対立する対象を求める心が起きてきてしまうのです。
そこからその対立意識で、例えばインドの後期密教タントラから伝わるチベット密教では、座脱という呪殺で仏敵を殺してしまうといった事が行われます。慈悲心から発せられるとしているが、日本のオウム真理教の場合では、呪殺ではなく物理的に手を掛けるというのでは、慈悲心でもなんでもなく単なる殺人事件になっています。
この様に言語思考の二項分類(選択)では意識思考が激しくねじれ、人の意識や心を極端にしてしまいます。人間の煩悩であるとすればその通りなのだが、憤怒尊の観想には、上記の静寂尊で得られる「空の智」を習得して、エネルギーを制御できなければ行わない方が賢明です。
このように憤怒尊の観想から得られるエネルギーは、口(言葉)を媒体として発生するエネルギーなのですが、身体と心の「空」を感得する事のみに用いられるべきでなのです。
次に父母尊(男女合体尊)は、性的エネルギー発生の象徴です。
性的エネルギーとは、セックスで得られるエネルギーです。
性行為は本能であり、男女は生まれながらに自然に他を求め合う事を知っていて、お互いがエネルギーを放出し発散することで快楽と生殖につなげています。しかし、それ以外の目的がセックスにあることなど殆どの人は知りません。
しかし父母尊(男女合体尊)の性的ヨガでは反対に、エネルギーを体内に止め、その性的エネルギーを身体の活性化や浄化に使用します。
性的ヨガの行程は先ず、究極の快感を感ずることです。快感が深く大きいほど発生エネルギーは大きく、その究極の強度を体感として記憶ができ、その身体記憶をもとに性的エネルギーを自在に発現させて、身体の浄化の鍛錬に用います。
そのためには、クンダリーニの覚醒がサポートで必要になります。
クンダリーとは、人間に生まれながらに備わり隠された生命エネルギーです。尾骶骨(ヨガ)や臍下丹田(タオ、密教)に、とぐろを巻き眠る蛇の姿で存在するとヨガでは言われています。そのエネルギーを解放することがクンダリーニの覚醒(ヨガ)です。
これは、ヨガ、タオ(道教)、密教、日本仏教(真言)など殆どの東洋の思想に共通の生命エネルギーの思考です。タオでは「下丹田の気」、日本密教では拙火(せっか)ヨガ(インド、チベット)ではクンダリーニと呼ばれそれぞれに覚醒の方法は違いますが、同じエネルギーの覚醒です。(その方法は、ネット、AI等で調べ自分に合ったものをご利用ください。精神、肉体に危険な場合がありますのでご注意ください。)
クンダリーニが覚醒すると、隠れていた生命エネルギーが露わになると同時に、身体各部にエネルギーを巡回させ浸潤させる機能も担います。外部からのエネルギー導入のサポートにもなります。そして体内巡回には、前出の「存思」などの方法で、自己の身体の様相を理解しておくと効果的です。
次に性的ヨガでエネルギーを発生させ獲得する方法です。
快感は、エネルギーの強度深度に関わります。通常の性交で男女共に快感を極限に高めるために、父母尊(男女合体尊)のように、性器の結合と口唇を合わせる体勢を取ります。この体勢は、、口から脊髄を下り尾骶骨から会陰、そしてペニス、ペニスから膣、会陰、尾骶骨、脊髄を上り口へ戻る、このような両性の身体の間にエネルギーのループを可能にします。
始めは、普通の性交から始めます。ペニスで抽送を続けていると膣が感じ、エネルギーが膣から脊髄を通り口へと上り、さらにブリッジして男の口へと続き、エネルギーは脊髄を下り再びペニスの抽送へと流れる。この通常の男女のエネルギー交換の循環を続けていると、男女は次第に極限に達して、快感で女は失神し、射精は失神の前に快感を爆発させて性エネルギーが膣に流れ込みます。
究極に高まったこの方法を何日か続けていると、熟達して両性とも短時間で快感の頂点に達する事ができるようになります。
しかしこの性行為は、長く続けると、両性ともにエネルギーを放出発散し尽くしてしまい身体の消耗が激しく、病気や急激な老化を招いてしまいます。快感に引きずられ負けてはなりません。
これは、身(身体)の下腹を通じて発生するエネルギーなのですが、憤怒尊でお話ししたように、この性行為の目的は、体感で快感の強度を記憶しておく事であり、性交をしなくてもその体感記憶を取り出せば、一生自在に快感と性エネルギーを体内に発生さられる事なのです。
ここで注意しなければならない事は、セックスと死は近いので、成仏の快感と性の快感を同一視しないことです。これは単なるシュミレーションといった程度であり、誤ると堕してしまいます。
エネルギーを体内に止める。
次に、ここから生ずるエネルギーを体内に止める方法を考えなければなりません。
私は男なので、男の方法をお話しします。
(女性は、チベット密教のダキーニを参考にしてください)
これは先の、通常性交の男から女へ向かうエネルギーのループを逆転させる方法です。
男性から女性へ抽送や射精でエネルギーを送るのではなく、お互いの快感が高まった段階で抽送を止め、方向を変え、膣からペニスへとエネルギーを逆流させる、膣にあるエネルギーをペニスで吸い取る様に意識と体感を逆転させるのです。
その吸い上げたエネルギーを会陰から尾骶骨、脊髄を上り、口のブリッジから再び女性の口に送り、脊髄、膣、そしてペニスへと何回かループさせエネルギーを純化させます。それからその純化したエネルギーを脳に送ります。脳全体に浸透させてから、首を通し、上半身、下半身と身体全体に深く浸透させます。これが性的ヨガの真髄なのです。
以上、静寂尊、憤怒尊、父母尊によって、原初のエネルギーを増大させる三つのエネルギー発生法をお話ししました。
外部からエネルギーを取り入れる
次に、身体の外部からエネルギーを取り入れる方法です。 上記のようなエネルギー修行を続けていると、身体はエネルギーに敏感になって行き、身体の外部や自然や宇宙に存在する様々なエネルギーをはっきりと感知出来るようになります。
大気を始め、大木、大型動物、人間などの動植物そして岩や金ダイヤモンドなどの鉱物、太陽、月、地球、星(山川星辰)、空、雲、景色、風、気温などの宇宙自然の存在にエネルギーを感じます。
それを体内に取り入れる方法をお話しします。取り入れるには、身体のキャパシティと柔軟な感覚が必要です。老化とはその身体のキャパシティと感覚が衰えてゆく事であり、死とはそのどちらかが途切れる事を言います。
呼吸法を用います。先ず、深く息を吐き下腹部をへこませます。
地球の場合、地殻のマグマの熱や赤色を想像し、足の裏や会陰からエネルギーが流れ込んでくるように息を吸い下腹を膨らませます。一旦息を止めて次に太陽のエネルギーを取り入れます。太陽の熱を想像し、頭頂から息を吸い肺を膨らませ、同時に太陽エネルギーが肺を満たし下腹に流れ込んでくるようにします。太陽の代わりに、月や星(オリオン座ペテルギウスなど)やブラックホールや暗黒物質でも良いです。
肺と腹部を息で膨らませておいて、胸のチャクラで、大木や動物、人間などの地上のもののエネルギーを、次にペニスで上記の仮想の性的エネルギーを下腹部に加えます。
こうするとお腹は熱を感じ、下腹部を中心に吸気とエネルギーが充満しています。その熱を会陰から尾骶骨に送り、息をゆっくり吐きながら、クンダリーの覚醒の方法(小周天)で全身に巡らし各部局所に息で送ったりします。
このエネルギーの最終使用目的は、心(意)の場合と同じく、身体が「空」である事を感知する事です。副次的に健康が増進し寿命が伸びます。仙人への道ですが、エネルギーが体に満ち元気になるとよからぬ事を考えるのが人間です。そのため日常に戒律を定めています。でも戒律さえ守れば、極楽に行けて成仏ができるというのはお分かりのように早計です。
これらのエネルギーを取り入れるためには、柔軟な感覚の拡張も必要になります。
北斗七星のコの字の一辺に巨大になった自分が立っているのを想像する。自分が宇宙以上に大きる。とか、自分の体の内部に全宇宙を飲み込んでいる。つまり全身の表皮が宇宙全体を内側に包む様にめくれ反っていて、心臓や肝臓、腸などはその外側の周りに浮かんでいる、こんな内外あべこべを想像する。など、このように破天荒に感覚を解放するとエネルギーがよく見えてきて、取り入れがスムーズに行えます。
インド密教の秘密集会にある女陰の中に住まう菩薩の表現や、ヒンドゥー教の修行僧であるサドゥー(隠者)の一生腕を上げ続ける修行をする。などは極端な事例です。
そしてクンダリーニの覚醒は、同じく柔軟な感覚の開放も助けます。それは直感力・洞察力の向上。霊的能力がつく。記憶力・智慧を高める。健康長寿。神仏との合一。など様々な効力として語られますが、それに静寂尊、憤怒尊、父母尊の観想によるエネルギーの連動協働が加わると、さらに効力が確実に高まってきます。
これらを行う目的は、心の「空」と同じく、身体も「空」である事を感知する事です。
エネルギーを発現させ、感覚を開放し、身体と心に当て続けてゆくと、精神と肉体は変化して行きます。状態が尋常でなくなることがあります。異常は自覚できますので、静寂尊でした様に瞑想をして心と身を「空」に向かい鎮めるようにします。
空海は、エネルギーを利用しコントロールする方法として、言葉(字)と声(音)、吽字の三者を合わせた真言(明呪)を唱えることで、即身成仏できると言っています。(声字実相義、吽字義、即身成仏義)
こうして心と身体が共に「空」で有ると徹底感得できれば、悟りを得ることが出来ると言われます。悟りを得れば成仏も可能になります。生前に即身成仏する。死後に成仏する。二つのどちらでも、煩悩にまみれた輪廻からの脱出に向かうことが出来ます。
成仏の思考方法
仏教では、成仏の最終局面を説明する場合、経典や説法では、二項分類(選択)の言語思考の方法を用います。
例えば、密教の究竟次第と生起次第の統合で成仏に至る。や、自己の身・口・意を仏の身・口・意の三密に同化させる三密加持の方法で成仏に至る。など、先ず概念を二つに分類して、一つ一つを選択し説明してからそれを一つに統合する。つまり言語思考の二項分類(選択)による理解方法をとります。
仏と一体になろうとする観想も、自分と仏との二項分類(選択)です。
(特に空海は言語に巧みです。即身と成仏を二項に分類し「即身成仏」として熟語に統合するなど言語思考を巧みに扱います。でも、その二項が統合した「即身成仏」の先には何があるの?と問われて、その説明に文字(言語思考)を用いて際限なく二項分類(選択)してしまうのが言語思考の限界なのです。「即身成仏」を瞬時に理解する別の意識思考の使用を促しているのです。)
この二項分類(選択)の原理を離れ、統合と言う「一(ひとつ)」の概念に、成仏を表現しようとするその目的は何なのでしょうか。
二つでも三つでもない「一(ひとつ)」の単独では、二項分類(選択)の原理も働かず、我々はその意味を求めようとしますが、言語思考のままでは理解も表現も不能になります。かろうじて曼荼羅に理解を感じたりしますが、「一(ひとつ)」への統合は頭が空っぽの当惑状態をつくります。
成仏を理解させるために、空っぽにすることを狙っているのかも知れません。
キリスト教の三位一体でも、言語思考が不得意な、同時に三つを認識する理解を強いてこれも惑わしています。(空っぽが成仏の正体なのか?)
宗教が勃興した時代は、言語思考(読み書き)が最新最強のコミュニケーションツールであったので、言語思考の最高のテクニックが布教に現れたのだと思いますが、言葉で言葉のことを語ったり、成仏のことをお話しするのは、どうもクドクなってしまう。老人のクドさも加わってさらに酷くなる。
果たして人類は、言葉で真実や成仏を語り尽くすことが出来るものなのでしょうか。相対的な真実は本当の真実と呼べるのでしょうか。AIも納得できるシンプルな答えを出せるのでしょうか?。「真実」という言葉自体、そもそも在るものなのでしょうか。
先人も多くを語って逝ってしまい、寒山拾得も長々と詩を書き残してクドく、でも、あの中国の風狂の隠者「許由(きょゆう)」のように、枝に掛けた瓢箪の水筒が、風でカタカタ鳴り五月蝿くて捨て、手で掬って川の水を飲んだ、こうすれば気持ちがいいに違いない。
ここまで来ると次は、言語思考を「真言」にまで昇華させた「空海」のお話しをしなければなりません。
そして、輪廻転生を信じて、必死に努力し身体浄化で「空」を得たとしても、死は身体を灰に土に返してしまい、心(意)だけが輪廻転生するというのはどうも納得がいかないので、次回はそのことについてもお話ししたいと思います。