写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

「言語思考」について-2

2007年07月20日 | 「言語思考」
先回、「仏教」は「言語思考」と対峙する存在である。とお話ししました。しかし、仏教は多くの仏典で語られ、真言などもあるので、「言語思考」そのものではないかとも思えるのです。他方、禅では、「不立文字」とか「教外別伝」など、真理は「言語思考」の外にあると言っています。どちらが真実なのでしょうか。例えると、入場券を買って映画を見ていたら、途中で、これは本編でなく予告編であると言われるようなもので、真実が書いてあると思い読んでいたのに、違うの?。ここから分からなくなって、仏典(予告編)の紙背に、何かがあるのでは、と思いを巡らすことになるのです。これを何十年、あるいは、一生続けることもあるのです。暗夜行路です。
そう仕向けたのだよ。と、仏典の著者の思う壺なのかも知れませんが、果たして紙背を想像させることが仏典の本意のなのでしょうか。このような想像を続ければ、「言語思考」の外にある真理に近づくことになるのでしょうか。パソコンのマニアルを読むような理解で、済まないものなのでしょうか。

一言で言うと、済むと思います
何故なら、仏教は「言語思考」を、「合目的的」な存在と捕らえているからです。
仏教の目的は「成仏」ですから。その手段としてです。
「祈り」と「言語思考」、仏教にとってどちらが大事かというと、仏教は、はっきり、「祈り」と言います。極端に言うと、「仏典」をどれだけ沢山読んでも、「言語思考」で瞑想を重ねても、「祈り」には敵わないのです。
何故なら、「言語思考」を止めさせるために「言語思考」を使って啓蒙をしている。つまり、麻薬の撲滅PRを麻薬中毒患者にやって貰うような、まことに合理的な話として説明できるからです。
仏教は、何故こんな方法を取ったのでしょうか。その一つは、私見ですが、紙と文字は、そのメソッドとしての「言語思考」。音としての「言葉」。ビジュアルとしての「字」。がセットになったメディアであり、2000年前頃の仏教勃興期、その当時、今日のTV、インターネットと同じように、最先端のメディアであたからではないかと考えます。
仏教には顕教と密教があります。密教は、「即身成仏」つまり、現世に於いて成仏する方法を開示していますから、人間皆、死んだ先は分からない。などの無形な話ではないので、「言語思考」が思考する対象になると思いますので、密教で話を進めることにします。

空海の言う「即身成仏」とは、「生きながらに仏になる」つまりミイラになるような、おどろおどろしいことではありません。
「仏」を外に瞑想し、内の「身」もまた「仏」と同じであると瞑想し、その二つを同化融合させること。つまり「即身成仏」することです。「即身成仏」したことを、他者に示す必要がなければ、誰もそれとは分かりません。また、ミイラになってそれを示すというのは、今日では薄気味がられるだけで、良い方法とは言えません。
「仏」とは何か。「身」とは何か。なぜ「即身成仏」を目指すのか。はここではお話ししませんが、曼荼羅やマントラ、印、護摩とは、「仏」を外に観想したり、内に「身」を瞑想するためのツールです。いわばパソコンのOSやアプリケーションのようなもの。と考えれば理解が易しくなります。
つまり「身」の中で、「言語思考OS・アプリケーション」を駆使している生き物。それを紙と文字が生まれた2000年前から今日まで、思考や理解の仕様として来たのが人間である。と言えます。また、パソコンはお金を払って購入しますが、「言語思考OS・アプリケーション」を動かすマシーン機能は、「身」に生まれつき具わっていて、後天的に教育で、「言語思考」OSが組み込まれさらに強化されてきた。といっても過言ではありません。犬は、「臭覚」に優れたOSとアプリケーションを持つ生き物です。ですから「言語思考」OSとは、カット&ペースト出来ません。
「即身成仏」とは、正に「言語思考」OSをインスツールされたパソコン(身)を解体して、新しい異次元のパソコンに乗り換えることとあまり変わらないのではないでしょうか。異次元のパソコンとは、現次元のパソコンでは見えない(走らない)のがミソ、というより「言語思考」OSの限界(仕様)なので、「即身成仏」とは、それを逆手に取った「言語思考」の限界をよく知る者の表現方法なのです。
新しいパソコンが家に来て、スイッチを入れ、ジャーンと画面が出てきたときの快感は、「大楽」と言われる、密教で解脱が成った時の体験とよく似ているのではないでしょうか。でも私には「大楽」は、「言語思考」でなければ得られない解脱である。とは思えないのです…。

2000年の歴史をもって、先人が積み重ねてきた苦労を茶化すような言い方をしましたが、現代の日本、それも仏教を胡散臭く敬遠している若者や、コンピューターが分かる者への説明には、親切な表現ではないでしょうか。もし、このブログが博士論文だとしたら、そのように書く。つまり、2冊目の仏典が誕生すると言うことになります。「言語思考」は取捨選択をして真実を一つに集約するツールとしては、都合が良いのですが、真実は一つではなく無限にあると考え、真実を語るのには万巻の仏典が、これまでも、またこれからも、増え続けるというのが仏教の方法なのです。「仏教」は「言語思考」と対峙する存在である。と考える、もう一つの理由がここにあります。

仏教がこれからも有用であり続け、また、仏教の教えとは「変化し続け、前に進むこと」であるなら、「身」「口」「意」の三密ではなく、「身」「?」「意」 or 「身」「口 +- ?」「意」の探求が、「言語思考」に限界を感じている科学との協調からも、望まれることではないでしょうか。こうして見ると、無限の真実を表現するには、野町和嘉の「祈りの写真」もいいね…。と思えませんか?


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「言語思考」について-1

2007年07月04日 | 「言語思考」

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このブログの「始めに」のなかで、

私は幼少から、特に高校生になったあたりから、言語には敵意を持っていて、心の中で、決して主役を演じさせてはならないと、直感的に思ってきました。「言霊」とか「真言」とか言葉の威力で何かをすることに、その目的は良しとしても、手段としての「言葉」にアレルギーを感じてきました。
しかし、言葉以上の伝達手段の代わりは、今のところ見つかってはいません。ですから、先々言葉で言葉を語る自家中毒が予想されるのですが、つまり悔しいのですが、「色即是空、空即是色」の昔人と同じ遠回りな利用手段を取らざるをえないのではと、少し言葉に譲歩して進めたいと思います。

と書きました。
ですから、言語のこと、「言語思考」について、思うところを、どうしてもお話ししておかなければなりません。

言語思考を悪く言うことは、人間社会の全部を敵に回すに等しく、気が進まない話でもあります。また、言語思考で言語思考のことを言うのは、自家中毒的で、犯人が犯罪を自分で裁くような、言語思考的にはナンセンスなことでもあります。それに気付いていただくために、綴る言葉の間からこぼれ落ちる事柄である「写真の魅力」を始めに、「胸キュン」「なつかしさ」「DNAの記憶」「地球人」などを話題にして、言語思考がラベリングをしただけでわかたつもりになっている、感覚、知覚、理解、納得に限界があることをお話ししてきました。

また、科学は、論文のカタチで言語思考に翻訳され評価を受ける、まさに「言語思考」そのものなのですが、その言語思考をメソッドとして発展してきた科学分野で、言語思考の限界が認識され始めています。
その限界により研究の停滞が始まり、ひいては人類の停滞を生むのでは…と。反対に、劇的に解決できれば、我々の祖先である、3.5万年前頃誕生したと言われる新人(ホモサピエンス・サピエンス)の出現と同じように、突然変異的に、新しい能力を持った「新新人」に、生まれ変われる契機にもなるのではないか…と。
だんだん荒唐無稽になってきましたが、現在、科学の停滞や閉塞感は、こんなことを言い出しかねない状況なのです。例えば、地球環境が壊れ、月や火星に移住するとなったら、住人がまだ、ユークリッド幾何学やニュートン力学のレベルで、思考しているなら、人類の生存は危うくなってくる。と考えるのです。

近年の科学的研究から、我々の祖先である新人(ホモサピエンス・サピエンス)が出現して以来、その脳の構造と基本能力は変化していないと言われています。大脳の発達が言語機能を生み、人間固有の「心」を出現させたことも分かってきました。つまり、その3.5万年前に作られた人間の基本構造や能力について、その限界を、現代人であるホモサピエンス・サピエンスが感じ始めたという理解が、科学的な言い方なのかもしれません。

自動車は人間の移動能力を増加させました。人間は道具の創造によって、ホモサピエンス・サピエンスの能力に新しいパワーを加えることができました。コンピューターは、言語思考のメソッドから生まれ、言語思考をパワーアップするツールと考えられますが、その出現により、その生みの親である言語思考に限界を見ることになるのは皮肉な話なのですが、また、この限界の突破に、コンピューターが有用なのかどうかも、期待は多いのですが、まだわかりません。

これまでの人類の歴史の中で、言語思考の正体とその限界、そして限界の突破法を考えてきたのは、「仏教」です。私が「言語思考」に対峙して「仏教」を持ち出すのもそこにあります。しかし、仏教にも言語思考至上主義と思われる、真言宗(空海)や、なによりも膨大な仏典の存在があります。読経や種字などの文字もあります。
「仏教」が「言語思考」と対峙する存在であるとするなら、その矛盾をお話ししなければなりません。
次回は、その大仕事からお話ししたいと思います。

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「祈り」の考察-4

2007年07月03日 | 「祈り」

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「祈り」について、観察、分析、検証の科学的研究を、私は見たことがないので、言語思考の客観性を保証するサンプルは、どうしても宗教的「祈り」からの例になってしまい、今日の科学と宗教の対立から、そうすればオカルティックに思われてしまう危険があります。
また「祈り」は宗教行為だから、科学では判断して欲しくない。という宗教サイドからの意見や、また、夜、寝しなの床で手を合わせる「祈り」に似た経験が、子供を大人にしたはずなのに、「祈り」の話をするだけで、ある種のアレルギーを感じる人が多いのも、また「祈り」の社会的側面です。このように多くの相違、誤解が「祈り」にはあります。しかし、多くの誤解が生まれることを承知で、まず最初に宗教の「祈り」を例に、お話しを進めたいと思います。

仏教のなかで、最も過激な「祈り」は、菩薩の「誓願」です。
「私は、人々が等しく、苦しみを離れ幸福(仏)になることを願い活動している。私の誓願は、全人類が成仏しなければ、私は成仏しない。」です。
言語思考で言えば「菩薩の誓願」のラベリングで、理解を済ますことも出来ます。しかし「祈り」のパワーを知って貰うためにも、もう少し詳しく見てみます。

全人類の「苦しみと幸福」というのですから、一億人いれば、一億個の「苦しみと幸福」があり、その総てを感得し、理解し、対処することを意味します。一生の寿命の間では達成不可能ですから、何度も輪廻で人間に生まれ変わり、努力を続けるということになります。一方、科学では信じられないことでしょうが、その誓願を成就させるために、一億個の「苦しみと幸福」を瞬時に感得できる能力が、人間には初めから備わっていて、その能力を開発するメソッドがある。と言うのです。菩薩や如来はその能力を身につけた者である。とも言うのです。科学的には、アンドロメダ星雲にロケットを打ち上げるような話ですが、確かに、人間は次々に生まれてくるので、出生率を上回るスピードで対処する能力がなければ、総ての人類を幸福にすることは、永遠に不可能な話でもあります。つまり「誓願・祈り」のパワーが人間をここまでパワーアップするということですから、アンドロメダ星雲にロケットを打ち上げたいと思っている科学者は、是非解明を進めてみてください。アンドロメダ星雲にロケットが到着したことを、誰がどんな方法で確認するのか?。の答えが分かってくると思います。このように現代の科学は、100年前と比べ、菩薩の「誓願」の科学的解明に取り掛かる用意、その理念的な成熟に、もう少しで到達するのではと思うのですが…。


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では、社会生活レベルで行われる「祈り」には、何があるでしょうか。
「祈り」とは、自己を解体し、新しい能力を身につけた、明日の自己へと再生しようとする行為である。と言いました。
今日、社会生活レベルで、自己解体の覚悟と再生を迫る事柄というと、環境問題があります。また身近に解体再生という現象を社会体験できるのは、議員選挙です。議員選挙は議会ですが、環境問題は地球環境の解体と再生ですから、「願い」と「祈り」程の差があるように思います。しかし、政治体制の解体再生には、革命や戦争などの手段で行われ、「祈り」に匹敵するエネルギーを必要とする場合もありますので「祈り」レベルとも言えます。
また、社会生活レベルの「祈り」は、宗教と同じく利他主義と関係します。議員活動?も環境問題も、自分の為に、と同時に、多くの人々を利することでもあります。この両者には、各自の自由な欲望の発露が、いずれ程良い社会のバランスを生む。という自由主義的論議に、閉塞と行き詰まりを感じ、その解決に利他主義を持ち込もうとする動きがあります。もともと仏教で利他とは、解脱と同じ最終目的ですから、当たり前の行為なのですが、菩薩の利他とは、「人々が等しく、苦しみを離れ幸福(仏)になることを願い活動する。」ことですから、貧しい人への経済的施しや、人権擁護を助けたりなどは、その行為が、煩悩の輪廻から人類を救うことにつがれば仏教的利他と言えますが、一般的利他の認識とかなり隔たりがあると思います。環境問題は、この観点から見ると、一般的利他の認識より、菩薩の「誓願」の決意と「祈り」のエネルギーを必要とする行為に近いのではと思います。何故なら、本当に地球環境が壊れ、月に移住しなければならない事態になったら、「祈り」なんかでは、足りないことにもなるからです。

科学が、地球環境問題を提起したのなら、だからその解決を純粋に科学だけで行おうと言うのなら、しかし、社会、政治、経済、人の心の問題も包括しているのなら、科学は現有のツールだけでは、とても問題の解決はできないと思います。「祈り」は解体と再生を実現するパワーです。仏教はそのパワーを原動力に、成仏を実現しようとします。科学にも、希望のパワーである「祈り」を、環境の解体と再生のために使う、つまり「賭」に出る局面が、近い将来必ず来ると思うのですが。

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