写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

成仏の方法(4)

2016年02月12日 | 成仏について
これまで、長々と言葉の言語思考のツールとしての限界と欠陥をお話しして来ましたが、では、それに変わるツールや思考方法が見つかったかどうか、しかしそれを言葉で説明するとなると、また難しさが二乗してしまう事になるので、何か表現のブレークスルーが必要になるのですが、それもまた長くなりそうで、今はとりあえず、分かり難くても言葉での説明を完結まで進めてみたいと思います。

先回は、「意」は、本来、融通無碍で制限がなく透明なのですが、「身」の視覚などの感覚器官が感じ、「口」がその意識にフォーカス、「意」の対称性が破られ(フォーカスしなければ対称性は破れない)、「口」は注視した情報をもとに、言語記憶アーカイブから「言葉」を選び出し、物事の輪郭と存在を「意」と「身」に向け発現させる。つまり、対称性が破れると「特定の物事」と「それ以外の全物事」の二項分類(対立)で、存在が成立してくる。とお話ししました。
さらにもう一つの存在認知、有と無、明と暗などの言葉の二項分類(対立)による存在の出現があります。「意」は、本来、融通無碍で制限がなく透明なのですが、日常、目覚めて活動している場合、「意」の意識や「身」の感覚は常に動いていて、その活動刺激で「口による意識のフォーカス」も活発に働き、「意」の対称性は常に破られている状態になっています。
対称性が破られている状態では、「意」や「身」の活動要請で、「口」は言語アーカイブから言葉を自動的に選択し、話し、読み、聞く、あるいは沈黙を「身」に命じます。しかし言葉記憶アーカイブにある言葉は、アプリオリに存在を認知されているので、一つ一つに意識をフォーカスし存在を出現させる手順をとることもなく語句を綴ることができます。しかし、話の間の特定の刺激、例えば「明るい」の存在を意識すると、「口」は直ちにフォーカスを発動させ、言語記憶アーカイブと交信し、「暗い」との二項分類(対立)で、「意」にその特定の物事の存在「明るい」を発現、「意」や「身」に存在意識を与えます。

以上は、日常の意識や思考、感情の動きを、「意」「口」「身」の分類に当てはめ、一般に使われる論理方法で分析したものです。しかしこの方法には、次に説明する「口」の「常に超越ポジションを確保し、客観を暗黙に自称する。」の働きが深く関わっています。

二項分類(対立)で互いの存在を保証し合う、前述の「特定の物事」と「それ以外の全物事」の関係。つまり「明るい」と「暗い」の関係。それは「暗い」がなければ「明るい」が、「明るい」がなければ「暗い」が存在しない関係ですが、それが実行されるには「明るい」と「暗い」を同時に認知し判定する者(視点)が論理的には必要になってきます。それは誰なのでしょうか。二項分類(対立)を実行成立させている「口」つまり「私」なのでしょうか。それとも、超越的な第三者(客観を自称する)なのでしょうか。つまり、二項分類(対立)思考は二項ではなく、私又は超越的な第三者を含めた三項分類(対立)のシステムなのです。
まとめると、われわれが日常何気に話す言葉、その言葉の先の物事の存在保証には、その物事と、二項分類(対立)される物事、そしてその二項を認知判定する第三者、その三項分類(対立)が、常に存在することになります。

日常の意識や思考行動で、朝、目覚めの時、窓の朝日の「明るい」に意識をフォーカス。私自らが超越的ポジションで物事の存在の二項分類(対立)を判定することもあるのですが、日中になるとそれが頻繁に繰返されるので、「意」や「身」の意思や感覚の強い要請が無くても、「口」は意識のフォーカスを自動的に働かせてしまい、あわせて言語記憶アーカイブも自動運転になり、無意識の領域では、あたかも超越的な第三者が、自動的に判定を下している感覚を覚えてしまいます。言葉による物事の存在が環境に量産されると、そこから客観という概念が生まれて来ます。高じるとそれを行うのは神の御心である。と言ったりするようになります。このような物事の存在を量産する「言葉」の発生は、10万年前とも3万5千年前ともと言われていますが、約2千年前ごろの有史には、言葉で書かれたもののみを真実とする聖書やコーランの神が、こうして「言葉」とともに生まれてきました。

砂漠で一神教は始まったと言われますが、砂漠では、青空と砂、大気や砂の匂い、自分の体臭などの認知がほとんどで、言葉にできる物事の存在が少なく、そこからフォーカス意識の希薄。欠けている物事の存在への渇望。特に命をつなぐ水や食料への渇望、日常的にそれら渇望が続くと、自分の命をはじめ今目の前にある物事が、がかけがえのない存在であると感じるようになる。やがてそれは無意識の領域に、超越的な第三者を現わす。つまり神が、それら全部を創り、われわれに与えてくださっていると思うようになる。さらにその意識は、水や食料に限らず、目にふれるオアシスの緑、空気の存在、昼と夜、砂の感触など、砂漠のすべての自然に及び、その物事すべての存在を保証する超越的な神が、日常的に運命的に、われわれの中に頻繁に出現することになります。多くの人によるこの経験や消息は、キリストの生誕やムハンマドの教えとして凝縮昇華され、言葉で聖書やコーランが表わされ、さらに経験の共鳴が人々の信仰を集め、複雑化する社会との交わりでさらに強化され、教えは絶対的な言葉として、心のよりどころになってきました。

しかしこれは、仏教でも同じなのでは?。空海が、声字実相義の冒頭で、「如来の説法は必ず文字による。」あるいは又「明教の興りは声字にあらされば成ぜず。」と述べています。しかし一方、成仏の真理について、釈迦は沈黙し、空海は言葉では表現できない。とも言っています。
説法(言葉)で弟子に教えを伝えた釈迦、成仏の教えを墨文字で書き綴った空海、言葉や言語思考のことを仏教はどう考えていたのでしょうか。
キリスト教やイスラム教での聖書やコーランは、不可侵で絶対的な教えであり、命の救済の目的になるのですが、仏典では、釈迦が発した言葉であっても、空海が書き記した言葉であっても、成仏に至るための解説、つまり手段の表現になります。人類は有史以来、延べ何千億、何兆人が生まれてきたのでしょうか、人それぞれに成仏の方法がありますから、その成仏を目指す人々にあわせ、万巻の仏典がこれまでもこれからも出現するのが仏教の方法なのです。
仏教では、自らが成仏して仏(如来)になることが目的ですから、超越的な第三者で、全部を与えてくれる神のような存在は存在しません。でも如来や菩薩はそのような超越的な唯一の第三者(神)なのではないのか?の疑問があるかと思います。しかしそうだとすると、成仏とは、一人一人がそれぞれ無量無限の存在(創造主にもなり得る)になることですから、神が唯一の絶対的創造主であることに反してしまいます。仏教では、釈迦の前にも何人もの如来がいて、五十六億七千万年後には弥勒如来が出現するという予言まであるので、仏が唯一の超越的な第三者であるとする説明が成り立たちません。

「口」による「意識をフォーカスさせ、対称性を破り、言葉の二項分類(対立)で物事の存在と輪郭を発現させる。そしてそれには、超越的な第三者の判定と認知が必要になる。」この基本の働きは、一神教でも仏教でも変わりません。
しかし、一神教では、そこから生まれた超越的な第三者を、救済の神として敬い、仏教では、二項分類(対立)で発現する存在や、言葉の必要から生まれた超越的な第三者などは、全てに実体がなく「空」であり、克服しなければならない煩悩であるとします。

ますます、成仏とは何かが分からなくなってきました。
成仏への道とは、転生輪廻を繰り返し、その間の修行努力で悟りに近づき、菩薩となり、遂には成仏に至る。と言われます。この道について、ここでは成仏を観念的心情的に考えるのではなく、まだ実感が得られていない「輪廻転生」を始めに、まずイメージを成熟化し具体化する作業から、成仏に近づいていきたいと思います。

例えば、水は水蒸気になったり氷になったりしますが、輪廻(生死)とは、そのような循環のようなものではないかと考えてみます。

もし自分が水だとして、水蒸気に気化したら、水蒸気は元の水であったことを覚えているかどうか。
また冷えて水に戻っても、水蒸気であったことや前の前は水であったことも覚えているかどうか。水も水蒸気も氷もお互いが何者であるのかが分からない。同類であることも分からない。
氷に変化すれば南極なら何万年も生きられて、つまり不老不死ということになるかもしれない。しかし、成仏すれば、仏は全知全能ですから超越的な第三者にもなれ、全てが分かることになる。しかし、超高温になると水もプラズマとなってしまい、人間の仏では、存在も確定できなくなってくるのでは。人の死と生をめぐる輪廻転生はこの様に想像できます。

ここでの問題は、人間は、前世ましてや前々世のことなど覚えてはいないと初めから思っていることです。超越的な第三者がいれば、それが分かり論理的に考えられるかもしれないと思っていることなのです。
つまり輪廻を理解するには、「輪廻」という現世言葉の表現でスタートする言語思考の方法ではなく、別の思考方法が必要になることがわかります。

釈迦の「前世のことを知るには現在を知ればいい。来世のことを知るには現在を知ればいい」の因縁生起や、「すべては実体がなく「空」である」に別の思考へのヒントがある様に思います。

ここまでやはり、難しいことを長々と綴ることになりました。
釈迦は沈黙を選び、空海は言葉では表せない。と言っていながら、引き続き言葉で説明を続けていて、そうすると、同じことの繰り返しで長くなることは、釈迦も空海も龍樹も想像できていたことだと思うのですが…。
次回は、言葉の説明では展開が苦しくなる「口」働きの説明を離れ、「意」や「身」についてお話ししたいと思います。

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