写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

永遠のモナ・リザ-2

2007年09月13日 | 「無限・永遠」
真理は、無限にあり、また「無限」の認識や説明に、「言語思考」は苦手である。とお話ししてきました。
そこで、「言語思考」以外の、例えば、「絵画」などは、「無限・永遠」をどのように表現しているのかを知るために、先回は、「モナ・リザ」の空間表現で、レオナルド・ダ・ビンチは、どのようにして「無限・永遠」を表現したか。をお話ししてきました。
今回は、マチエール、テクスチャーの「無限・永遠」のお話しです。
マチエール、テクスチャーとは、絵画の質感表現の事を言います。
「モナ・リザ」では、顔や胸や手の「肌合い」表現に、レオナルド・ダ・ビンチの天才技が注目されていています。また先回、永遠の名画であるためには、論理的に考えて、描かれた美が「無限・永遠」でなければ、歴史を越え、永遠に美を認められないことになる。と言いましたので、ここでは、モナ・リザの「肌合い」の何が、何故、「無限・永遠」であるのかをお話しすることになります。

人間は、肉体が切り刻まれ、肉屋の店頭状態であったなら、到底、それが誰であるのかは分かりません。それが肉の塊であることは分かっても、人間なのか、男か女か、日本人か、子供か大人か、身長も体重も年齢も、どんな顔つきか表情をしているのかも分かりません。しかし、肉塊を粘土細工のように精巧に人間のカタチ(構造)に造り替え、表面を薄い皮膚で覆ってやれば、生きてはいなくても、精巧を極めれば、それは人間であると、認識が出来るようになります。

我々は、日々、親しい人を身近に感じていても、表面の薄い皮膚をひっぺがしてしまえば、どこの誰とも、動物とも見分けがつかない、フライジャル(壊れやすい)な感覚認識をベースにしているのです。レオナルド・ダ・ビンチは死体の解剖を行っていましたので、解剖の反対、肉塊を粘土細工のように精巧に人間のカタチに造り替える、つまり肉体の構造を、人体を描くために熟知していたであろうし、人間の、「朝に紅顔、夕に白骨」のフライジャルも十分に理解しただろうと思われます。

だいたい、表面をひっぺがしたら、それが元は何かと分かるモノは、世の中には、ほとんどありません。絵具のカドミウム・イエローは、顔料であり、硫化カドミウム(CdS)というカドミウムと硫黄の化合物であり、黄色の結晶構造をしています。カドミウムと硫黄の結合をひっぺがすと、色が消え、絵具とは認識できなくなります。さらに、そこから先は物理学の分野で、分子→原子→原子核、電子→陽子、中性子→クオーク→超ひも。と細かくなって行きます。
また、人体の皮膚の場合、細かく見ると、毛穴や皺がある上皮組織が見え、上皮組織をさらに細かく見ると体細胞があります。細胞は、細胞膜、染色体、リボソーム、細胞質(原形質)で構成されていて、この細胞を眺めても、これが皮膚であると判断できません。そしてさらに、細胞を細かく見て行くと、絵具のカドミウム・イエローと同じ、分子→原子→の構造形態と同一になって行きます。

以上の説明から、
人間を見て、頭脳あるいは心が、それが何であるのかと認識するのは、表層のわずかな情報からだけであり、さらに細部に下りていくと、皺や毛穴、細胞や分子、原子、クオークなどの姿が見えてくる。…、と、わずかこの程度の認識で、分かったことにしてしまうのが、現代流の理解です。しかしそれは「言語思考」に騙されています。

人間の皮膚の1cm平方に、上皮組織の毛穴や皺は幾つあるのでしょうか。上皮組織を構成している細胞の数は、DNAの数は、分子の数は、原子の数は、クオークの数は、超ひもの数は?。それを全部合わせると幾つになるのでしょうか。さらにそれに、それぞれの要素の間にある関係性を加えて、つまり、無限の数、その総てを認識して始めて理解になるのです。
空海の「重重帝網なるを即身と名ずく」の「重重帝網」がそれにあたります。
これは、つまり「無限」とは、「無限」を認識する感覚器官を働かせなければ、認識できないのです。心や頭脳に任せていると、「言語思考」に騙され、一を知れば、総てを知ったつもりになってしまうのです。

人間の認識法には、例えば「言語思考」は、取捨選択をして真実を一つに集約し認識するのには便利なツールですが、反対に「無限」の総てを、ありのまま、瞬時に認識し、多も一も、関係性も同時に認識する方法もあるのです。人間は本来、その二つの認識法を行ったり来たりしながら生活をしているのですが、現代は、「言語思考」の認識がより勝り、「無限」の認識を退けているので、「言語思考」の限界から生まれる弊害が、人類の進歩をさまたげてもいるのです。
またこれは、物理学の対称性や人類学の対称性の考えが出てくるところと似ているのですが、それはまだ「言語思考」の内にあるので、意味が十分に伝わってきません。

「モナ・リザ」の話に戻ります。
絵画で、人間の「肌」を描く方法は二通りあります。
一つは、手のカタチを線で描いて、手の部分を肌色の絵の具で塗りつぶす方法です。老人の手にするためには、皺を多くしたり、色を少し黒くしたり、立体感をつけるためには陰を描き込みます。これは一般的に、絵画を描く方法であると教えられてきたものです。
もう一つは、レオナルド・ダ・ビンチが行う方法です。
皮膚には、毛穴や皺やがあって、細かくは細胞がある。究極には原子があってクオーク、超ひもがある。その無数に無限にある手の要素を、絵具で、一つ一つカンバスに描こうとする方法です。
レオナルド・ダ・ビンチ時代は、細胞やクオークの存在はありませんでしたが、物体を細かく見て行くと、多くの無限の要素で構成されているという感覚。つまり人間は生まれつき持っていて、特にレオナルド・ダ・ビンチはその感覚に優れている「無限・永遠」を認識する感覚で、その無限の要素を一つ一つ、絵具で描こうというのです。

わずかな絵具を、パレットから筆に取り、カンバスに何層にも重ねられた肌合いに、また薄く重ね塗りして行きます。一筆一筆で、少しづつ面積が増えて行きます。生物発生から何十億年もの結果の重なりが、今の肌合いを作っているかのように、一筆一筆の時間がそこ積み重なり、層を作っていきます。永遠の時を積み重ねるという「無限」でもあります。

この行為をサポートする仕組とは、無限を認識する感覚器官であり、そこからの情報を、意識と心にする脳の働きです。この意識は無意識に働いていて、レオナルドが肌を描こうと筆を取ると現れて来るのです。

無限を、一筆一筆で書き尽くそうという行為ですから、それは永遠に続きます。レオナルド・ダ・ビンチは「モナ・リザ」を死ぬまで、そばに置いて筆を加えていました。
絵の全体(多)を認識しながら、細部(多)の無限も認識する。ありのままの「無限」を意識しながら、「モナ・リザ」の肌合い(多)を描く、絵筆の一筆は「一」にあたります。そして描かれた「一」は、たちまち、「無限」(多)に取り込まれてしまいます。

このように、「無限」を瞬時に認識し持続させる感覚は、快感です。何時までも描き続けていたい…快感。正に仏教の解脱により開放される意識の「大楽」や「三昧」に相当します。だから、この楽しみを続けるために、レオナルド・ダ・ビンチは絵を完成させなかったのです。「無限」を描く行為ですから、永遠に完成できないと思っていたのです。
画家はこれだけの快楽を経験するのですから、「言語思考」を生業とする作家と比べ、生前は経済的に不遇であることが多い理由が分かってきます。

「モナ・リザ」には、このように「無限」を楽しむための、沢山の仕掛けが隠れています。
例えばモナ・リザに「輪郭の線」がないことなど、次回は、その仕掛けのいくつかをお話ししたいと思います。

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永遠のモナ・リザ-1

2007年09月03日 | 「無限・永遠」
「言語思考」になるべく囚われず進める。が当ブログの思惑でしたが、思わず…「言語思考」について…などをテーマにしてしまいましたので、「言語思考」の罠にまんまとはまってしまったようです。今回からは、当初の目論見どうり、「言語思考」を振り回し、幻惑させ、綴る言葉の間からこぼれ落ちてしまうテーマを取り上げたいと思います。
前回までの収穫から、「言語思考」は、「無限」を語る場合、「無限」とラベリングするか、∞と書くか、或いは、無限の数の「言葉と紙面」がなければ「無限」を語れないことが分かりました。
また、「無限」の言葉は、無限の数とか、無限の彼方の距離、などの場合に用い、時間は「永遠」と表現しますので、時空、つまり「世界」にある「無限」は、これからは「無限・永遠」と表現することにします。

早速、例えば「絵画」などは、「無限・永遠」をどのように表現しているのかを見てみましょう。

しかしその前に、「無限・永遠」が、綴る言葉の間からこぼれ落ちてしまう認識であるとすると、つまり「言語思考」が「無限・永遠」を十分認識できないとすると、前にお話しした「祈り」と同じように、耳や目のように、それと分かる「無限・永遠」を認識する感覚器官が、人間の肉体のどこかにあって、その感受器官が認識をしているような気がするのですが、そして絵画などの表現は、その…「無限・永遠」を認識する感覚器官…に向かって認識・理解を求めているのではないでしょうか。
このように想定すると、ブログという「言語思考」ツールを使っていても、その限界を突破できるのでは…と思うのですが、本当に、上手く行くのかどうなのか、とりあえずやってみようと思いますが、これなら「言語思考」をキリキリ舞いさせられるように思います。…

世界の美術館には、永遠に美を認められる「名画」が数多く存在します。論理的に考えて、歴史を越え、永遠に美を認められるには、描かれた美が「無限・永遠」でなければ、永遠の名画として認められないことになります。永遠に語り継がれる「画家」とは、「無限・永遠」をキャンバスに表現できる技術と思考を持つ特別な人、つまり天才と言われます。

そして、名画中の名画は、天才レオナルド・ダ・ビンチの「モナ・リザ」です。
「モナ・リザ」に描かれた、「無限・永遠」を見てみましょう。

レオナルド・ダ・ビンチの絵の中には、必ず、「無限の彼方」の表現があります。それは、人物の背景にある、「風景」とそこに描かれた「空」です。「空」は等しく人間が無意識に感ずる「無限」感覚ですが、それ故なのか多くの場合、空の表現は、白雲が青空に浮かぶ、お約束の書き割り的な表現が多く、青空の彼方が無限に広がっているのを意識し、それを表現しようとしている絵はあまりありません。
「モナ・リザ」の絵を見て先ず感ずるのは、画面の空間に立つ「モナ・リザ」本人と、眺めている自分自身が、空間を共有している感覚です。自分の前方と「モナ・リザ」の前方との空間が同じ地平上にある感覚です。そこには絵からはみ出た空間と自分の空間が混ざり合って在るのです。その感覚のまま、背景の「風景」と「空」とを見ると、そこには「風景」の空間があり、さらにその奥に、無限の「空」(宇宙)の空間があるように感じられます。「モナ・リザ」の絵には、ありふれた絵の中の空間表現だけでなく、見る者の空間をも巻き込んでしまう魅力があるのです。
さらに、次のことを意識させられます。私の前に空間があるなら、私自身と、私の背後にも空間あることに気付かされます。そして、その空間が絵の背景の空と同じく、無限の広がりがあることをです。
さらに次のことを想像してしまいます。画面の奥の無限空間では、平行線は、一点に交わるのだろうか。それとも、平行なままか。反対に双曲線として離れるのか、また私の背後の空間はどうなのだろうか?、と。現代の宇宙論にもつながってくるのです。
さらに、写真のように、「モナ・リザ」の絵を横に繋げると、「風景」が連なって見えてきます。つまり、左右方向にも「無限の広がり」を表現しようとする、レオナルド・ダ・ビンチの意図が見て取れます。首を左右に振って眺めると、横方向の空間が、絵に描かれた空間より広がって見えることを試してみてください。
明らかにレオナルド・ダ・ビンチは、人間には「無限・永遠」を認識する感覚器官がある。と思っているようです。


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「モナ・リザ」は遠近法で描かれています。東洋では、レオナルド・ダ・ビンチの効果を「逆遠近法」で表現しています。写真は機能上は遠近法ですから、レオナルド・ダ・ビンチの方法が参考になるのではないでしょうか。しかし、この技法を使ったら、総ての絵が「無限・永遠」を表現出来る訳ではありません。「無限・永遠」を認識する感覚を、それは人間に本来具わっていて、懐かしいものに出会うと感ずるような普遍的なものとして、画家がハッキリ意識していなければ表現出来ません。

野町和嘉の写真にも、そのような「無限・永遠」が写し込まれているように思うのですが…

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次回は、「モナ・リザ」の絵に描かれたもう一つの「無限・永遠」である、マチエール、テクスチャーについて、お話ししたいと思います。

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