写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

「祈り」の考察-1

2007年03月23日 | 「祈り」

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初回から当ブログをお読み頂いた方にはお分かりと思いますが、これまでお話ししてきたことは、言語思考には、綴る言葉の間からこぼれ落ちてしまうものがあって、でも、良い「写真」には、言葉からこぼれ落ちるものも写っていて、読み取れるということでした。

「祈り」も言葉にすると、綴る言葉の間からこぼれ落ちてしまうものの一つです。
野町和嘉「写真」には、初期の頃から「祈り」の写真が沢山あり、35年の野町の「写真活動」も、とうとう主題が「祈り」へと行き着きました。
そのことについて野町は次のように語っています。
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「自然と神への真摯な祈り」
 20 世紀末の世界にあって,来るべき21 世紀は宗教の世紀となることが予言されておりました。旧来の倫理観では制御できなくなった科学技術や情報洪水に翻弄されながら生きることを強いられる私たちにとって、心のよりどころとしての宗教の存在がクローズアップされるはずでした。
 ところが,2001 年9 月11 日の事件を契機に、世界は狂信と憎しみを軸とした宗教対立の世紀に突入してしまったかに見えます。力による露骨な支配の影で、神の声が、よそ者に心を閉ざすようささやきかけている視野狭窄の時代なのかも知れません。
 私は1972 年のサハラへの旅をきっかけに、いわゆる地球の辺境を主に歩いてきました。それらは、砂漠、高地、あるいはサバンナの最奥地といったところで、現代文明の浸透を容易にゆるさぬ広漠とした大地がほとんどでした。それらの地には人間を超える大いなるものが常に存在していました。人々は、大地との幾世代にもわたる関わりのなかから育んできた信仰にこだわり、祈りの原型ともいえるかたちを代々受け継いでいました。
 イスラーム、キリスト教、仏教、あるいは原始信仰と、祈りのかたちはさまざまでしたが、そこには、自然への畏れと感謝を通じて神と向き合う真摯な姿が常にありました。
 聖書をはじめとする伝承が説くように、この世界は神の意志によって創造されたものなのか、あるいは、祈りという行為の果てに、ヒトが神という幻想と遭遇してしまったに過ぎないのか、宗派や地域、あるいは個人によってとらえ方はさまざまですが、いずれにせよ、デノケートで壊れやすい頭脳を獲得したことでヒトとなった私たちは、心を預ける超越者の存在なくしては心安らかに生きてはゆけぬ宿命を背負っております。
 この30 年来,私が各地で遭遇してきたものは、ヒトがヒトであることの証しとしての、真摯な祈りのかたちでした。
< 2003 年7 月 「祈りの大地」写真展写真集>より
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宗教があるから「祈り」があるのか、「祈り」があるから宗教があるのか…。
初めに人間が誕生し、それから「宗教」が生まれて来たはずなので、先にあったのは「祈り」の方だと思うのですが、しかし現代の日本人の多くは、「祈り」は宗教から生まれてくると思っているようです。

では、そもそも「祈り」とは何なのでしょうか。
感情でしょうか。思考でしょうか。その両方でもあるような、見る、聞くなどの五感(五識)に収まらない、六感とは違うので、七感以上に分類されるのでしょうか。五感は受動的な感覚ですが、「祈り」は能動的であり受動的なので、言語思考は「祈り」を感覚に分類しなかったのでしょうか。でも、「祈る」時には、肉体のどこかの部分が確かに積極的に動いていて、人の「祈る」姿をみると、胸キュンも涌いてくる。耳や目のようなそれと分かる「祈り」の感覚器官が、人間の肉体のどこかにあるような気がするのですが、密教のチャクラのような、訓練しないと存在が分からないもののように、内部に潜んでいるのでしょうか。
さらに「祈り」のことをもっと考えたいと思いますが、その前に、皆さんにも「祈り」とは何か、を考えて頂くために、野町和嘉が撮った「祈り」の写真を見てください。




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この写真を見ると、宗教があるから「祈り」があるように見えます。しかし、寺院や教会など宗教的場所以外での、私的な「祈り」は、日本人に限らず、見られて恥ずかしことのようで、撮影が難しく、写真が少ないのはお分かりいただけると思います。

では、「欲望」や「願い」は、「祈り」とはどう違うのでしょうか。
人間とは、いつも自分の今の状態を維持しようとする者です。しかし維持しようとすると、「不足」が生まれてきます。それを補おうとして「欲望」が湧き出てきます。細胞は、一分一秒も分裂を止めることはありませんから、時間の切れ目無く、肉体的精神的に、何かの「不足」が招かれて来ていて、そこから「欲望」が出てきます。
人間は、肉体も精神も、変化し続けるのが真実ですから、「不足と欲望」の関係は途絶えることはありません。仏教ではそれを煩悩といい、苦の正体であると言っています。キリスト教の原罪もそれを言い、アダムとイブが生まれました。しかし、反対に、そうしなければ生き続けられないのが人間ですから、群れをつくり社会を形成し、欲望の暴走を押しとどめる規範のもと、その歴史は現在、民主主義のカタチにまで進展してきました。

「不足と欲望」の関係は、一億人いれば一億の「不足と欲望」があることです。その総てを人間が本来備えている、感受器官で感受することは可能ですが(如来や菩薩なら出来るであろうが)、日々感受し続けるには能力が不足しています。将来、突然変異してか、あるいはコンピューターなどの外部ツールを得るかして、その能力を獲得出来るかも知れませんが、今は、言語思考の抽象化、比喩の能力で、「一億の不足と欲望」とラベリングし、理解しておくことしかできません。

「願い」とは、人間のそんな理解レベルでの、例えば、今の平和な生活と社会がいつまでも続いて行って欲しい。と思うような行為です。でも「不足と欲望」の関係はそのままです。

しかし「祈り」とは、永遠に続く悪夢のようである「不足と欲望」の関係を、根本的に解決しようとする行為ではないでしょうか。「祈り」には自己犠牲が絶対的条件になります。自己犠牲とは、その解決に命を投げ出しても良いという、自己解体の覚悟であるとともにに、「不足と欲望」の輪廻から逃れられない今の自己を解体し、新しい能力を身につけた、明日の自己へと再生したい。その願いでもあります。

この意味で「祈り」とは、見かけの敬虔さと反対に、平穏な現状を脅かす過激な行為なのかも知れません。不足が頂点まで高り、その不足を補う「聖なる欲望」の実現には、自己を解体する「賭」に出る。つまり自分で自分の身を焼がさなければ「祈り」にならないとしたら、「祈り」は、宗教の守備範囲に止めておいた方が、社会的には無難と思うのですが…
しかし一方、各自の自由な欲望の発露が、いずれ程良い社会のバランスを生む。という自由主義的論議に、閉塞と行き詰まりを感じ、その解決に利他主義を持ち込もうとする動きがあります。環境問題などもその一つですが、しかし、利他主義は「祈り」の柔らかな別名ではないでしょうか。
環境問題という穏やかな表情を見せていながら、実は、人類に自己解体と再生を迫る恐ろしい黙示録のような形相を隠しています。本当に地球環境が壊れて、月に移住するということになったら、「祈り」なんかでは足りないことにもなるのですが、そこまで考えたくないからとりあえず「祈る」ことで、人類が遠い将来にも生き延びられれば、幸いということでしょうか。

野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ