写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

「祈り」の考察-3

2007年06月30日 | 「祈り」

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このブログでは、用語や文献の解説、背景説明、理論武装など、読んで分かりやすくなる、また面白くなる方法を極力省いてきました。つまり出来るだけ簡潔に結論だけを並べ、後は紙背を想像してもらう方法なのですが、言葉で綴ると難しい、場所と時間の設定を、野町和嘉の「写真」から始めたことで、言語思考の呪縛から僅かながら逃れられ、頭の中に納得の新経路が通じたような、理解の新しいスタイルが生まれたように思います。「写真の能力」です。
万巻の書を読み、博覧強記で文字を綴り、その文章を読む快感は、文字が生まれ、何千年もの間、人間が楽しんできた古典的エンターテーメントなのですが、それにより、人間が本来有している能力の幅や深みが限定され、限定されることにより依存が生まれ、しかし、代わりに安定が手に入り、現代を迎えているのですが、しかし、その言語思考の屋上屋を重ねたエンターテイメントだけでは、人間の「不足と欲望」を満たせなくなって来た。というのが、人類の思考の現状なのです。
そして、最新科学では、その楽しみ・快感・満足を脳のどの部分が感得し、その感得を伝達する神経細胞(ニューロン)と媒介する脳内物質とは何か、の特定にまで解明が進んでいます。「心」つまり言語思考が生んだ「認識」。のカラクリの解明が進み、言語思考に変わる?、次のエンターテイメント開催の準備が着々と始まっています。

次に、以上のような方法で、希望のパワーになる「祈り」について、お話しして行きたいと思います。
その前に、「祈り」とは、…永遠に続く悪夢のようである「不足と欲望」の関係を、根本的に解決しようとする行為であり、その解決に命を投げ出しても良いという、自己解体の覚悟であるとともに、「不足と欲望」の輪廻から逃れられない今の自己を解体し、新しい能力を身につけた、明日の自己へと再生したい。その願いでもある。…と先回、筆が滑ったかもしれない言語思考で定義して、取りあえず進めることにします。

始めに、何故人間は、自己を解体して、新しい能力を身につけたい。と願うのか。つまり「祈る」のか。です。
この問題に明快な回答と手段、結果を呈示しているのは「釈迦」です。
苦しみから逃れたい、幸福になりたいが、人間の本来の願望です。その願望を成就するための真理です。
始めに、苦とは何か。苦は何から生まれるか。どうしたら苦を無くすることが出来るか。そして、その解消方法を示しました。
以来、約2000年、その実践に、多くの人々の叡智が加えられ、宗教というジャンルの中で仏教が今日まで続いてきました。
その中で最も実践的な密教は、身・口・意の観点から、その実現プログラムを創出してきました。「口」は言語思考のことですから、仏教のメソッドは言語思考と言うことが出来ます。しかし、「不立文字」とか「教外別伝」とか、「色即是空、空即是色」とか、言語思考で思考していながら、それを止めろという無茶苦茶を言い、そのかわりに、ヨガ、曼荼羅などで、「身」、つまり人間の身体に本来は具わっているが、言語思考の乱用により見えなくなっている、能力を呼び起こし、様々な能力を獲得する。そしてそこから獲得した成果を元に、瞑想、座禅などで、「意」つまり、コントロールセンターとしての心を制御するというカリキュラムを呈示しています。


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そして、その実践の原動力を「祈り」から発生させようというのです。つまり、上手く行くかどうか分からないが、自己を解体する「賭」に出て、自身の身を焼がし「祈る」。そこまでしなければ、本当の幸福は手に入りませんよ。というのが仏教に限らず、宗教全体の主張であると思います。
宗教の「祈り」とは、このようにパワフルな行為です。総ての人間に具わった「超能力」である。と言えるかも知れません。しかし、チベットの「五体投地」巡礼や山伏の千日回峰修行などの「祈り」の実践をしたからといって、必ず手に入る「超能力」では無いことも確かです。「賭」と表現したように、人間皆、死んだ先は分からない。と同じ次元にあります。

仏教に限らず、科学でも、日常生活でも、苦しみから逃れたい、幸福になりたい、は共通です。
科学の目指すものが、宗教と同じ「幸福」であり、科学は、自己解体や再生を人に迫ったりしない、つまり、人や人生に安全?であるのが本性ですので、「祈」らなくても、幸福が実現できれば良いのですが…。歴史的には、科学より先に宗教が、「幸福」の実現には、自己を解体し再生する「賭」に出なければならないと言っています。そこで、これまでは宗教に任せてきた、「心」とは何かの問題を、科学が解明を始めようとしている今、やはり「祈り」が必要になってくるのでしょうか。

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「祈り」の考察-2

2007年06月24日 | 「祈り」

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先回のお話しから、もう2ヶ月近くが過ぎてしまいました。
「祈り」の話をしていました。
…「祈り」には、自己犠牲が絶対的条件になります。自己犠牲とは、その解決に命を投げ出しても良いという、自己解体の覚悟であるとともにに、「不足と欲望」の輪廻から逃れられない今の自己を解体し、新しい能力を身につけた、明日の自己へと再生したい。その願いでもあります。…
また、…「祈り」とは、永遠に続く悪夢のようである「不足と欲望」の関係を、根本的に解決しようとする行為ではないでしょうか。…
と思わず書いてしまいましたが、本当にそうなのかどうか、筆が滑ったのではないのか…?、反省をしていました。 
確かにこの言葉は、五体投地のように、真剣に「祈った」ことがあって、その経験からお話ししたことではありませんでした。
また、言語思考のせいにするのではないのですが、書いているうちに、言葉が自動的に言葉を紡いで、文章が綴られて行きました。言葉には、自動速記のように溢れ出てしまう、コントロール不能のオプションがあります。過去には、言葉の特殊能力として、アート制作などに盛んに利用され利用した時期もありました。しかし今では、、言語思考のバグとして、発生を極力抑えようと思っています。
では、何故これまで、私は、「願い」や「欲望」でなく、「祈り」をしてこなかったのでしょうか。端的に言うと、今の自己を解体し、新しい能力を身につけた、明日の自己へと再生などしたくなかったから。或いは、その必要が無かったから。ということになります。お金が欲しい。健康でありたい。お腹が減った。恋をしたい。という願いや欲望はあっても、解体や再生までしなくても…、が、本音のところです。
宗教は究極的に、人や人生に、解体と再生を迫り、その結果が、解脱や成仏。神の御許。を約束します。だから「祈り」が必要になってきます。しかし、科学は、解体や再生を人に迫ったりしないので、つまり、人や人生に安全?であるというのが、本性ですので、「願い」や「欲望」レベルの思考と言うことができます。ここから科学には、「祈り」の研究が皆無、つまり必要がない、というのも頷けます。
近代とは、中世からの社会の規範として機能してきた宗教が、科学に取って代わられる過程の時代でした。そして、現代とは、宗教が最後の灯火を守ろうと、テロと言われる手段で抵抗しなければならない時代になった。と言えます。でも宗教と科学は果たしてそのような対立概念なのでしょうか?
前回お話しした、
…人間は、肉体も精神も、変化し続けるのが真実であり、時間の切れ目無く、肉体的精神的に、何かの「不足」が招かれて来ていて、その「不足」を補おうとして「欲望」が出る。そして「不足と欲望」の関係は途絶えることはない。…
この変化の真実が、今では、仏教では煩悩として、科学では生体細胞の活動形態として、共通の基本認識になって来ています。この認識を宗教にあて嵌めると、例えば天国、地獄、極楽を現代人が快適と思うイメージに再構築する。つまり、天国には自動車もTVもミニスカートもあるということにしなければならず、また、科学では、量子論を始めに、原子、分子、クオークの「粒子」から「ひも(ストリングス)」というように、つまり科学思考の時間と場所に、無常を組み込もうとするなど、現象は違って見えていてもモノの裏表のような旅立ちを始めています。
この共通認識は、2000年を経てようやく同じ土俵に上がれたと言うか、違うOS間でカット&ペーストが出来るようになったというか、次はオープンソース活動が始まるのだろうか。の期待というか…。人類が希望を語れる、新しい言語思考の誕生が近いというか。協力して新しい思考の真実に近づいている予感がしています。

そしてこの協力を実現するために、その推進力として「祈り」が必要になっていると考えます。
次回からは、このような希望のパワーになる「祈り」についてお話ししていこうと思います。

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