「真実は一つではなく無限」にあることをお話しして来ました。今回は「無限」の実感、認識、理解とは何なのか、それを言葉(ブログ)で説明が出来るのだろうか。?を考えてみたいと思います。
密教の曼荼羅は「無限」を表現し「無限」を理解するための、代表的なツールです。
曼荼羅には、如来、菩薩をはじめ「無限」の象徴として、数多くの尊像が描かれ配置されています。大日如来の説く「無限の真理」の境地を視覚的に表現しているのが曼荼羅ですから、総てを表現するには、本来は無限数の尊像と紙面が必要になるのですが、一幅(両界で二幅)の中に、編集し納めてしまうこの曼荼羅の方法は「言語思考」のラベリングに似ています。
一方、インターネット時代の現代では、映像、画像、ネットワークを活用して、例えばWikipediaやGoogleで見るように、「無限」の表現と説明は、永遠に達成不可能だが、ラベリングで済ますのは嫌だから、やってみようという意志が明らかに見て取れます。昔人も今にいるなら、多分そうしているだろうと想像されますが、しかし多くの現代人は、文字が生まれて以来、たかだか5~6000年程の間に、「言語思考」に頼るばかりで、「無限の努力」で「無限」を表現することを止めてしまったように思えます。
「言語思考」に至っては、「無限の真理」とラベリングして、それが理解であるとして、思考停止をしているのではないでしょうか。
物理学が、原子、分子、クオーク、ストリングと、タマネギの皮を剥くように次々と、世界の謎解きを続けているのは、人間本来が持っている「無限」への憧れ故なのではないでしょうか。
曼荼羅の使用法とは、曼荼羅に描かれている一つ一つの尊像を観想・瞑想し、尊像の内面、身体の様子など、細かくは、白目の血管の有様までも、瞬時に感得できるようにする。曼荼羅は、その訓練のためのツールです。そして続けて、尊像が、何百、何千、何万と無限にあり、その無限の関係性も含めて、総てを瞬時に感得出来るようにするのが、究極の目的なのです。
如来は、人それぞれにあわせ真理を説かれるので、人類の数、その一人一人が想像する数の尊像があり、つまり、人類X想像数=尊像数+関係性。の数の全尊像を感得する。言い換えるとガンジス川の砂の数の曼荼羅を観想・瞑想しなさい。そして、自分の内に観想する曼荼羅と同化融合させなさい。と、大日如来は説かれているのです。また、人間にはその能力がある。だから説いているとも言っています。
空海の「重重帝網なるを即身と名ずく」の「重重帝網」とは、ガンジス川の砂の数の曼荼羅であり、それを感得すれば、即身成仏できると言っているのと同じです。
総合すると、人間は「無限」も「無限の表現」も「無限の理解」も「無限の感得」も、もともと下手な生き物であるのか、あるいは進化のどこかの時点で、白雪姫の毒リンゴを食べてしまって、下手になってしまっているのか。つまりこういう現実を、先ず理解しなさいというのが、仏教の始まりのように思います。
空海は、「無限の真理」を、人々に理解、感得させるために、その時代の最新のツールである「言語」とその表現である「文字」を用いました。
「言語」には「言語思考」がついてきますから、その欠点、つまり「無限の表現」が下手であることを十分に理解し、「声字実相議」を提唱しました。
ここでは、如来が真理を説くのは文字によっている。とし、さらに文字があるところでは、その主体は、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、考えるの六種であり、それは、如来の身体・言語・意(こころ)の三密の神秘のはたらきにほかならないとしています。
空海の時代に、インターネットや映画があったら、「如来が真理を説くのは、文字、インターネットや映像によっている。」と言っていたかも知れません。
現在のインターネットや映像は、多くが「言語思考」の方法に依っていますから、「真理を説くのは文字」は、今もおおよそ正しいと思いますが、インターネットや映像からは、言葉からこぼれ落ちる多くのモノが生まれてきているので、空海が、現代人であればどうしたであろうかは、興味のあるところであり、現代人に真理を説明する最良の方法もまた、構築できたのではと思ったりもします。
では、文字があるところの主体である、見る(視覚)の真理とは。つまり「無限」との関係は何なのでしょうか。視覚は、見えないからと言って視覚自身は不満を感じません。つまりありのままで「有限」を感じたりしません。不満を感じているのは「言語と意(こころ)」です。アフリカ原住民は千メートル先の自分の牛を見分けられますが、都会に住んでいる私は、千メートル先のものを見分けられないからと言って私の視覚は不満を言いません。一方、私の「言語と意(こころ)」はどう思っているのか。不満であれば双眼鏡を買い求めに行きます。
しかし、「言語・意(こころ)」そのものが思念思考することに不満が出てきたら、お金で双眼鏡を求めるだけでは解決になりません。不満が高じるとノイローゼに陥ります。解決には「言語・意(こころ)」の性能をより強力にしてチャレンジするか、「言語・意(こころ)」など役に立たないので、外に、強力な代わりを見つけるしかないのです。そして、性能をアップし、外に代わりを見つける。その二つの方法を贅沢に実現するのが、仏の言う「成仏」という方法なのです。
ダライ・ラマをはじめとする、チベット密教の人々は、これまで危険として秘められてき密教の奥義を、少しづつ語り始めています。空海時代には未熟な者が用いると地獄に堕ちると言われていた方法が、一般の人にも輪郭が分かるようになってきました。映画のダ・ビンチコードがキリストの秘密を題材にしている状況と良く似ています。
現代は、宗教対立がテロや戦争を起こしています。民主主義がそれを解決すると信じて、アメリカは、60年前の日本の民主化に始まり、今はイラクの民主化を遂行しているのだ。と言っています。一方、地球温暖化で、地球そのものが危うくなっていると言われます。いずれ、人類の知恵とお金と資源の総てを、地球滅亡阻止のために使わなければならない事態になったら、人類の「言語・意(こころ)」は何を思い、何を言うのだろうか。そうなる前に、「秘密」は全部話しておこうと言うのだろうか。
仏教は当初から、「真実は一つではなく無限」にあると考え、そしてそれを理解・認識する方法を構築する。つまり、これまで使ってきた「言語」の方法にプラスして新しい方法を「発見・開発」するには、「祈り」のパワーが不可欠であると言っています。
「祈り」とは…永遠に続く悪夢のようである「不足と欲望」の関係を、根本的に解決しようとする行為であり、その解決に命を投げ出しても良いという、自己解体の覚悟であるとともに、「不足と欲望」の輪廻から逃れられない今の自己を解体し、新しい能力を身につけた、明日の自己へと再生したい。その願いでもある。…
とお話ししてきました。
人と人生に安全なのは、科学の方法なのですが、地球滅亡阻止に、科学の方法が役に立たないとなって、全人類が「祈り」を始めたら、あまりの強さで、地球からこぼれ落ちる人々が数多く出てくるのでは、と思ったりしますが、この程度で「無限」を言葉(ブログ)で説明していることになるのでしょうか…。
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野町和嘉の写真を見れば、「写真」は「無限の表現」に優れたメディアであることが良く分かります。
野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ
密教の曼荼羅は「無限」を表現し「無限」を理解するための、代表的なツールです。
曼荼羅には、如来、菩薩をはじめ「無限」の象徴として、数多くの尊像が描かれ配置されています。大日如来の説く「無限の真理」の境地を視覚的に表現しているのが曼荼羅ですから、総てを表現するには、本来は無限数の尊像と紙面が必要になるのですが、一幅(両界で二幅)の中に、編集し納めてしまうこの曼荼羅の方法は「言語思考」のラベリングに似ています。
一方、インターネット時代の現代では、映像、画像、ネットワークを活用して、例えばWikipediaやGoogleで見るように、「無限」の表現と説明は、永遠に達成不可能だが、ラベリングで済ますのは嫌だから、やってみようという意志が明らかに見て取れます。昔人も今にいるなら、多分そうしているだろうと想像されますが、しかし多くの現代人は、文字が生まれて以来、たかだか5~6000年程の間に、「言語思考」に頼るばかりで、「無限の努力」で「無限」を表現することを止めてしまったように思えます。
「言語思考」に至っては、「無限の真理」とラベリングして、それが理解であるとして、思考停止をしているのではないでしょうか。
物理学が、原子、分子、クオーク、ストリングと、タマネギの皮を剥くように次々と、世界の謎解きを続けているのは、人間本来が持っている「無限」への憧れ故なのではないでしょうか。
曼荼羅の使用法とは、曼荼羅に描かれている一つ一つの尊像を観想・瞑想し、尊像の内面、身体の様子など、細かくは、白目の血管の有様までも、瞬時に感得できるようにする。曼荼羅は、その訓練のためのツールです。そして続けて、尊像が、何百、何千、何万と無限にあり、その無限の関係性も含めて、総てを瞬時に感得出来るようにするのが、究極の目的なのです。
如来は、人それぞれにあわせ真理を説かれるので、人類の数、その一人一人が想像する数の尊像があり、つまり、人類X想像数=尊像数+関係性。の数の全尊像を感得する。言い換えるとガンジス川の砂の数の曼荼羅を観想・瞑想しなさい。そして、自分の内に観想する曼荼羅と同化融合させなさい。と、大日如来は説かれているのです。また、人間にはその能力がある。だから説いているとも言っています。
空海の「重重帝網なるを即身と名ずく」の「重重帝網」とは、ガンジス川の砂の数の曼荼羅であり、それを感得すれば、即身成仏できると言っているのと同じです。
総合すると、人間は「無限」も「無限の表現」も「無限の理解」も「無限の感得」も、もともと下手な生き物であるのか、あるいは進化のどこかの時点で、白雪姫の毒リンゴを食べてしまって、下手になってしまっているのか。つまりこういう現実を、先ず理解しなさいというのが、仏教の始まりのように思います。
空海は、「無限の真理」を、人々に理解、感得させるために、その時代の最新のツールである「言語」とその表現である「文字」を用いました。
「言語」には「言語思考」がついてきますから、その欠点、つまり「無限の表現」が下手であることを十分に理解し、「声字実相議」を提唱しました。
ここでは、如来が真理を説くのは文字によっている。とし、さらに文字があるところでは、その主体は、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、考えるの六種であり、それは、如来の身体・言語・意(こころ)の三密の神秘のはたらきにほかならないとしています。
空海の時代に、インターネットや映画があったら、「如来が真理を説くのは、文字、インターネットや映像によっている。」と言っていたかも知れません。
現在のインターネットや映像は、多くが「言語思考」の方法に依っていますから、「真理を説くのは文字」は、今もおおよそ正しいと思いますが、インターネットや映像からは、言葉からこぼれ落ちる多くのモノが生まれてきているので、空海が、現代人であればどうしたであろうかは、興味のあるところであり、現代人に真理を説明する最良の方法もまた、構築できたのではと思ったりもします。
では、文字があるところの主体である、見る(視覚)の真理とは。つまり「無限」との関係は何なのでしょうか。視覚は、見えないからと言って視覚自身は不満を感じません。つまりありのままで「有限」を感じたりしません。不満を感じているのは「言語と意(こころ)」です。アフリカ原住民は千メートル先の自分の牛を見分けられますが、都会に住んでいる私は、千メートル先のものを見分けられないからと言って私の視覚は不満を言いません。一方、私の「言語と意(こころ)」はどう思っているのか。不満であれば双眼鏡を買い求めに行きます。
しかし、「言語・意(こころ)」そのものが思念思考することに不満が出てきたら、お金で双眼鏡を求めるだけでは解決になりません。不満が高じるとノイローゼに陥ります。解決には「言語・意(こころ)」の性能をより強力にしてチャレンジするか、「言語・意(こころ)」など役に立たないので、外に、強力な代わりを見つけるしかないのです。そして、性能をアップし、外に代わりを見つける。その二つの方法を贅沢に実現するのが、仏の言う「成仏」という方法なのです。
ダライ・ラマをはじめとする、チベット密教の人々は、これまで危険として秘められてき密教の奥義を、少しづつ語り始めています。空海時代には未熟な者が用いると地獄に堕ちると言われていた方法が、一般の人にも輪郭が分かるようになってきました。映画のダ・ビンチコードがキリストの秘密を題材にしている状況と良く似ています。
現代は、宗教対立がテロや戦争を起こしています。民主主義がそれを解決すると信じて、アメリカは、60年前の日本の民主化に始まり、今はイラクの民主化を遂行しているのだ。と言っています。一方、地球温暖化で、地球そのものが危うくなっていると言われます。いずれ、人類の知恵とお金と資源の総てを、地球滅亡阻止のために使わなければならない事態になったら、人類の「言語・意(こころ)」は何を思い、何を言うのだろうか。そうなる前に、「秘密」は全部話しておこうと言うのだろうか。
仏教は当初から、「真実は一つではなく無限」にあると考え、そしてそれを理解・認識する方法を構築する。つまり、これまで使ってきた「言語」の方法にプラスして新しい方法を「発見・開発」するには、「祈り」のパワーが不可欠であると言っています。
「祈り」とは…永遠に続く悪夢のようである「不足と欲望」の関係を、根本的に解決しようとする行為であり、その解決に命を投げ出しても良いという、自己解体の覚悟であるとともに、「不足と欲望」の輪廻から逃れられない今の自己を解体し、新しい能力を身につけた、明日の自己へと再生したい。その願いでもある。…
とお話ししてきました。
人と人生に安全なのは、科学の方法なのですが、地球滅亡阻止に、科学の方法が役に立たないとなって、全人類が「祈り」を始めたら、あまりの強さで、地球からこぼれ落ちる人々が数多く出てくるのでは、と思ったりしますが、この程度で「無限」を言葉(ブログ)で説明していることになるのでしょうか…。
(C)Copyright 2005 Kazuyoshi Nomachi. All Rights Reserved.
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野町和嘉の写真を見れば、「写真」は「無限の表現」に優れたメディアであることが良く分かります。
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