写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

「言語思考」について-4

2007年08月22日 | 「言語思考」
「真実は一つではなく無限」にあることをお話しして来ました。今回は「無限」の実感、認識、理解とは何なのか、それを言葉(ブログ)で説明が出来るのだろうか。?を考えてみたいと思います。
密教の曼荼羅は「無限」を表現し「無限」を理解するための、代表的なツールです。
曼荼羅には、如来、菩薩をはじめ「無限」の象徴として、数多くの尊像が描かれ配置されています。大日如来の説く「無限の真理」の境地を視覚的に表現しているのが曼荼羅ですから、総てを表現するには、本来は無限数の尊像と紙面が必要になるのですが、一幅(両界で二幅)の中に、編集し納めてしまうこの曼荼羅の方法は「言語思考」のラベリングに似ています。
一方、インターネット時代の現代では、映像、画像、ネットワークを活用して、例えばWikipediaやGoogleで見るように、「無限」の表現と説明は、永遠に達成不可能だが、ラベリングで済ますのは嫌だから、やってみようという意志が明らかに見て取れます。昔人も今にいるなら、多分そうしているだろうと想像されますが、しかし多くの現代人は、文字が生まれて以来、たかだか5~6000年程の間に、「言語思考」に頼るばかりで、「無限の努力」で「無限」を表現することを止めてしまったように思えます。
「言語思考」に至っては、「無限の真理」とラベリングして、それが理解であるとして、思考停止をしているのではないでしょうか。
物理学が、原子、分子、クオーク、ストリングと、タマネギの皮を剥くように次々と、世界の謎解きを続けているのは、人間本来が持っている「無限」への憧れ故なのではないでしょうか。

曼荼羅の使用法とは、曼荼羅に描かれている一つ一つの尊像を観想・瞑想し、尊像の内面、身体の様子など、細かくは、白目の血管の有様までも、瞬時に感得できるようにする。曼荼羅は、その訓練のためのツールです。そして続けて、尊像が、何百、何千、何万と無限にあり、その無限の関係性も含めて、総てを瞬時に感得出来るようにするのが、究極の目的なのです。
如来は、人それぞれにあわせ真理を説かれるので、人類の数、その一人一人が想像する数の尊像があり、つまり、人類X想像数=尊像数+関係性。の数の全尊像を感得する。言い換えるとガンジス川の砂の数の曼荼羅を観想・瞑想しなさい。そして、自分の内に観想する曼荼羅と同化融合させなさい。と、大日如来は説かれているのです。また、人間にはその能力がある。だから説いているとも言っています。
空海の「重重帝網なるを即身と名ずく」の「重重帝網」とは、ガンジス川の砂の数の曼荼羅であり、それを感得すれば、即身成仏できると言っているのと同じです。

総合すると、人間は「無限」も「無限の表現」も「無限の理解」も「無限の感得」も、もともと下手な生き物であるのか、あるいは進化のどこかの時点で、白雪姫の毒リンゴを食べてしまって、下手になってしまっているのか。つまりこういう現実を、先ず理解しなさいというのが、仏教の始まりのように思います。

空海は、「無限の真理」を、人々に理解、感得させるために、その時代の最新のツールである「言語」とその表現である「文字」を用いました。
「言語」には「言語思考」がついてきますから、その欠点、つまり「無限の表現」が下手であることを十分に理解し、「声字実相議」を提唱しました。
ここでは、如来が真理を説くのは文字によっている。とし、さらに文字があるところでは、その主体は、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、考えるの六種であり、それは、如来の身体・言語・意(こころ)の三密の神秘のはたらきにほかならないとしています。
空海の時代に、インターネットや映画があったら、「如来が真理を説くのは、文字、インターネットや映像によっている。」と言っていたかも知れません。
現在のインターネットや映像は、多くが「言語思考」の方法に依っていますから、「真理を説くのは文字」は、今もおおよそ正しいと思いますが、インターネットや映像からは、言葉からこぼれ落ちる多くのモノが生まれてきているので、空海が、現代人であればどうしたであろうかは、興味のあるところであり、現代人に真理を説明する最良の方法もまた、構築できたのではと思ったりもします。

では、文字があるところの主体である、見る(視覚)の真理とは。つまり「無限」との関係は何なのでしょうか。視覚は、見えないからと言って視覚自身は不満を感じません。つまりありのままで「有限」を感じたりしません。不満を感じているのは「言語と意(こころ)」です。アフリカ原住民は千メートル先の自分の牛を見分けられますが、都会に住んでいる私は、千メートル先のものを見分けられないからと言って私の視覚は不満を言いません。一方、私の「言語と意(こころ)」はどう思っているのか。不満であれば双眼鏡を買い求めに行きます。
しかし、「言語・意(こころ)」そのものが思念思考することに不満が出てきたら、お金で双眼鏡を求めるだけでは解決になりません。不満が高じるとノイローゼに陥ります。解決には「言語・意(こころ)」の性能をより強力にしてチャレンジするか、「言語・意(こころ)」など役に立たないので、外に、強力な代わりを見つけるしかないのです。そして、性能をアップし、外に代わりを見つける。その二つの方法を贅沢に実現するのが、仏の言う「成仏」という方法なのです。

ダライ・ラマをはじめとする、チベット密教の人々は、これまで危険として秘められてき密教の奥義を、少しづつ語り始めています。空海時代には未熟な者が用いると地獄に堕ちると言われていた方法が、一般の人にも輪郭が分かるようになってきました。映画のダ・ビンチコードがキリストの秘密を題材にしている状況と良く似ています。
現代は、宗教対立がテロや戦争を起こしています。民主主義がそれを解決すると信じて、アメリカは、60年前の日本の民主化に始まり、今はイラクの民主化を遂行しているのだ。と言っています。一方、地球温暖化で、地球そのものが危うくなっていると言われます。いずれ、人類の知恵とお金と資源の総てを、地球滅亡阻止のために使わなければならない事態になったら、人類の「言語・意(こころ)」は何を思い、何を言うのだろうか。そうなる前に、「秘密」は全部話しておこうと言うのだろうか。

仏教は当初から、「真実は一つではなく無限」にあると考え、そしてそれを理解・認識する方法を構築する。つまり、これまで使ってきた「言語」の方法にプラスして新しい方法を「発見・開発」するには、「祈り」のパワーが不可欠であると言っています。
「祈り」とは…永遠に続く悪夢のようである「不足と欲望」の関係を、根本的に解決しようとする行為であり、その解決に命を投げ出しても良いという、自己解体の覚悟であるとともに、「不足と欲望」の輪廻から逃れられない今の自己を解体し、新しい能力を身につけた、明日の自己へと再生したい。その願いでもある。…
とお話ししてきました。
人と人生に安全なのは、科学の方法なのですが、地球滅亡阻止に、科学の方法が役に立たないとなって、全人類が「祈り」を始めたら、あまりの強さで、地球からこぼれ落ちる人々が数多く出てくるのでは、と思ったりしますが、この程度で「無限」を言葉(ブログ)で説明していることになるのでしょうか…。


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野町和嘉の写真を見れば、「写真」は「無限の表現」に優れたメディアであることが良く分かります。

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「言語思考」について-3

2007年08月11日 | 「言語思考」
先回、「言語思考」は取捨選択をして真実を一つに集約するツールとしては、都合が良いのですが、真実は一つではなく無限にあると考え、真実を語るには万巻の仏典が、これまでも、これからも増え続けるというのが仏教の方法なのです。とお話ししました。
最近読んだ本の中に、
…科学は「真理(宇宙という全世界)を、短縮された表現形式をもつアルゴリズムに圧縮可能だ」という信念に支えられてきた。…
…科学は、「今、ここ」の、局所的因果律を前提にしている。…
とあるのも、「科学思考」、つまりそれが寄って立つ「言語思考」独特の振る舞いを説明しています。
寄って立つとは、単純に考えて、科学は、論文のカタチで「言語思考」に翻訳され、評価を受けているので、つまり、科学は、「言語思考」そのものと考えられますから、上記の言説は「科学思考」の限界を言いながら、「言語思考」の限界を言っていることになります。

当然、このような「科学思考」の振る舞いの矛盾は、科学では、ラプラスの魔、マクスウェルの魔の名称でラベリングされ議論されていますが、矛盾を解いたと思った瞬間、つまり振る舞いの外に出られたと思った瞬間、自らの振る舞いに捕らえられていることに気がついてしまいます。
科学はこの解決に、そこに新しいラベルを貼り、新ラベルの矛盾を再び議論することを始めます。そして「科学思考」であれば、人や人生に解体や再生を迫る「祈り」をしなくても、日々を過ごして行ける。つまり、安全であることもこれは意味しています。
本当は、自らの振る舞いの実証には、「科学思考」ではない「言語思考」でもない、第三の方法でなければ、解決しない。と「科学思考」も分かっている筈なのですが…。
近年、この矛盾や限界の突破に、脳科学による解明が期待されています。「心(仮想)」は脳で生まれると言い、また「言語思考」は脳に所属するので、「言語思考」を司る部分以外の脳の機能を使って実証すれば解決出来るのでは…。と言っています。一見、第三の方法のように思えますが、科学の成果は、論文などの「言語思考」に翻訳されて評価実証されるので、これでは、真実を一つに集約することを、結論や理解ということにするという「科学思考」の振る舞いの外には出て行けません。
つまり、「科学思考」が自らの限界を話すことは、前からお話ししているように、「言語思考」が「言語思考」を裁くと同じく、自己撞着に陥ることになり、科学の状況は、泥縄から、泥棒が縄を編む状況にまで混乱(進歩)を深めています。 
これらをまとめると、…「科学思考」の限界が、「科学」の進歩の限界を暗示している。…と言うことになってしまいます。

ではこの問題を、仏教はどのように解決してきたのでしょうか。
「色即是空、空即是色」は、どう考えても、今日の「言語思考」からは、ベタで自己矛盾です。今日の「言語思考」なら、もっとスマートに説明出来ると思いますが、その前に「科学思考」や「言語思考」のアンチテーゼである、「真実は一つでなく無限にある」とは何なのか。をお話ししなければ議論のバランスを欠いてしまいます。
空海の 
 …「重重帝網なるを即身と名ずく」の「重重帝網」
華厳経の
 …「一即多」と「相移即入」の「多」
観無量寿経の
 …「極楽世界」
タオ(道教)の
 …「天人合一」の「天」
などが、「真実は一つでなく無限にある」の言葉による表現です。しかし名称(ラベル)だけで説明がなければ、多くの人には、何のことか分かりません。
観無量寿経の「極楽世界」の表現では、極楽の有様を、多くの言葉を使い長々と説明しています。
「極楽」とは、「真実」のことですから、「極楽」を語ることは「真実」を説明することになるのですが、しかし読み進めると、総てをこの方法で説明し尽くすには、この量の言葉と紙面では足りないことが分かってきます。つまり、言葉で語り尽くせぬ程「真実は一つでなく無限にある」ことになり、「無限」を言葉で説明するには、無限と同じ量の言葉と紙面が必要になってきます。つまり「無限」を説明するのに「無限の時間」がかかるのでは、理解も永遠に出来ないことになるのです。
仏典にはこのような長々とした説明や、論理の繰り返しが数多く出現してきます。「無限」を説明しようとする強い意志は分かるのですが、努力して読み進み理解しようとすると睡魔が襲ってきます。また、理解ための頭脳容量がすぐに不足しますので、毎日少しづつ、何日も何ヶ月も理解に励み、読経として声を出して読み上げたり、それでも人間の「言語思考」は、仏典に書いてある量の「無限」すら十分に理解出来ないのが普通です。これは人間の認識ツールとして「言語思考」は、「無限」を表現したり理解するのに、不完全であることを意味しているのではないでしょうか。
本来なら、この場で「重重帝網」「多」「極楽」「天」とは何かを説明しなければならないのですが、同じ理由で紙面が足りなくなるので、Googleの検索などで解説を探してください。ネット検索は「言語思考」に準拠していても、bookよりは、「無限」を説明出来るツールに成長できるかもしれません。

・空海は、「重重帝網」の認識や理解を迫ります。理解しなければ「即身成仏」出来ないと言います。
・華厳経は、一個の如来に多個を見ろと言い、一と多が量子論的に在ると言い、それを認識しろと言います。
・タオ(道教)の「天」は、「天」は無限であるのは自明のこととして、あまり説明がありません。
・観無量寿経はインドの思考論理ですから、多くの言葉と紙面で「無限」を表現しようとしていますが、いつも徒労感を覚えてしまいます。

さて、いよいよ、「無限」を認識理解しなければ先に進まなくなりました。
ではどうすれば、人間は「無限」を認識出来るのでしょうか。

一言で言うと、
…さっさと「言語思考」を止めなさい。…
です。
…「言語思考」を止め、「重重帝網」を認識理解すれば「即身成仏」できる。…
が空海の教えではないでしょうか。
しかし空海には、真言(秘密語・マントラ)があります。「言語思考」に信頼を置いているように思えます。
「無限」と「真言(言語思考)」とのパラドックスを、科学の最新理論であるスーパーストリング理論で説明してみましょう。
科学は、物質の成り立ちを、素粒子(単粒子)として考え、分子、電子、クオークなど、タマネギの皮を剥くように解明を進めてきました。
常に、それは量子論的に語られて来ましたが、理論を突き詰めていくと、仏教では空性、無常で表現されるような、時間と空間の広がりが理論上必要となってきました。時間と空間とは、時間と時間、空間と空間、空間と時間の関係性を常に問われますから、粒子の範囲では、どうにも説明がつきかねるところまで到達してしまいました。そこで登場したのがスーパーストリング理論です。一言で言えば、「全ての素粒子は有限な大きさを持つひもの振動状態である。」と説明されますが、このスーパーストリングが「真言」と良く似ています。

般若波羅蜜多心経の末尾に、有名な次のマントラ(真言)が記されています。
掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶
「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
掲諦(ガテー)とは、「行く(往く)」という語意ですが、逝く(成仏する)と行く(進んで止まらない)の二つの真理を表しています。しかし、マントラはこのような文字としての語意だけでなく、声に出し唱えることで、音色と響き。唱える人の身体観。唱える場所を荘厳する色、カタチ、匂い、触感。など、五感を総動員し、身体、言葉、心で多様に認識理解を行う。いわば、もともと人間に具わった種々の認識器官やツールを、「言語思考」を引き金として総動員させる、仏教独自のメソッドなのです。

「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」 はつまり、スーパーストリング理論が言う、振動状態なのです。真言を唱え認識することで、自分と自分を取り巻く環境の総てが振動状態にあることを実感するのです。つまり科学的に言うと、如来の法身・報身・応身が活躍(振動)する「時間と空間」。そしてその「関係性」の総体をそれは表しているのではないでしょうか。
こう考えると、仏教と科学、約2000年を経て、漸く同じ地平に立つことになった思いがします。しかし同時に、どちらも「言語思考」の限界に、その先を阻まれているようにも思います。仏教は、「言語思考」に代わる認識法の開発を根本に意図していましたが、科学は漸く、その限界に気づき始めたところと言えます。
「進んで止まらない」が両者の真理ですから、我々人間は、次の一歩を踏み出さなければなりません。
科学は、最小単位である「スーパーストリング」を最大単位である「宇宙」との、つまり、華厳の言う「一即多」と「相移即入」の関係性を明らかにしなければならず、
仏教は、密教、顕教、仏典(book)、ヨガ、曼荼羅、金剛杵、印など、「言語思考」を透明にし、背後に隠れている能力を、目覚めさせ活性化させる、これら古代からの手法ではなく、現代人に馴染みのあるパソコン、TV、写真、ムービー、イベント、インターネットなど、より優れた新しい手法で、より効果的に、仏教を体験してもらうことが求められています。

次回は、「言語思考」に変わる認識法とは何か、そして「無限」の実感、認識、理解とは何なのか、また、それを言葉(ブログ)で説明が出来るのだろうか?、を考えてみたいと思います。


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写真の彼らは、2007年1月18日、インド、ガンジスの川原で繰り広げられた、クンブ・メーラの祭りで、言わば、「言語思考」に代わる認識法を求めて「祈る」人々です。

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