写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

新・「成仏の方法」ー超越的第三者の眼差し

2024年07月24日 | 成仏について

テーマが「成仏の方法」のこのブログは、71歳から書き始めました。
これをテーマにしたのは、書き始めの頃、70歳にもなると余命の10年を考えるより、その先の「死んだらどうなるのか」を真剣に考えた方が合理的なのでは、と思ったからですが、それから無為に10年が過ぎ、今は80歳になってしまいました。

死んだらどうなるのか?

まず、「人間死んだらどうなるのか」についてですが、これまで学び続けてきた知識から、次の五つに分類されるように思います。

1.死んだら転生して、未来の時代に生まれ変わる。(同じ土地に生まれ変われるかは不明。過去へは不可か?)

2.死んだら、極楽か天国、又は地獄に行く。(成仏の手前であり成仏ではない。)

3.永遠の命(不死)を得て、この世にとどまり続ける。(仙人、隠遁か?)

4.全てが廃塵に帰し、無になってしまう。

5.輪廻を脱して、成仏する。(即身成仏など、無辺無量を心と身で実現する)

の五つです。

これを希望の順に並べるとすれば

1.や 2.の「転生や地獄」は「苦」がそのまま続くことですし、「極楽や天国」は一時は満足ですが、すぐに成仏へのスッテプアップの欲が湧いてきます。

3.の「この世にとどまり続ける。」は、老いさらばえて生き続ける「苦」なので、やはり直ちに至高の安寧に達する「成仏」の道が一番良いのではと感じます。

そこでタイトルが「成仏の方法」になった訳です。

これはタイトルの言葉そのままに、身も心も共に成仏する方法を見つけ出し、心や身体に適合させることを目指すことになります。

しかし現代日本の死に近い老人達は、己れの行く末について、幸せへの旅立ちではなく終活と考えて、死では全てが廃塵に帰し無となると思っているようなのです。この無欲に私はずっと疑問を感じてきました。そこで「成仏の方法」について、歴史を調べると、仏教、道教には楽しい成仏の方法が詳しく書かれているので、それを、現代人に理解できる姿で伝えようと考えたのがブログ「成仏の方法」なのです。

臨死の体験。

先回のブログでは、コロナ肺炎に罹り死にかかった私の闘病記をお話しました。その経験から分かったことも含めこれからお話したいと思います。

コロナ肺炎では、臨死の体験をしました。

死の間際には、人生の記憶が走馬灯のように次々現れるという、あの体験です。
この走馬灯は、現れると直ぐに消えてしまい無記憶になるのですが、次に覚めた時は「ここは何処、私は誰」の自分を見失っている意識でした。
よく聞く、臨死を迎えると、三途の川を歩いて行くとか、眩い光に包まれるというような幻覚はありませんでした。軽く浅い脳死体験だったのかも知れません。
言語記憶がリッセットされたようで、簡単な名称(名前、場所名など)が口に出にくくなっていました。再学習すれば戻って来るので、簡単な記憶障害だと思う。

目覚めの初期は、見失っている自分にしきりに問い掛けている、つまり無いものに問い掛けるという不条理な体験でした。それ以上に奇妙なのは、この一連の状況と流れを冷静に外から見ている、第三の意識(現実意識を第一、無意識を二とすると)が存在することでした。

外からは、終末期のせん妄状態にある患者に見えていたようです。

シャワーのような走馬灯記憶が流れる中で、混乱する自己意識とは別に、外から第三者的に冷静に眺めている意識があるのです。これはクリヤーな明晰夢のような記憶で、それで今この文章を書けているのですが、これはどうゆうことなのでしょうか?。前からこの「成仏の方法」のお話しの中で書き続けてきた「超越的第三者の眼差し」に似たもののようなのです。

詳しくは、成仏の方法(11)を参照 

「超越的第三者の眼差し」

私が現実意識をほとんど失い(痛みも苦しみもない)、身体が死を迎える床に横たわっていても、「超越的第三者の眼差し」は、背後で常に冷静に私を見つめています。本当の死とは、この意識の眼差しが失せた時に訪れるものなのでしょうか。分かりません。

そして以前は、この「超越的第三者の眼差し」を言語思考の一部ではないかと考えていました。しかし臨死体験をした今、それに疑問を感じはじめています。 


では次に、過去に具体的に語られている成仏の方法について見てみましょう。

チベットの死者の書では、人は死ぬと49日間の死のバルドがありその2週目に、眩しい青い光が差し込んできます。それは恐怖を帯びていて、しかしその恐ろしさに逆らい耐えて、眩しい光に向かい意識を投げ出すと、輪廻の循環から脱しられ、成仏に向かうことが出来る。と書かれています。

これはチベット仏教の修行の一つで、それは、死の意識に似る夜の夢の中で、自在にその夢を操作するなどの訓練をして、死のバルドに備えた、シュミレーショントレーニングをします。恐れに意識を失わず、怯えず、眩しい青い光に勇気を持って向う、その「強い意識」の発見と強化の方法を教えています。

この訓練は、明晰夢を自在に見ることが出来るという方法も副次的に得られることになります。

この「強い意識」とは、「超越的第三者の眼差し」のことなのでしょうか。

これは、死んで体験してみなければ分かりません。

また、空海の成仏の方法である「即身成仏義」では、その意味通り言葉で理解する成仏の方法を教えています。

世の中の言葉で語られる経文は、全て成仏についてを教えているので、自分に合ったものを良き出会いで選べば良いのですが、その中でも空海との出会いは日本人には僥倖であり、経文、注釈の言葉で書かれた言語思考での理解だけではなく、東寺の仏像曼荼羅、比叡山の伽藍曼荼羅、護摩祈祷、真言、綜藝種智院、声字実相義にある声(音)と字(書)等々による布教で、人間の様々な感覚を使う意識に様々訴える方法で成仏を教えてくれています。

そして言葉の方法である「即身成仏義」の中の次の注釈詩が成仏を具体的に語っています。

『六大無碍にして常に瑜伽六大無碍なり。
四種曼荼各々離れず。
三密加持して速疾に顕わる。
重々帝網なるを即身と名づく。』

と言っています。

この中の「瑜伽六大無碍、無碍、四種曼荼、三密加持、速疾」などの言葉の意味は、成仏が成就する「状態、状況、条件、方法、結果」などを表していています。

そして、空海はそれぞれの語句についての詳しい注釈をしていて、空海の言説の大凡を成す知識の集大成となっています。

膨大な語句なので、全てを理解することは不可能です。空海は言葉、言語、言語思考に格別のこだわりを持ち、それが持つ特殊な能力で成仏の全てを説明できると考えていたのかも知れません。しかし、言語思考を離れなければ叶わないとも言っています。

そして、それら全てが成就した状態を「重々帝網」と名付け、

さらに、『重々帝網なるを即身と名ずく』と言っています。

だから、重々帝網を理解すればいいという事になるのですが…

重々帝網とは、今日の言葉では、マトリックスと訳されるのでしょうが、「身も心もマトリックス」という理解は、ノロマな言葉思考だけでは届かず、別の意識の方法を借りなければならないようです。

ここまでは、心や意識の成仏についてお話しして来ました。しかし、身体の成仏も同時に求められます。

「三密加持」とは、身・口・意(体・言葉・心)を整え、「仏(観想)」と一体になり成就成仏する事を言います。究竟次第と生起次第の統合のことになりますが、ここには「口」の働きで計らう。が基本にあります。口は言葉ですから、意を理解表現することは得意ですが、身に対しては苦手です。空海と最澄の仲違いはどうもこの部分にあるようで、恵果から法を受け継ぐ空海は、「身の法」も受け継いで来ていて、これは言葉での説明で理解できるものではなく、しかし、最澄は言葉で求めたのではないかと思えるのです。

「身の法」による浄化について、インドのハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどは分かりやすいのですが、空海の場合、文字で書いてあるのに言語思考では殆ど理解ができません。言葉で分かっても身体で感受できなければ意味がありません。

ここでも別の意識を働かせなければならないようです。

このあたりの消息は、ブログ「成仏の方法(1)~(14)」をお読みください。

お読みください。と言いましたが、字数も多く知識が無ければ内容も分からず、途中で読む気が失せてしまうと思います。
この失せる理由は、説明が言葉(言語思考)で書かれているからです。

言葉は、不完全でノロマなツール。

言葉は、不完全でノロマな伝達・理解ツールです。このことを現代人は、理解も自覚もしていません。反対に、己の読解力の不足とも思っています

「言葉での理解が、現代人の理解の全てになっている」と、このブログではお話ししてきました。言語に寄らなければ社会的には伝わらないから、修羅万象を言語に翻訳し伝えることが習いになっているのですが、この方法が、有史以来人類を発展させて来たので、幼少から勉学の努力を続けてきたのに、まだ読解力が足りていないと思うせいで、言語のノロマ性を認めることが出来ないという事なのでしょうか。

流行りのAIも、プログラミング言語と名付けられているように言語思考をベースにしていますので、言語思考の発展形です。だから、言語思考のノロマ性が複雑化して行くだけで、ますます人類はこれまで以上に言語のノロマと不完全性に惑わされる事になって行きます。

詳しくは、成仏の方法(11)を参照

このAIについては、このブログで引き続き、言葉の代わりになる伝達手段の発見と創造?についてお話ししようと思っていましが、突然のコロナ肺炎の罹患で中断させられ、発見に至らず、この文章をノロマな言語で書いているこになっているのです。

幾つもある意識・思考。

人の意識や思考、知性には、言語思考をベースにする「ロゴス」と無意識をベースにする「レンマ」があると、中沢新一著「レンマ学」で知りましたが、仏教の知性から見ると「レンマ」だけではなく、他の意識や思考が幾つも、人には生まれつき備わっているのでは?、ともお話ししました。

詳しくは、成仏の方法(10)-2を参照…

しかしコロナ肺炎の罹患でも新しい発見がありました。それは、「超越的第三者の眼差し」とは、言語意識の一部なのか、それともロゴス、レンマなど、その他の意識群の一つなのか、それとも全く別の次元のものなのか? そして成仏の方法に関係があるのかどうか?、分かりませんが。この疑問です。

80歳になって、このような人生最大の疑問が生まれてきていて、その確証は死んでみなければ分からないというのでは、成仏を目指すどころか、輪廻で死を何度も繰り返し、必ず人間として転生し、思考と探究をしなければならないことになる。つまり、転生の後もノロマな言語思考に付き合わされるのを覚悟する。という事になるのですが、勘弁して欲しい。でもこれは何かの天啓と思えば良いのでしょうか。