写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

成仏の方法(9)

2018年04月12日 | 成仏について
成仏とは、変化です。
そこで成仏の方法とは、変化についてをお話しするこになります。

釈迦の教えで、変化とは、
「因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)」
です。
言葉は縁起で生まれますので、言葉の世界では「そしてそれは変化して止まない。」と表現することになります。(言葉は二項分類(対立)思考ですから、反対の「変化しない」も想定できますが、それで生ずる問題は後述します。)

そもそもこのブログの「成仏の方法」は、老年となり余命の10年、20年を考えるより、死んだらどうなるのかを考える方が合理的である。との思いからスタートしていて、死という変化が避けられないのなら、成仏へ、つまり仏に変化する方が良いのではないか。と思った所にあります。

一般に宗教とは、生きる悩みや苦しみに、救いや癒しを与えてくれるもの。あるいは死者を弔う儀式。と現代人の多くは理解しています。仏教から言えばそれらは方便で、仏教とは、苦に囚われた生を成仏へ導くこと、さらに全ての者や物を仏に変化させること(成仏)、を最終目的にしています。その方法には様々あり、様々な宗派となっていますが、それらは成仏に一歩手前の菩薩が言う「全ての人が成仏しなければ、私は仏にはならない。」の強い意志に支えられています。

言葉は縁起で生まれると言いましたが、言葉で成仏を理解しようとすると、縁起という概念を持ち出さざるを得ない。という、釈迦の工夫(方便)を感じてしまうのですが、すると言葉の二項分類(対立)の思考から、反対の「変化しない」も想定できますね。となって話が複雑になり、様々な問題が発生することになります。しかし釈迦は、ここでは沈黙を選びました。そのため、それ以降、膨大な経典が生まれ続け、その沈黙の意味を言葉で説明する事になるのですが、キリスト教イスラム教の一神教でも、同じ問題は発生するのですが、聖書とコーランの文字で書かれた経典にのみ真理があり、それ以外は正しい教えではないということにしてしまい、真理を言語思考のみで考えることを強いて(はじめに言葉ありき)、言語思考以外を封じてしまいました。

仏教の場合、釈迦の沈黙を考えるには、仏の身になって考えねばならず、そうすると成仏とは何かを考えることになるのですが、その前に、仏教では、それを思考する手段やツールの正体とは何なのかを考えることになりました。
科学の言葉である、意識、感覚、思考、心理、言葉、心、肉体、生物、物体、存在、宇宙、などなど、それらは一体何なのかについて、仏教は、現代の科学に劣らない議論論争で、深い考察を積み重ねて来ています。次はそれらについて見ていこうと思います。
しかしここで、二千余年を越えるこの論議論争主張の全歴史を語るのも大変なので、密教の方法である、「身・口・意」の三密の分類で分析したものが、現代の科学思考からみてもわかりやすいと思いますので、これでお話する事にします。

先ず、「身・口・意」の三密のうち「身」とは、身体のことですが、それについてお話しをします。

ここでいう身体とは、常に「変化してやまない」身体です。
身体というと医学の解剖図が浮かんで来ます。しかし解剖図は静止していますから、「変化してやまない」側からは、位置や形や色、働きなどの情報は、参考になっても、生きて動く身体の真の情報とは考えていません。そして、その分析を担当する意識思考の側も、同じく「変化してやまない」状態ですから、すべてが動きの中で、身体を考えなければなりません。
一方、科学思考は、変化の中で対象を様々に観察分析し、そして言語思考で抽象化することで、現象を静止させ(解剖図にして)、本質を探ろうとします。しかし、そんな静止した変化の残像からは本当の本質は捉えられない。と、「変化してやまない」側は考えるのです。
科学思考の分析は、言語思考をベースにしています。その特徴となる抽象化の作業は、「変化してやまない」対象と、同じくその対象に向かう連続する意識を、一旦停止させて考えます。しかし、それら変化は考え中でも続くので、科学では、その停止で得られた表装(残像)を、再度動かして変化を造り、運動という名の変化にするという、特異な分析方法をとります。停止も変化の一部と考えられますが、それにしても余りにもぎごちなく、変化を変化のまま、生で捉えることを苦手にしているような振る舞い方です。

青空の視界に不意に、飛ぶ鳥が現れて、あれはツバメだ。と言葉が脳裏に浮かんだ時、変化(運動)にずっと対応していた意識が一瞬中断され、ふたたび追従に意識が戻った時には、ツバメはかなり先に飛び去ているのを経験されたことがあると思います。
これは、量子論を読みながら理解しようとする時の経験に似ています。量子力学を理解するのが難しいのは、科学思考のベースとなる言語思考の能力の限界なのですが、もし、相対性理論の前に量子論が盛んになっていたら、もっと簡単に早く科学は進歩していたかも知れません。全体が変化の状態にあり、そのうえ同時に、さらに二つの異なる変化の現象を分析することを強いるような今日の科学の状況では、科学の生みの親であるのろまな言語思考は、さらには科学論文は文字で書かれ評価されもするので、二重の困難を変化の分析に招くことになり、理解と進歩の邪魔をしているように思ってしまいます。
私達は、日常的に、腕を曲げる、お腹が痛い、痒い、疲れた、気持ちが良い、などなど、身体を探ぐり感ずる意識を無意識に働かせています。コーヒーを飲むから腕を曲げようとか、疲れたからフゥーと声を出そう、などと言葉に出しては考えません。お腹が痛いと言葉にする前に意識はお腹に意識のセンサーを働かせていて、手をお腹の患部に当てさせています。
自身の身体への意識は、変化を停止させなくても、このように言語思考を用いなくとも、ストレートに意識できます。お互いに皆が、「変化してやまない」への、このような意識の行使の了解とコンセンサスがあれば、確実に、身体を意識し思考し分析していることになるのではないでしょうか。言葉は、その過程を記録する補助手段の位置にいて、変化の分析に極力関わらない方が良いのではと思います。

密教では、言語思考がベースの停止する意識を「粗雑な意識」、後者の持続し「変化してやまない」ストレートな意識を「繊細な意識」と言っています。「粗雑な意識」とは、社会生活に必要な現実意識ですが、とすると「繊細な意識」とは、現実意識ではない方の意識、つまり無意識ではないかの問があります。現代の科学で無意識とは、意識以外の不明な意識、言語思考では特定できない意識の全般、を言いますので、確かに無意識とは重なる部分が有りますが、しかし「繊細な意識」は、はっきり意識できて、特定できますので、科学が言う無意識とは異なります。
(現代科学と密教での意識の違いについては、次の「口」のページで、詳しくお話しします。)

仏教やヨガ、中国に発祥するタオ(道教)など、東洋思想では、「変化してやまない身体」を、分析の対象にします。そのため、分析のツールは、「繊細な意識」を主に用います。また記録と分類が得意な言語思考の「粗雑な意識」もサポートに用います。


仏教、道教(タオ)、ヨガなど、東洋思想で共通の考え方は、
生ける「変化して止まない」身体とは、「気」が流れている身体である。です。
生きるとは変化して止まない現象であり。それを支える「気」もまた流れる変化です。つまり生きた身体では、変化が常態ですから、変化をどう捉えるかが東洋思想の基本になってきます。
しかし、それを「粗雑な意識」の言語思考で考えるとなると、現象を抽象化し、意識思考を一旦停止させ、名称をつけ整理記憶する、ラベリングの方法を実行することになります。さらに、分析では「変化して止まない」とは反対の「停止」とともに、他者による客観的な実行も必要と考えていて、確かに変化の反対の停止は他者なので、その意味では正しいのですが、停止も変化の一部ではないか。とも考えられるので、言語思考がこれを他者であり客観的とするには少し無理があるように思います。

さらに「変化」を「停止」の状態にして考えるとは、何なのでしょうか。
抽象化で一旦停止させ「変化して止まない身体」を分析するとは、ゴルフの上達本のような記述になります。上達本に習い、身体の動きを真似て再現したとしても、クラブにボールが当たってくれるとは限らないのは、皆んな分かっています。科学の論文とそれを再現し検証する関係にもそれはよく似ています。さらに言語思考(粗雑な意識)がベースになっている我々の平凡な日常生活にも、大なり小なり、このもどかしさが日々纏わり付いています。
このようなのろまな言語思考(粗雑な意識)を身体の分析のツールにするべきかどうかを、仏教は先ず考えるのです。

「変化」を、「変化して止まない状態」で意識する「意識」が必要になってきます。
人間の意識は「変化して止まない身体」を意識することが出来ます。なぜなら「変化して止まない」という言葉で、経験の記憶を残しているからですが、しかし言語思考が直接それを行うとなると、もどかしさが付きまとうので、やはり言語思考以外の「意識」が意識したのだ。となる。そしてその意識により無意識に手をお腹の患部に当てるのだから、それは、「無意識」と同じポジションを与えられることになります。それら意識を総称して「繊細な意識」と呼ぶことにします。
さらに、分析を進めて行くと新たな意識が見つかるかも知れません。そうするとさっそく言語意識は、それにラベリングをして記録分類してくる。つまり科学研究の方法なのですが、しかしここでは、お分かりのように、それが目的にはなりません。
ゴルフの上達本を書いても、皆んながゴルフ上級者になる訳ではないように、この方法では「すべての人が成仏しなければ、私は成仏しない」の菩薩の誓願が叶わなくなるからです。

気(プラーナ)を、背中を走る気道(督脈)から、頭頂の泥丸(チャクラ)まで送り、クンダリーを達成し、さらに気を練り上げて陽の身体に変化させる。真我を得て解脱する。悟りを得て成仏する。などなど、ヨガ、タオ、仏教などの東洋の思想では、意識や呼吸法により「気」を動かせ高め、身体を究極に変容させるのを、目的としています。
この訓練には知識が必要ですが、しかし、このブログは、知識を提供する場ではありませんので、必要に応じて、Googleの検索で知識を探してみてください。
ここでお話ししているのは、全てが「変化して止まない」状態で(停止も変化の一部)、身体を感じ、考え、分析し、記録するにはどう対処したら良いかをお話ししているので、詳細マニュアルではありません。自分に相応しい方法が見つかれば、方法の知識は自然に向こうからやってきます。

こんな風にして身体を究極に変化させる目的は、成仏なのですが、成仏には、三密の他の口・意も「変化して止まない」状態で、究極のものに変化させなければなりません。今までお話しして来た方法、つまり言語思考にも納得してもらいながら共に進めるとなると、これは菩提心の方法になるのですが、まだまだ長い道のりになってきます。

道教やヨガの最終目的である不老不死は、「身・口・意」が究極を達成さえできれば、可能となるのではないか、と思いもするのですが、仏教では、最後になって、「身・口・意」も「変化して止まない」も「空」である。とお釈迦様が言われるので 、困ってしまうのです。「空」は、目的なのか手段なのか。

“因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)”
は、これまでお話ししてきた事ですが、次に、

“因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)”
と続くのです。

「変化して止まない」でいて「空」となると、のろまな言語思考「粗雑な意識」では対応できないことは、これまでのお話でよくお分かりと思いますが、では「繊細な意識」ではどうなのでしょうか。
そのために、次のお話で、口は、「変化して止まない」状態で どんな働きをするのか。を考える事にします。しかし、ここでもこの「空」が、ずっと頭の隅に残り続けます。
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野町和嘉『写真』とは(3)ー写真は散なりー

2018年01月30日 | 野町和嘉『写真』
先回、デジタルカメラの高画素化とカラープリンターの精密化で、写真の可能性が広がるのでは。とお話ししました。(「野町和嘉『写真』とは(2)ー未来の写真ー 」
それは、葛飾北斎が
『70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。
ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。
そして、100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。』
と言っています。
その最後の
『100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。』と言っているような、対象を写し取り絵に描くのではなく、紙やキャンバス上に、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創り出すことが、どうしたら写真でも可能になるのか。のお話しでした。

カメラとは、レンズに映るものは何でも写す自由意志を持ち、同時に、被写体の意思と無意識、さらに、撮影者の意思と無意識をも写してしまいます。
そして、野町和嘉の撮影方法とは、「重力感覚」のみを意思にして、後はレンズに映るものは何でも写すレンズの自由意志に任せる。と、お話ししました。
そして、この方法で「リアルな存在や物体」を創り出す方法に近づけるのでは。と、先回は、お話ししました。

今回は、それの続きです。

ファインダーを覗きシャッターを押す「写真」の瞬間と、筆に墨を含ませ紙に下ろし動かす「書」の瞬間が、多分ふたつとも息を止めていると思いますが、良く似ているので、次のことを考えてみました。

古代中国から伝統を受け継ぎ、日本独自の展開を続けている表現方法に、筆と墨を用いる「書」があります。その「書」の方法に、「書は散なり」があります。中国、後漢時代の書家・政治家の蔡邕(さいよう)の言葉です。
平安時代初期の三筆の一人、空海は、その言葉を引用し「書の極意は心鬱結する感情を万物に投入放散し、性情のおもむくままにして、そののちに文に書きあらわすべし」と言っています。蔡邕(さいよう)は後漢の人で、この言葉は道教の思想から発想されたものと思われます。
仏教の中国への伝来は、後漢と言われていて、経典も次々と到来し漢訳されるのですが、道教の影響で、仏教はインド流とは大きく変わってしまいます。しかし、東洋の思想同士、表現は違っても、ベースは通底していますので、お互いがお互いの思考でお互いの説明が凡そ可能と言う関係にあります。

では、「書は散なり」の「書の極意は心鬱結する感情を万物に投入放散し、性情のおもむくままにして、そののちに文に書きあらわすべし」についてです。

「心鬱結する感情を万物に投入放散し」とは、文章の中の、例えば「花」という「字」を書く場合、書き手は、文章のことわりで語られる花の様子を想像し、心に思い描き、それが花園の薔薇の花とすると、その薔薇に自分の感情意識を投入する。ということ。
これを仏教の瞑想修行に例えると、仏を観想することになりますが、仏像や仏画を参考に、仏の姿かたち、四肢の詳細、肌の色、顔、目鼻、目の血管に至るまでを、隈なく想像し、その全ての想像の中に自己を投入します。すると同化がはじまります。空海の場合は、真言を唱え、仏と自己の二つの三密(身・口・意)を加持すれば、仏が現前します。「万物に投入放散」とは、言うことの強弱はあれ、この仏教の瞑想の方法とあまり違いはありません。
そして、「投入放散」した後はどうするか、「書は散なり」では「性情のおもむくままにして、そののちに文に書きあらわすべし」と言っています。
仏教では、「投入放散」した後、空海の場合、三密を加持した後は、現前した仏と己が応じ合い、菩提心(即身成仏)が生ずるとします。
菩提心や即身成仏については、ここでは書ききれませんので説明しませんが、
(当ブログ「成仏の方法」をお読みください。)

写真で考えると、
「心鬱結する感情」とは、先ず、薔薇園に咲き誇る薔薇の花の美しさに心引かれたか、あるいはカメラマンの仕事で、あの薔薇を撮れと言われたか、何れにしても、 撮らなければならない事態に、今、心と感情が染められています。そして次のシャッターを押すタイミングでは、この時と場所は、二つと同じものはありません。野外で薔薇の花を撮る場合、太陽光の明るさ方向、風の強弱、そして自分の心と意思も、二度と同じものはやっては来ません。撮られる薔薇の花サイドの事情も同じです。この二度とはない出会いの薔薇に「心を感情にのせ投入放散」することになります。
心や感情が多いと、シャッターは押せますが、投入どころか感情が邪魔をして薔薇の中に心を放散することができなくなってしまいます。「書」でも事情は同じで、筆が進まないことがあります。
写真の場合、レンズの自由意志がありますので、撮影者の意思は極力少なくして、レンズの自由意志に任せると、邪魔者が消え、薔薇だけがファインダーの中に映るようになり、薔薇の中に自己を放散することが可能になります。そしてその後、シャッターを押す意思を発動させれば、レンズから画像が撮像素子に入ってくる。つまり、自分と薔薇が応じ合い、瞑想の場合には、仏と応じ合い、自分の中に仏が入ってくるような意識をもてば「写真は散なり」が実現することになります。

こんな具合に、理想的に、上手にシャッターが押せるなど、あることなのでしょうか。
でも、こうして生まれた写真は、どんなものになるのでしょうか。
真に「写真は散なり」で生まれた写真とは、どんなものなのでしょうか。
写真でも、葛飾北斎が言った。「一つの命を得たかのように生きたもの(リアルな存在や物体)」を創り出すことが出来るのでしょうか?。

「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)とは何か。
それは、見る人の、意識認識の好奇心が続けば、永遠に情報が尽きない「複雑構造」を持つことを言います。仏教でも、仏は、永遠に情報が尽きない「複雑構造」を持ちます。

道端に転がる小石でも、手に取り仔細に眺めると、表面の複雑な表情の中に、目を移して行くと次々と新しい要素が発見できます。飽きがきて中断するか、これは「道端の小石」であると言語思考がラベリングし、認識を中断するまで、欲すれば永遠に眺め続けることができる「複雑構造」を持ちます。
そうすると、私の好奇心が続きさえすれば、周りの目にするもの、自分を含め、今、部屋にあるもの、外の環境、大きく宇宙全体にある全てのものが、あるがままに「リアルな存在や物体」である事になってしまうのですが…。
それはそうなのですが、日頃はそうとは感じず思いもせず、方々に目を移し過ごしていて、ふと、芸術作品に触れた時や、見上げて美しい月に出会った時などに、思わずそれらに「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を感じてしまうのです。
ですから、「リアルな存在や物体」が描かれている絵画や写真には、ハッと気づかせる魅力や情報を塗り込めておかねばなりません。
作者は「リアルな存在や物体」を創るのだ。と、強い意思で制作しなければなりません。そうすれば、絵画や写真の機能は、作成者の意思を作品に塗り込めてくれるのです。

こんな風に、多くの画家は、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を描こうとしました。詳しくは先回をご覧ください。(「野町和嘉『写真』とは(2)ー未来の写真ー 」

空海は「書は散なり」を実行しました。空海の有名な書、「風信帖」の最初の文字は「風」です。最澄からの書状に宛てた返書がこの風信帖ですが、
その書き出しは、
「風信雲書、自天翔臨 」(風信雲書、天より翔臨す。)
風とともに湧き出る雲のような書状が、天から舞い降りてやって来ました。
になります。
飛天が空から舞い降りて来た風情であろうか、待ちわびていた最澄からの書状の到来を、あたかも、ハリウッド映画のタイトルシーンのように劇的に表現しています。

「書を散ずる」の「心鬱結する感情を万物に投入放散し」からこれを見ると、
「風信雲書、自天翔臨 」のこの書き出しは、最澄のことを思い浮かべ文脈を思案する中から生まれたフレーズで、これは空海の「心鬱結する感情」から発しています。最初の「風」の字は、「万物に投入放散し」の万物に当たりますが、空海は、どんな「風」を想像したのでしょうか。
飛天がひらひら舞い降りてくる羽衣の「風」か、自らが進む先の運命を「吹く風」になぞらえたか、あるいは、ふと頬に当たってきた、今吹く「風」なのか、書体を王羲之風にするというのは、ハリウッドスタジオの中で舞う大型扇風機が作る典型的な「風」のようなものなのだろうか。その「吹く風」に「心鬱結する感情を投入放散し」、空海は、最初の文字「風」をしたためました。

受け取った最澄は何を感じたでしょうか。現代の我々は、この「風」に何を感じるでしょうか。一口で表せる特徴ではありません。人により様々な感じがあり複雑です。なんだかよくわからない。もその一つですが、じっと見つめていると、臨書までしなくても「風」を真似て頭の中で書いてみたりするなど、心に入り込んで来る。そこから思いがいろいろ湧いて来るとすると、複雑さがある事になり、この「風」の文字は、「リアルな存在や物体」に近づいて行きます。
書状を交わした時の、空海と最澄の関係、決別に至る経過、その後の空海の旺盛な活動など、今、我々は多くの歴史を知らされています。しかし、その知識を知れば知る程、「風信雲書、自天翔臨 」の初見のフレッシュは失われ、空海から心が離れて行くのを感じます。それは、目前の手を伸ばせば触れられる「リアルな存在や物体」からも離れて行くことになっています。

「風信雲書、自天翔臨 」を書き出しとする空海の風信帖には、スピードがあります。全ての仏教の経典や論書そして書状での特徴は、スピードです。遅い言語思考による理解は許さない、常に頓悟(直感)しか許さないとする厳しいスピード感覚です。
被写体を捉え、逃げない前に、素早いシャターを押す、野町和嘉のドキュメンタリー写真の方法に、似ていると思いませんか。シャターを押すとは、後はレンズの自由意志に任すことになるのですが、この自由意志に任すとは、これは「書は散なり」が「性情のおもむくままにして、そののちに文に書きあらわすべし」と言うこととあまり違いはないように思います。

そう考えるとつまり、ここまで見て来たことから、「写真は散なり」の心を持ち、素早くシャッターを押せば、「リアルな存在や物体」を印画紙上に創れることになりますが、どうなのでしょうか。
これはまた、母親が、夢中で愛しい我が子にレンズを向け、レンズの自由意志を頼りにシャッターを押すことにも似ていますが、それなら、案外、簡単に出来ることなのかも知れません。


デジタルカメラの進歩は、5000万画素、1億画素を越え、写真は新しい次元を獲得しました。カラープリンターも同じく進歩し、この二つから生まれた反射画像(プリント)は、新しい時代を開く価値として、これからは考えなければなりません。
写真は、「写真」と名称されるように、被写体を写し取ることがその機能の全てであると考えられて来ました。絵画でも、風景画、人物画、抽象画など、自然や人物を被写体として写し取ったり、被写体や作者の心情をビジュアル表現で画面に表したり、言葉の物語を画面にビジュアル化したりなど、物事であれ心情であれ、自分のものであれ、他のものであれ、作者がそれらを写し取り画面に表現することと考えられて来ました。そして、写真も類似の活動と考えられて来ました。

しかし絵画には、葛飾北斎が言ったように、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創ろうとする選ばれた画家がいました。
写真でも、これが可能になるのではないか。5000万画素以上のデジタルカメラと大型デジタルプリンターによる大画面で実現できるのではないか。大画面にすると複雑性が増し効果がはっきり分かります。近年の野町和嘉の大画面プリントによる写真をご覧ください。そこには確実に「リアルな存在や物体」があります。可能性が見えています。

今日のモダンアート、コンテンポラリーアート、そして写真も含め、その活動は、言語思考に支えられ、せいぜいがその拡張の領域で止まっています。それは「言葉での理解が、理解の全てになっている」現代の風潮に合わせられているからなのですが、全てが言葉の理解で理解されなければならない。言葉の理解で魅力的なものが良いアートである。つまり流通価値が高くなりやすいことになっているからです。
近年のSNS、Instagramインスタグラムにupされる写真の方が、現在のどんな写真やアートと比べても、何とビビットなことか。
ここでは、マスメディアの価値観ではなく、母親が愛しい我が子を撮らえた写真が、評価のベースだからですが、若い彼女や彼達は、デジタルカメラとプリンターの進化の価値にも、いち早く気付き、軽々と使いこなすに違いないと思えてきます。

葛飾北斎は、88歳で没しているので、『100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。』と言った願望は実行が叶いませんでした。
現在のアート界、絵画界で、北斎の意思を継げる者は見当たりません。
しかし、Instagramの彼女等が、さらに画像技術と環境が進めば、その後を継ぐ者になるかも知れません。



(オマケ)
「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)について、もっと知っていただくために。…

「癒される」感覚とは、
例えば、動物園の動くパンダの愛くるしさ、これも「リアルな存在や物体」なのですが、これに触発され、自分自身も「リアルな存在や物体」であると気づかされることで、癒しがやってきます。代用でぬいぐるみのパンダを抱きしめる行為は、自分が「リアルな存在や物体」であることを身体で確認をしていることになります。
そして、パンダ以上の癒しの存在は何よりも母親です。久しぶりに会うと、お互いが「リアルな存在や物体」であることを、自然に意識させられ、癒され、さらに深化して、お互いがお互いの肉体の一部を交換してもかまわないと思う程に、物質として共通の認識を持っていて安心と感じてしまいます。癒しを超えた、甘美な存在様式が共有されます。そして母親にとって子供は、子供が感じる以上に甘美でありましょう。


(オマケ2)
シンギュラリティ(技術的特異点)。

2045年、AIが人類の知性を上回り、我々の頭脳能力の限界を超え、シンギュラリティへと到達すると言われています。これは、コンピュータの処理能力(CPUの性能)が人の知能指数を上回るのが2045年と言い換えても良いと思いますが、さらに進めば、頭脳に電極を埋め込み、コンピュータに接続(Brain-machine Interface : BMI)。イン&アウトプット、クラウド、AIなどと連動し、我々は生物の限界を超えることになる。と未来学者が予見をしています。

コンピュータは、先ずは言語思考の拡張として発展し、その拡張も、AIのレベルまで進化し、今、シンギュラリティを予見できる所にまで来ました。
言語思考は、意識により発生し、知性と呼ばれていてます。その知性の分析ツールは科学になりますが、その科学により、元の意識そのものをも、知性(言語思考で)は分析しています。しかし、言語思考の能力(科学)では、存在の確認はできるがどうしても分析不能なものがあり、それを無意識や直感の名称で分類をし、知性の活動から極力排除して来ました。排除というよりその振る舞いが理解不能なので、触らずに無視してきただけなのですが、知性(言語思考)の相似進化型となるAIも例外ではなく、AIが頭脳能力の限界を超えると言っても、言語思考の能力基準である知能指数の最高を超えるといった程度で、頭脳能力の中の無意識や直感を超えるわけではない。そもそも無意識や直感に、科学は指数を設定できていないので、超えるも何もない。

そして「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)とは、そこにあるがままにある。そのような状態のもので、先ず、直感と無意識で、さらには、脳内に隠れている未知の能力で、最後に、知性(言語思考)で、それら全てで、感得理解する類のものなのです。
AIがさらに進化し、SF世界になったとして、その時、AIにとっての「リアルな存在や物体」とは何になるのか。ぜひ見てみたいものです。
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成仏の方法(8)

2017年02月12日 | 成仏について
今回は、「繊細な意識」を、更に深く広くしていくとどうなるのかの続きです。
ここまで来ると、言葉での説明がますます難しくなってきます。「繊細な意識」を「粗雑な意識」の言葉で翻訳し説明するので、それは呪文のようになり、音に響くばかりで意味が伝わらなくなってきます。

先回までは、成仏のために「身」は「空」である。と知る(変化させる)事でした。タオで言えば小周天、密教では、 究竟次第コースです。そして次は、自己を離れ、自己が全体に融合することを学ぶ大周天、生起次第コースになります。

頭頂の穴から「繊細な意識」の自己意識が外に出て、全体(外部)と交わる体験をします。

本来、「一即多、多即一、相即相入」の「対称性」状態である「繊細な意識」では、全体と部分との区別はないのですが、言葉の説明が「自己」と「外部(全体)」の二項分類(対立)を持ち出し、存在が発生するので、つまり「粗雑な意識」が支配する現実世界の言葉思考ルールになるので、「自己が外に出て全体と交わる」と表現することになります。

全体に交わるとは、自己が溶けて無くなる事なのですが、自己認識が無くなると同時に全体も無くなるので、そうすれば言葉も無くなり、煙のように、確かに在るのだが、何とも説明できない、或いはしないことになるのです。

このまま言葉で言語思考で続けていると、理解不能になるので、つまりが思考の道具が間違いなので、ますます表現が難解になって来ます。

「粗雑な意識」は、言語思考としての「現実意識」であり、「繊細な意識」は、「無意識」に近い。と言えます。現実では「粗雑な意識」と「繊細な意識」は、常にバイロジカルで働いていて、それは現実意識と無意識がペアで働いているのと同じです。

この状態で「繊細な意識」を十分に働かせなければなりません。

では「繊細な意識」とは、どんな実感なのでしょうか。
小津安二郎監督の映画でそれを実感することができます。小津作品は、そのストーリーが秀逸ですが、さらに独特の撮影技術も世界のクリエーターから尊敬を集めていて、多くの模倣がされています。でも 小津の意図を理解しての作品は少ないように思います。

映画「晩春」で、小津調は 完成したと言われます。
その技法の一つが、画面のつなぎに、静止画風のインサート画面を入れる方法です。そのインサートは、普通、次のストーリーへのサポートなのですが、小津の場合、例えば鰻屋の看板を大写しにしてインサートすれば、そのカタチや書体のデザインから、鰻屋が老舗か庶民的かなどの様子が伝わるので、店の説明を省くことができて、いきなり鰻重のお重を前に置く主人公の顔アップから次の画面が始められます。。この場合のインサートは、ストリーを追う意識の邪魔にはならず、言語思考で書かれた脚本を積極的にサポートする技法になります。
しかし、小津監督はもう一つの方法、ストーリーの順調な流れを敢えて止めるような、関係のない静止画を突然にインサートするのです。
例えば映画「秋日和」の終わり頃、原節子と司葉子の母娘が、娘の結婚が決まり思い出の旅行に伊香保温泉に出かける場面です。
伊香保温泉の茶屋で二人の会話の場面の前に、窓枠に映るもっこりした山の姿が静止画風にさりげなく短くインサートされます。二人テーブルで向かい合い、茹で小豆食べながら、原節子が「この茹で小豆こと一生忘れないわ」という台詞があり、顔が窓に向かってゆくと、同じ山の姿の静止画が、少し長くインサートされるのです。ストーリーとは関係ない画面がまた大写しで現れドキッとしますが、木々が山全体を覆い、山のカタチや木々のディテールを思わず追いかけ見ようとする意識が出て来ます。遠くから遊園地の賑わいが聞こえています。映画の流れを止めて、山のディテールをずっと眺めていたいのですが、場面は元の流れのストリーに戻り、二人の会話が続き、やむなく意識もそのストーリーを追うことに変化してしまいます。

この流れの中で、二つの意識を観客は覚えさせられます。
映画のストーリーを追い、横に流れる意識と、その流れを止め、山のディテールを追い、奥行きに向かうおうとする意識です。
ストーリーを追い、横に流れる意識は、我々が生活する中での現実意識と違いはありません。
意識の主人公は、言語意識と言語思考です。だから言葉のルールで書かれた脚本でビジュアル化された映画に共感できることになるのですが、一方、奥行きに向かうおうとする意識は、もし、映画の場面やストーリーが次に(横に)進まなければ、そのまま、山のディテールを好奇心が続くかぎりは見続けていたい、あるいは、見続けていられる意識です。
映画ではなくこれが現実生活となると、別段用事がない限り、山の姿やデイテールを、詳しく見続けられるのですが、興味が失せると、"ああ、これは山だ。"と意識が抽象化され、言語化され、存在化されて、映画の場面転換と同じく持続が中断され、無意識が現実意識に戻されてしまうのです。

このストーリーを追う現実意識を「粗雑な意識」と言い、無意識に見続けていたい意識、或いは見続けていられる意識を「繊細な意識」と言います。

例えば、言葉で「永遠無限」は、言葉は指差す指ですから、言葉の先には実態としての「永遠無限」がある筈なのですが、言語意識は、それを言葉で表せても実感することはできません。しかし「繊細な意識」では、永遠無限に見つめ続けることが可能なので、永遠に実行すれば「永遠無限」を実感できる事になります。つまりこの可能性の実感を抽象化し言語化したのが、「永遠無限」の言葉の内容なのであり、「粗雑な意識」から見た「繊細な意識」の存在感なのです。

「永遠無限全知全能なるもの」が「仏」ですから、「成仏」を実感するには「繊細な意識」を働かせなければなりません。

そして、「成仏の方法(3)」でお話しした、"何も考えず静かに外を眺めている瞑想のような時。突然の音に驚き、はっと顔を上げるその一瞬の意識の空白。" の一瞬の意識の空白が「繊細な意識」の最初の発動になります。


現実生活では、「粗雑な意識」は、現実意識として常に表に現れ意識全体を支配しようとします。一方「繊細な意識」は、裏に隠れ支配抑制され不意に現れたりする、無意識のような振舞いをします。その無意識(繊細な意識)を表に露わにし育てコントロールするのが、成仏への方法の一つになります。

「繊細な意識」とは何か。を確実に実感する方法の一つが、密教や禅宗などの厳しい修行になります。「繊細な意識」を際立たせるために、「粗雑な意識(現実意識)」を疲労の極限にまで追い込み機能不全にする方法をとります。僧堂での修行や野山での千日回峰行などは修行が進むと、「粗雑な意識」が弱まり、やがて無意識(繊細な意識)が現実意識をコントロールするようになります。「粗雑な意識」が弱まると社会意識が希薄になります。隠遁や出家など社会生活から隔離されていると安全ですが、このまま、現実生活に交わることは危険です。

この状態で表に現れるてくる「繊細な意識」の振る舞いやルールをよく知らなければなりません。修行の要点は、確かな実感を得るためには「粗雑な意識」が弱まっている間に、「繊細な意識」の性能を上げる修行をします。肉体と精神を修行で極限まで追い詰めると、その負荷に対応して肉体、感覚、意識の耐性と耐用量が増えます。他に、セックスで快楽を極限にまで高める経験は、感覚の感度と感度量が増し、密教の秘密集会タントラにある汚物にまみれ死体とともに墓場で修行する。などは感性の耐性が増します、トレーニングで筋肉が強く柔軟になり強靱になるのと原理は同じです。修行で「繊細な意識」がダイレクトに受け取る感覚強度が高くなると「繊細な意識」も強くなり確実な実感も生まれてきます。
この修行で、幻覚を見たり超能力が使えたと思ったりしますが、筋肉トレーニングで強くなるのと同じで、少し重いものを持ち上げられたからといって、簡単に筋肉男ハルクにまでなれる訳ではありません。

この「繊細な意識」の強化を突き詰めて行くと、途中で勝手な妄想が生まれても、結局は、全てが「空」であることがわかってきます。そのため修行の目的を「空を知る事」にしておかなければなりません。目標が「空」であるとは、「空」を予め知っていななければ到達できませんから、修行の最初に悟っていなければなりません。
「空」とは、因縁生起が原理です。物事全ては、縁起のルールで動いている、だから実体が無い。これが釈迦の悟りであり、これを「空」と言います。

「繊細な意識」の意識原理には、龍樹の「空」、華厳の「一即多、多即一・相即相入」、空海の「重重帝網」などがあります。これは「繊細な意識」が永遠無限全知全能を実感し理解ができて生まれてきた原理なので、現実生活を司る言語思考の「粗雑な意識」では、さっぱり理解ができません。更に現代では、繊細な意識どころか無意識すら、現実意識の裏に隠れた脇役と見なされ「無意識に手が出たので無罪」などの扱いで、科学的研究も十分に尽くされてはいません。

常に差し迫っている問題。死んだらどうなるのか?。では、現実意識は無くなってしまう。このことには予想がつきますが、無意識や繊細な意識はどうなのでしょうか。チベットの死者の書では、バルト(死んで来世に生き返る)の間は、それが唯一の意識になり、生き続けることになっていますが…。

そして、これからの時代は、AIやシンギュラリティへと進んで行きます。しかし、この二つの意識の間の非対称性をこのままにしておくと、発展への障害になる予感が浮かんできます。

この「成仏の方法」ブログでは、これまで「粗雑な意識(言語思考)」サイドから、「繊細な意識」を分析してきました。一部の仏典や論書にもこの立場に立つものがあり、社会に受け入れられやすいようにと、言語思考ルールの言葉で、成仏のへのツールである「繊細な意識」のことを分析しています。読み続けると、西洋の哲学書に劣らぬ難解さで徒労感が増します。そして最終的には、釈迦のように、沈黙するか、空海のように、言葉では表せない。とか言う風になってしまいます。

この隘路を避けるため、もう一つの道、反対に「繊細な意識」から「粗雑な意識」を語ることにしたいと思います。そしてこの道を、仏教では「菩提心」と言います。

次回は、この「菩提心」について、おはなししたいとおもいます。
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野町和嘉『写真』とは(2) ー 未来の写真 ー

2016年09月02日 | 野町和嘉『写真』
前回の、「野町和嘉『写真』とは(1)ー写真論からのアプローチー 」で、
カメラは、レンズに映るものは何でも写す自由意志を持ち、同時に、被写体の意思と無意識、撮影者の意思と無意識をも写してしまう。とお話ししました。

また、野町の撮影法について
ある目的を持ってその地に向かいます。しかし、風景を撮影する場合、地球があって、大地から垂直に、人、動物、木、山、川、砂丘、建物、そして大気や空がある。そして自分自身も。そんな地球の重力と肉体との根源的なバランス感(重力感覚)のみを撮影の意思(無意識)にします。さらに目的もその無意識の領域に沈み込ませてしまい(旅人感を無くす)、その他はカメラの自由意志に任せるという方法です。
とお話ししました。
さらに
普通には、重力感覚の効果とは、まったく自然に見えると言うことだけなのですが、でも良い写真とは、「地球の重力の中心に向かい垂直であるという重力感覚」がはっきりと写っている写真です。それが欠けていれば、山や女性は、カタチが写っているだけで、美しいけれど、山には地表から盛り上がる屹立感が、女性には血肉が通っているようには見えないものになってしまうのです。
そこで、カメラマンは強くその「重力感覚」を意思して、写真に写し込まなければなりません。

とお話ししました。

一般に、絵画や写真の芸術とは、自然や人物を被写体として写し取ったり、被写体や作者の心情をビジュアル表現で画面に表したり、言葉の物語を画面にビジュアル化したりなど、物事であれ心情であれ、自分のものであれ、他のものであれ、作者がそれらを写し取り画面に表現することで制作されると理解されています。
特に写真とは、「写真」と名称されるように、被写体を写し取ることがその機能の全てであると考えられています。

しかし、絵画には、もう一つの究極の目的目標があるようなのです。

葛飾北斎が言っています。
『70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。
ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。
そして、100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。』

画家は、究極には、対象を写し取り描くのではなく、紙やキャンバス上に、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創り出したいと願う者のようなのです。

では、その「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)とは、何なのでしょうか。母親は、体内から赤子を産み「リアルな存在や物体」を創り出します。火山は、地球内から溶岩を噴き出し、岩石を創り出します。空は、空中から雲を創り出します。
つまり、その様な創造者になりたいと、画家は願うものなのでしょうか。

一方、絵画を鑑賞する側、つまり我々にとって、その創造物「リアルな存在や物体」とは、何なのでしょうか。
現前にある創造物「リアルな存在や物体」に、「赤子」「岩石」「雲」と言葉のラベルを貼り、抽象化し、言葉の記憶として認知保存する。やがてそれは「リアルな存在や物体」であった。と、鑑賞作業は終了し、それが、創造物「リアルな存在や物体」を感じ理解したということになるのでしょうか。
否、生まれ出た「赤子」は、愛くるしく愛おしく、見ているだけで次々に新しい驚きと歓びの情報を、我々の五感に送り続けてきます。無限に与えられる贈与の様に、いつまでも見ていたいと感じてしまいます。「岩石」「雲」も、その表面の複雑さや形の面白さ、動きの変化には、認識を止めない限り、いつまでも見飽きることが有りません。
「リアルな存在や物体」とは、単に「赤子」「岩石」「雲」と、言葉のラベルを張り、抽象の彼方に押しやりってしまうような、単純なものではありません。
我々には、言語思考を発動し、対象に言葉のラベルを貼る以前に、感覚と認識の、飽きることのない探索、探求、受動が動いています。この、我々の脳の好奇心を楽しませる、意識認識の先に 「リアルな存在や物体」は有る。と、北斎は、思ったのではないでしょうか。

絵を眺めるていると、次々に新しい情報や思いがけない情報が、その絵の方から贈与される様に流れ来て、飽きることがない。そんなリアルな絵を、100歳になったら、北斎は描くことが出来ると思ったのではないでしょうか。

松尾芭蕉の句に
「荒海や 佐渡に横たふ 天の川」
があります。
新潟の海岸に立ち佐渡を眺めると、必ず浮かんでくる俳句です。しかし、私は都会人ですから、天の川は、写真や動画では見たことはあっても、本物は見た事がありません。荒海も電車の車窓から見た事はあっても、海岸に立ち、強風と潮の香、激しい波の音、波飛沫を浴びての経験はありません。 だからこれが名句と言われても、よく分からないのです。本物の荒海や天の川、佐渡の夜空に架かる天の川をリアルに見た事がある人は、自分の頭脳にある言語記憶アーカイブの中から、その記憶を呼び出し、この名句を味わい尽くす事が出来るのかと思うと、残念でなりません。
確かに、自分の言語記憶(知識)や、他の人の言語記憶である知識をbookやネットの写真で探し出し、歴史を学び、奥の細道を読み、芭蕉の心情を推し測るなどして、言語思考を楽しむこともできます。しかし、芭蕉は果たしてこのような楽しみの提供を目指したのでしょうか。

松尾芭蕉には、申し訳ないのですが、これが言葉の、言語思考の限界なのです。しかし、松尾芭蕉は、この限界を理解していたのかも知れません。
「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」
枯野には、汲めど尽きない「リアルな存在や物体」 が溢れています。
果して、記憶ではなく、言葉によって、現前に手で触れられる「リアルな存在や物体」が立ち現われることがあるのでしょうか。

歴史上には、北斎のように「キャンバスにリアルな存在や物体を創り出そうとした」画家がいます。そしてその意思で描かれた絵画があります。

レオナルド・ダ・ビンチの「モナリザ」。雪舟の「冬景山水図」。ゴッホの「カラスのいる麦畑」。デュシャンのあの「泉」と題された「便器」。ポロックの「アクション・ペインティング」。などです。

「リアルな存在や物体」とは、記憶を手繰りして描く、脳内に展開される夢のように実体が無いものなどではなく、手で触れば触ることができ、見る人の好奇心に向け、情報が次々に止めどなく、そのものから、贈与されるように溢れでてきて、見飽きることがないリアルな物を言います。つまりその存在感は、分子や原子できている自然の物質から受ける感覚と違わないものになります。
そうだとすれば、それを創り出だす行為とは、錬金術であり、分子生物学であり、理化学であり、唯物論ということにもなります。

そしてまた、「リアルな存在や物体」を創り出す作業では、通常の技術や方法だけでは叶いません。そこには独自の技術や新技術が介在します。

先ず、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」です。
「モナリザ」では、顔は、肌に薄く何度も塗り重ねができる絵具によるスフマート技法で描かれます。
先回、絵画は、画家の描こうとする意思を、何時間も何日もあるいは何ヶ月、何年も持続させながら、筆で、絵具とその意思を掬い、キャンバスに塗り込める方法を取る。とお話ししましたが、スフマート技法は、その究極になります。
その前に、顔や人体とは、表面の薄い皮膚をひっぺがしてしまえば、どこの誰とも、動物とも見分けがつかない、フライジャル(壊れやすい)な感覚認識をベースにしています。レオナルド・ダ・ビンチは死体の解剖を行っていましたので、解剖の反対、肉塊を粘土細工のように精巧に人間のカタチに造り替える、つまり肉体の構造を、人体を描くために熟知していたであろうし、人間の、「朝に紅顔、夕に白骨」のフライジャルも十分に理解しただろうと思われます。

だいたい、表面をひっぺがしたら、それが元は何かと分かるモノは、世の中には、ほとんどありません。絵具のカドミウム・イエローは、顔料であり、硫化カドミウム(CdS)というカドミウムと硫黄の化合物であり、黄色の結晶構造をしています。カドミウムと硫黄の結合をひっぺがすと、色が消え、絵具とは認識できなくなります。さらに、そこから先は物理学の分野で、分子→原子→原子核、電子→陽子、中性子→クオーク→超ひも。と細かくなって行きます。
また、顔の皮膚の場合、細かく見ると、毛穴や皺がある上皮組織が見え、上皮組織をさらに細かく見ると体細胞があります。細胞は、細胞膜、染色体、リボソーム、細胞質(原形質)で構成されていて、この細胞を眺めても、これが皮膚であるとは判断できません。そしてさらに、細胞を細かく見て行くと、絵具のカドミウム・イエローと同じ、分子→原子→の構造形態と同一になって行きます。
このように「リアルな存在や物体」とは、意識認識の好奇心が続けば、永遠に情報が尽きない「複雑構造」を持つことを言います。

しかし、人の認識意識が認識した「複雑構造」を抽象化し、言葉により「人体構造」とラベリングして、脳の言語記憶装置に収納してしまうと、そこで認識意識の好奇心は中断させられてしまいます。さらに複雑さを追求したい好奇心は僅かに残るのですが、ここまででも認識意識は十分に納得して(騙されて)、それは「リアルな存在や物体」であると普通は思ってしまいます。
一般に画家は、そこで筆を止めるのですが、もし、鑑賞者の一人でもが、それを「複雑構造」ではないと感じれば「リアルな存在や物体」ではなく、単なる写しとしか認識しないことになるので、「キャンバスにリアルな存在や物体を創り出そうとした」レオナルド・ダ・ビンチは、スフマーフ技法で、自分を含め万人が「リアルな存在や物体」と感じて納得するレベルまで、複雑さを描き尽くすため、終生モナリザを手元に置き、筆を入れ続けていたのです。

そのモナリザの顔の複雑構造は、絵画にはどんな効果をもたらすのでしょうか。対極にあるのは、写楽や歌麿が描いた、大首絵の浮世絵です。浮世絵の美人画の顔は、一筆のシンプルな「輪郭線」で描かれています。
「モナ・リザ」を鑑賞する場合、先ず彼女の表情に惹かれます。さらに、皮膚の柔らかさ、きめ細かさなど、顔の肌合いがどうなっているのだろうかと、現実の生きた女性、つまり「リアルな存在や物体」を目の前にしている鑑賞を我々はしてしまいます。つまり「モナ・リザ」の鑑賞とは、恋人や新妻の顔、むしろ電車にたまたま乗り合わせた見知らぬ美人を、まじまじと見つめることと、あまり違いはありません。

一方、歌麿の美人画は、「輪郭線」で描かれているだけで、肌合いのマチエールはありませんから、同じく、まじまじと見つめるにしても、「モナ・リザ」の鑑賞とは違ってきます。
それは、「輪郭線」で浮かぶ美人のイメージに触発され、それに似た「記憶の美人」を求めて、鑑賞者は、頭脳や心の中を「旅」するということになります。
江戸時代の「プロマイド」として町民の娯楽であった浮世絵から、時を越え現代人にも感動が生まれるとすれば、「記憶の美人」を求める「旅」が、昔人も現代人も人間であれば等しく共有できる「DNAの記憶」へと誘われ、普遍的な魅力を感じてしまう、そんな能力が、浮世絵にはあるということになります。

モナリザは、現実の物への好奇心、つまり即物的な複雑構造に、浮世絵は、脳や心の記憶の中に。そこには、抽象化により認識意識の好奇心を中断させる言葉の記憶もありますが、それよりも、無意識、潜在意識、映像感覚、身体感覚が深く覚えている記憶の複雑構造に、見る人を誘います。

次は雪舟です。雪舟は、水墨画ですから、線描の表現になります。
モナリザの分析から見て、「リアルな存在や物体」とは、現実に目の前にある物、モナリザのような「即物的な複雑構造」であると思われます。では、雪舟は、線描で、どんな方法で「リアルな存在や物体」を描がこう=創ろうとしたのでしょうか。
雪舟の複雑構造の描き方について、例えば岩や岩壁の描き方は、岩肌の複雑さ、岩の重なりの複雑さ、陰影の複雑さなどの複雑な表情こそ、岩の存在感であると捉えて、これでもかと幾重にも折り重なる岩と岩肌を、墨と筆で執拗に線描で描き尽くす方法を取ります。
でもこの墨と筆による線描では、複雑さに限界があります。単なる写しとしか認識されない恐れがあります。そこでさらに画面を塗りつぶしてしまうほど線描を重ねて描いた結果、浮かび上がって来たのは、欲っしていた岩の「リアルな存在や物体」感ではなく、「墨」の黒々とした「物質」としての「リアルな存在や物体」感でした。そしてその体験から生まれ出たのが、次の有名な冬景山水図の真ん中に描かれた一本の墨の縦の折れ線でした。この線は岩肌の割れ目を描いたものと説明されますが、黒々とした墨の線の物質的存在感の方が際立っていて、周りの写しで描かれた風景との対比で、墨を「リアルな存在や物体」と感じてしまうのは、雪舟の技術的終着点なのではないでしょうか。

「リアルな存在や物体」を描く=創るろうとする意思。その努力の結果が、それを描く道具である墨の物質感=「リアルな存在や物体」であったとは。

絵画とは、描かれる人や物や自然、そして画家個人。それらが抱える物語や意思や心情を、モチーフとして汲み取り、画家は、人物や物、自然の姿に投影させて写し取り描く。つまり様々な心情や意思や物語が、絵具や筆でキャンバスに写し取られ絵になっていて、額縁に入れ、その出来栄えを楽しむのが一般に絵画と言われています。この機能は写真でも同じで、写真も絵画と同じ鑑賞がされています。

ですから、雪舟の冬景山水画の、あの中央に描かれた一本の縦の折れ線は、岩肌の割れ目だとか、雪舟の晩年の境地の象徴だとか、鑑賞者は、そこに塗り込められた心情や意思を類推しようとします。しかし、そこにはそんな心情や意思などはありません。「リアルな存在や物体」を描く=創ろうとする意思。があるのでは、と貴方は言うかもしれません。でもそう思ってしまったら、「リアルな存在や物体」はたちまちに消えてしまい。鑑賞者は、真の雪舟には会えなくなってしまいます。

次は、ゴッホの遺作「カラスのいる麦畑」です。
ゴッホの描画法は基本的には線描です。印象派の色と光の分析である …自然の中の色や光線には、様々な色が混じり単色を構成している。画面に多色を散りばめれば、その配合が、人間の視覚網膜で混色されて、人は自然な単色を感じる。(視覚混合)… の法則により、ゴッホは、多色の線描でその効果を表現しています。この意味では印象派の画家ですが、ゴッホは、ゴーギャンと別れ、耳を切り落とした頃には、この技法で対象を写し取り描くという目的の絵画は、完成を迎えていたと思います。
画家が、絵を「写し絵が描く」から「リアルな存在や物体を創り出そう」と考え、その意思を始めるのは何故なのか?。興味のあるところですが、ゴッホの場合、この頃に「リアルな存在や物体」を描く=創り出したい。その思いに目覚めたものと思われます。
さらに、この頃から死を迎えるまで、濃青の空の絵が多くなります。線描が太く逞しく描かれ、印象派風の色の混合技法はほとんど見られなくなります。画面は、空の濃青と地上の黄色の景色の二色の対比で極端に描かれることになり、丹念に複雑に自然を写し取り描こうとする気が全くないことがわかります。
そして雪舟が、黒々とした墨の物質としての「リアルな存在や物体」に惹かれていったように、筆で絵具を逞しく掬い取り、画面に線を引いて行く、その盛り上がった絵具の艶やかさ柔らかさが、「リアルな存在や物体」感を輝かせていることに、ゴッホは魅了されていったのです。
遺作と言われる「カラスのいる麦畑」の黒色のカラスの描画。これは、自分の心情を、寂しいカラスに擬え描いたのではなく、艶やかな物質としての黒色絵具の「リアルな存在や物体」を、カラスに似せて見せたかっただけような気がします。
さらに、この絵の寂寥感を、これは「極度の悲しみと孤独」で描いた。と、ゴッホが言ったとか言われていますが、このような文学的想像力は、天才画家にとって、絵を描く時には、一番遠くにある無縁のもののように思います。

次のデュシャンは、アイロニーのアーチストです。
絵画には、画家と対象の人や物などの心情や意思や物語が、絵具や筆で掬い取られキャンバスに写し取られていて、その出来栄えを楽しむのが絵画と言われます。一般に公開される絵画展では、鑑賞者は、絵画に塗り込められた、その心情や意思を、ビジュアルを通して、あれやこれや推量し楽しむということになります。しかし、このように、画家と描かれる対象との交合、さらには鑑賞者自身の心情や意思もそこに加えて楽しむなど。人に見られて食事をしているような恥ずかしい事が、高尚な芸術であるとは到底思えません。そしてそこには、流通価値として値段がつけられ、メディアの喧伝により社会的価値までもがつけられるとは…。
このような有様に、デュシャンは「泉」と題して、展覧会に出品される絵画に交じり、いわゆる本物の便器というアイロニーを出品しました。単なるアイロニーのみを意図したのであれば、蝋細工か3Dプリンター製の本物そっくりの便器の方が、今日的には、さらにアイロニーの効果が増したのではと思います。
しかし、デュシャンは、もっと別の事も意図していたのだと思います。デュシャンは、画家で出発したのですが、途中で画家を放棄し、このアイロニーのアーチストに変身しました。
デュシャンの絵画は、キュービズムの技法で、人の歩みの連続を描く、つまり時間を圧縮して写し取った絵などがありますが、しかし、自然をどれだけ上手く写し取っても、本物にはならない、つまり「リアルな存在や物体」を創ることにはならないと気づいたのだと思います。そこから思考が始まります。便器という、単なる既製品の道具であり、作者や対象物や鑑賞者の心情や意思を後から写し込む余地などありようがない既製品であり、しかしそれは、確実に「リアルな存在や物体」であり、もし便器に心情や意思があるとすれば、それは常に水が満たされている「泉」であろう。と名付け、作品として展覧会に出品することを考えたのです。
我々鑑賞者は、展示された「泉」と名付けられた便器を眺めるとき、先ず嫌悪や疑問と共に、便器に「リアルな存在や物体」を感じ、同時に自身や肉体が、同じく「リアルな存在や物体」であると気づかされ、ギョッとしてしまうのです。そしてそれから漸くそのデュシャンのアイロニーに気付くのです。

「リアルな存在や物体」とは、「複雑構造」であると言いましたが、それも底なしの「複雑構造」です。
道端に転がる小石でも、手に取り仔細に眺めると、表面の複雑な表情の中に、目を移して行くと次々と新しい要素が発見できます。飽きがきて中断するか、これは「道端の小石」であると言語思考がラベリングし、認識を中断するまで、欲すれば永遠に眺め続けることができる「複雑構造」なのです。
絵画では、「複雑構造」である自然を上手に絵に写し取ったと思っても、永遠に眺め続けられる「複雑構造」は絵の上には創れないのです。天才と言われる画家達には、それが我慢ならなかったのだと思います。そこで、「リアルな存在や物体」を絵の中で創ってやろうとしたところ、その材料である絵具の「リアルな存在や物体」を目立たせる結果になるとは、デュシャンの便器を見て、自分や自分の肉体が「リアルな存在や物体」であると気づかされることと、少し似ています。

次は、ポロックです。
「リアルな存在や物体」を創るために、それを妨げる要素を、ポロックは除くことを考えました。
画家の心情や意思が筆で絵画に塗り込めるられることを避けるために、アクション・ペインティングという、床にひいたキャンバスに、刷毛やコテで空中から絵具を滴らせる方法をとりました。この方法で、画家の心情や意思のほとんどは、遮断することができました。しかし、すべての心情や意思を遮断してしまうと、自然の風雨に晒され、錆びて穴が空いたトタン板と変わらないことになるので、ただ自由落下に任せるのではなく、微妙に絵具の量とスピードと位置をコントロールしています。そうすれば「リアルな存在や物体」を創りたいポロックの強い意思のみが、画面に塗り込められることになるからです。後年、インスタレーションと称し、錆びたトタン板を展示会に並べるアートが登場しますが、ポロックとの違いがお分かり頂けるかと思います。
またこのポロックの方法には、風景や人物など、写し取る対象と心情や意思が初めからありません、絵具の物質の「リアルな存在や物体」だけが画面に俎上されることになります。デュシャンが絵画を描くことを止め、代わりに便器を「リアルな存在や物体」のために使ったことから進歩し、ポロックは、絵具のみで「リアルな存在や物体」を創ることに成功したのです。

ポロックのアクション・ペインティングの絵画を眺める時、アクション・ペインティングの名前から受ける躍動感や騒がしさとは反対の、静謐や奥床しさを感じます。親しい人と手を握り合った時の、安心感、安堵、平静を感じます。感じるというより、自分自身の「リアルな存在や物体」と、ポロックの絵の「リアルな存在や物体」が出会って生まれる、物質としてお互いが共同の認識を持っていて安心と思ってしまう存在様式です。

人によっては、セックで、男女が裸で最初に抱き合った時の、蕩けるような安堵感かもしれません。「リアルな存在や物体」とは、出会うと常にエロティックを感じさせる存在なのです。

癒しとは、自分自身が、単に自分も「リアルな存在や物体」だったと感じて安堵する瞬間ですが、「リアルな存在や物体」が他の「リアルな存在や物体」と出会う瞬間とは、垣根なく自分が広がっていて、外にある他の「リアルな存在や物体」と自分自身の「リアルな存在や物体」の一部を交換しても構わない、あるいは、同じ部品を共有しているのではないかと思う程に根源的な安堵感なのです。これを、エロチックな状態と言いますが、人々は日常的にこのことを確認し続けています。西洋人では、握手したり、キスで挨拶を交わしたり、ハグをしたりと直接的ですが、日本人でも、さりげなく、手と手を触れ合ったり、お辞儀をしたり、相手の瞳を覗き込んだりして、その交接を味わっています。

ポロック以降に「リアルな存在や物体」を描く=創ろうとする画家アーチストは今日まで出現してはいません。
これは「言葉での理解が、理解の全てになっている。」現代の風潮と深く関係しています。現代で「リアルな存在や物体」とは、言葉で書かれた【リアルな存在や物体】以上のものではなく、本物の「リアルな存在や物体」との出会いでエロチックなものを感じても、それを言葉に出来なければ(ラベリングされなければ)、それが理解であるとは認められないからです。言葉に出来なければ、流通媒体には載らず、価格が付けられることもなく、情報として社会に流通することもありません。例えば、今日の日本では、ビジュアルアートであっても、ライバルが小説家の村上春樹ということになってしまうのです。

最初の方で、…「リアルな存在や物体」を創り出す作業では、通常の技術や方法だけでは叶いません。そこには独自の技術や新技術が介在します。…とお話ししました。
レオナルドダビンチは、スフマート技法で、雪舟は、特別の筆と墨。ゴッホは、持ち運びが便利なチューブ絵具。デュシャンは既製品。そして、ポロックはアクション・ペインティングです。

野町和嘉の場合は、
Canonデジタルカメラ EOS 5Ds 約5060万画素 + 大型カラープリンターです。
デジタルカメラとデジタルプリンターの急速な発展で、大画面で高精密な画像の写真が登場することは予想されていました。解像度が高まり、さらに大画面になるので、細部が更に細かく再現され本物の繊細さに近づくと、原理としては分かっていたのですが、現実の画面で体験して、何が予想通りで、何が予想外なのか、興味がありました。

2016年1月17日から31日の期間 「Gallery916」(浜松町)で開催された、野町和嘉写真展「天空の渚」でその新技術の成果を体験する事ができました。
詳しくは→野町和嘉写真展「天空の渚」


一言で言うと、写真の新しい扉が開けた思いがしました。画像技術が一つ上に進んだことは勿論、撮影技術にも、芸術としての可能性にも、新しい何かがやって来ていました。後年、約100年の写真の歴史の後に起きた革命であったと、回想されることになるかもしれません。

では、この事について、お話ししたいと思います。

横約3m、縦約2.5m 絵画で言えばF500号サイズに近い大画面のカラー写真が、約35点も展示される写真展は、現像紙焼きの時代からは、技術的にも費用的にも時間的にも想像がつきません。
デジタルカメラの高画質化は、これからもさらに進み、次のステップに向かい進歩するのは確かなのですが、テレビの4K、8Kなどの透過光画像技術が進むと、反射光画像のデジタルカラープリンターは、モノクロ写真の運命を辿るかもしれません。
しかし、大画面で高画質化しているのに、カラー再現性が向上し反射光画像も進歩しています。これが進めばデジタルプリンターは、モノクロ写真と同じ運命を辿ることにはならないかも知れません。

前回の、「野町和嘉『写真』とは(1)ー写真論からのアプローチー 」で、
レンズは、映るものは何でも写す自由意志を持ち、同時に、被写体の意思と無意識、撮影者の意思と無意識をも写してしまう。とお話ししました。

また、野町和嘉の撮影法について
ある目的を持ってその地に向かいます。しかし、風景を撮影する場合、地球があって、大地から垂直に、人、動物、木、山、川、砂丘、建物、そして大気や空がある。そして自分自身も。そんな地球の重力と肉体との根源的なバランス感(重力感覚)のみを撮影の意思(無意識)にします。さらに目的もその無意識の領域に沈み込ませてしまい(旅人感を無くす)、その他はカメラの自由意志に任せるという方法です。
とお話ししました。(詳しくは、前回の「野町和嘉『写真』とは(1)ー写真論からのアプローチー 」をご覧ください。)

写し込む心情や意思を、地球の重力と肉体との根源的なバランス感(重力感覚)のみに止め、後はレンズの自由意志に任せ撮影する。この野町和嘉の撮影法は、上記のポロックで見た…画家の心情や意思が、筆で絵画に取り込まれることを避けるために、アクション・ペインティングの方法を使った。…と言う、先に見た、ポロックの方法と似ています。
ポロックのアクション・ペインティングでは、心情や意思のほとんどを遮断し、ただ「リアルな存在や物体」を創りたい強い意思のみを取り込ませるために、絵具をコントロールしながら、ほとんどは自由落下に任せました。野町和嘉は、「重力感覚」のみを意思にして、後はレンズに映るものは何でも写すレンズの自由意志に任せました。この方法で、「リアルな存在や物体」を創り出す方法に近づいたのです。

野町和嘉写真展「天空の渚」は、メキシコ、ボリビア、アルゼンチン、チリを巡る旅です。
サンタマリア・トナンツィントラ教会。雨期のウユニ塩湖、標高4000メートルの原野に林立する砂の柱。生きた氷河と呼ばれるアルゼンチンのベリト・モレノ氷河。などで撮影された写真には、今までの写真では見たことがない「リアルな存在や物体」の創造が体験できます。

一般に写真とは、その言葉の通りに対象を写し撮る芸術であり、そのビジュアルの他に、撮影者と被写体、その両方の心情や意思をも画面に写し撮ります。
例えば、祈る人を撮影する場合、レンズは、手を合わせ首を垂れる被写体の表情や姿勢のビジュアルを、さらに、激しく願い祈る被写体の心情や意思をも写し撮ります。そして、その真摯な様子に心動かされ、簡単なスナップでは済ますことができない、撮影者の心情や意思をも写し撮ってしまいます。
しかし魅力的なビジュアルであっても、祈りの心情や意思が強く写ってしまえば、例えば「激しく祈る人」と題され、その文学的要素で良い写真ということになってしまい、心情や情動以外の、目を喜ばせるビジュアルとしての中立的な魅力はあまり顧みられなくなってしまいます。

絵画で「リアルな存在や物体」を描く=創るということは、いつまでも見飽きることがなく、限りなく情報を発信する「複雑構造」を描くことです。、絵画上の、その「リアルな存在や物体」と鑑賞者が出会うと、自身も「リアルな存在や物体」であることを意識させられ、そこからお互い、物質として共同の認識を持っていて安心と感じてしまう、甘美な存在様式が生まれます。つまり手と手を握り合えるようなエロティックな関係が持てそうな感覚になります。これは普通には、控えめに、絵画を見て心動かされた。という表現になります。

このような絵画でも難しいことが、写真では出来るでしょうか。

野町和嘉写真展「天空の渚」の出展写真の中でも、サンタマリア・トナンツィントラ教会の天井装飾。標高4000メートルの原野に林立する砂の柱。 生きた氷河と呼ばれるアルゼンチンのベリト・モレノ氷河の氷山の写真などには、野町和嘉独特の撮影法が徹底され、画面には、野町の「重力感覚」の意思のみが取り込まれ、他は、レンズの自由意志が働き、いつまでも見飽きることがなく、限りなく情報を発信する「複雑構造」が「リアルな存在や物体」として表現されています。
横約3m、縦約2.5m の大画面のどの部分の10cm角を見ても、ピントが合っていて、粒子の粗れや解像度不足のボケなどは見えず、目で追っていけば、1mm単位の物質の表情も捕らえられる程に「複雑構造」が表現できています。

これからは、5060万画素のデジタルカメラと大型カラープリンターで大画面写真を作れば、誰でもこのような「複雑構造」が表現できることになるのですが、だが誰でも簡単に「リアルな存在や物体」 を撮れる=創れることにはなりません。絵画では、少数の天才画家しかしできなかったように、写真家にとっても同じです。しかし、絵具や筆の難しい扱いを学ぶこと比べ、そこへ出かけて行って、写真はただ一瞬のシャターで出来るのが魅力です。
そこで「リアルな存在や物体」を画面上に創れる魅力に目覚めたアーチストが、写真家より先にこの技術を使い始めるかも知れません。

写真は、複製芸術です。今は、アルバムの中に、机上の写真立てに、壁の飾りに、各種印刷物に、TVやネットや携帯の小さな画面の中に、透過光と反射光画像の両方で、時と場所を選ばず鑑賞できます。しかし、「リアルな存在や物体」を写真で鑑賞するには、大型デジタルプリンターの高解像度で出力された「複雑構造」が見える画面でなければなりません。そのためには、絵画鑑賞のように、写真展に出かけ実物を鑑賞しなければなりません。
家庭で見る4K、8Kの大型液晶モニターや有機LDモニターの技術では力不足のようです。次代のマイクロLEDディスプレイではどうでしょうか。同じ反射光画像である絵画の進歩の延長に、新写真が存在するが自然な感じなのですが、透過光画像では3DやVRも進歩するので、簡単に誰でも「リアルな存在や物体」を撮る=創ることが本当に可能になるかも知れません。

写真で「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を撮る=創る方法は、野町和嘉の撮影方法で輪郭は説明できたかと思うのですが、撮影の前に、撮影者の意思を心の中で創り、育て、強く確かなものにしなければなりません。野町和嘉の場合は「重力感覚」を無意識に強く意思できる才能があります。また、レンズの自由意志に任せて、それでも作画ができる撮影感もあります。
後は、「リアルな存在や物体」つまり「モノ」とは何か、どう捉えるかと言うことになります。
「言葉での理解が理解の全て」と考える。あるいはそう教育されている現代人には、「モノ」とは言葉のラベルを貼ることと同じですから 、「リアルな存在や物体」とラベリングしてしまえば、理解したことになって、真の理解への道が閉ざされてしまうでしょう。
それを避けるため、岡本太郎をはじめ「縄文の心に帰れ」と言ったりしますが、縄文時代の土偶や祭壇土器は、紛れもなく言葉に邪魔されず、人が創った「リアルな存在や物体」であることは確かです。
なぜ、写真という道具を使うのだろうか。日々、どんな思考ツールを使っているのだろうか、言葉での理解か、それとも無意識に心を動かす名無しの感覚や思考器官でか、同じ楽曲の同じ音符でも、サックスとピアノでは、演奏(思考結果)に違いが出るのは自明です。どんな思考ツールを使うのかが重要で、結果が違ってきます。高画質デジタルカメラのレンズの自由意志を選べる今日の写真家は、言葉での理解しか知らない現代人に、それこそ革命を起こすことになるかも知れません。
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成仏の方法(7)

2016年06月07日 | 成仏について
言語思考には思考ルールがあります。そのルールを外れて、考えたことを言葉で説明しようとすると、訳がわからなってくる。
第一義諦と世俗諦を説くナーガールジュナ(龍樹)や、存在と意識を説く唯識論を、読み進むと複雑怪奇でやがて徒労がやって来ることから、それは、わかっていた事なのですが、やはり、このブログも読み返してみると、書いた本人にも難解で鬱陶しいものになってしまいました。つまり、釈迦の沈黙が一番正しいと分かるのですが、それでも釈迦には口を開いて欲しいのです。でも、人間の理解ツールが言語にとどまっている限りは、釈迦は沈黙を続けなければならないようにも思います。
稲垣足穂が言うように、十字路交差点の電車道に九十度の方向から同時に二台の電車が来たとします。でも交差点で一瞬に、お互いをすり抜け、二台の電車は、架線ポールから青い火花を散らし、走り去って行った。という風には、言語思考では解決できないのです。有様を言葉は表現できているのにです。

綴る言葉の論理の辻褄が合わなくなっても良いというのであれば、先に進めるのですが、それは、言葉と言葉の間に、読者の勝手な、独創的な、又は、常識的な論理を挟み込むことを期待することになるのですが、それで私は論理を通す難解な筋立てを放棄できる事になるのです。

今回は、そんな難しいけれど実は、頭をめぐらしてしまえば単純なお話しをする事になると思います。

あれこれ言う前に、今回は、この方法をトライしてみようと思います。

成仏するためには、「身」も「口」も「意」も全て「空」でなければならない。
なかでも「身」の「空」が一番、難しそうだ。

「身」の「空」を実現するために、瞑想や修行と呼ばれるトレーニングが何千年もの間、数多く考案されて来ました。成就が難しい故か、手段が目的になってしまい、それから先には進めなくなってしまうものも多く存在しています。

密教やヨガ、タオには、肉体を「空」に導く修行が沢山あります。密教には、先に「身」の「空」を成就させ、それをテコに「意」と「口」を「空」に導く方法(密教の究竟次第)。先に「意」の「空」を成就させ、「身」の「空」の成就を容易にする方法(生起次第)があります。
そして成就した二つ(生起次第と究竟次第)を合体させると成仏への道が開きます。

自己の内なる三密と外なる仏(宇宙)の三密を、相応合体させ、成仏を得る「三密加持」も同じ方法です。
タオの、陰の気を排除し身体を真火で練り上げ純陽化し、真我を得て、不老不死になる方法もあります。

「身」と「意」と「口」の三密は、一つのものを三つの方向から眺めたものなので、三つは一緒。一つを語っていてもいつの間にか他を語っているようにと、相即相入で境がありません。ですから、言葉での説明も行ったり来たり、三つのものを同時に考えたりと、論理を破り、言葉のルールを逸脱し、言語思考を越え、さらに人間の認識能力からはみ出す理解を強いることになります。ですから「身」のことを語っていてもいつの間にか「意」を語っているという風になってしまいます。

密教、ヨガ、タオに共通するのは、身体を巡る「気」と「気」をコントロールする呼吸法です。
色と音と光が呼吸法を助けます。

エネルギーの流れと量を「身」の感覚センサーが感じ、「口」がその意識をフォーカスしコントロールします。

言葉が表す「気」は、エネルギーを指差す指先(言葉)であって、エネルギーそのものではありません。
これを量子論で言えば、「気」と言葉で表わされた時は、粒子であり、言語思考(粗雑な意識)で捉えられますが、身体を流れる「生な気」は、流体(波動)であり「繊細な意識」でしか捉える事ができません。そのため、「口」がエネルギーにフォーカスして「気」を動かすには「繊細な意識」を使います。しかし、「口」がエネルギーへのフォーカスを言語化し、存在の輪郭を露わにしてしまうと(気→粒子化)、ダイナミックな運動性が消え失せてしまい、コントロールが難しくなります。
前に、存在について、「意」は、本来、融通無碍で制限がなく、「意」の対称性が「口」により破られ、存在が意識に発生するとお話ししましたが。これと同じようにエネルギーは、つまり「気」は、本来、融通無碍で制限がなく、対称性にあると考えられます。

先ず自分にどんなエネルギーが有るのか、作り出せるのか、その量と強度を確かめなければなりません。

「意」の意思で「身」がエネルギーを生み、「口」が、エネルギーに意識をフォーカスし流れをコントロールします。

怒り、嫉み、恐れ、セックスは大きなエネルギーを発生させます。さらに、外部から、人、動物、植物、大地、山、川、風、雷、地球、太陽、月、星など、あらゆる自然現象からもエネルギーを取り入れる方法があります。

取り入れる前に必要な事は、自分の肉体がそれらのエネルギーを受け入れられる剛性耐性と容量があるかどうかの確認。そのキャパシティを高める努力と方法。そして、エネルギーコントロールの修得です。

怒り、嫉み、恐れ、セックスなど、体内で発生するエネルギーは、出来るだけ体外に漏らさぬ事が肝要です。怒り嫉み怖れのエネルギーは自己を痛める悪いエネルギーですから、体内で良いエネルギーに変化させる方法が必要になります。出来ればこのようなエネルギーは摂らない方が良く、憤怒尊や静寂尊への瞑想は、悪いエネルギーを浄化する方法の一つです。また、布教で善行を説くのは、この防止の為でもあります。

セックスのエネルギーは、想念次第で良いエネルギーにも悪いエネルギーにもなります。両性相和し快楽を高めそれぞれに発生するエネルギーを、お互いが協力して二つの肉体の間に循環させ外に漏らさないようにする事が肝要です。快楽を高めることと快楽に引かれ多くを漏らすことは別です。多くを漏らせば、健康を害します。
更に、快楽を極限まで高めることで自分の肉体のエネルギーの耐性と容量を知り、身体が覚えると、さらにその上の強度に臨むことができます。ここでは強力なエネルギーが得られるとともに、外部からのエネルギーを取り込む時、効率を高める要領が学べます。

エネルギーは、「身」を「空」にする為の原動力です。自分のエネルギーのことをよく知りコントロールする事が、一番重要です。セックスの方法は比較的安全ですが、トレーニングに、怒りや嫉み、恐れのエネルギーを使う事は危険です。

エネルギーは常に社会との関係を生じさせます。怒りは犯罪や戦争を生み、嫉みはイジメや復讐を生み、悲しみは自傷を生み、セックスは家族関係と倫理を生み、それぞれが連なって社会の因習、習慣、規範、法律を生んでいきます。

仏教の成仏は、エネルギーを扱います。扱いを間違うことがあります。ほとんどの場合間違います。そこで宗教の戒律は、そこから生まれる障害を防止する役割を担っています。

「気」とは、常に動いて止まないエネルギーに意識をフォーカスさせる「口」の働きのメタファーです。「気」とは、エネルギーそのものであると同時に、流れや強度をコントロールするものでもあります。

前述の言語思考をベースにする「粗い意識」と、対称性をベースにする「繊細な意識」の連動連結がクリアな修行の進行を生みます。しかし、最後まで「粗い意識」と「繊細な意識」の混同と、そこから生まれる矛盾が、有史以来、全ての東洋思想の根底に溜まり続けています。あたかも意識の煩悩と呼べる程にです。

「意」を悩ませるこの問題は、結局、両者ともに「空」だと知ることで終わるのですが、さてその先は…。

「気」により、身体の全能化を目指しますが、やがて全能にはなれない身体の限界を知る事になります。身体の全能化が成仏であるとすると、解決方法は「身」の「空」で終わりではなく、「意」にある事が分かってきます。

道教(タオ)では、「気」には陰と陽があり、「陽の気」で身体を練り上げ、身体の純陽化を目標にします。そして、純陽化した身体を太陽の光に溶け合わせてしまうというように、仏教の「空」の方法論に近くなってきます。

ヨガは古代インドに始まります。ヨガの修行の中心は身体の鍛錬と思われていますが、それは手段で、こころの作用を止滅させ、真我を本来の状態にとどめることを目標にしています。この、こころを「粗い意識」。真我を「繊細な意識」に置き換えると、仏教の方法と同じです。

「気」の考え方、開発の手順について。タオ、密教、ヨガの三者は共に同じです。影響し合ったとはいえ、場所を違え個別発生したものがたまたま同じだったとは考えにくく、それぞれの祖先である原始宗教にまで遡る多神教の基本原理のようにも思います。

クンダリーニの開発など、「気」開発の基本メソッドは、タオ、密教、ヨガの中から、自分の感覚にあったものを選べば良く、それぞれの良いとこ取りをするなど、囚われを少なくした方が良いようです。

クンダリーニの開発は、通過点てす。例えば、タオでは、全身の純陽化を目指しますので、全身の細胞一つ一つにまで、「気」を巡らす必要があります。前述の小さな小人になり、全身の細胞の探索と認識をしておけば、ヨガの方法でクンダリーニの開発をし、「気」が頭頂に達すれば、ここで小人の学習が役立ち、たちどころに全身の細胞一つ一つにまで「気」が巡って滞りがありません。これは、タオの存思の方法の根本原理です。

インドの後期密教やチベット密教からは、身体が「空」に変化する為に必要なエネルギーについて、その発生と方法、量と強度、さらに、エネルギーを受け止める身体の反応と耐性について学べます。

エネルギーには、良いものと悪いものがあります。「意」は、それを十分に知らなければなりません。世俗の倫理や論理で正しいものが、必ずしも良いエネルギーであるとは限りません。例えば愛は、執着や嫉みを生み、一人殺せば殺人。一万人殺せば英雄。や、平和と戦争の二元論は、怒りと悲しみを生みます。

怒り、嫉み、恐れ、セックスからは、想像を超えるエネルギーが発生します。如来になるには、それそれが最大パワーをいちどきに発する程のエネルギーが必要になります。

チベット仏教や秘密集会タントラにある過激な表現。例えば、男女の和合と怒りを結合させた父母尊と憤怒尊。糞と尿と精液と経血と人肉で如来を供養する女陰に住まう菩薩。妬みのエネルギーを浄化する静寂尊。などは、実際にこのエネルギーの発生と浄化を実行する「身」や「口」に向け、「意」が最大限の過激表現で不退転の決意を述べたものです。

日本の密教にも、過酷な千日回峰行などがあります。

では、過酷な修行は、生理的に何をもたらすのでしょうか。
瞑想や修行による、身体への意識の集中や過激な負荷は、肉体と頭脳に刺激を与えます。それにより「身」と「意」が変化します。脳の可塑性がようやく科学では認知され始めていますが、肉体への刺激で、筋肉、骨格、内臓が変化強化されるように、瞑想による脳への意識の集中刺激は、生理的レベルで脳の細胞を変化させ、身体への意識の集中刺激は、身体の細胞や構造その機能をも変化させます。

身体には「免疫機能」や、体温や鼓動を一定に保つ「ホメオスタシス」などの機能があります。
この機能を解除するかスルーすることができなければ、瞑想や修行は、精々スポーツトレーニングで、筋肉が強くなったとか、俊敏さが増したとか、記憶力が良くなったか程度の効果に止まります。

密教やヨガでは、薄着で雪の上に寝る。つまり、体温を自由にコントロールする。心臓の鼓動を遅くしたり止めたりする。呼吸や肉体の代謝機能を低下させ仮死状態にする。などの修行があります。
これらは、「免疫機能」や「ホメオスタシス」の機能をスルーする事で達成されますが、
これら全ての修行は、身体は「空」。であることを実感するために行われます。

そしてこの「空」は、この修行の目的になるだけでなく、実行のメソッドにも組み込まれています。
「空」が組み込まれたメソッドとはなんでしょう。
ここでは「意」が全体を主導します。前述の釈迦の教え。

物事には必ず原因(因)があって条件(縁)があって結果(存在、現象)がある。(因縁)
因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)
因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)
カルマがつくる煩悩。 煩悩がつくるカルマ。それがつくる輪廻転生から脱することが、成仏である。(四聖諦)

を、実行する事が、目的でもありメソッドになります。

その方法について、お話しします。
「空」とは、物事には実体が無い。ことであり、変化して止まない「因」と「縁」で生まれてきます。言語思考は「意」の対称性を破り「存在」という「実体がある」を創り出しますから、「空」を扱う思考ツールとしては不適切です。
一方「繊細な意識」は、対称性に止まり、永遠無限全知全能な情報にアクセスが可能な思考ツールですから、「空」の認識理解には適しています。
最終的には「繊細な意識」も「空」により実体が無いとされ、資格を失う事になるかも知れませんが(所知障?)、それよりも、今は言葉を使っているので、どうしても言語の「粗雑な意識」を贔屓にしてしまい、対称性ベースの「繊細な意識」との混同とそこから生まれる矛盾が、思考を妨げ、論理を濁らせてしまいます。

「繊細な意識」は、純粋状態なら一即多、多即一、相即相入ですから、部分を考えていても全体を、全体を考えていても部分を考えている事になります。
つまり、言語思考の記憶では、言語記憶アーカイブの大脳皮質記憶装置が必要でしたが、「一即多、多即一、相即相入」状態の「繊細な意識」では、過去現在未来の情報の全てを、部分と全体とが共に担うので、記憶という概念が必要ない事になります。事実、例の小人にになって体内を巡る「繊細な意識」では、既視感があり、新しい体験は既視感にどんどん組み込まれ学習されていきます。その意識を「口」がフォーカスし言語化はできるのですが、面倒で、「繊細な意識」の既視感の方が早く鮮明で具体的な「記憶?」の様に感じてしまいます。

身体には、外部からの攻撃に対応する「免疫機能」や、体温や鼓動を正常に維持しようとする「ホメオスタシス」など、制限機能が備わっています。身体を変化させる修行の成就には、この制限機能をスルーする必要があります。

では、その機能制限と「繊細な意識」のと関係はどうなのでしょうか。

新しい神経生理学に「オートポイエンス」という考え方があります。

「神経システム内で活動が起こされる時、外界は引き金の役割しかはたしていない」です。
従来の考え方では、生物の進化を例にとると、外界の刺激により遺伝子はダイレクトに突然変異させられ、次代にその変化が遺伝継承されるという、いわゆるダーウインの進化論が一般的でした。

しかし、「精神はそれ自身が創造したものの創造物である」です。
外部のメカニズムに関係なく、自身のメカニズムで、みずからの構成要素を創り続け、統一体としての閉鎖系を創り出し、境界の自己決定をする。

「オートポイエーシスのシステムは入力と出力を持たない」
外部とのエネルギーのやり取りが組織構成を決定するものではない。もし、外部から何らかの介入が生じた場合、それは単にシステム自体の損傷を意味するだけである。つまり、外界からの刺激に順応し、遺伝子が変化するのではなく、自己の都合で遺伝子は変化する。とするそんな進化論になる。これを「入力と出力を持たない」と表現しました。

この「入力と出力を持たない」という、呪文に似た言葉は、「色即是空、空即是色」に似ています。言語思考的には、論理破綻していますが、この二つは言語思考を機能不全にして、背後をうかがおうとする方法になります。

言語思考の二項分類(対立)で、「意」の対称性が破れ、超越的第三者の下、「外部(環境)」と「内部(自己)」という二つの「存在」が意識に創出されると、そこでやりとりされるエネルギーは、「入力と出力」の言葉で説明せざるを得なくなり、これは言語思考の科学的説明になります。一方、言語思考を機能不全にして透明で見ると、「存在」が意識に創出されることがない対称性が見えて来て、そこでは、例えば空海の「重重帝網」状態では、意識を媒体に、部分と全体の間を、エネルギーは行き交っているのですが、「存在」として意識に現れていないので、言語思考からは、それは入力と出力を持たない現象のように見えるのです。

これは、瞑想や座禅で生ずる活動を説明しています。
外部からみると、瞑想や座禅は、静かに息を潜めエネルギーを発しないように見えます。事実「入力と出力」と表現されるような明らさまエネルギーを抑え、静かに瞑想や座禅をすることが修行であると説明されています。

しかし、成仏は、「身」「口」「意」の「仏」への変化を求めますので、エネルギーを潜めていては、変化はいつまでもやっては来ません。
前述の小人になって、体内を巡る探索は、目的の部位に意識を集中すると、そこに熱が発生し、エネルギーのやりとりを「繊細な意識」で実感できます。そこに「口」が意識をフォーカスし、現象を言語化すれば、エネルギーが入力出力していると「粗い意識」は理解することはできます。でもそれは理解にとどまります。「繊細な意識」なら、わざわざ存在という言葉を創出しなくても、全体が瞬時に実感で分かるという感じです。

ここまでくるとお分かりのように、「繊細な意識」を使えば、「免疫機能」も「ホメオスタシス」もコントロールできる事がわかります。
コントロールというより、スルーするという方法です。
「免疫機能」や「ホメオスタシス」の身体の制御機能はそのままに、別ルートを取るような、あるいは、制御機能に気付かれず、ニュートリノのように自由にすり抜けてしまうような方法です。

薄着で雪の上に寝る。つまり、体温を自由にコントロールする方法は、密教では、トゥムモと呼ばれます。呼吸を使い丹田に「気」を集めると、下腹部が熱く熱を帯びてきます。その熱を尾てい骨のクンダリニーに送り、督脈を通し、各部のチャクラを温めながら、頂点の泥丸まで送りここでしばし温浴します。続けて、その「気」を眉間、喉を通じ、任脈で丹田まで降ろします。「気」は喉より上に行くと、清涼になりますが、再び胸まで降りてくると、上昇時より熱くなっているのがわかります。その循環を繰り返します、その循環の途中何回かを、丹田に降ろした「気」を反対に帯脈で胸まで上げ、頭頂から降りてくる「気」と胸で混ぜ合わせると、「気」は陽化が高まり真火となり、さらに丹田まで降ろし温浴します。これは小周天と言われまが、これに前述の小人で体内を巡る探索に熟達していれば、丹田の「熱い気」が体の全体に、沁みるように広がり、風呂上がりの体のように、全体がポカポカ暖かくなって来ます。意識しなくても、この循環を体が自動的に行えるようになれば、持続して、濡れた肌着が乾く程に、身体全体の熱を高める事ができます。熟達すれば薄着で雪の上に寝ることが可能になります。

大まかに方法を書きましたが、作業をオペレートしている「繊細な意識」は、その間旺盛な情報力を発揮し、質や量が違う様々な情報、気づきを、遮るものなくもたらし、さらにそれをフィードバックして、オートポイエーシス的な自己創作をするというように、目的実現のための、言葉では書ききれない様々な工夫を生み、マニアルを学ばなくても、この体験から自然に全てを学ぶことが出来ようになります。

感覚器官や意識は、普通それが所属する個体の個性により、取得する情報も個性化されるのですが、「繊細な意識」の気づきと流れる質と量が、個体の個性量を越え、個性を凌駕すると、大楽と言われる恍惚の状態がやってきます。怒りや嫉み、快楽が、脳の細胞のニューロンとシナプスを変化させ、同時に身体の細胞や機能を変化させるように、大楽の恍惚感は、身体と頭脳を純に変化させます。大楽の場合、「繊細な意識」が純な場合にしか発生しませんので、麻薬にような中毒性はありません。正しく行えば、宗教が自己暗示や妄想と言われる原因になることもありません。純でければ「空」ではなく、不純な結果を招くので、思い込みの大楽と分かります。「意」は常に「空」なることを意識していなければなりません。

しかしこの動きは、自己内では、言語思考の「粗雑な意識」と対称性の「繊細な意識」。両者、お互いに了解はできているのですが、社会(世俗)は言語思考で構成されているので、他人の「粗雑な意識」にとって他者の「繊細な意識」は、それに衝動とか妄想とかラベリングする、不穏な動きに他なりません。

世俗との摩擦を避け瞑想修行に集中するため、出家とか隠遁とかになるのは、数々の摩擦の歴史を経て、当然の帰結のように思います。

しかし、今日では、「オートポイエーシス」の考え方のように、「繊細な意識」の存在を、「粗雑な意識」でどう捉え表現してゆくか、つまり、科学と宗教の融合という視点で、考えられ始めています。

これまでお話ししてきた「成仏への道」は、対称性の性質を持つ「繊細な意識」の発見と強化でしたが、一方、「繊細な意識」から「粗雑な意識」への働き掛けもあります。それは「菩提心」と言われ、仏教の教えの大きな柱の一つになっています。


ここまで分析を進めてくると、如来に変化する「成仏の道」(出家修行)とは、様々な制限や個性(特殊)をスルーしてゆく道程であるなら、「繊細な意識」は、今のところ最良の思考ツールであると考えられます。

今回は、長くなってしまいました。次回は、「繊細な意識」を、更に深く高くするとどうなるのかを続けて行きたいと思います。
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