写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

成仏の方法(8)

2017年02月12日 | 成仏について
今回は、「繊細な意識」を、更に深く広くしていくとどうなるのかの続きです。
ここまで来ると、言葉での説明がますます難しくなってきます。「繊細な意識」を「粗雑な意識」の言葉で翻訳し説明するので、それは呪文のようになり、音に響くばかりで意味が伝わらなくなってきます。

先回までは、成仏のために「身」は「空」である。と知る(変化させる)事でした。タオで言えば小周天、密教では、 究竟次第コースです。そして次は、自己を離れ、自己が全体に融合することを学ぶ大周天、生起次第コースになります。

頭頂の穴から「繊細な意識」の自己意識が外に出て、全体(外部)と交わる体験をします。

本来、「一即多、多即一、相即相入」の「対称性」状態である「繊細な意識」では、全体と部分との区別はないのですが、言葉の説明が「自己」と「外部(全体)」の二項分類(対立)を持ち出し、存在が発生するので、つまり「粗雑な意識」が支配する現実世界の言葉思考ルールになるので、「自己が外に出て全体と交わる」と表現することになります。

全体に交わるとは、自己が溶けて無くなる事なのですが、自己認識が無くなると同時に全体も無くなるので、そうすれば言葉も無くなり、煙のように、確かに在るのだが、何とも説明できない、或いはしないことになるのです。

このまま言葉で言語思考で続けていると、理解不能になるので、つまりが思考の道具が間違いなので、ますます表現が難解になって来ます。

「粗雑な意識」は、言語思考としての「現実意識」であり、「繊細な意識」は、「無意識」に近い。と言えます。現実では「粗雑な意識」と「繊細な意識」は、常にバイロジカルで働いていて、それは現実意識と無意識がペアで働いているのと同じです。

この状態で「繊細な意識」を十分に働かせなければなりません。

では「繊細な意識」とは、どんな実感なのでしょうか。
小津安二郎監督の映画でそれを実感することができます。小津作品は、そのストーリーが秀逸ですが、さらに独特の撮影技術も世界のクリエーターから尊敬を集めていて、多くの模倣がされています。でも 小津の意図を理解しての作品は少ないように思います。

映画「晩春」で、小津調は 完成したと言われます。
その技法の一つが、画面のつなぎに、静止画風のインサート画面を入れる方法です。そのインサートは、普通、次のストーリーへのサポートなのですが、小津の場合、例えば鰻屋の看板を大写しにしてインサートすれば、そのカタチや書体のデザインから、鰻屋が老舗か庶民的かなどの様子が伝わるので、店の説明を省くことができて、いきなり鰻重のお重を前に置く主人公の顔アップから次の画面が始められます。。この場合のインサートは、ストリーを追う意識の邪魔にはならず、言語思考で書かれた脚本を積極的にサポートする技法になります。
しかし、小津監督はもう一つの方法、ストーリーの順調な流れを敢えて止めるような、関係のない静止画を突然にインサートするのです。
例えば映画「秋日和」の終わり頃、原節子と司葉子の母娘が、娘の結婚が決まり思い出の旅行に伊香保温泉に出かける場面です。
伊香保温泉の茶屋で二人の会話の場面の前に、窓枠に映るもっこりした山の姿が静止画風にさりげなく短くインサートされます。二人テーブルで向かい合い、茹で小豆食べながら、原節子が「この茹で小豆こと一生忘れないわ」という台詞があり、顔が窓に向かってゆくと、同じ山の姿の静止画が、少し長くインサートされるのです。ストーリーとは関係ない画面がまた大写しで現れドキッとしますが、木々が山全体を覆い、山のカタチや木々のディテールを思わず追いかけ見ようとする意識が出て来ます。遠くから遊園地の賑わいが聞こえています。映画の流れを止めて、山のディテールをずっと眺めていたいのですが、場面は元の流れのストリーに戻り、二人の会話が続き、やむなく意識もそのストーリーを追うことに変化してしまいます。

この流れの中で、二つの意識を観客は覚えさせられます。
映画のストーリーを追い、横に流れる意識と、その流れを止め、山のディテールを追い、奥行きに向かうおうとする意識です。
ストーリーを追い、横に流れる意識は、我々が生活する中での現実意識と違いはありません。
意識の主人公は、言語意識と言語思考です。だから言葉のルールで書かれた脚本でビジュアル化された映画に共感できることになるのですが、一方、奥行きに向かうおうとする意識は、もし、映画の場面やストーリーが次に(横に)進まなければ、そのまま、山のディテールを好奇心が続くかぎりは見続けていたい、あるいは、見続けていられる意識です。
映画ではなくこれが現実生活となると、別段用事がない限り、山の姿やデイテールを、詳しく見続けられるのですが、興味が失せると、"ああ、これは山だ。"と意識が抽象化され、言語化され、存在化されて、映画の場面転換と同じく持続が中断され、無意識が現実意識に戻されてしまうのです。

このストーリーを追う現実意識を「粗雑な意識」と言い、無意識に見続けていたい意識、或いは見続けていられる意識を「繊細な意識」と言います。

例えば、言葉で「永遠無限」は、言葉は指差す指ですから、言葉の先には実態としての「永遠無限」がある筈なのですが、言語意識は、それを言葉で表せても実感することはできません。しかし「繊細な意識」では、永遠無限に見つめ続けることが可能なので、永遠に実行すれば「永遠無限」を実感できる事になります。つまりこの可能性の実感を抽象化し言語化したのが、「永遠無限」の言葉の内容なのであり、「粗雑な意識」から見た「繊細な意識」の存在感なのです。

「永遠無限全知全能なるもの」が「仏」ですから、「成仏」を実感するには「繊細な意識」を働かせなければなりません。

そして、「成仏の方法(3)」でお話しした、"何も考えず静かに外を眺めている瞑想のような時。突然の音に驚き、はっと顔を上げるその一瞬の意識の空白。" の一瞬の意識の空白が「繊細な意識」の最初の発動になります。


現実生活では、「粗雑な意識」は、現実意識として常に表に現れ意識全体を支配しようとします。一方「繊細な意識」は、裏に隠れ支配抑制され不意に現れたりする、無意識のような振舞いをします。その無意識(繊細な意識)を表に露わにし育てコントロールするのが、成仏への方法の一つになります。

「繊細な意識」とは何か。を確実に実感する方法の一つが、密教や禅宗などの厳しい修行になります。「繊細な意識」を際立たせるために、「粗雑な意識(現実意識)」を疲労の極限にまで追い込み機能不全にする方法をとります。僧堂での修行や野山での千日回峰行などは修行が進むと、「粗雑な意識」が弱まり、やがて無意識(繊細な意識)が現実意識をコントロールするようになります。「粗雑な意識」が弱まると社会意識が希薄になります。隠遁や出家など社会生活から隔離されていると安全ですが、このまま、現実生活に交わることは危険です。

この状態で表に現れるてくる「繊細な意識」の振る舞いやルールをよく知らなければなりません。修行の要点は、確かな実感を得るためには「粗雑な意識」が弱まっている間に、「繊細な意識」の性能を上げる修行をします。肉体と精神を修行で極限まで追い詰めると、その負荷に対応して肉体、感覚、意識の耐性と耐用量が増えます。他に、セックスで快楽を極限にまで高める経験は、感覚の感度と感度量が増し、密教の秘密集会タントラにある汚物にまみれ死体とともに墓場で修行する。などは感性の耐性が増します、トレーニングで筋肉が強く柔軟になり強靱になるのと原理は同じです。修行で「繊細な意識」がダイレクトに受け取る感覚強度が高くなると「繊細な意識」も強くなり確実な実感も生まれてきます。
この修行で、幻覚を見たり超能力が使えたと思ったりしますが、筋肉トレーニングで強くなるのと同じで、少し重いものを持ち上げられたからといって、簡単に筋肉男ハルクにまでなれる訳ではありません。

この「繊細な意識」の強化を突き詰めて行くと、途中で勝手な妄想が生まれても、結局は、全てが「空」であることがわかってきます。そのため修行の目的を「空を知る事」にしておかなければなりません。目標が「空」であるとは、「空」を予め知っていななければ到達できませんから、修行の最初に悟っていなければなりません。
「空」とは、因縁生起が原理です。物事全ては、縁起のルールで動いている、だから実体が無い。これが釈迦の悟りであり、これを「空」と言います。

「繊細な意識」の意識原理には、龍樹の「空」、華厳の「一即多、多即一・相即相入」、空海の「重重帝網」などがあります。これは「繊細な意識」が永遠無限全知全能を実感し理解ができて生まれてきた原理なので、現実生活を司る言語思考の「粗雑な意識」では、さっぱり理解ができません。更に現代では、繊細な意識どころか無意識すら、現実意識の裏に隠れた脇役と見なされ「無意識に手が出たので無罪」などの扱いで、科学的研究も十分に尽くされてはいません。

常に差し迫っている問題。死んだらどうなるのか?。では、現実意識は無くなってしまう。このことには予想がつきますが、無意識や繊細な意識はどうなのでしょうか。チベットの死者の書では、バルト(死んで来世に生き返る)の間は、それが唯一の意識になり、生き続けることになっていますが…。

そして、これからの時代は、AIやシンギュラリティへと進んで行きます。しかし、この二つの意識の間の非対称性をこのままにしておくと、発展への障害になる予感が浮かんできます。

この「成仏の方法」ブログでは、これまで「粗雑な意識(言語思考)」サイドから、「繊細な意識」を分析してきました。一部の仏典や論書にもこの立場に立つものがあり、社会に受け入れられやすいようにと、言語思考ルールの言葉で、成仏のへのツールである「繊細な意識」のことを分析しています。読み続けると、西洋の哲学書に劣らぬ難解さで徒労感が増します。そして最終的には、釈迦のように、沈黙するか、空海のように、言葉では表せない。とか言う風になってしまいます。

この隘路を避けるため、もう一つの道、反対に「繊細な意識」から「粗雑な意識」を語ることにしたいと思います。そしてこの道を、仏教では「菩提心」と言います。

次回は、この「菩提心」について、おはなししたいとおもいます。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。