写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

野町和嘉『写真』とは(5)ー 新しい写真の時代 ー

2019年08月29日 | 野町和嘉『写真』
大画面で高精密な写真が、最新のデジタルカメラと大型デジタルプリンターで創れるようになると、簡単に言うと、撮影者が、「一つの命を得たかのように生きたもの」(リアルな存在や物体)を創ろう、と強固な意思さえ持てば、「レンズの自由意志」が大画面上にそれを創ってくれる。と、先回までお話ししてきました。

カメラの高性能化で、これから写真は、「写す」から「創る」へと変わらなければならないのでは?。

ではその「創る」とは何か。その可能性と方法について、これから詳しくお話しして行きたいと思います。

いきなりでは、荒唐無稽な話に思われる内容なので、先ず、写真や絵画のアートの現状を分析しながら、荒唐無稽を言わなければ、現状を打破できない窮状をも知っていただけたらと思います。

さらにその前に、野町和嘉『写真』(1)(2) (3) (4) をお読みいただければ、理解がより頂けるかと思います。

少し長くなりますが、お読みください。

市販手持ちカメラの性能は、2019年時点で、5000万画素〜1億画素の高解像度にまで進化しています。
これから先、カメラは、どう変化して行くのでしょうか。「写真」という概念も、変化することになるのでしょうか。

例えば、
暗がりの手持ち撮影で、絞りf.128で2000分の1秒のシャッターが切れる程になる。手ブレ防止機能で、手持ちで超望遠レンズを構えて、月のクレーターがクローズアップで撮れようになる。マクロレンズで指先を撮る、小さく撮っても拡大してゆくと、指紋一本分の狭い空間の細部がくっきり見える。こんな解像度と感度が、市販の一台の手持ちカメラで三脚なしで可能になってくる。
これから10〜20年程の様々な技術の進化で、こんな性能への到達が予想できます。

こうなると、「今の写真という概念」では、こんなカメラは全くオーバースペックで、販売予測も立たず、製品化などできないかも知れません。
そして、そのカメラ画像を見る出力サイドでは、高細密プリンターの大画面画像以外、現在流通する反射画像の「印刷」や透過映像の「4〜8KTVモニター」の性能では、5000万画素〜1億画素解像度のカメラでは、オーバースペックに近づいています。
そうなると次に、カメラメーカーは、何を目指すことになるのでしょうか。

確かに、早朝や夕暮れなど暗い中で撮影が手持ちで出来たり、絞りが増してシャープな写真が撮れたり、解像度や画質の向上でこれまで以上にカラーが緻密に美しく撮れたり、など、今の高性能カメラでは、これまでにない新しい写真は撮れますが、「今の写真という概念」の中で、この効果と性能は、本当に望まれ必要とされているものなのでしょうか。

では、これまでの「写真という概念」とは何なのでしょうか。考えてみたいと思います。

1925年、手持ち用の35mmカメラの登場から約100年、現在の写真とは、「写真」と名称されるように、リアル(真)な被写体を手軽に(写)し取り記録すること、がその機能の全てであると考えられて来ました。

絵画では、風景画、肖像画、静物画、歴史画、抽象画などがあり、自然や人物を絵具で画像として描く、画家の情念や意思を象徴表現する、また、言葉の物語(歴史、事件、人など)を想像力でビジュアル化し描くなど、物事であれ心情であれ、想像であれ、事件であれ、自分のものであれ、対象物のものであれ、作者がそれらをビジュアル化し、彼の意思表現とともに、絵具で画面に描き取り現すことと考えられて来ました。

そして写真も、カメラによる、それと類似の、「写し撮る」活動であるとずっと考えられて来ました。

絵画との違いは、絵画は技術が難しく完成には時間がかかるが、写真は、現代のiPhoneカメラでは、誰でもがシャッターを押せば一瞬に撮れてしまいます。
そして今後、絵画の技術について、大きな進歩はあまり望めませんが(ロボットとAIが絵を描くかもしれない?)、一方、写真は、デジタル技術の進歩とともに、確実に進歩して行きます。
この進化の差から、写真と絵画との間にはどんな変化がやって来るでしょうか?。

はじめに、技術的進歩が余り見られない絵画はどうなるのでしょうか。
すでに、現代アートには、大きな変化がやって来ています。写真や動画をベースに進展する、映画、印刷物、特にインターネットなどの言語思考主導メディアの隆盛で、「絵画の概念」は栄光を失いかけているようなのです。

それは、現代の鑑賞方法から発しています。
絵画を一瞥すると直ぐに、印象を言葉でラベリングしてしまい、それで理解したとする事に慣れてしまっているのが原因です。
ピカソの絵を見ても、「ピカソのキューピズムの絵を見た」と理由を言葉にしたら理解したと思ってしまいます。見慣れぬ現代アートでも、横に解説書きが無ければ、「よく分からないが最新現代アート」を見た。と、これも言葉のラベリングの理解で、それ以上の鑑賞を止めてしまうのです。ピカソも現代アートもそして我が子を写した写真も、画像なら、それを見ながら、視覚や感性を持続させ鑑賞を続けるのではなく、「インスタ映え」のように、気の利いた言葉のラベリングで直ぐにお終いにし、理解したことにしてしまうのです。
この時流に合わせ、多くの画家も、心地よく言葉で理解ができて、すぐラベリングができるアートの制作に励んでいます。つまりそれは、アーチスト自身の暗黙知を言語化すること、又は、好意的に言って、言葉やミーム(言葉や文字などで伝えられる情報)を暗黙知化する、など、結局は言葉で理解されることが目的だけの作業がアートと呼ばれるようになっていて、そこでのライバルは、小説家の村上春樹になっています。
私はこれまで、ずっとこれを言い続けてきました。最近では、気づき始め声を上げる画家も出て来ました。つまり、現代とは『言葉での理解が、理解の全てになっている』時代がさらに深化しているのです。

でもこの理解は、悪いことばかりではありません。
清少納言の「いとおかし」、松尾芭蕉の「不易流行」、そして今日の「インスタ映え」などは、その時代の暗黙知を伝える言葉であり、そんな見方があったのか。と、歴史の事実は伝えてくれてはいます。しかし、その言葉が指差すものの詳しい中身(暗黙知)が何であるのかは、タイムマシーンでその時代に飛ばなければ、言葉だけでは詳しくは伝わってきません。これが言葉の抽象の特性なのです。そして、この程度で、我々は満足してきたのです。しかしこの程度が人間の理解のレベルであると分るのは、文明の進歩なのではないでしょうか。

写真は、逆に、その発生以来、言葉で理解される作品であることに甘んじて、言語記録メディアを続けてきました。
「今の写真という概念」は、主にここを源にしていますが、しかし懸命に真のアートになろうと、写真は努力してきました。写真は、記録性、簡便性、メディア力に優れていますので、絵画の、例えば歴史画などの分野では、その代わりを担ってしまい、そのため戦後は、絵画による歴史画(戦争画)はその価値を下げ、例えば藤田嗣治の戦争画などは、歴史画と記録性の二重の意味で、時流の世論からも評価を得られなくなりました。しかしそれで、ロバート キャパ以外、写真のアート性が向上したという事にはなりませんでした。

写真には、お話ししてきたように、撮影者が意図していなくても、レンズに映るものは、全て写してしまう「レンズの自由意志」を持っています。それが、強力な記録力となり饒舌な言語性を生み、真のアートとして認められない原因にもなるのですが、一方、絵画では、「筆や絵具の自由意志」などは無く、筆をとり画面を埋め尽くし描いたものしか、つまり画家が描がこうと意図し努力したものしか画面には現れません。
つまり、絵画と写真は初めから違うものだったのですが、しかし、写真は、インターネットの出現で、コミュニケーションでの手軽な道具感とレンズの自由意志が便利がられ、ネット露出が爆発的に増えてきました。それでもしかし写真はアートとして、まだ自立を許されず、絵画の下に置かれたままで、現代アートの再興、復興に、再びその自立の機会を待っていたりしています。

しかしその状況も瞬く間に過ぎてしまいました。今日、言葉と写真、動画を原動力として進化を続けているインターネットでは、例えばInstagramや絵文字アイコンなどの出現で、アートがこれまで自前で培ってきた「アートの概念」がさらに破壊され続けています。そこで、現代アーチストの多くは、筆と絵具により、言語化理解のメディア的アートの制作に更に磨きをかけ、生き残りを掛け、美術館もそれを後援しています。一方写真界では、同じ写真の仲間であるInstagramにその座を脅かされ、写真家は、明日こそ真のアートになりたい希望を壊され、後続を育てようと思っても、野町和嘉の場合、今は若いドキュメンタリー写真家はほとんど存在せず、世界中のギャル、ヤングレディがその座を占めてしまっています。

しかし、そのインターネットでさえも大きな変化が待ち構えています。

プログラム言語と言われるように、コンピュータの発生は言語思考から発していますが、その進歩は、その言語思考の拡張と考えられます。そして、今日、インターネットのクライアントサーバーの機能で、クラウドまで進み、次の5Gのネット技術で言語思考の拡張は、2019年段階で、次のステージに進もうとしています。

次のネットの進化は、言語理解そのものを破壊して行くと予想されます。破壊は、写真や動画からに留まらず、言葉自身からも、例えば、SNSのレス・リプ機能は、主題への批判、賛同、否定が様々書き込まれ、言語理解には混乱が生まれ、そのカオスは言語で理解することそのものへの疑問にも繋がって行きます。しかしその言葉の投げ合いのカオス自体は、言葉の内に止まり、急激な変化はもたらしませんが、そのカオスを直接に表現する言葉が現れると、例えば「炎上、破壊、殺す、革命」などで、その変化は急激になります。しかしそれでも、これまでの歴史では、「言葉の理解」そのものは破壊の被害を免れていました。だが今までの歴史はそうであっても、5Gなどのネットの発達は、それを許してくれるでしょうか。AIも言語思考の拡張の一つですが、これらの出現による、言葉崩壊の事態とはどんなものか、「言葉の概念」の崩壊とはどんなものか、それに備えておく必要がネットやAIの進展の先に想像されるのです。
これは、大きな文明的問題なので、改めてお話ししたいと思います。

画家は、アンディ ウォーホールを最後に、絵画が時代を動かす力は、過去の栄光として、アーチストから徐々に徐々に離れて行きました。そして写真家も、人々から敬われる筈のアーチストへの道を絶たれてしまい、職すらままならなくなる程になりました。

アートの大衆化が、「現代アートの概念」の命題の一つでしたが、Instagramこそ、アートの大衆化ではないでしょうか。そして、写真のパワーを下に見る現代アート(画家)は、それを支える美術館ビジネスとともに、写真を軽視してきた結果、Instagramの写真から逆襲を受けることになるとは、皮肉が過ぎています。

では、ネットの未来も予想予測が難しいとすれば、現代アーチスト(画家)や写真家は、どう備えれば良いのでしょうか。
再び時代を動かす力を取り戻すにはどうしたらいいのでしょうか。これまで信奉してきた「現代アート(絵画)の概念」と「写真の概念」の二つを、インターネットの変化のスピード以上に、自力で、独自の方法で 、早急に変化させ鍛え上げなければならないという事なのでしょうか。

そもそも、画家にとって、理想の絵画とは何なのでしょうか。それは、理想の写真とは何かにも通じるのですが、そこから考えたいと思います。

天才画家達の画業を見ると、彼らが晩年に目指したものは、表現や方法は違っていても、ただ対象を写し取り描くのではなく、紙やキャンバス上に、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創り出す道こそ究極である。と言っている様に思います。そしてそれに果敢に挑戦していたことも分かってきました。

ここに絵画と写真の復活のヒントがあるのではないかと、考えています。

葛飾北斎は、言っています…
『70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。
ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。
そして、100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。』
と、
この中の「一つの命を得たかのように生きたもの」が北斎の究極の望みであり、晩年は肉筆画でその創作に没頭しました。しかし、北斎は90歳で亡くなりました。
辞世の句は「人魂で 行く気散じや 夏野原」です。未達の無念を詠んでいます。

この句を聴くと、松尾芭蕉の同じ辞世の句である「旅に病で 夢は枯野をかけ廻る」を思い出します。
両句は、人魂で、人として生きる夢や寿命が、嗚呼、尽きてしまう。と無念を詠んでいます。しかし、今ここでお話しをしているのは、次に現れるであろう二人が見たかった、夏野原や枯野のお話しなのです。

「写真」でも、この「一つの命を得たかのように生きたもの」が創れれば、復活の道があるのではないのか…。を考えてみたいと思います。

この「一つの命を得たかのように生きたもの」とは、分析的な言葉で「リアルな存在や物体」と言い換えたいと思います。そして、この「リアルな存在や物体」とは、何なのでしょうか。

絵を家の壁に掛け、朝に見ると朝の、夜には夜の印象が得られます。細部を見ると、さらに違う発見があって、一瞥だけで、印象を言葉のラベリングで終わりにするなど簡単にはできず、好奇心と感動が生まれ続けてきていて、いつまでも見ていたい、いつ見ても見飽きない、何かがそこから次々と発信されてくるようで、終いには、それを眺める自分の心や記憶の方にも、意識が自然に向かってしまい、思わず、絵と同じく自分も、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)であった、と、ドキリと感じさせられてしまう、そんな体験を言います。(さらに詳しくは野町和嘉『写真』(2)をご覧ください。)

現実で言うと、美しい景色、奇観景観に出会うと、うっとりと見続けて、言葉を忘れ、リアルを感じてしまいます。河原で拾った小石にも、形、色、細部の模様、ザラザラ感など、意識の動きにあわせ次々と好奇が現れ、見飽きることがありません。そんな終わりのない意識の動きに、人は、無条件に「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を感じてしまうようなのです。
その意識の結果は、脚本で出来たTVドラマでは、10人が10人同じ筋書き(言葉)を理解させられますが、真の「リアルな存在や物体」に出会うと、10人は、それぞれに違う感想と説明を持たされてしまいます。人それぞれの恋愛感情・経験が違うのと同じです。

このリアルからの印象を、さらに続けて言葉で表現するには、全く紙面と時間が足りません。言葉の性能不足を感じるのですが、元々これらは、言葉のみでの理解を想定してはいないので、言葉は「感動」した。と一言のラベリングで終わりにするか、長々と分析説明をこのまま続けて、さらに苦痛を与えることになるのか、そのどちらかになります。つまり色々講釈はあっても、「言葉にならないほど感動した」の理解が、やはり最後の言葉の思考から出てくるので、これが社会的評価ということで定まるのです。

そしてその「言葉にならない。言葉で説明できない。」とは、我々の認識や思考の中にある「暗黙知」や「無意識」を定義している言葉と同じになります。
これはつまり、「言葉」とは現実意識なので、「説明できない」とは、物事の価値判断を、反対の「無意識」や「暗黙知」など、非現実意識に委ねてしまうということになります。さらには「暗黙知」と「無意識」は常に連動しているので、これらの価値判断とは、気になって仕方がないもの、油断のならないもの、不思議なもの、気に障るもの、怪しげなもの、など、言葉の説明では、はっきりと捉えきれない、感性が支配する本物のアートの領域に入ってくるのです。

絵画で「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を表現した代表例として、先の野町和嘉『写真』(2)では、
レオナルド・ダ・ビンチの「モナ・リザ」。雪舟の「冬景山水図」。ゴッホの「カラスのいる麦畑」。デュシャンのあの「泉」と題された「便器」。ポロックの「アクション・ペインティング」。などをあげました。

これら絵画から、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を感じてしまうのは、絵画が発信する「暗黙知」を、鑑賞者が感得するからなのですが、それとは、画家に「暗黙知での感得を、鑑賞者に強いる力」があるからに他なりません。

では、「暗黙知での感得を、鑑賞者に強いる力」とは何なのか、どんな特徴を持っているのか。お話を続けて行きたいと思います。

ちょっと余談になりますが、後段で説明する「撮影勘」の説明と関連しますので先にお話しします。
「撮影勘」とは、例えると、右手の鉛筆で文章を綴りながら、左手の消しゴムで誤字を交互に消すという、両動を続けて行うことに似ています。
両手使いだと簡単なのですが、右手使いは、文字を綴る鉛筆を一旦置き、同じ右手で消しゴムに持ち替えます。右手は左脳(言語脳)が主導しますので、常に言葉で判断することに慣れているという例えになります。右手使いは、左手を頼むことをあまりしません。左手を主導する右脳は、「無意識」の住処です。そして右手使いの人間が多数なので、そんな不自由でもそれが普通で、両手使いの便利があるなどとは思いもしないのです。「撮影勘」の有無とは、こんな感じに似ています。

お話に戻ります。
「暗黙知での感得を、鑑賞者に強いる力」とは何なのか、
それは、縄文時代の火焔型土器や遮光器土偶との、最初の出会のインパクトがその一つです。
得体が知れないけれど、グッと惹きつけられ、戦慄が背中を走り、涙が出そうになる感動。次々に言葉が現れ、納得の説明をしようとするが出来ない、追いつかない。細部を眺めても、納得どころか、新たな興味が次々生まれてきて、納得が追いつかず、でも愛着が湧いて出て来る。この感動は、岡本太郎の「なんだこれは!」で良く知るところです。

つまり、その縄文の者たちとは、錬金術師や科学者のように実際の物質を創るのではなく、それと出会うと、感動を「鑑賞者の意識に立ちのぼらせる」ことが出来る、「視覚技術」を持つ者なのです。その優れた技術が(一つの命を得たかのように生きたもの)を創ることになるのです。

レオナルド・ダ・ビンチの優れた「視覚技術」は、モナ・リザという「暗黙知」の女性です。言葉での理解は「モナ・リザ」という、意味不明の言葉だけですが、彼女の神秘の微笑は、微妙で言葉での理解を許しません。顔の肌の表現には、覗き込めば皮膚の細部まで見えるのではないかと思わせる程に物質的複雑さを表現しています。これをいつまでも描き終えることがない、スフマーフ技法を使って表現しようとしています。さらに背景の景色には「暗黙知」の産物である逆遠近法を、そして、あのリアルを引き立てる無限遠の空を描き、効果を増幅しています。
(詳しくは、野町和嘉『写真』(4) をご覧ください。)


さらに、先の縄文の火炎土器や遮光土偶についてです。
これを社会的背景から眺めようとしても、縄文は古すぎて、違いすぎて、現代人の経験の範疇を超えてしまうので、ただただ、リアルで一つの命を得たかのような生きたものの、その優れた実体(暗黙知)のみが際立ち、際限なく訴えかけてくるので、その終わりのない「暗黙知」の魅力に、ただ感動してしまうのです。

ここまで考えると、「暗黙知での感得を、鑑賞者に強いる力と魅力」とは、いつまでも見終わることがない「終わりのない複雑性」とも言い換えられます。

「終わりのない複雑性」を画面上に表現できれば、「リアルな存在や物体」を創ることができるのではないか。
そして、自然界とは、物質とは、見飽きることがない、終わることがない「複雑性と複雑構造」を抱えているから、リアルなのではないか、と。

その「複雑性(暗黙知)」を描くスフマーフ技法などの長時間作業は、終わりがないので苦痛と思われるかもしれません。でもこれは、反対で、画家にとっては、いつまでも描き続けていたい至福の時間なのです。
この意味を理解していただけるでしょうか。実は「暗黙知」に止まり続けるのは、いつ死んでもいい程の、脳内では快感の連続なのです。それだからこそ、暗黙知を感得できる絵画を眺めると、静謐や奥床しさ、さらには、親しい人と手を握り合った時の、安心感、安堵を感じてしまうのです。

では、どうしたら写真で、この終わりのない「複雑性」を創ることが出来るのでしょうか。
その「技術」とは何になるのでしょうか。

先にあげた絵画では、全画面、写真でいう全面ピントが合っています。これは、人間の視覚機能からは当然のことなのですが、目の機能は、前に水晶体のレンズがあって、後ろに受像体の網膜(フィルム)がある、カメラと同じ構造をしています。ですから、近くの一点を、人が眼で見ると、遠方はアウトフォーカスなっている筈なのに、人は、近視で眼鏡を外して見る以外は、アウトフォーカスでボケて見えると言ったりしません。それは、人の脳には注視の機能があり、自然の風景を眺める時には、遠方にも視覚を向けて、近景と遠景を合成し、全面ピントが合った景色を認識しているからなのです。
絵画で遠方の山々を描く技術には、空気遠近法があります。青味を加えたり、霞んだ表現をしたりしますが、それはアウトフォーカスだからではなく、空気層を透かして見る景色が霞んで見えるからで、写真の登場以前の風景画では、ピントはハッキリ合っています。

だから、ボケ味が良い写真というような独特のレンズ効果は、写真固有の魅力であり、「今の写真の概念」の一つなのですが、自然な「リアルな存在や物体」を、表現する視覚技術ではないことになります。


次に、想像してみてください。
最初にお話しした、近未来の「高解像度・高性能カメラ」で撮影し、近未来の「高解像度・高性能カラープリンター」で出力した、反射画像の 「大画面」の写真作品のことを…。
6m x 4mの大画面で、レンズのボケや周辺歪みは無く、全面ピントが出ていて、細部はピクセル荒れもなく、解像度は拡大鏡で見ても、細部の細部まで正しいカラーで綺麗に見える写真を、頭の中で、想像してみてください。

これを知っていただくために、近未来の写真ではないがそれに近い効果を表現した、次の野町和嘉の写真を、ご覧ください。
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(写真クリックで拡大します)

小さな画面で見ると、細か過ぎてただ広々した山脈と市街の写真に見えます。
しかし、この写真は、2億画素で撮影されていて、精密プリンターで、6m x 4mの大画面で展示されている。と想像してみてください。

美術館の部屋の隅から、離れてその大画面の前に立つと、先ず、夕暮れの灯りでオレンジに輝く市街地が見え、次に背後の、壮大な5〜6000m級の山脈の連なりが見える、そしてそれは、市街地が山脈の麓に抱えられるようにしてあるのだ。と、現実の地上風景として出現してくるのが分かってくる。景色はミニだけれど両眼で見るリアルな3D空間のように広がり、部屋全体にも夕闇が広がっていると感じてしまいます。
大画面に近づいて、山脈の山肌を見ると、雪と氷に覆われた鋭い峰と稜線の重なりが立体で見え、雪崩の跡もある。背後の空は、晴れてはいるが闇が迫って紺青になりかかり、宇宙に繋がる無限遠の奥深さが見え始めている。空気が澄んでいるので、成層圏まで見えるようだ。

ドローンで下を眺めるように、目を市街地に移すと、オレンジ色の街の通りには建物がびっしり並んでいて、一つ一つの窓ガラスが見え、さらに近づくと、開いた窓からは、室内の様子が少し見えるところがある。通りには、車が走り、ナンバープレートまで確認できる。帰りを急ぐ人の様子がわかる。手を繋ぎ歩く男女がいる。犬が家路を走っている。顔を寄せ目を凝らし写真を見ると、ここまで細かな空間映像が見えてくる。

こんな風に、近未来の写真は、物も空間もこんなにも複雑性や複雑構造がある見え方をするのです。

ここまで来るとお分かりになると思いますが、この複雑性を表現するのは、大型デジタルプリンターの高解像度で出力される「複雑構造」が見える大画面でなければなりません。そのためには、絵画鑑賞のように、写真展に出かけ実物を鑑賞しなければならなくなります。

実際のこの写真は、野町和嘉が「Canon EOS 5Ds、5060万画素カメラ」で撮影し、大型デジタルプリンターで約3mx2.5mの大画面に出力したもので、写真展で見たその写真作品から、近未来を想像し感想を書いたものです。
2017年撮影の 南米ボリビヤの首都「ラ・パスタ」の夕暮れの風景です。

この野町和嘉の写真展での大画面写真でも、十分に、全体のスケール感と、細部の「終わりのない複雑性」が感じられ、「リアルな存在や物体」である。と感じることが出来ます。(パソコン、タブレットで、細部を拡大してみてください。このブログアップロード画像では解像度が足りませんが、細部の複雑性は想像していただけると思います。)

しかし、写真から「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を感じさせるのには、この「反射映像の大画面」と「複雑性・複雑構造」だけでは、要素が足りません。

その要素とは、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創り、感じさせようとする、「撮影者の意思」です。

レンズはどのようにして、「撮影者の意思」を写し取るのでしょうか。
カメラが撮影者の意思を写し取るとは、何なのでしょうか。
カメラには、撮影者が意図しないものも写してしまう「レンズの自由意志」があるとお話ししましたが、「レンズの自由意志」にはもう一つ、撮影者や被写体の意思を写し取る仕組みがあるのです。

上の写真の、市街地や山脈の「複雑性・複雑構造」は、正に、この「レンズの自由意志」の賜物なのですが、更に加えて、この写真には、撮影者の意思が、無意識であっても「リアルな存在や物体」を創る。という意思が写し込まれています。そこで初めて、それを見た鑑賞者にその意思が伝わり、(一つの命を得たかのように生きたもの)と感じられる写真になるのです。

それはこんな仕組みです。
例えば、何人もが参加する撮影会で、同じ風景を同時に同じ条件で撮ったとしても、写真がそれぞれ皆違うことを経験されたことがあると思います。その違いとは、それこそ「レンズの自由意志」が、撮影者の意思である、(この日この時間にこの体調でこの場所に居るとか、例えばあの木の枝を入れよう、とか、空の雲が面白いので入れようとか、今日は調子が悪いのでアングルが適当)などなどを、それが無意識であっても、一瞬の意思を、「レンズの自由意志」が写り込ませてしまうからなのです。

例えば、写真家にも、人物を撮るのが上手い。風景を撮るのが上手い、動きのあるスポーツを撮るのが上手い、対談風景や人物、タレントの個性を撮るのが上手いなど、得意があります。それぞれのプロの「撮影勘」を表現した言葉ですが、これも「レンズの自由意志」が、撮影者の意思(無意識であっても)を写し撮っている証なのです。

絵画では、その意思と複雑性は、画家が一筆一筆書き込まなければ表われませんが、写真では「レンズの自由意志」が、一瞬に勝手に写し撮ってくれて、簡単と思われますが、それは逆で、日頃の訓練で、強固に「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創るのだ。と意思していなければ、余計なものも沢山簡単に写し撮られるので、一つを強く写し込むのは容易ではないのです。皆さん、自由に自分の意思をコントロールできますか?。しかしそれは、生まれつきの才能なのかもしれないのですが…。

このように …「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創る。… という意思を、無意識にでも、強固に持てば、写真撮影でも創れる。と分かっていただけたかと思います。しかし、現在(2019年)主流の約1000万画素レベルのカメラでは大画面に伸ばしても、複雑性は十分には表現でません。
つまり、「今の写真の概念」とは、これまでのカメラ性能の範囲内での話なのです。

新時代の写真には、「カメラの性能」と「カメラを操る強固な意思」そして「レンズの自由意志」の三つの要素が必要と分かってきました。三つが揃うと写真は新しいステップを始めるので、「今の写真の概念」に囚われず、さまざまな分野から、新しい発想、新しい才能の写真アーチストの誕生が期待できるかもしれません。
その新時代のアーチストは、写真と絵画、そしてコンピュータ、スマホ、インターネットにも、さらにはその発生元になる言語思考の変化にも、影響与えることになるかもしれません。

それは、科学から生まれた「カメラの暗黙知」とも言える「レンズの自由意志」が、人間の「暗黙知」をサポートしながら、壊れ始める言語の時代の先を走ることになるかも知れません。

野町和嘉は、言っています。
---「私の写真が人間から風景に移ってきた要因のひとつに、SNSやスマホの急激な浸透により、世界中で情報が画一化して、特に辺境といわれた地域の人々とも意識に差が無くなり、あえてカメラを向けようとする意欲が萎えてきているという個人的事情もあります。
スマホの劇的進化により写真が誰にでも簡単に撮れるようになったことで、世間での写真のステイタス、ハードルはがっくり下がってしまいました。
これによりグラフメディアがほぼ終わってしまったことで、従来のドキュメンタリー写真は発表の場も無くホントに難しくなりました。
しかも世界同時進行です。地球上のどこからでも、誰にでも情報をアップ出来るようになり、
従来のプロ写真家というカテゴリーがすっかり怪しくなってきました。」---

しかし、こういう事態も、カメラの進歩と、人間の意識が変われば、簡単に乗り越えられる様に思います。大画面の写真を何枚も展示できる写真美術館が必要です。カメラ業界にも、こんな写真が撮れる超高解像度カメラや超高性能大型プリンターを早く造っていただけたら幸いです。

写真家 野町和嘉は、準備が出来ています。次にあげる写真のように、意識はもう新たな次元を走り始めているのですが、周囲は、写真界消滅で茫然自失の状態で、アドバンテージに気がついていない状況なのです。
もう野町和嘉も若くはありません。次の写真家、写真界を育てたいと長年願って来ました。この「写真の未来」ブログも、その意思に添いながら、書き続けて来たのですが、今回は、新しい時代に向かう変化の提案になったでしょうか。気になるところです。


(オマケです)
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今人気の、生きているように描く「写実絵画」とは、写真のレンズによる画角空間を使い、結果的には遠近法になる方法や、写真のアウトフォーカスのボケを立体感の表現に使ったりして、写真の感覚空間に慣らされた現代人に「写実」を感じさせている絵画群です。でも、超解像度カメラの複雑性までには精密は及びません。
人間の感覚器官が感じる、感触、空間、立体、環境、物体などを、脳内でビジュアル化し描く場合、写真がまだ無い時代の絵画では、逆遠近法。立体を平面的に描く。左右片眼で見た角度の違う二つの映像を合成する。自然界には無い輪郭線を描く。空気遠近法。そして、スフマーフ技法など、遠近法以外は科学的方法で十分吟味されてはいませんが、しかし、人の現実感覚に馴染じむ表現方法で、脳内に映る対象や記憶を描いています。

人は、広い景観に出会うと、左右を見て全風景を視覚で捉え、画像を補い合成し脳の「記憶」に納めます。写真では、広角レンズで、歪みが目立たないように撮影します。ですから、人間の記憶にある景観と写真の画像とは違っているのです。つまり、脳内では「記憶」でも、写真の方は記憶でなく「記録」と呼ばれることになります。
現代では、写真の「記録」を、後に脳で「記憶」として置き換えたりすることもあります。友人に、昨日ここへ行ってきたよ。と、写真の「記録」を見せて、自分の「記憶」の代わりにしてしまうのです。そして言葉の理解も、違うと分かっていても、それに従っています。しかし「リアルな存在や物体」とは「記憶」のものなので、新時代の「リアルな存在や物体」を創る写真を「記録」とは呼ばないで欲しい。

(オマケ2)
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アーチスト自身の暗黙知を言語化する。とは、小説家の作業です。絵画では歴史画がその代表です。また、自分が知る言葉で唄われる歌がそれになり、知らない言葉、例えばポルトガル語の歌は、ただ、歌手や演奏家の暗黙知のみを感得することになります。
言葉やミーム(言葉や文字などで伝えられる情報)を暗黙知化する作業とは、ベートーベンの音楽です。近代から始まり現代に続く、理解方法や時代知性の先駆けになります。
古代、社会的なものの萌芽が、国のレベルまで拡大すると、言語がコミュニケーションの主流となり、言語思考による法律、政治、お金、社会的絆が生まれ、やがて「言葉での理解が、理解の全てになる」がベースになる、キリスト教のような善なる合意の生活世界が成長して来て、現代地球を迎えます。
しかし、人間は、元々、暗黙知と言語思考の違いを、意識と無意識と同じように、はっきりとは認識できず、一連の認識や思考の中でも、二つの間を行ったり来たりしています。それは、三つ以上のことは同時にできない、又は難しい人間の特性が原因なのですが、そしてそれが人間の感情、知性、思考の窮屈な形を生みだしていて、根がフリーなアートもその影響を免れず、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創りたいという欲求は、そのアンビバレンツ(相反)からの脱出欲求なのです。また一方、言語思考が出発の原点であった筈のインターネットの進展が、自らの堅固だった筈の言語思考の構造そのものをも壊し始めている予兆があります。そのことに気付けば、近い将来、二つは機を一つにする予感がします。
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● 野町和嘉の、高解像度カメラによる作品を紹介します。

これらの写真が、デジタルプリンターで、幅6mの大画面に出力されていると想像してご覧ください。

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