写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

成仏の方法(6)

2016年05月10日 | 成仏について
「身」つまり身体と「成仏」とはどんな関係にあるのでしょうか。
輪廻転生や即身成仏で、肉体はどうなるのだろうか?。
輪廻転生で、人は死ぬと、死から49日の中陰の間に、次の女性の子宮に入り転生するか、成仏して仏になれと言われます。するとその中陰の間は、魂や霊体のような身体が無いものになるだろうか。
即身成仏では、生身の肉体が生きている間に、生物学的身体を持つ如来に変質するのだろうか。
これらの疑問が、「成仏」という教えに首を傾げざるをえない原因であるかと思います。

先回もお話ししたように、科学とは、対称性の真空の世界から、ビッグバンの何度かの対生成、対消滅を経て、反物質が消え物質だらけの存在になった世界、そしてその世界の全物質と存在、つまりそれら物事の消息を、分析研究している言語思考であると言いました。
その反物質が消えて物質だらけの存在になった世界で、魂や霊体とは、つまりそれは、万人の感覚器官には、もちろん科学的観測機器にも捉えられないので、観念的想像ではないのか?。
即身成仏で仏に変化した肉体は、今まで確認されたことがないので、科学的対象にならないのではないか。だからそれらは、物質などではなく、存在していないのではないか。
宗教とはそんな怪しげなものを扱う、精神世界だけのお話ではないのか。もしや科学の可能性として考えるなら、まだ十分研究が進んでいない反物質か、かっては物質だったが対称性に戻ってしまったものなど。つまりそれらを研究する学説や科学的観測機器が開発されていない、未知の存在物などではないかと…。
事実、科学、特に素粒子論や宇宙論、中でも量子論の進歩が、これまで仏教が説いてきた存在論と似たことを言いだして来ているので、仏教の教えを、科学の理論で説明できることが多くなっています。当ブログでも、対称性の破れ、対生成、対消滅などの科学の理論を借りて説明していますが、気をつけなければならないのは、言葉の中に言葉の意味を求めることです。「言葉の理解が理解の全てになっている」現代では、特にそれが強く。言葉は、月を指差す指先であり、本当の月では無いことを忘れがちになっています。なぜそうなったかは、これまでお話ししてきましたが、でも肝心の「言葉の理解ではない理解」とは何か。をお話ししなければ、それも単なる空論ということになってしまいます。

成仏の方法(4)で、言語思考以外の意識思考理解には、無意識、対称性の思考などがあり、例えば「気づき」「深い瞑想」「自己犠牲の祈り」「アハ体験」「以心伝心」「セレンディピティ」「シンクロニシティ」「神話の思考」「野生の思考」などの思考行為は、砂糖が溶ける時間を待つことなくスピーディーで、遮るものなく直ぐ「意」のものになり、二項分類(対立)などに囚われることもなく自由に、「意」本来の能力を表します。と言いました。
「意」も「口」も「身」も、本来、融通無碍で制限がなく透明で対称性の状態なのですが、何故そうなのか?、この状態では、能力もエネルギーも存在も、全知全能無限永遠の存在である「仏」と同じ能力の可能性を秘めている。と、思われるからなのです。
言葉は月を指差す指先なので、言葉の中に意味を求めても、言葉以上の意味は存在してはいません。言葉は「全知全能無限永遠」と表現はするけれど、言葉に求めても言葉からは、「全知全能無限永遠」の理解は得られないのです。

ここは、「身」についてお話ししているので、本来、融通無碍で制限がなく、透明で対称性の状態とは何か。そしてそれを実現する方法は何か。は、「身」によって、お話しすることにします。
先ず、「身」とは何かを考えてみます。分析には、理解ツールの選択が肝心とお話ししてきました。また、言葉での理解は言葉の範囲を超えては不可能である。この認識は、言葉の理解でも合意できると思いますので、この先、理解ツールを言葉で説明するのが難しくなることが予想されます、そこで論理の飛躍や破綻があっても、言葉での理解を超えた理解で補っていただくことに期待する事になると思います。
ここで、注意をして欲しいのは、「意」にも「口」にも「身」にも、言葉を越えた意識や認識の能力があるということです。、何しろ、本来は、融通無碍で制限がなく透明で対称性の状態ですから、言語思考を離れた立場で客観的に分析できて、それが出来ないとなれば、人は、生まれながらに言葉理解の無間地獄に囚われていて、言葉がいう如来などにはなれないということになるからです。

では、「身」の分析認識ツールの吟味から始めたいと思います。
お腹が痛い時、無意識に痛いと認識してその部分に手を当てたりします。しばらくして「お腹」「痛い」の言葉が意識に浮かぶのですが、浮かぶまでの間は無意識が働き、その間の認識は感触も意味も位置も時間も無意識流に分かっています。お腹が痛いという物事には、無意識と言語意識の二つの認識理解が交互に関係しているのです。現代では、「口」による意識へのフォーカスが、直ぐに、言葉の二項分類(対立)での理解(言語思考)に繋がってしまい、社会生活ではそれが多くを占めますので、お腹が痛いは、言葉での「お腹が」痛いのみを認識し、その前に無意識の痛いがあったことを忘れてしまいがちになっています。

そしてここでは、言葉での理解を超えた理解認識を得るために、その無意識の痛いを認識する能力について考えていきたいと思います。

「身」とは何かを言う前に、身体の隅々まで、知らなければなりません。肉体は一番身近にある物体であるのに、我々は多くを知りません。例えば、足親指の先の小さな細胞一つ一つを意識認識をしているでしょうか。心臓の弁が動くのを感じるでしょうか。脳の細胞の一つ一つが、どんな機能を働かせているのか分かるでしょうか。自分の外部にある自動車の構造やコンピュータ回路、その部品の一つ一つの構造や動き働きなどには、学んだり調べ組み立てたり、夢中であるのに、自分の体の骨や臓器、筋肉、神経、循環している血液、細胞の一つ一つ、生命がそれらを動き出させている様子など、日々、生きた意識で認識をしているでしょうか。せいぜいが、肉体の解剖図、骨の構造図、神経のネットワーク図で、個人的にはレントゲンやCTIの画像で、内臓の形、そこには血液が流れていて、脳の自律神経で心臓が動き血液を循環させている。脳は脳脊髄神経で筋肉を働かせ身体を操っている。などなど、本で読んだ、つまり言葉で与えられた静的な医学の知識レベルで認識しているように思います。
しかし、本当は、「身」の感覚は、刻々と「センサー」を働かせていて、肉体の情報を得ています。急にお腹が痛くなった時などは、言葉で「痛い」を認識するので、その感覚センサーの存在を意識はできるのですが、普通は言葉の意識の裏に隠れて(隠されて)、無意識とラベリングされて、感覚センサーは無意識下で動いています。
そこで、この感覚センサーを意識的に働かせることができれば、自分の肉体の細胞の一つ一つまでも隈なく意識し認識できることになるのではと考えられます。

自分が小さな小さな細胞レベルの小人になって、身体中を巡ると思ってください。思うというより感じてください。体内を通り(血管や骨髄、神経の中を通ってもいい)足の親指の先に小人が到達したら、辺りを見回し、小人の感覚センサーで一つ一つの細胞がどうなっているのか、小人の目で見て触り感じてみてください。小人はつまり自分ですから、自分の感覚で感じることができます。心臓の中に入って、血液の流れを感じたり、弁の動きを見たり感じたり、弁そのものに入り込んで、一緒に動いてみてください。手塚治虫の漫画にあるように、小人になって体内に逃げ込んだ犯人を捜すように、また観光旅行の気分で、全身隈なく、できれば細胞レベルまで、見て感じてください。今日は親指、明日は腎臓とろっ骨というように、毎日続けると、各部にその都度様々な体験が待っていて、さらに続けると感覚のセンサーも慣れてきて、楽しみに変わり、やがて右足の親指を感じただけで、親指全体の細胞レベルの構造や動きと働きが瞬時に繊細に把握できるようになってきます。何日も何日も、例えば就寝のベットで眠りに入る一時を使うなど、根気よく続け、肉体の7、8割作業が進むと、やがて身体の部分部分と全体とが常に連帯し呼応する、前述の、空海の「重々帝網」のようなネットワークとして感じられるようになります。さらに全身に及び熟達すると、肉体の各部の働きと連携、その滞り、全身の様子が瞬時に理解できて、病気のシグナルなどもわかる様になってきます。
感覚センサーには、前に眺めた箇所でも、調べれば調べるだけその都度新しい情報が与えられてきて、限りなく情報の贈与を受けている感じになり飽くことがありません。無限に続きます。永遠無限とは、こんな感じなのかもしれません。
これは無意識の感覚センサーを意識的に動かす方法なのですが、ここでは「口」の意識へのフォーカスも働いていて、そのフォーカスが「言葉」を意識すると、言語アーカイブから対応する言葉が取り出され、対応が無い場合、新しい言葉や言葉の組み合わせが創られ、言語記憶アーカイブに記憶されていきます。
言語思考は、科学的解剖の成果から、情報を認識しビジュアル化し、肉体の解剖図、骨の構造図、神経のネットワーク図などで外部記憶として残しています。これは言語記憶アーカイブによる成果ですが、それを探求し推進する初期段階では、感覚センサーや意識をフォーカスする力が寄与しています。
そのため、肉体の解剖図から、心臓の構造を思い浮かべ、小人の感覚センサーに重ねて、心臓の中を探求する方法が、効果を高めます。それは無意識で動いていた感覚センサーが意識化されることにはなるのですが、それでただちに感覚センサーが対象を離れ言語化される訳ではありません。
感覚センサーの意識と言語の意識は、全く別物です。言語は、物事の全てをラベリングし言語化しようとしますが、感覚センサーの情報量は、常に言語思考を越えていて、言語ですべてをコピーできる訳ではありません。抽象化が行われます。言語は、月を指差す指である。と言われる所以です。
そしてさらに感覚センサーで一度体験し、言語記憶アーカイブにそれが記憶されたので、体験の総ては言葉に全部記憶された。と考えるのが「言葉での理解が理解の全てになっている現代」の特徴なのです。

ここで、整理をしてみます。
「身」の感覚センサーが働き、意識が始まる。「口」がその意識をフォーカス。言語化されれば「意」の対称性が破れ、言語思考により「存在」が発生する。一方、言語化せず、意識をフォーカスしたまま、感覚センサーを働かせば、「意」も「身」も「口」も対称性を維持したまま感覚センサーから続けて際限なく情報を得ることができる。つまり「言葉の理解ではない理解」とは、「繊細な意識」という事になります。

密教では、前者の言語思考による意識認識を「粗雑な意識」。後者の対称性を維持したままの意識認識を「繊細な意識」と区別しています。
現実では、両者ともに必要な意識なので、「粗雑な意識」と「繊細な意識」は交互に現れ、お互いがお互いを利用するバイロジックな状態にあります。
仏教で「悟り」と言われる状態は、日頃意識されることが少ない「繊細な意識」に、長くとどまり、深化させ、永遠無限全知全能を感じられる程に、つまり成仏を実感できる状態にとどまり続けることを言います。
密教の教えとは、その「繊細な意識」の説明、分析、進化について学び、実践することに他なりません。ですから、言葉で書かれた仏典は、読むと言語思考する事になるのですが、内容は言語思考意識ではなく「繊細な意識」を知り学ぶ事になり、読み進むと、理解の端から理解のツールである言語思考を切り捨てていかなければならない、奇妙なそして命の生存としては心細い状態になってしまうのです。継続には余程の自覚が求められます。
ここまでくると漸く、入口の門にさしかかった思いがします。しかし実際は、この先厳しい修行を、例えば何遍も輪廻転生を繰り返し言語思考を捨て去る修行をしたとしても、上手くいかないと言うのが現実で、上手く行く方法を求めて、さらに万巻の経典が表されるという事になります。

次回からは、言葉を綴って行くと、その言語の理解の端からその言語の思考を切り捨てて行く事になるのですが、釈迦は、これら因縁で生じたものは、実体がない、「空」であると言っているので、そんな心細い話にならないのではないか。それとも釈迦が、言葉では表せないと言うような、もっと厳しい事になるのか。言葉であるブログでは表せないことになるかも知れません。