写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

レンズの自由意思- 5

2010年04月06日 | 「レンズの自由意思」
 インターネットの登場で、写真の需要は、爆発的に増えたと言うのに、反比例して、プロ写真家の写真は、急速に露出を減らしているのは何故なのだろうか。写真集、雑誌などのメディアの衰退と軌を一にしているから。さらに、インターネットに写真を出しても、課金システムが機能せず、また簡単にコピーされ著作権が守られないから。つまり、インターネットはプロ写真家には敵であるから。などが理由で、プロ写真家には表現とビジネスの場が減少し、衰退の途上にあるということになっているのだろうか。

つまり、インターネットの出現で、社会や文化が、情報革命で大きく変わろうとしていることと関係しているのですが、では、その変化とは何か。その変化の未来とは何か。を知れば、プロ写真家の写真にも、復活が可能になるのだろうか。

先ず、インターネットで写真の需要が爆発的に増えた理由から見てみましよう。

インターネットは、言語思考をサポートするために発明されたコミュニケーションツールですが、そして、この新しく出現した発明品の説明に、「Home Pages」という、bookの概念(言語思考)をあてました。
人間は、新しいモノを表現し伝達する場合、「既存」の概念や言葉でしか、未知や未来を表現出来ないので、既存のbookの概念を使ったのは仕方のないことなのですが、でも、「 Pages」とは、ページをめくり、読み進んで行く、つまり線形的なのですが、webコンテンツでは、バケツの中に投げ入れられた情報を、リンク或いはタグで掬い上げるような、つまり非線形的な動きが出来るので、「Home Pages」という名称は、本当はあまり正確ではなかったのです。
確かにwebは、言語思考をサポートする期待から、bookの概念で発明されたものなので、間違いではないのですが、しかし、例えば、今流行のTwitterでは、文字を書きそれを読む手続きが、便利になったと言っても、煩雑で遅くて、人間は、究極、テレパシー的(無意識)理解を望むので、もどかしく思っているのも事実なのです。活字人間には辛い話ですが、インターネットでは、web = 言語 = bookの概念 =「Home Pages」=「理解」の関係は、希薄になる運命にあるのです。
そして写真についてですが、写真は、その言語理解の遅さをカバーするために、つまりエンジンをサポートするターボ機能のような役割で使われています。前回からお話ししてきた撮影法で言えば、第五の、言葉の代わりや言葉理解のサポートのために撮影された写真が、爆発的に増えているのです。
でも動画に取って代わられるのではないか?。の疑問については、動画は、bookの概念と同様、線形的で、見終わるまで、つまり理解までに砂糖が溶ける時間を待たなければならないもどかしいツールなので、人間が望むテレパシー的(無意識)理解には、直感的な写真の方が重宝がられると思います。

言語思考をサポートするために発明されたインターネットなのに、使ってみると、言語思考や言語理解のスピードは遅かったんだ。と気付かされ、また人間は、究極、テレパシー的(無意識)な理解スピードを望んでいることも分かってくると、インターネットでは次の技術進歩が期待されるようになってきました。

有史以来、言語思考の進化が進み、今日では、言葉での理解が理解の総てになっているのに、言語思考や言語理解のスピードは遅かったんだ。と言うことになると、革命の芽が芽生えることになり、所謂インターネットの「情報革命」とは、この内容を語らなければならなくなってきています。

先回から、「レンズの自由意思」のタイトルで、写真の能力についてをお話しをしてきましたが、その理由は、写真は「情報革命」で、言葉エンジンのターボ機能などではなく、革命の主要なツールになるのではないか?。と思い、それには写真本来のパワーを取り戻さなければならず、そこで今一度、新しい視点で、写真の機能、能力を知っておきたいと考えたからです。

これからの「情報革命」の進歩とは、言語思考では、「ページリンク」が言語理解と言うことになるだろうし、写真は、撮影者の「無意識」を写し撮ることが出来、鑑賞者もそれを感得できるので、本当のテレパシー能力以外では、写真が一番、理解スピードが速いツールということになるでしょう。
また、絵画などのモダンアートは、現在は、言葉での理解が理解の総てになっているので、表現も粗い知性である現実意識(言語思考)を満足させる作品が多くて、そのライバルは村上春樹になっているのですが、本当の幸福感を感じるのは「無意識」なので、今の表現法を言語思考対応から、新しく「無意識の意思」対応に変えなければならないことになるでしょう。

活字人間には辛い話ですが、人間にとって「理解」とは何か。を巡って、心、意識、脳、肉体、感覚器官などの人間内部。そして、インターネット、写真、絵画、音楽、芸術、知識、科学、思想などの外部ツール。法律、自由主義、民主主義、などの社会体制。などが、根本から総て問い直される、その入り口に、間もなく立たされることになるでしょう。

レンズの自由意思- 4

2010年03月21日 | 「レンズの自由意思」
先回から、レンズは、撮影者の意思(無意識)を、フィルムに写し撮ってくれることをお話しして来ましたが、レンズは、無意識だけではなく、現実意識(言語意識)も写し撮ってくれます。

現実意識とは、論理的であるので、社会生活やコミュニケーションに支障を来たさない「言語思考」を主にしています。人類が言語を手に入れてから現在まで、人と人との親和、地域の対話、国の統合に用いられ、慣用としてまた明文化された法律として、さらに、「はじめに言葉ありき」のように、キリスト教では宗教の始まりに、そして、仏教では、人の成り立ちを説明する、身体、言葉、心の三密の一つとして、つまり「言語思考」は、人間に固有の生まれながらの能力であると認知されてきました。
また、今日の人類の繁栄をもたらしている、民主主義、自由主義、資本主義などの社会形態。そして科学も。科学とは、科学的真実を、言語に翻訳し、科学論文で審理する「言語思考」そのものであり、そしてこれら諸々が、 紡がれ縦横に織られて、人類繁栄の基幹をなすパワーと考えられるようになってきました。でも、今日では、それが進みすぎてしまって、「言葉による理解」が「理解」の総てである。と、ついにはこれに異議を唱えそうな芸術においても、表現の主流になったりしています。そして、他の理解、例えば無意識理解からの異議などは、無垢な子供や芸術からの異議であっても、さらに、現実意識は無意識の代弁者でもあるのに、病的、時代遅れ、幼稚、あるいは野蛮の名の下に、排除され続けています。

しかし、人が真の幸福感を感じるは、無意識であり、現実意識の幸福感、例えばお金が儲かったなどは、一時的には嬉しくても真の幸福感ではなく、持続的に、正しく美しいと感じる幸福感は、無意識の担当になります。しかし無意識は、非論理的で、我彼、過去未来を自由に動きまわる対称的意識ですから、現実意識と複合論理(バイロジック)で働かなければ、つまり現実意識が全権を掌握する無意識の代弁者とならなければ、総合失調症(分裂症)などの誹りを受けかねません。その危険からか、言葉による理解を「理解」の総てにしようという魂胆になるのでしょうか。そうすれば、社会の一つのリスクは無くなりますが、代わりに、多くの他の不幸を受け容れなければならないことになり、現代人は真の幸福感を永遠に感じることができなくなっています。つまり、キリスト教の原罪や仏教の煩悩から逃げ出せなくなってしまうのでしょうか。

このような現実意識と無意識の関係を元に、次に二つめの作画意識による撮影法を見てみます。
二つめの作画意識とは、それは、撮影のために、無意識や現実意識から、仮想のイメージを生みだすことから始めます。さらにその仮想のイメージを、具体的な画像のイメージ(絵コンテなど)までに高めるのですが、この場合、シナリオのような言語思考を元にしたフレームワークを借りることが多くなります。ビジネスの販売促進を目的とした「広告写真」や「商品説明写真」など、そのビジネスそのものが、現実意識(言語思考)ですから、無意識を写真に写し込める。としても、用途として現実意識が写り込んでいれば十分なので、逆に、空想的で流動的で制御が難しい無頼の無意識は敬遠され排除され、広告写真の美女は、ステレオタイプの無味乾燥な記号の美人イメージで良いことになります。

つまりそれは、言語思考(現実意識)の粗い知性だけをなぞって生みだされたものなので、言語的理解をサポートする役目だけの写真ということになってしまうのだ。まれに、 巧妙に、優れた撮影者が、無意識の意思を、調味料的に入れ込むことがありますが、大抵は、ビジネスやメディアなどの、大きな現実意識の目的に包み込まれて、無意識の反乱は霞んでしまいます。
つまり、 フランスの思想家ロラン・バルトが有名な写真論の中で言う「プンクトゥム=見る者を突き刺す」が弱い写真ということになります。



つぎに、現実意識(言語思考)と写真の関係について、 大西成明さん写真を例にお話しします。


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リハビリや介護は、現実意識が構成する現実生活や社会の中では不自由になった身体や精神を、再適合させようとする現実意識の行為です。
身体や精神のバランスを司るのは無意識ですから、粗い知性の現実意識から不自由と言われても、繊細な知性の無意識はそう思ってはいないかも知れない。人間の感覚である、臭覚、味覚、触覚、聴覚、視覚、特に体内感覚が苦痛を訴えなければ、無意識は、この社会的に不自由な肉体的現実でも不満はないのかも知れない。あるいは、持つ必要がないのかも知れない。
大西さんの写真からは、患者の無意識のそんな戸惑いの状況と、現実意識が強いてくる、介護リハビリ思考、介護施設、介護士、時代意識などの社会的要請。その間での戸惑い、しかしまた、ここには時に感謝が生まれたりするのですが、そんな状況を見事に捕らえています。

現実意識と無意識そのバランスにおいて、今日では、 無意識を厳しく抑圧する程までに現実意識が優位に立っているので、 リハビリや介護では、患者の無意識の本当の有り様を感じ取ることが出来なくなっています。本などの言語で書かれたリハビリや介護の現状報告からも、生では伝わってこない患者の現実が、大西さんの写真から伝わってくるのは、これも大西さんが「無意識の体内感覚の意思」でシャッターを押し、無意識を写真に写し込ませているから得られるものなのです。
しかし、撮影法となると、これは、第五の、言葉の代わりや言葉理解のサポートのための写真撮影法になります。何故なら、この写真は、現実意識が構成するリハビリや介護の現状を、まず先に言語(シナリオ)が仮想し、仮想が現実意識で理解されることを優先するため、現実意識を表現する最良の手段である、Bookの方法で撮影するからです。つまり、写真が言葉になって、言葉を発し説明させられているからです。
しかしここでも、レンズの自由意思は、レンズに映る物は何でも写してしまうので、 現実意識が仮想する以上に多くのものを写してしまい、結果的に、鑑賞者の無意識も満足することになります。
フランスの思想家ロラン・バルトが有名な写真論の中で言う「プンクトゥム=見る者を突き刺す」の「プンクトゥム」は、このレベルでの指摘です。



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そもそも、人が「美しい」と感じるのは、何故なのでしょうか。視覚からの美を考えると,初めに光があって、対象を目で見て、視覚で認識し、心が働き、美しいと理解します。
この「美しい」の中には、粗い知性の言葉が言う「美しい」では捕らえきれない多くの美の要素があるので、他の総ての「美」を捕らえるのは、繊細な知性の無意識ということになります。
また、現実意識(言語思考)が「美しい」と言うのは、美術品や骨董品の市場価値である価格表示のように、比較が可能な「論理的に美しい」が「美しい」であり、抽象的に言葉が「美しい」という場合は、無意識が捕らえる「美しい」を言葉が代弁しているにしか過ぎません。
ですから、言葉で何万語、美しいと言ったとしても、それは、単なる解説であり、予告編の楽しみであり、真の「美」を感じるのは、目の前に実物を見て、無意識が感得する以外にありません。

では、実物を撮影した写真は、何になるのでしょうか。
例に挙げた大西さんの写真は、ギャラリー経営の塚田晴可さんとのコラボで、美術品そのものの美しさと、さらに、見立て、取り合わせなどの魅力を、大西さんが撮影で切り取った作品です。
そしてこの撮影法も、二つめの作画意識である、無意識や現実意識から、先ず、仮想のイメージを生みだすことから始めています。「美しい」という仮想イメージです。
「美しい」ものを見ると幸せ。という感覚が「美」の解説には近いと思いますが、「幸せ」もやはり、言葉で説明しようとすると書くそばからこぼれ落ちてしまうものなので、やはり無意識の担当になるのですが、その「美」を直接に表現する撮影法には、第四の、レンズの自由意思を意識しながら、でも最低限、撮影者の意思を残す方法。理想は、我が子の笑顔の撮影法なのですが、それでは、 現実意識が求める、 見立て、取り合わせなどの「美」を写し取ることはできません。無意識側から眺めた現実意識の要請に応えることは出来ません。

我々は、日常、現実意識で、時に無頼になる無意識をコントロールし、破綻のない生活を過ごしていますが、現実意識が「美」と言う時は、無頼な無意識を呼びださなければならなくなり、岡本太郎の「芸術は爆発だ!」にならないために、安全上、「美」を現実意識(言語的)の管理としておくために、無意識側から眺めた現実意識の「美」の作法として、見立て、取り合わせなどを考え出したのではないでしょうか。無意識は、我彼、過去未来を自由に行き来する流動的な意識ですから、見立て、取り合わせなど、無意識には当たり前の振る舞いで、この振る舞いに無意識は、無意識なりの洗練があるのですが、さらに加えて、現実意識の「美」とは、他に比類がないという意味で非対称性であり、無意識の「美」は、汎と言う意味で対称性から生まれるので、つまり、日常生活で「美」を扱うときには二律背反が必ずつきまとうので、その解決もしなければならないのです。
しかし、現実生活での現実意識は法律に従わせる警察官の役割ですから、 現実意識の縄張りである見立て、取り合わせでは、無意識は、言うことを聞かなければならない状態になっています。

この状況を、撮影法で説明してみます。
この写真撮影でも、「美しい」という仮想イメージを抱いたとしても、それから先は、現実意識の暗黙のシナリオ(見立て、取り合わせ)に、撮影者の「美の無意識の意思」が従うカタチを取ります。
粗い知性の現実意識(言語思考)が、どれだけ論理的に「見立てが美しい」と言っても、無頼で奔放な無意識が夢見させてくれるファンタジーに敵うはづもないのですが、従わなければ見立てが成立しないので、この意味でも、言語理解をサポートして生まれる写真ということになります。
このような撮影には、写って欲しくない物を画面から外せ、光もコントロールできる、スタジオ撮影が最適です。スタジオで撮影者は、シャッターはなかなか押せません。現実意識が無意識を十分に殺しきったという確信がシャッターチャンスということにになります。それでもレンズの自由意思に助けられ、無意識はしぶとく、ぎりぎりの無頼の残り香を写真に残して行きます。それを「残余の美」と捕らえて、日本の「美」を嗅ぎ取ることになるのです。

では、実物を撮影した写真は、何になるのか。
ここまで、大西さんの写真で撮影法を説明してきましたが、「川の写真」と「脳の写真」二つを並べ眺めると、取り合わせの「美」になるのでは。

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これを、現実意識の「言葉」で説明するのは、それが詩や歌であっても、野暮というものであろう。


レンズの自由意思- 3

2010年03月14日 | 「レンズの自由意思」
「レンズの自由意思」の第一回で、「撮影者」と「レンズの自由意思」の関係で仕分ける、五つの撮影法をお話ししましたが、さらにそこに、撮影者の作画意識からの分類を加えて、撮影法をお話ししたいと思います。

作画意識その一は、シャッターを押す前に、撮影者は、先ず、自分の臭覚、味覚、触覚、聴覚、視覚、そして体内感覚を動員し、被写体を眺めます。写真ですから視覚が主になりますが、そこから受ける感覚や被写体の魅力を、写真技術で写真にしようとする撮影法です。
視覚からの感受は、現実意識(論理的な言語意識)と無意識(流動的で非論理的)で意識されますが、さらに記憶との照合を経て生まれる理解と心で、こう撮りたいああ撮りたいと仮想し、五つの撮影法のいずれかの方法で操作に向かいます。そして、シャッターが押され写真が生まれます。

この作画意識の場合、五つの分類の中では、第三の、レンズの自由意思に無関心な方法。アマチュアカメラマンの我が子をよく知るお母さんが我が子の笑顔を撮る時の撮影法が一番自然なのですが、これではプロ写真になりませんので、第四の、対象を分け隔てなく総て撮ってくれるレンズの自由意思を意識しながら、でも最低限、撮影者の意思をどう残すかの方法になります。

野町和嘉の場合、地球があって、大地に垂直に、人や木や山や砂丘や建物や大気や空がある。この肉体と感覚の根源的なバランス感覚(大地感覚)が「撮影者の意思」であり、他はレンズの自由意思を尊重する方法なのですが、他の写真例を見てみましょう。
多くの写真家の場合、「撮影の意思」を一つか二つにして作品キャリアを深めることが多いのですが、種々の「撮影の意思」を操りシャッターを押す、写真家大西成明さんの写真を例にこれからはお話ししてゆきます。


始めの一つは、 撮影者が「物質への無限意識と意思」を持って、です。


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絵画で言えば、マチエール、テクスチャーの「無限・永遠」になりますが、前に「永遠のモナリザ-2」で詳しくお話ししたように、 マチエール、テクスチャーとは、絵画の質感表現の事を言い、 「モナ・リザ」では、顔や胸や手の「肌合い」の表現であり、それは「無限・永遠」の表現になります。
レオナルド・ダ・ビンチが行う方法は、皮膚には、毛穴や皺やがあって、細かくは細胞がある。究極には原子があってクオーク、超ひもがある。その無数に無限にある手の要素を、絵具で、一つ一つカンバスに描こうとする方法です。現実には、写真と同じように表面の皮膚しか描けませんが、表層であっても細部まで見て行くと宇宙の無限に匹敵する無数の要素があって、その無限意識を、画家の意思にして、写真の場合は写真家の意思にして、筆を進め、シャッターを押す方法です。撮影者が無限意識(無意識)さえ持っていれば、そのほかは、レンズの自由意思が、人間の感覚の能力以上に、「物質の無限」を写し撮ってくれることになります。


次は、撮影者が「記憶への無限意識と意思」を持って、です。


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それは、例えば「美人の人形」であれば、 撮影者は、人形から浮かぶ美人のイメージに触発され、それに似た「記憶の美人」を求めて、頭脳や心の中へ発見の「旅」をすることになります。
カメラマンは、自分の記憶の中から人形に似た「美人の記憶」を探し出し(無意識の意思)、その風情に倣って写真技術で写真に表現します。
もしカメラマンに、その人形の美人イメージに触発される「美人の記憶」がなければ、彼には美人ではない美人人形の写真が出来ることになります。
そして鑑賞者は、前に「永遠のモナリザ-3」で詳しくお話ししように、歌麿の「輪郭線」で描かれた浮世絵美人を眺めるのと同じく、写真を見て、自分の記憶の中から「記憶の美人」を探し出し美しいと感じることになります。

ちなみに「美人人形」を、「物質への無限意識と意思」で撮影となると、先ず、恋人や妻の顔、むしろ電車にたまたま乗り合わせた見知らぬ美人を、まじまじと見つめるように眺め、その魅力を見つけ出し、写真技術で写し撮ろうとしますが、対象の人形に恋することが出来なければ、美人の人形であっても、撮られた写真からは、学術研究用のような木に塗装を塗られた工作物の印象が強くなります。
つまり、「記憶への無限意識と意思」は自己の内部(記憶)への探究であり、「物質への無限意識と意思」は自己の外部への探究ということになります。

そして、二つの場合とも、レンズの自由意思は、撮影者の意思と関係なく、色やカタチなど、レンズに映っているものは分け隔てなく総て写してくれます。


次は、撮影者が「空間への無限意識と意思」「無意識の大地感覚」を持って、被写体の魅力を自分の写真技術で写真にしようとするです。


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「無意識の大地感覚」は、地球が誕生し重力が発生した段階で、地球上の総ての物質、生物に付与される根源的な感覚です。野町和嘉の例で分かるように、この意識で撮影すれば、重力(大地と垂直)と地球は丸いという根源的な感覚が、鑑賞者と共有できて、これは地球の風景であると理解されます。
そしてこの「大地感覚」を持った風景空間には川が流れています。
川は下流から上流からどちらから撮っても、川の流れのパースペクティブ(遠近法)を意識することになります。また、空が登場すると、空の彼方、つまり無限遠と、遠方が限りなく小さくなる遠近法との対比を考えなければなりません。無限遠とは限りなく大きく深い事なので、遠方が限りなく小さくなる遠近法と矛盾するのですが、人間の感覚はその矛盾こそ空間感覚・意識としています。事実、川下からの撮影では、川上は限りなく小さく写るのですが、さらにもっと遠くにある空は、それより大きく写真には映っています。
それを矛盾というのは、科学的(言語思考的)におかしいと言われるかも知れませんが、東洋の水墨画では、遠方の山を近景より大きく描く、逆遠近法がありますので、繊細な知性である無意識の認識レベルでは正しい感じ方でもあるのです。
「空間の永遠・無限」について、詳しくは「永遠のモナ・リザ-1」をご覧下さい。

また、このような関係は、量子論的であると言えます。量子論では、例えば、原子核の周りを回る電子の位置と運動は同時に決められないという「不確定性原理」が働きますので、そこで電子の軌道の描画は、霧のようになって線が引けないことになるのですが、写真では、量子論的であっても、川のパースペクティブと空の無限は、 同一画面に描画できていると考えられるのではないでしょうか。

川の流れの「流れ」は、また、流れる時間の経過という時間意識を連想させます。
そして時間意識と空間意識との間にも量子論的関係があります。空間を意識していると時間感覚が希薄になり、時間を意識していると空間が見えなくなって来ます。
写真や眼は視覚ですから、空間意識は得意ですが時間意識は苦手です。絵画の場合、時間意識の表現は、汽車や馬の疾走、煙のたなびき、など、画面では静止していても、つまり時間が経過している感覚の発露を、鑑賞者の意識に期待する方法を取ります。
生物学的に視覚は、大脳新皮質に結ばれていて、より言語に対応していますので、絵画や写真は、粗い知性である言語理解レベルでしか、時間感覚を表現できないのかも知れません。

つまり人間は、川の遠近法と空の無限遠を同時に意識できず、また。川の流れの時間経過と景色の空間も同時に意識できないのですが、しかしレンズの自由意思は、その総てを同一画面に表現してくれています。

次回は、写真家大西成明さんの次の写真を例に、 もう一つの作画意識である、無意識や現実意識から仮想のイメージを生みだし写真にする撮影法をお話しします。


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レンズの自由意思-2

2010年03月09日 | 「レンズの自由意思」
先回の野町和嘉の例で、レンズは、撮影者の意思(無意識)をフィルムに写し撮ってくれていることを説明しましたが、でもこの例だけでは、レンズは捕らえた物を物理的にフィルムに感光させているだけで、撮影者の意思(無意識)という非物理的なものが写っているなど証明できない。と科学は言うのではないでしょうか。

ではその説明として、素粒子物理学の方法、電磁力とは量子力学的に二つの電荷の間で光子が交換される現象である。を説明するファインマン図に倣って、写真撮影とは、光が感光するという物理現象であるとともに、撮影者の意思(無意識)とフィルムの間で光子様なものが交換(感光)される現象でもあるという仮説を立て、これを実証すれば、科学的にも、写真にはそのような力があると言うことにならないだろうか。



何故こんな事を言うかというと、無意識とは、論理的に内容を説明しようとすると何万語あっても足りない言説不可能な意識なので、撮影者の意思(無意識)が写り込んでいることを、これから、どれだけ言葉で説明しようとしても時間が足りないと言うことになってしまうからだ。

また、科学でも真理の証明は、論文のカタチで、言葉に翻訳され理解、審理されるので、科学も言語思考による理解の一種ということになるので、科学的方法でも説明尽くせないことになる。何故なら、例えば、赤ちゃんの笑顔の解明という科学的命題があったとすると、その証明は何万語の論文より、一枚の赤ちゃんの笑顔の写真の方が勝っていることは自明だからだ。

だが無理に言葉だけで説明と言うことになれば、無意識の担当は、「詩」になるが、果たして詩で写真を説明理解できるのであろうか。
つまり、写真も言葉で説明しようとすると書くそばからこぼれ落ちてしまうものなので、言葉での理解に加えて、無意識を理解する感受器官(?)でもなければ出来ないことになってくる。

言葉の限界を見る思いがするが、でも言葉で何万語もかかるものが、写真を見ると瞬時に魅力を感受してしまう。そのとき人間には、自動的に無意識を理解する感受器官(?)が起動しているとしか思えないのだ、つまりそんな感受の方法をここでは理解の拠り所にしたい。
また、フランスの思想家ロラン・バルトは、有名な写真論の中で、いい写真には「プンクトゥム=見る者を突き刺す」があるから。と言いましたが、名前を付けたからと言って、理解や納得がえられた訳でなく、言葉の屋上屋を重ねて、分かったように見せかける、言葉の悪い性癖が出たような気がしますので気をつけなければならない。(「始めに」を参照)

ではこの理解の隔靴掻痒感はどこからくるのでしょうか。
これは、現代では、言葉での理解が理解の総てになっていることと深く関係しています。

人間は先ず、理解の前に様々な感覚で認識をします。
感覚には、臭覚、味覚、触覚、聴覚、視覚、そして体内感覚などがあります。
我々現代人は、例えば、臭覚とは何かと問われると、科学的分析と実証、そして言葉での論証をすれば答えられると考えます。臭覚を生物学的、医学的、生理学的、心理学的、人類学的に実証と論証を重ねてゆけばやがて総てが説明出来るようになり、理解が可能になると考えます。しかし、我々は、科学論文が何万冊あってもそれは語り尽くせないことを始めから知っていて、理解の隔靴掻痒感を、それは「人間の性である」というような言葉の説明で納得させられているところがあります。さらにそれを納得するのは言葉ではなく宗教であるなど、宗教にはまことに迷惑な言葉の説明で、現実の社会生活が成り立っているところがあります。
さらに視覚とは何かと問われると、この場合、一枚の赤ちゃんの笑顔の写真から瞬時に感受される理解の方が、科学的理解より優れていることにならないだろうか。つまり、言葉や科学が関知しないあるいは出来ない、撮影者の意思(無意識)が光子様のものになって、その光子がレンズを透過しフィルムに写し込まれていて、それを、繊細な知性である無意識が感知認識をして理解に進むとする考え方です。

しかし科学はこれとは別の方法を考えています。
臭覚、味覚、触覚、聴覚、視覚、そして体内感覚のうち、触覚、聴覚、視覚は大脳新皮質に結ばれていて、より言語に対応し、臭覚、味覚 、体内感覚は大脳辺縁系に結ばれ、本能、情動を支配するが、部分的にしか新皮質へは行かないので言葉への対応が薄い。と、つまり感覚が捕らえたもののなかから、言葉で説明できないものや難しいものを、言葉のフィルターで分析的に排除し、言葉が理解できる要素のみを集めて論証を進めます。
この方法では、撮影者の意思(無意識)が光子様のものになって、その光子がレンズを通じてフィルムに写し込まれるなどの、言葉で捕らえるのが難しいものは、分析段階から論証が排除されていて、でも、その効果は確かに人間感覚として認められるので、ロラン・バルトが言う、それには「プンクトゥム=見る者を突き刺す」がある。などとラベリングして、分析を中断放棄してしまうのが言葉(科学)の方法なのだ。そして、説明や理解を受ける側の方も、言葉での理解が総てでありそれを望む以上、言葉からこぼれ落ちるものには、興味が無いということになるのだ。

長々と人間の感覚や意識、理解のことをお話ししてきましたが、この理由は、写真には言葉からこぼれ落ちるものがあって、これが写真の本当の魅力であり、この時代、写真が生き残って行くためのパワーであり、そのためには情緒的に語るのではなく、科学的に説明しなければならないと考えたからです。ここまで書いてきて説明を尽くしたかどうかですが、でも明らかに写真と比べ、言語的方法や科学的方法は、何と面倒で時間が掛かるものなのか、つまり粗い知性の野暮な産物であるかがお分かり頂けたかと思います。

次回は、レンズに映し込まれる 撮影者の意思(無意識)とは何かを、先掲の撮影法の違いによってお話ししたいと思います。

レンズの自由意思- 1

2010年02月09日 | 「レンズの自由意思」
写真には、撮影者が撮った積もりのないものが沢山写っています。
絵画では、木の一本、葉の一枚でも丹念に描かなければ画面に現れませんが、写真は、葉の茂った樹木にレンズを向ければ、誰でもが写し取ることが出来ます。そしてそれは、撮影者の意思とは関係なく、対象にレンズを向ければ、自動的に写し取ってくれるものなので、それをカメラレンズの自由意思と名付けたいと思います。
カメラは自走しませんから、撮影者が被写体にレンズを向けるその範囲での自由意思と言うことになりますが、それでも、 撮影者の注視感覚を越え、撮った積もりがないものまで写っている、そんな自由な振る舞いを言います。

これは、レンズの方が人間の感覚より優れていることを意味しているのでしょうか。 機能的には、 眼球の水晶体とレンズ、フィルムと眼球の網膜は同じ原理ですので、人間にも同じものが見えている筈なのですが、人間には事後や事前に選択意識(注視)という恣意的な情報制御が働くので、注視されなかたものは、撮った積もりがないということになるのか、それとも、そもそも人間の視覚(器官能力)や情報処理能力がカメラより劣っているということなのか、そのどちらかになってきます。

もし、レンズの方が人間の感覚より優れているとすれば、これはつまり、 写真とは、常に人間にとって情報過多であることを意味し、カメラレンズの自由意思が写し取ってくるものの中には、人間の感受能力を超えた何かが写っている事になります。

これらの疑問はどうなのか、次の写真の撮影法の違いを例に見てみることにしましょう。

写真の撮影法を、次の五種類に分類しますが、それは、撮影者とレンズの自由意思との関係で仕分けることが出来ます。
レンズの自由意志とは、撮影者の意思とは関係なく、カメラのレンズに映っているものは総て写す。という、レンズ固有の性質を言いますが、
第一の写真撮影方法は「広告写真」です。
雑誌や新聞の広告に使われる「商品写真」「タレント写真」「イメージ写真」などです。これは、映って欲しいものだけを撮影する。つまり、映って欲しくないものを画面から外して行く方法の撮影ですが、撮影現場(主にスタジオ撮影)では、映っているものは総て写すというレンズの自由意思をどのようにして殺し、目的の画像を創るかの仕事になります。

第二は「ニュース写真」です。
事故の現場、殺人犯の移送、ホームランの瞬間。など、予め明確な目的がある撮影です。でもそこでは常に時間的空間的な偶然がつきまとうので、そうなった場合、映るものは総て写すというカメラレンズの自由意思に任すことには、本来は限定的なのですが、時にそれが思いがけない効果を発揮したりするので、 案外、寛容になる撮影法です。

第三は、レンズの自由意思に無関心な方法です。
アマチュアカメラマンのお母さんが我が子の笑顔を撮る時の撮影法です。
現像ラボから上がって来た紙焼きの中から、あるいはデジカメ写真のパソコン液晶モニターの中から、これ良いね!。と選ぶ撮影法です。

第四は、レンズの自由意思を意識しながら、でも最低限、撮影者の意思を残す方法です。
野町和嘉などのドキュメンタリー写真家の撮影法ですが、 芸術写真、ポルノ写真もそうなのかも知れません。つまり、レンズの自由意思を制限したり尊重したり、あるいはそれに加えたりする、撮影者の最小限の意思が何であるかによって違ってきます。
そしてこれは、映って欲しいものだけを撮影する第一の「広告写真」とは、レンズの自由意思を尊重する意味で、反対の方法になります。

第五は、言葉の代わりや言葉理解のサポートのための写真撮影法です。
例えば商品の細部を説明するための部分写真などですが、言葉によるラベリングを代行していて、写真は視覚ですが、記憶(記録)は言葉の論理で理解されます。
言葉の論理で理解されるものとすれば、随筆や小説の挿絵の写真、百科事典の写真なども言葉で理解するためのサポートですので大きくはそうなのかもしれません。また、説明文が無くても文字で書かれたシナリオをベースに撮影編集される組写真などもそうなのかも知れません。つまりそれは、文章で書かれたシナリオを元に、映って欲しくないものを画面から外して行く映画ドラマと同じように、言語での理解を妨げるレンズの自由意思を、画面毎に小骨を外して行くように排除し作成されるので、画像を楽しむと言うより、言語理解を楽しませる為に画像を使うエンターテイメントと言うことになります。
この撮影法は、現代では、言葉での理解が理解の総てになっていることと深く関係しています。

このように、写真撮影法を分類してゆくとさらに次の疑問が出てきます。

・人間の理解や認識とは何なのか?
・レンズの自由意思が生かされた写真には何が写っているか?
です。

始めに「人間の意識・認識・理解とは何なのか?」を考えてみます。
写真は画像ですから、人は視覚で認識します。その認識に心が作動して理解が生まれます。
ではこの場合、どのような意識が働くのでしょうか。

人間には現実意識と無意識の二つがあると言われます。
現実意識とは、言語による思考と理解がベースになります。それは言葉に身振り手振りや表情が伴う会話レベルの意識であったり、文字で書かれた本を読んで理解するレベルの意識です。これは論理的思考ですから破綻が無く、人々が等しくこの意識を有することで社会のバランスが保たれます。
一方、無意識とは現実意識に隠れていて、例えば夢の中の意識であったり、心の中の想像や妄想など表面には現れてこない意識です。時に、懐かしい、胸キュン、祈り、恋しいなどの無意識は、現実意識に働きかけて言語化されたりするのですが、言葉で表されたとしても、詩的であり、論理的に内容を細かに説明しようとすれば何万語あっても言説不可能な意識です。
このことから、言語思考をベースにする現実意識は「粗い知性」。無意識は「繊細な知性」と言われ、現実生活で人間は、この二つの意識をバイロジック(複合論理)で操り、心が作動し理解をしています。
また無意識に動くと言うように、言語を司る大脳をスルーし、現実意識を無視し、無意識が現実意識のように発露される事もあります。また非論理的で、我彼、過去未来の壁を越え自由に動く流動的な意識ですから、現実意識のサポート無しに、現代の生活の中で発露させれば、統合失調症と言われかねないコミュニケーションの破綻が起こります。
しかし、人間が感じる幸福感や感激は、この無意識を満足させることから生まれる出るので、無意識が無ければ現実意識は、心を持ち、そして理解を待つことは出来なくなります。

では次に、意識と写真の関係。写真はどの意識で見られているのだろうか?。あるいは、意識は写真に何を感じているのだろうか?。を考えて見ます。
これは、撮影者からの問いですが、この問いは、なかなかシャッターが押せない状況を経験したカメラマンが特に思うことであり、撮影者の意思(現実意識と無意識)と関係があります。

野町和嘉の場合で見てみましょう。
野町和嘉のドキュメンタリー写真は、第四の、レンズの自由意思を意識しながら、でも最低限、撮影者の意思を残す方法です。
では野町はどんな意思を残しているのでしょうか。


 

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野町和嘉の意思と撮影法は、シンプルです。
風景を撮影する場合、地球があって大地から垂直に木や山や砂丘や建物や大気や空がある。そんな肉体と地球との根源的なバランス感のみを撮影の意思(無意識)にしています。他はカメラの自由意思に任せるという方法です。人物の場合も、人は地面に垂直に立っている。を無意識するだけです。ですからカタチや色や対象の魅力は、レンズの自由意思が写してくれるという方法です。
レンズの凄いところ信頼ができるところは、野町の、肉体と地球との根源的なバランス感覚を、つまり人間の無意識の領域をもフイルムは写し取ってくれるということです。
撮影の時と場所にカメラを運び、シャッターを押すだけでは、良い写真は撮れません。 良い写真を撮るとは、対象物の魅力と撮影者の意思を同時にフイルムに写し込む能力です。野町の場合、シャッターはいつも躊躇なく素早く押され、大地(地球)感覚、それは学習というような後付のセンスではなく無意識の才能の領域にあります。

(次回に続く)
次回は、「レンズの自由意思が生かされた写真には何が写っているか?」を考えて見ます。

野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ