写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

成仏の方法(2)

2015年12月10日 | 成仏について
「成仏」とは自分が仏になることです。キリスト教で人は神になれませんが、仏教の最終目的は、われわれ皆が仏になることです。経典、仏像、仏画などに「仏」は描かれていますが、それは単にイメージのお手本であり、われわれ自らが努力をして、自身の「仏」を創らなければなりません。そのために仏教では、仏とは何か。仏になる方法。さらに、仏にならなければならない理由。を教えてくれます。

では、「仏」とは、何なのでしょうか。
それを明らかにする前に、先ず、われわれの認識や方法が、「仏」を思考し理解できる能力なのかどうかを検討しなければなりません。
寺院の須弥壇上に並ぶ仏像に、「仏」の姿を見ることができます。「如来」「菩薩」「明王」「天」の4種類の仏像があります。その中でも最上位の「如来」が、成仏しようとするわれわれの最終目標になります。その仏像には、釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来などの名称があり、仏教経典の中では、それぞれの特徴が詳しく語られていて、そして仏像は、この書かれた特徴を元に、想像力で3Dビジュアル化し創られたものです。だからこれは、仏師が実際に「如来」の姿を直に見て観察し彫り上げたものではありません。つまりこのことは、仏師がビジュアルな想像力を加えたにしても、その想像力の源が仏典であれば、仏像は、言語情報そのものを表現していて、ビジュアル情報ではあっても、仏典の言葉による理解をサポートする小説の挿絵のような役目を担っていることになります。
また「如来」以外の「菩薩」「明王」「天」の仏像は、時、場所、人、事柄、現象、環境に応じて、われわれに見えるように現れる「如来」の変化身であると言われます。例えば十一面千手観音菩薩像には、千本を象徴する42本の腕があり、宝鏡、武器、用具など、観音菩薩の力を表す道具を持ち、十一面の顔は、笑い、怒り、悲しみ、慈悲などの表情を表しています。これら造作は、如来の「無量無限」の能力を、その当時の、精一杯の創造力と技術で表現したもので、今日の千手観音では、腕にスマホ、マシンガン、原爆、飛行機、自動車、ロケット、インターネット、冷凍食品などを持つことになります。さらに、この如来の「無量無限」の表現は広範囲にわたり、仏典、仏画、仏具、寺院、さらには時の権力者による町などの環境の構築、国の創出にまで広く及んでいます。
しかし、自分自身の「仏」を創るために、これだけ沢山に、言語思考で如来の「無量無限」、つまり「全知全能永遠無限」を表現したとしても、また何百年何千年をかけスケールを大きくしたとしても、「仏」は、つまり「全知全能永遠無限」は、表現し尽くせないであろう。と、言語思考は初めから密かに思っているようなのです。これがわれわれの創造力、つまり言語思考から生まれるものの限界である。言語思考というツールの限界である。と、どういう訳か、自身は思ってしまっている所があるのです。
文字である「全知全能永遠無限」は、月を指差す指にあたりますから、指の先に月が実在するように、「全知全能永遠無限」も、その指の先に実在するはずなのにです。
そして、密教の修行による成仏は、仏(本尊)の「全知全能永遠無限」を瞑想し感得し、同時に自分自身が「全知全能永遠無限」であることも瞑想感得して、その両者を同一に合わせることで「成仏」を実現する方法です。つまり、「全知全能永遠無限」は手に入れることができて、手に入れることができなければ、「成仏」が実現出来ないということになるのです。
現代では「言葉での理解が理解の全て」になってしまっているわれわれの思考。つまり、言葉の発生以来何千年も続けて進歩してきた言語での理解と説明で、本当にこれからもそれが可能なものなのでしょうか。
それはまだまだ言葉の想像力が足りていないからなのでは?。では何故、釈迦は沈黙を選び、禅では不立文字、空海は言葉では表現できないと言っているのでしょうか?。

大乗仏教中観派の祖、ナーガールジュナ(龍樹)は、果敢に言葉で「仏」を分析し語っています。

「ナーガールジュナの中論」

何であれ依存的に生じたものは
止むことなく生ずることなく
滅することなく永続することなく
来ることなく去ることなく
区別されることなく
独自の性質がなく
概念的構築から解放されていること
そう教えてくださった最善の師である釈迦にひれ伏して感謝します。

と、言葉による想像力は、こんなにも饒舌でなければ生まれて来ないものなのでしょうか。
果たしてナーガールジュナは、すべてを語り尽くせたのでしょうか。

どうも「言葉での理解が理解の全てになっている」言語思考で「仏」を考えることを、見直さなければならない時代に来ているのではないでしょうか。
こんなお話をするのは、すべての文字で書かれた仏典を、敵に回す行為なのですが、どうも釈迦の沈黙を理解したいと思うと、言葉での理解、つまり言語思考では限界を感じてしまうのです。

では、どんな方法があるのでしょうか。いろいろ考えてみたいと思います。
仏教、道教など、ヨガなど東洋の宗教では、心。身。口(言葉)。を詳しく調べ分析し得心するのが、「仏」になる修行になっています。
これを手掛かりに、進めたいと思います。

本尊の観想や曼荼羅の観想による修行は、主に「心」を、ヨガや道教の方法は、主に「身」を、真言や念仏声明は、主に「口(言葉)」を、分析し考え得心を得ようとしています。しかし、心。身体。口。は一つのものを三つの方向から眺めたものなので、三つは一緒。一つを語っていてもいつの間にか他を語っているようにと、境がありません。
東洋の宗教ではこのような方法で真理が説かれ、今日でも真理の実践が続けられています。
そして、言葉は月を指差す指先であり、月そのものではありません。言葉の想像力は、時に言葉と言葉をつなぎ合わせ「全能の月」などとしますが、その指先に「全能の月」などはなく、無駄な努力をすることになります。このことに十分注意して、次はその中でも、日本人にわかりやすい、空海が説く三密加持や、インドやチベットの密教、ヨガ、タオ(道教)、そして科学の言葉で説明を続けたいと思います。

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