写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

野町和嘉『写真』とは(3)ー写真は散なりー

2018年01月30日 | 野町和嘉『写真』

先回、デジタルカメラの高画素化とカラープリンターの精密化で、写真の可能性が広がるのでは。とお話ししました。(「野町和嘉『写真』とは(2)ー未来の写真ー 」
それは、葛飾北斎が
『70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。
ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。
そして、100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。』
と言っています。
その最後の
『100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。』と言っているような、対象を写し取り絵に描くのではなく、紙やキャンバス上に、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創り出すことが、どうしたら写真でも可能になるのか。のお話しでした。

カメラとは、レンズに映るものは何でも写す自由意志を持ち、同時に、被写体の意思と無意識、さらに、撮影者の意思と無意識をも写してしまいます。
そして、野町和嘉の撮影方法とは、「重力感覚」のみを意思にして、後はレンズに映るものは何でも写すレンズの自由意志に任せる。と、お話ししました。
そして、この方法で「リアルな存在や物体」を創り出す方法に近づけるのでは。と、先回は、お話ししました。

今回は、それの続きです。

ファインダーを覗きシャッターを押す「写真」の瞬間と、筆に墨を含ませ紙に下ろし動かす「書」の瞬間が、多分ふたつとも息を止めていると思いますが、良く似ているので、次のことを考えてみました。

古代中国から伝統を受け継ぎ、日本独自の展開を続けている表現方法に、筆と墨を用いる「書」があります。その「書」の方法に、「書は散なり」があります。中国、後漢時代の書家・政治家の蔡邕(さいよう)の言葉です。
平安時代初期の三筆の一人、空海は、その言葉を引用し「書の極意は心鬱結する感情を万物に投入放散し、性情のおもむくままにして、そののちに文に書きあらわすべし」と言っています。蔡邕(さいよう)は後漢の人で、この言葉は道教の思想から発想されたものと思われます。
仏教の中国への伝来は、後漢と言われていて、経典も次々と到来し漢訳されるのですが、道教の影響で、仏教はインド流とは大きく変わってしまいます。しかし、東洋の思想同士、表現は違っても、ベースは通底していますので、お互いがお互いの思考でお互いの説明が凡そ可能と言う関係にあります。

では、「書は散なり」の「書の極意は心鬱結する感情を万物に投入放散し、性情のおもむくままにして、そののちに文に書きあらわすべし」についてです。

「心鬱結する感情を万物に投入放散し」とは、文章の中の、例えば「花」という「字」を書く場合、書き手は、文章のことわりで語られる花の様子を想像し、心に思い描き、それが花園の薔薇の花とすると、その薔薇に自分の感情意識を投入する。ということ。
これを仏教の瞑想修行に例えると、仏を観想することになりますが、仏像や仏画を参考に、仏の姿かたち、四肢の詳細、肌の色、顔、目鼻、目の血管に至るまでを、隈なく想像し、その全ての想像の中に自己を投入します。すると同化がはじまります。空海の場合は、真言を唱え、仏と自己の二つの三密(身・口・意)を加持すれば、仏が現前します。「万物に投入放散」とは、言うことの強弱はあれ、この仏教の瞑想の方法とあまり違いはありません。
そして、「投入放散」した後はどうするか、「書は散なり」では「性情のおもむくままにして、そののちに文に書きあらわすべし」と言っています。
仏教では、「投入放散」した後、空海の場合、三密を加持した後は、現前した仏と己が応じ合い、菩提心(即身成仏)が生ずるとします。
菩提心や即身成仏については、ここでは書ききれませんので説明しませんが、
(当ブログ「成仏の方法」をお読みください。)

写真で考えると、
「心鬱結する感情」とは、先ず、薔薇園に咲き誇る薔薇の花の美しさに心引かれたか、あるいはカメラマンの仕事で、あの薔薇を撮れと言われたか、何れにしても、 撮らなければならない事態に、今、心と感情が染められています。そして次のシャッターを押すタイミングでは、この時と場所は、二つと同じものはありません。野外で薔薇の花を撮る場合、太陽光の明るさ方向、風の強弱、そして自分の心と意思も、二度と同じものはやっては来ません。撮られる薔薇の花サイドの事情も同じです。この二度とはない出会いの薔薇に「心を感情にのせ投入放散」することになります。
心や感情が多いと、シャッターは押せますが、投入どころか感情が邪魔をして薔薇の中に心を放散することができなくなってしまいます。「書」でも事情は同じで、筆が進まないことがあります。
写真の場合、レンズの自由意志がありますので、撮影者の意思は極力少なくして、レンズの自由意志に任せると、邪魔者が消え、薔薇だけがファインダーの中に映るようになり、薔薇の中に自己を放散することが可能になります。そしてその後、シャッターを押す意思を発動させれば、レンズから画像が撮像素子に入ってくる。つまり、自分と薔薇が応じ合い、瞑想の場合には、仏と応じ合い、自分の中に仏が入ってくるような意識をもてば「写真は散なり」が実現することになります。

こんな具合に、理想的に、上手にシャッターが押せるなど、あることなのでしょうか。
でも、こうして生まれた写真は、どんなものになるのでしょうか。
真に「写真は散なり」で生まれた写真とは、どんなものなのでしょうか。
写真でも、葛飾北斎が言った。「一つの命を得たかのように生きたもの(リアルな存在や物体)」を創り出すことが出来るのでしょうか?。

「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)とは何か。
それは、見る人の、意識認識の好奇心が続けば、永遠に情報が尽きない「複雑構造」を持つことを言います。仏教でも、仏は、永遠に情報が尽きない「複雑構造」を持ちます。

道端に転がる小石でも、手に取り仔細に眺めると、表面の複雑な表情の中に、目を移して行くと次々と新しい要素が発見できます。飽きがきて中断するか、これは「道端の小石」であると言語思考がラベリングし、認識を中断するまで、欲すれば永遠に眺め続けることができる「複雑構造」を持ちます。
そうすると、私の好奇心が続きさえすれば、周りの目にするもの、自分を含め、今、部屋にあるもの、外の環境、大きく宇宙全体にある全てのものが、あるがままに「リアルな存在や物体」である事になってしまうのですが…。
それはそうなのですが、日頃はそうとは感じず思いもせず、方々に目を移し過ごしていて、ふと、芸術作品に触れた時や、見上げて美しい月に出会った時などに、思わずそれらに「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を感じてしまうのです。
ですから、「リアルな存在や物体」が描かれている絵画や写真には、ハッと気づかせる魅力や情報を塗り込めておかねばなりません。
作者は「リアルな存在や物体」を創るのだ。と、強い意思で制作しなければなりません。そうすれば、絵画や写真の機能は、作成者の意思を作品に塗り込めてくれるのです。

こんな風に、多くの画家は、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を描こうとしました。詳しくは先回をご覧ください。(「野町和嘉『写真』とは(2)ー未来の写真ー 」

空海は「書は散なり」を実行しました。空海の有名な書、「風信帖」の最初の文字は「風」です。最澄からの書状に宛てた返書がこの風信帖ですが、
その書き出しは、
「風信雲書、自天翔臨 」(風信雲書、天より翔臨す。)
風とともに湧き出る雲のような書状が、天から舞い降りてやって来ました。
になります。
飛天が空から舞い降りて来た風情であろうか、待ちわびていた最澄からの書状の到来を、あたかも、ハリウッド映画のタイトルシーンのように劇的に表現しています。

「書を散ずる」の「心鬱結する感情を万物に投入放散し」からこれを見ると、
「風信雲書、自天翔臨 」のこの書き出しは、最澄のことを思い浮かべ文脈を思案する中から生まれたフレーズで、これは空海の「心鬱結する感情」から発しています。最初の「風」の字は、「万物に投入放散し」の万物に当たりますが、空海は、どんな「風」を想像したのでしょうか。
飛天がひらひら舞い降りてくる羽衣の「風」か、自らが進む先の運命を「吹く風」になぞらえたか、あるいは、ふと頬に当たってきた、今吹く「風」なのか、書体を王羲之風にするというのは、ハリウッドスタジオの中で舞う大型扇風機が作る典型的な「風」のようなものなのだろうか。その「吹く風」に「心鬱結する感情を投入放散し」、空海は、最初の文字「風」をしたためました。

受け取った最澄は何を感じたでしょうか。現代の我々は、この「風」に何を感じるでしょうか。一口で表せる特徴ではありません。人により様々な感じがあり複雑です。なんだかよくわからない。もその一つですが、じっと見つめていると、臨書までしなくても「風」を真似て頭の中で書いてみたりするなど、心に入り込んで来る。そこから思いがいろいろ湧いて来るとすると、複雑さがある事になり、この「風」の文字は、「リアルな存在や物体」に近づいて行きます。
書状を交わした時の、空海と最澄の関係、決別に至る経過、その後の空海の旺盛な活動など、今、我々は多くの歴史を知らされています。しかし、その知識を知れば知る程、「風信雲書、自天翔臨 」の初見のフレッシュは失われ、空海から心が離れて行くのを感じます。それは、目前の手を伸ばせば触れられる「リアルな存在や物体」からも離れて行くことになっています。

「風信雲書、自天翔臨 」を書き出しとする空海の風信帖には、スピードがあります。全ての仏教の経典や論書そして書状での特徴は、スピードです。遅い言語思考による理解は許さない、常に頓悟(直感)しか許さないとする厳しいスピード感覚です。
被写体を捉え、逃げない前に、素早いシャターを押す、野町和嘉のドキュメンタリー写真の方法に、似ていると思いませんか。シャターを押すとは、後はレンズの自由意志に任すことになるのですが、この自由意志に任すとは、これは「書は散なり」が「性情のおもむくままにして、そののちに文に書きあらわすべし」と言うこととあまり違いはないように思います。

そう考えるとつまり、ここまで見て来たことから、「写真は散なり」の心を持ち、素早くシャッターを押せば、「リアルな存在や物体」を印画紙上に創れることになりますが、どうなのでしょうか。
これはまた、母親が、夢中で愛しい我が子にレンズを向け、レンズの自由意志を頼りにシャッターを押すことにも似ていますが、それなら、案外、簡単に出来ることなのかも知れません。


デジタルカメラの進歩は、5000万画素、1億画素を越え、写真は新しい次元を獲得しました。カラープリンターも同じく進歩し、この二つから生まれた反射画像(プリント)は、新しい時代を開く価値として、これからは考えなければなりません。
写真は、「写真」と名称されるように、被写体を写し取ることがその機能の全てであると考えられて来ました。絵画でも、風景画、人物画、抽象画など、自然や人物を被写体として写し取ったり、被写体や作者の心情をビジュアル表現で画面に表したり、言葉の物語を画面にビジュアル化したりなど、物事であれ心情であれ、自分のものであれ、他のものであれ、作者がそれらを写し取り画面に表現することと考えられて来ました。そして、写真も類似の活動と考えられて来ました。

しかし絵画には、葛飾北斎が言ったように、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創ろうとする選ばれた画家がいました。
写真でも、これが可能になるのではないか。5000万画素以上のデジタルカメラと大型デジタルプリンターによる大画面で実現できるのではないか。大画面にすると複雑性が増し効果がはっきり分かります。近年の野町和嘉の大画面プリントによる写真をご覧ください。そこには確実に「リアルな存在や物体」があります。可能性が見えています。

今日のモダンアート、コンテンポラリーアート、そして写真も含め、その活動は、言語思考に支えられ、せいぜいがその拡張の領域で止まっています。それは「言葉での理解が、理解の全てになっている」現代の風潮に合わせられているからなのですが、全てが言葉の理解で理解されなければならない。言葉の理解で魅力的なものが良いアートである。つまり流通価値が高くなりやすいことになっているからです。
近年のSNS、Instagramインスタグラムにupされる写真の方が、現在のどんな写真やアートと比べても、何とビビットなことか。
ここでは、マスメディアの価値観ではなく、母親が愛しい我が子を撮らえた写真が、評価のベースだからですが、若い彼女や彼達は、デジタルカメラとプリンターの進化の価値にも、いち早く気付き、軽々と使いこなすに違いないと思えてきます。

葛飾北斎は、88歳で没しているので、『100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。』と言った願望は実行が叶いませんでした。
現在のアート界、絵画界で、北斎の意思を継げる者は見当たりません。
しかし、Instagramの彼女等が、さらに画像技術と環境が進めば、その後を継ぐ者になるかも知れません。



(オマケ)
「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)について、もっと知っていただくために。…

「癒される」感覚とは、
例えば、動物園の動くパンダの愛くるしさ、これも「リアルな存在や物体」なのですが、これに触発され、自分自身も「リアルな存在や物体」であると気づかされることで、癒しがやってきます。代用でぬいぐるみのパンダを抱きしめる行為は、自分が「リアルな存在や物体」であることを身体で確認をしていることになります。
そして、パンダ以上の癒しの存在は何よりも母親です。久しぶりに会うと、お互いが「リアルな存在や物体」であることを、自然に意識させられ、癒され、さらに深化して、お互いがお互いの肉体の一部を交換してもかまわないと思う程に、物質として共通の認識を持っていて安心と感じてしまいます。癒しを超えた、甘美な存在様式が共有されます。そして母親にとって子供は、子供が感じる以上に甘美でありましょう。


(オマケ2)
シンギュラリティ(技術的特異点)。

2045年、AIが人類の知性を上回り、我々の頭脳能力の限界を超え、シンギュラリティへと到達すると言われています。これは、コンピュータの処理能力(CPUの性能)が人の知能指数を上回るのが2045年と言い換えても良いと思いますが、さらに進めば、頭脳に電極を埋め込み、コンピュータに接続(Brain-machine Interface : BMI)。イン&アウトプット、クラウド、AIなどと連動し、我々は生物の限界を超えることになる。と未来学者が予見をしています。

コンピュータは、先ずは言語思考の拡張として発展し、その拡張も、AIのレベルまで進化し、今、シンギュラリティを予見できる所にまで来ました。
言語思考は、意識により発生し、知性と呼ばれていてます。その知性の分析ツールは科学になりますが、その科学により、元の意識そのものをも、知性(言語思考で)は分析しています。しかし、言語思考の能力(科学)では、存在の確認はできるがどうしても分析不能なものがあり、それを無意識や直感の名称で分類をし、知性の活動から極力排除して来ました。排除というよりその振る舞いが理解不能なので、触らずに無視してきただけなのですが、知性(言語思考)の相似進化型となるAIも例外ではなく、AIが頭脳能力の限界を超えると言っても、言語思考の能力基準である知能指数の最高を超えるといった程度で、頭脳能力の中の無意識や直感を超えるわけではない。そもそも無意識や直感に、科学は指数を設定できていないので、超えるも何もない。

そして「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)とは、そこにあるがままにある。そのような状態のもので、先ず、直感と無意識で、さらには、脳内に隠れている未知の能力で、最後に、知性(言語思考)で、それら全てで、感得理解する類のものなのです。
AIがさらに進化し、SF世界になったとして、その時、AIにとっての「リアルな存在や物体」とは何になるのか。ぜひ見てみたいものです。

野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ