写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

成仏の方法(3)

2016年01月06日 | 成仏について
「成仏」を分析し理解するには、言葉つまり言語思考では、限界があるのではと考えています。でも、このブログは、言葉を綴っていますし、そうなるとナーガールジュナ(龍樹)のように、説明は饒舌で長いものになるかと思います。私は、18歳以来、言葉で仏教経典と戦ってきて、でも結局何も覚えておらず、記憶はGoogleを頼る有様で、著作権が有るのやらないのやら、カット&ペーストを頼りに言葉でブログを続けて行きたいと思います。そのため生硬な難しい言葉が出て来ると思いまが、でもなるべく説明を少なくシンプルにしたいので、語句や意味の詳細は第三の記憶であるGoogleの検索でお願いしたいと思います。

密教では、「成仏」の秘密を、身(身体)・口(語)・意(心)の三つの観点から、それぞれの働きで分析しています。しかしその三つは、一つのものを三つの方向から眺めたものなので、三つは一緒。一つを語っていてもいつの間にか他を語っているようにと、相即相入で境がありません。ですから、言葉での説明も行ったり来たり、三つのものを同時に考えたりと、論理を破り、言葉のルールを逸脱し、言語思考を越え、さらに人間の認識能力からはみ出す理解を強いることになります。
空海の三密に限らずインドやチベットの密教、タオ、ヨガの教えは、このような未踏の理解と認識そして身体の酷使にわれわれを誘います、そのため、それを可能にする人間の認識能力や身体能力を飛躍的に強化するカリキュラムが教えには組み込まれています。

先ず、「意(心)」からお話しします。
「意」の中心をなすものは、釈迦の教え、言葉では真理という事になります。

物事には必ず原因(因)があって条件(縁)があって結果(存在、現象)がある。(因縁)
因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)
因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)
カルマがつくる煩悩。 煩悩がつくるカルマ。それがつくる輪廻転生から脱することが、成仏である。(四聖諦)

言葉で表すと、このような長さになりますが、これら教えは、やはり一つのものを別々の観点から眺めたもので、すべて同時に存在し、変化して止まないのです。この長さの文字を読む理解の特徴は、その文脈を読み終えるまで、つまり砂糖が溶けるのを待つ間は、心は変化を止め、次に動くまで空白が生ずる事です。その間にも現象は動きを止めず、心臓も動き続けているというのにです。
ですから「意」が気を付けなければならないのは、動き続けていることを忘れない事です。停止とは、同じ状態の刹那が幾つもその時間つながって出来ている。と考える教えもありますが、何故停止するかは「口」の特徴なのですが、それは後述するとして、それぞれに語られている、因縁、縁起、諸行無常、空などを、常に動いている「意」で統一的に認識するとは、それはどういう説明になるのでしょうか。
素粒子物理学も最後の重力を仲間に組み入れ統一理論を目論む段階に入り、重力を含め、強い力、弱い力、電磁気力の四つの力が、同時に働くとすると、今までの思考方法つまり言語の説明では、量子論の説明と同じようにぎごちなくなることが予想されます。しかし、仏教の統一的説明には方法があります。それは因縁、縁起、諸行無常、空などの考えを、深く心に留めることから始めます。
「身」から見ると、密教で心は、心臓にあるとしますので、心に留めるとは、心の意識を頭脳内から胸のチャクラ(心臓)に下ろすことになり、そこでは心臓が常に動いているので、動き続けていること(諸行無常)の意識を、無意識の側に受け渡すことができて頭脳意識の負担が軽くなります。座禅をしたり瞑想する時と同じで、能力に限りがある脳意識の負担を軽くするのがブレークスルーの要点です。つまり、「意」だけでなくて「口」も「身」も、いろいろ工夫をして気づき、総てが。同時に。因縁により起こり。実体がなく空であり。変化して止まない。と自然に感得得心できるようにすることが修行という事になります。

本来「意」は、融通無碍で制限がなく透明です。瞑想とは、「意」がこうである事に気づき、そこに留まり続けることを言います。そうすると言語の個性的で不自由な二項分類(対立)思考に囚われることは無いのですが、「言葉での理解が理解の全て」と言葉の発生以来、われわれは長年思わされ続けて来ているので、「意」本来の十分な能力を発揮できなくなっています。
言語思考以外の思考意識には、無意識、対称性の思考などがあります。例えば「気づき」「深い瞑想」「自己犠牲の祈り」「アハ体験」「以心伝心」「セレンディピティ」「シンクロニシティ」「神話の思考」「野生の思考」などの思考行為は、砂糖が溶ける時間を待つことなくスピーディーで、遮るものなく直ぐに「意」のものになり、二項分類(対立)などに囚われることもなく自由に、「意」本来の能力を表します。

ここまで来ると「意」を進める前に、「口」の働きをお話しした方が、全体が見えてくると思いますので、「口」についてお話しします。

「口」の働きは次に分類されます。

1)対称性を破り物事の存在を発現させる=感覚器官の感覚に意識をフォーカスさせる。
2)言葉の機能と言語思考
=ラベル貼り(記号化=指先の喩え)、言語記憶アーカイブ。意味を選択抽出。
=言語思考は二項分類(対立)、理解には文字を読む聴く時間が必要(砂糖が溶けるを待つ)
=音(声)の効果、言葉の発声、真言の発声(身と連動)
3)常に超越ポジションを確保し、客観を暗黙に自称する。(常に上から目線)
4)エネルギーの流れと量を意識し特定する=声、真言でコントロールする=身で感知し、意によりコントロールする

以上の特徴が「口」の機能であり、言葉がその中心にあります。

「口」の説明の前に「意識」について、誤解を避けるため、神経科学や心理学との違いをお話ししておきます。
「口」「身」「意」の関係は、華厳経に言う相即相入、互いに対立せず、瞬時にとけあって自在な関係にありますから、意識は、「口」が意識すれば「口」が、「意」が意識すれば「意」が、「身」が意識すれば「身」が、発することになるのですが、相即相入で瞬時にお互いが入り込むので、身口意の三者いずれが発したか定かではなくなります。
神経科学や心理学では、心(意)は何処に所属するのかが問題になっています。密教で「意」は心臓にあるとしますが、唯脳論では、脳が意識を発するので、心はたぶん脳に所属する。としています。でもその前にそもそも心というものがが存在するのか?を含め定かになっていません。
この不確実は、瞬時に起こる相即相入のせいと思われますが、一方、「身」「口」「意」の観点からは、三者それぞれに意識を発するという説明になり、神経科学や心理学とは異なります。

「口」の説明に戻ります。
「意」は、本来は融通無碍で制限がなく透明です。その本来の状態とは、何も考えず静かに外を眺めている瞑想のような時。あるいはまた、突然の音に驚き、はっと顔を上げるその一瞬の意識の空白。目の前を音とともに横切る物体。意識をフォーカス。注視。それが羽音を上げ飛び去る「鳥」であると言語化認識します。鳥?。どんな鳥かと言語記憶アーカイブの中から、トンビ、若いトンビ、いつも上空を舞っていて、餌を見つけ舞い降りて来たのだ。と意味の記憶を引き出して、納得する。
この一連の動作の中に、「口」の働きがあります。はじめの音と物体に驚き感じるのは、聴覚と視覚の「身」の働きですが、意識をフォーカスし「意」の穏やかな対称性を破り、「羽音」「鳥」というの言葉を選択、認識するのは「口」の働きです。言語記憶アーカイブの中から「羽音」「鳥」という言語ラベルを選び出し、目の前に広がる「景色の全存在」から「鳥の存在」を言葉として分離させ浮かび上がらせる、この「景色の全存在」と「鳥」を二項分類(対立)するのが「口」の働きです。一般には有と無、明と暗などが二項分類(対立)なのですが、この様に、意識に物事の輪郭と存在を発現させるのが、本来の「口」の働きです。

まとめると「口」の働きとは、「身」の感覚器官が感じ、「口」が意識をフォーカス。「意」の対称性を破り、注視した情報により、言語記憶アーカイブの中から「言葉(鳥、羽音)」を選び出し、「意」に対し物事の輪郭と存在を発現させます。「口」の働きで、言葉がラベルされなければ、「意」には、はっきり堅固に「物事の存在」としては認知されません。それは「意」が物事として認識するものには、ほとんど言葉がラベルされていて、ラベルされると直ぐに、記憶として言語アーカイブに収納されます。そして、今選び出されて来た「羽音」「鳥」の言葉も同じような方法で、以前にアーカイブされていたものなのです。
記憶には、言葉にはならない身体的記憶、心の記憶などもありますが、そのほとんどは、色、匂い、音、そして周辺記憶、例えば環境、時間などの印象と共に何かしらの言葉にされ、言語記憶アーカイブ化されてしまいます。その中でも生存の危険を防ぐ役目の記憶は生存本能として、「身」「意」により、無意識の記憶領域に切り離されますが、その他は徐々に忘れるかして、記憶のストックは非野生化して行くことになります。

一神教では、神と人間の二項分類(対立)で理解されますが、成仏するとは人間が仏に成ることですから、仏と人の二項分類(対立)が解消されることになります。「成仏」には、言葉での解明を不可能にする構造がある事を意味します。ここにも、釈迦が沈黙した理由。空海が言葉では表現できない。と言った理由があります。

前に(成仏の方法1)でお話しした、キリスト教では、なぜ「魂」が設定されるのかの疑問ですが、人間が死んで存在が無くなってしまうと、言語思考のキリスト教では、人間と神という二項分類(対立)が成立しなくなるので、人間の変化形として「魂」を設定せざるを得なくなるからです。
仏教においても、「成仏」を言葉で語ろうとすると、言葉での二項分類(対立)の思考を維持しなければならないので、霊、魂、霊魂などの、人間の変化形を設定せざるを得ない事情があります。

また素粒子物理学においては、物質と反物質が常にペアで存在する対称性の世界(真空)つまり、ビッグバン寸前の世界では、物質は対生成と対消滅を頻繁に繰り返していると言われます(量子のゆらぎ・真空のゆらぎ)。ある時、対生成で、対称性が破れ物質が反物質に比べ数的優位になると、同数の反物質と物質は強烈なエネルギーを発し対消滅で消えますが、数的優位で残った物質のみが爆発的に増殖します。そしてわれわれの物質だけの膨張宇宙が生まれた。と、これが今日の科学の宇宙論になっています。
対称性の破れで、物質が存在として生起させられるところは、ビックバンと「口」の働きは同じで、仏教で言う「色」ならびに受想行識など、言葉で表せるもののすべてが、仏教の世界では存在と定義されることになります。

「口」による「意」の対称性の破れで、「鳥」の存在は「鳥以外の全存在」との二項対立(分類)で存在が保証されることになりますが、それはあたかも相対性の破れやビックバンで、物質とともに言語と言語思考も生まれてきたかのようなのです。
しかしこれでは、存在(物質、色、言語)の発生前に「意」や「口」や「身」があることになるのですが、釈迦の教えは、それらの発生は、因縁、縁起(因縁生起)と説明しています。
「意や口や身や物質や存在や言葉の存在」は、前からあったものではなく、説明の必要に迫られ?(因)て、「口、意、身、言葉」など(縁)が、「意も口も物質も存在も言葉も言語思考も」生んだ(果)とします。そしてそれら全部は実体がなく「空」と、説明しています。
しかしこれは、言語思考的には論理破綻しています。しかし要点は、論理破綻にあるのではなく、普通には物事を意識するとその物事は存在することになるのですが、意識していても言葉の先の実体(存在)は、有る無いに関わらず「空」だ。というところにあります。仏典にはこの様な説明が多いのですが、これには何十年間も悩まされ続け、今も変わらず、それでも懲りず、私は「意」で、どう理解し、「口(言葉)」や「身」でどう表現すればいいのか苦闘しています。
量子論、相対性理論、超弦理論、唯識論、色即是空 空即是色など、これらが頭脳を悩ませるのは、頭脳が言語思考で考え説明しその範囲から出ないことに原因があるのではないでしょうか。思考ツールである言葉、言語思考に限界があるのか、もしかして欠陥か、それともその二つなのかもしれない。
そして釈迦の教えはその欠陥を、欠陥である言葉で説明しているので、言語理解が二乗して複雑になっているのではないか。そろそろわれわれの思考ツールの事を、つまり観測機器の性能を見直すべきなのではないでしょうか。つまり言葉で理解できれば「成仏」できる訳ではないということのようなのです…。

どうもまた、言葉の限界が先を阻んでいるようですが、次回もしばらく、厄介な言葉での分析説明におつき合いを願えればと思います。
物事には実体が無い、でも物事の存在を否定している訳ではない「空」と、物事の存在を生み、実体があると何故か思ってしまう「口」の関係が問題のようなのですが、その前に「口」のもう一つの働き、存在に客観性を付与する超越的思考を分析すればこの難解を理解できるかもしれない。次回は一神教を生むことになる言葉の別の機能をお話ししたいと思います。




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