写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

野町和嘉『写真』とは(5)ー 新しい写真の時代 ー

2019年08月29日 | 野町和嘉『写真』
大画面で高精密な写真が、最新のデジタルカメラと大型デジタルプリンターで創れるようになると、簡単に言うと、撮影者が、「一つの命を得たかのように生きたもの」(リアルな存在や物体)を創ろう、と強固な意思さえ持てば、「レンズの自由意志」が大画面上にそれを創ってくれる。と、先回までお話ししてきました。

カメラの高性能化で、これから写真は、「写す」から「創る」へと変わらなければならないのでは?。

ではその「創る」とは何か。その可能性と方法について、これから詳しくお話しして行きたいと思います。

いきなりでは、荒唐無稽な話に思われる内容なので、先ず、写真や絵画のアートの現状を分析しながら、荒唐無稽を言わなければ、現状を打破できない窮状をも知っていただけたらと思います。

さらにその前に、野町和嘉『写真』(1)(2) (3) (4) をお読みいただければ、理解がより頂けるかと思います。

少し長くなりますが、お読みください。

市販手持ちカメラの性能は、2019年時点で、5000万画素〜1億画素の高解像度にまで進化しています。
これから先、カメラは、どう変化して行くのでしょうか。「写真」という概念も、変化することになるのでしょうか。

例えば、
暗がりの手持ち撮影で、絞りf.128で2000分の1秒のシャッターが切れる程になる。手ブレ防止機能で、手持ちで超望遠レンズを構えて、月のクレーターがクローズアップで撮れようになる。マクロレンズで指先を撮る、小さく撮っても拡大してゆくと、指紋一本分の狭い空間の細部がくっきり見える。こんな解像度と感度が、市販の一台の手持ちカメラで三脚なしで可能になってくる。
これから10〜20年程の様々な技術の進化で、こんな性能への到達が予想できます。

こうなると、「今の写真という概念」では、こんなカメラは全くオーバースペックで、販売予測も立たず、製品化などできないかも知れません。
そして、そのカメラ画像を見る出力サイドでは、高細密プリンターの大画面画像以外、現在流通する反射画像の「印刷」や透過映像の「4〜8KTVモニター」の性能では、5000万画素〜1億画素解像度のカメラでは、オーバースペックに近づいています。
そうなると次に、カメラメーカーは、何を目指すことになるのでしょうか。

確かに、早朝や夕暮れなど暗い中で撮影が手持ちで出来たり、絞りが増してシャープな写真が撮れたり、解像度や画質の向上でこれまで以上にカラーが緻密に美しく撮れたり、など、今の高性能カメラでは、これまでにない新しい写真は撮れますが、「今の写真という概念」の中で、この効果と性能は、本当に望まれ必要とされているものなのでしょうか。

では、これまでの「写真という概念」とは何なのでしょうか。考えてみたいと思います。

1925年、手持ち用の35mmカメラの登場から約100年、現在の写真とは、「写真」と名称されるように、リアル(真)な被写体を手軽に(写)し取り記録すること、がその機能の全てであると考えられて来ました。

絵画では、風景画、肖像画、静物画、歴史画、抽象画などがあり、自然や人物を絵具で画像として描く、画家の情念や意思を象徴表現する、また、言葉の物語(歴史、事件、人など)を想像力でビジュアル化し描くなど、物事であれ心情であれ、想像であれ、事件であれ、自分のものであれ、対象物のものであれ、作者がそれらをビジュアル化し、彼の意思表現とともに、絵具で画面に描き取り現すことと考えられて来ました。

そして写真も、カメラによる、それと類似の、「写し撮る」活動であるとずっと考えられて来ました。

絵画との違いは、絵画は技術が難しく完成には時間がかかるが、写真は、現代のiPhoneカメラでは、誰でもがシャッターを押せば一瞬に撮れてしまいます。
そして今後、絵画の技術について、大きな進歩はあまり望めませんが(ロボットとAIが絵を描くかもしれない?)、一方、写真は、デジタル技術の進歩とともに、確実に進歩して行きます。
この進化の差から、写真と絵画との間にはどんな変化がやって来るでしょうか?。

はじめに、技術的進歩が余り見られない絵画はどうなるのでしょうか。
すでに、現代アートには、大きな変化がやって来ています。写真や動画をベースに進展する、映画、印刷物、特にインターネットなどの言語思考主導メディアの隆盛で、「絵画の概念」は栄光を失いかけているようなのです。

それは、現代の鑑賞方法から発しています。
絵画を一瞥すると直ぐに、印象を言葉でラベリングしてしまい、それで理解したとする事に慣れてしまっているのが原因です。
ピカソの絵を見ても、「ピカソのキューピズムの絵を見た」と理由を言葉にしたら理解したと思ってしまいます。見慣れぬ現代アートでも、横に解説書きが無ければ、「よく分からないが最新現代アート」を見た。と、これも言葉のラベリングの理解で、それ以上の鑑賞を止めてしまうのです。ピカソも現代アートもそして我が子を写した写真も、画像なら、それを見ながら、視覚や感性を持続させ鑑賞を続けるのではなく、「インスタ映え」のように、気の利いた言葉のラベリングで直ぐにお終いにし、理解したことにしてしまうのです。
この時流に合わせ、多くの画家も、心地よく言葉で理解ができて、すぐラベリングができるアートの制作に励んでいます。つまりそれは、アーチスト自身の暗黙知を言語化すること、又は、好意的に言って、言葉やミーム(言葉や文字などで伝えられる情報)を暗黙知化する、など、結局は言葉で理解されることが目的だけの作業がアートと呼ばれるようになっていて、そこでのライバルは、小説家の村上春樹になっています。
私はこれまで、ずっとこれを言い続けてきました。最近では、気づき始め声を上げる画家も出て来ました。つまり、現代とは『言葉での理解が、理解の全てになっている』時代がさらに深化しているのです。

でもこの理解は、悪いことばかりではありません。
清少納言の「いとおかし」、松尾芭蕉の「不易流行」、そして今日の「インスタ映え」などは、その時代の暗黙知を伝える言葉であり、そんな見方があったのか。と、歴史の事実は伝えてくれてはいます。しかし、その言葉が指差すものの詳しい中身(暗黙知)が何であるのかは、タイムマシーンでその時代に飛ばなければ、言葉だけでは詳しくは伝わってきません。これが言葉の抽象の特性なのです。そして、この程度で、我々は満足してきたのです。しかしこの程度が人間の理解のレベルであると分るのは、文明の進歩なのではないでしょうか。

写真は、逆に、その発生以来、言葉で理解される作品であることに甘んじて、言語記録メディアを続けてきました。
「今の写真という概念」は、主にここを源にしていますが、しかし懸命に真のアートになろうと、写真は努力してきました。写真は、記録性、簡便性、メディア力に優れていますので、絵画の、例えば歴史画などの分野では、その代わりを担ってしまい、そのため戦後は、絵画による歴史画(戦争画)はその価値を下げ、例えば藤田嗣治の戦争画などは、歴史画と記録性の二重の意味で、時流の世論からも評価を得られなくなりました。しかしそれで、ロバート キャパ以外、写真のアート性が向上したという事にはなりませんでした。

写真には、お話ししてきたように、撮影者が意図していなくても、レンズに映るものは、全て写してしまう「レンズの自由意志」を持っています。それが、強力な記録力となり饒舌な言語性を生み、真のアートとして認められない原因にもなるのですが、一方、絵画では、「筆や絵具の自由意志」などは無く、筆をとり画面を埋め尽くし描いたものしか、つまり画家が描がこうと意図し努力したものしか画面には現れません。
つまり、絵画と写真は初めから違うものだったのですが、しかし、写真は、インターネットの出現で、コミュニケーションでの手軽な道具感とレンズの自由意志が便利がられ、ネット露出が爆発的に増えてきました。それでもしかし写真はアートとして、まだ自立を許されず、絵画の下に置かれたままで、現代アートの再興、復興に、再びその自立の機会を待っていたりしています。

しかしその状況も瞬く間に過ぎてしまいました。今日、言葉と写真、動画を原動力として進化を続けているインターネットでは、例えばInstagramや絵文字アイコンなどの出現で、アートがこれまで自前で培ってきた「アートの概念」がさらに破壊され続けています。そこで、現代アーチストの多くは、筆と絵具により、言語化理解のメディア的アートの制作に更に磨きをかけ、生き残りを掛け、美術館もそれを後援しています。一方写真界では、同じ写真の仲間であるInstagramにその座を脅かされ、写真家は、明日こそ真のアートになりたい希望を壊され、後続を育てようと思っても、野町和嘉の場合、今は若いドキュメンタリー写真家はほとんど存在せず、世界中のギャル、ヤングレディがその座を占めてしまっています。

しかし、そのインターネットでさえも大きな変化が待ち構えています。

プログラム言語と言われるように、コンピュータの発生は言語思考から発していますが、その進歩は、その言語思考の拡張と考えられます。そして、今日、インターネットのクライアントサーバーの機能で、クラウドまで進み、次の5Gのネット技術で言語思考の拡張は、2019年段階で、次のステージに進もうとしています。

次のネットの進化は、言語理解そのものを破壊して行くと予想されます。破壊は、写真や動画からに留まらず、言葉自身からも、例えば、SNSのレス・リプ機能は、主題への批判、賛同、否定が様々書き込まれ、言語理解には混乱が生まれ、そのカオスは言語で理解することそのものへの疑問にも繋がって行きます。しかしその言葉の投げ合いのカオス自体は、言葉の内に止まり、急激な変化はもたらしませんが、そのカオスを直接に表現する言葉が現れると、例えば「炎上、破壊、殺す、革命」などで、その変化は急激になります。しかしそれでも、これまでの歴史では、「言葉の理解」そのものは破壊の被害を免れていました。だが今までの歴史はそうであっても、5Gなどのネットの発達は、それを許してくれるでしょうか。AIも言語思考の拡張の一つですが、これらの出現による、言葉崩壊の事態とはどんなものか、「言葉の概念」の崩壊とはどんなものか、それに備えておく必要がネットやAIの進展の先に想像されるのです。
これは、大きな文明的問題なので、改めてお話ししたいと思います。

画家は、アンディ ウォーホールを最後に、絵画が時代を動かす力は、過去の栄光として、アーチストから徐々に徐々に離れて行きました。そして写真家も、人々から敬われる筈のアーチストへの道を絶たれてしまい、職すらままならなくなる程になりました。

アートの大衆化が、「現代アートの概念」の命題の一つでしたが、Instagramこそ、アートの大衆化ではないでしょうか。そして、写真のパワーを下に見る現代アート(画家)は、それを支える美術館ビジネスとともに、写真を軽視してきた結果、Instagramの写真から逆襲を受けることになるとは、皮肉が過ぎています。

では、ネットの未来も予想予測が難しいとすれば、現代アーチスト(画家)や写真家は、どう備えれば良いのでしょうか。
再び時代を動かす力を取り戻すにはどうしたらいいのでしょうか。これまで信奉してきた「現代アート(絵画)の概念」と「写真の概念」の二つを、インターネットの変化のスピード以上に、自力で、独自の方法で 、早急に変化させ鍛え上げなければならないという事なのでしょうか。

そもそも、画家にとって、理想の絵画とは何なのでしょうか。それは、理想の写真とは何かにも通じるのですが、そこから考えたいと思います。

天才画家達の画業を見ると、彼らが晩年に目指したものは、表現や方法は違っていても、ただ対象を写し取り描くのではなく、紙やキャンバス上に、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創り出す道こそ究極である。と言っている様に思います。そしてそれに果敢に挑戦していたことも分かってきました。

ここに絵画と写真の復活のヒントがあるのではないかと、考えています。

葛飾北斎は、言っています…
『70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。
ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。
そして、100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。』
と、
この中の「一つの命を得たかのように生きたもの」が北斎の究極の望みであり、晩年は肉筆画でその創作に没頭しました。しかし、北斎は90歳で亡くなりました。
辞世の句は「人魂で 行く気散じや 夏野原」です。未達の無念を詠んでいます。

この句を聴くと、松尾芭蕉の同じ辞世の句である「旅に病で 夢は枯野をかけ廻る」を思い出します。
両句は、人魂で、人として生きる夢や寿命が、嗚呼、尽きてしまう。と無念を詠んでいます。しかし、今ここでお話しをしているのは、次に現れるであろう二人が見たかった、夏野原や枯野のお話しなのです。

「写真」でも、この「一つの命を得たかのように生きたもの」が創れれば、復活の道があるのではないのか…。を考えてみたいと思います。

この「一つの命を得たかのように生きたもの」とは、分析的な言葉で「リアルな存在や物体」と言い換えたいと思います。そして、この「リアルな存在や物体」とは、何なのでしょうか。

絵を家の壁に掛け、朝に見ると朝の、夜には夜の印象が得られます。細部を見ると、さらに違う発見があって、一瞥だけで、印象を言葉のラベリングで終わりにするなど簡単にはできず、好奇心と感動が生まれ続けてきていて、いつまでも見ていたい、いつ見ても見飽きない、何かがそこから次々と発信されてくるようで、終いには、それを眺める自分の心や記憶の方にも、意識が自然に向かってしまい、思わず、絵と同じく自分も、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)であった、と、ドキリと感じさせられてしまう、そんな体験を言います。(さらに詳しくは野町和嘉『写真』(2)をご覧ください。)

現実で言うと、美しい景色、奇観景観に出会うと、うっとりと見続けて、言葉を忘れ、リアルを感じてしまいます。河原で拾った小石にも、形、色、細部の模様、ザラザラ感など、意識の動きにあわせ次々と好奇が現れ、見飽きることがありません。そんな終わりのない意識の動きに、人は、無条件に「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を感じてしまうようなのです。
その意識の結果は、脚本で出来たTVドラマでは、10人が10人同じ筋書き(言葉)を理解させられますが、真の「リアルな存在や物体」に出会うと、10人は、それぞれに違う感想と説明を持たされてしまいます。人それぞれの恋愛感情・経験が違うのと同じです。

このリアルからの印象を、さらに続けて言葉で表現するには、全く紙面と時間が足りません。言葉の性能不足を感じるのですが、元々これらは、言葉のみでの理解を想定してはいないので、言葉は「感動」した。と一言のラベリングで終わりにするか、長々と分析説明をこのまま続けて、さらに苦痛を与えることになるのか、そのどちらかになります。つまり色々講釈はあっても、「言葉にならないほど感動した」の理解が、やはり最後の言葉の思考から出てくるので、これが社会的評価ということで定まるのです。

そしてその「言葉にならない。言葉で説明できない。」とは、我々の認識や思考の中にある「暗黙知」や「無意識」を定義している言葉と同じになります。
これはつまり、「言葉」とは現実意識なので、「説明できない」とは、物事の価値判断を、反対の「無意識」や「暗黙知」など、非現実意識に委ねてしまうということになります。さらには「暗黙知」と「無意識」は常に連動しているので、これらの価値判断とは、気になって仕方がないもの、油断のならないもの、不思議なもの、気に障るもの、怪しげなもの、など、言葉の説明では、はっきりと捉えきれない、感性が支配する本物のアートの領域に入ってくるのです。

絵画で「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を表現した代表例として、先の野町和嘉『写真』(2)では、
レオナルド・ダ・ビンチの「モナ・リザ」。雪舟の「冬景山水図」。ゴッホの「カラスのいる麦畑」。デュシャンのあの「泉」と題された「便器」。ポロックの「アクション・ペインティング」。などをあげました。

これら絵画から、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を感じてしまうのは、絵画が発信する「暗黙知」を、鑑賞者が感得するからなのですが、それとは、画家に「暗黙知での感得を、鑑賞者に強いる力」があるからに他なりません。

では、「暗黙知での感得を、鑑賞者に強いる力」とは何なのか、どんな特徴を持っているのか。お話を続けて行きたいと思います。

ちょっと余談になりますが、後段で説明する「撮影勘」の説明と関連しますので先にお話しします。
「撮影勘」とは、例えると、右手の鉛筆で文章を綴りながら、左手の消しゴムで誤字を交互に消すという、両動を続けて行うことに似ています。
両手使いだと簡単なのですが、右手使いは、文字を綴る鉛筆を一旦置き、同じ右手で消しゴムに持ち替えます。右手は左脳(言語脳)が主導しますので、常に言葉で判断することに慣れているという例えになります。右手使いは、左手を頼むことをあまりしません。左手を主導する右脳は、「無意識」の住処です。そして右手使いの人間が多数なので、そんな不自由でもそれが普通で、両手使いの便利があるなどとは思いもしないのです。「撮影勘」の有無とは、こんな感じに似ています。

お話に戻ります。
「暗黙知での感得を、鑑賞者に強いる力」とは何なのか、
それは、縄文時代の火焔型土器や遮光器土偶との、最初の出会のインパクトがその一つです。
得体が知れないけれど、グッと惹きつけられ、戦慄が背中を走り、涙が出そうになる感動。次々に言葉が現れ、納得の説明をしようとするが出来ない、追いつかない。細部を眺めても、納得どころか、新たな興味が次々生まれてきて、納得が追いつかず、でも愛着が湧いて出て来る。この感動は、岡本太郎の「なんだこれは!」で良く知るところです。

つまり、その縄文の者たちとは、錬金術師や科学者のように実際の物質を創るのではなく、それと出会うと、感動を「鑑賞者の意識に立ちのぼらせる」ことが出来る、「視覚技術」を持つ者なのです。その優れた技術が(一つの命を得たかのように生きたもの)を創ることになるのです。

レオナルド・ダ・ビンチの優れた「視覚技術」は、モナ・リザという「暗黙知」の女性です。言葉での理解は「モナ・リザ」という、意味不明の言葉だけですが、彼女の神秘の微笑は、微妙で言葉での理解を許しません。顔の肌の表現には、覗き込めば皮膚の細部まで見えるのではないかと思わせる程に物質的複雑さを表現しています。これをいつまでも描き終えることがない、スフマーフ技法を使って表現しようとしています。さらに背景の景色には「暗黙知」の産物である逆遠近法を、そして、あのリアルを引き立てる無限遠の空を描き、効果を増幅しています。
(詳しくは、野町和嘉『写真』(4) をご覧ください。)


さらに、先の縄文の火炎土器や遮光土偶についてです。
これを社会的背景から眺めようとしても、縄文は古すぎて、違いすぎて、現代人の経験の範疇を超えてしまうので、ただただ、リアルで一つの命を得たかのような生きたものの、その優れた実体(暗黙知)のみが際立ち、際限なく訴えかけてくるので、その終わりのない「暗黙知」の魅力に、ただ感動してしまうのです。

ここまで考えると、「暗黙知での感得を、鑑賞者に強いる力と魅力」とは、いつまでも見終わることがない「終わりのない複雑性」とも言い換えられます。

「終わりのない複雑性」を画面上に表現できれば、「リアルな存在や物体」を創ることができるのではないか。
そして、自然界とは、物質とは、見飽きることがない、終わることがない「複雑性と複雑構造」を抱えているから、リアルなのではないか、と。

その「複雑性(暗黙知)」を描くスフマーフ技法などの長時間作業は、終わりがないので苦痛と思われるかもしれません。でもこれは、反対で、画家にとっては、いつまでも描き続けていたい至福の時間なのです。
この意味を理解していただけるでしょうか。実は「暗黙知」に止まり続けるのは、いつ死んでもいい程の、脳内では快感の連続なのです。それだからこそ、暗黙知を感得できる絵画を眺めると、静謐や奥床しさ、さらには、親しい人と手を握り合った時の、安心感、安堵を感じてしまうのです。

では、どうしたら写真で、この終わりのない「複雑性」を創ることが出来るのでしょうか。
その「技術」とは何になるのでしょうか。

先にあげた絵画では、全画面、写真でいう全面ピントが合っています。これは、人間の視覚機能からは当然のことなのですが、目の機能は、前に水晶体のレンズがあって、後ろに受像体の網膜(フィルム)がある、カメラと同じ構造をしています。ですから、近くの一点を、人が眼で見ると、遠方はアウトフォーカスなっている筈なのに、人は、近視で眼鏡を外して見る以外は、アウトフォーカスでボケて見えると言ったりしません。それは、人の脳には注視の機能があり、自然の風景を眺める時には、遠方にも視覚を向けて、近景と遠景を合成し、全面ピントが合った景色を認識しているからなのです。
絵画で遠方の山々を描く技術には、空気遠近法があります。青味を加えたり、霞んだ表現をしたりしますが、それはアウトフォーカスだからではなく、空気層を透かして見る景色が霞んで見えるからで、写真の登場以前の風景画では、ピントはハッキリ合っています。

だから、ボケ味が良い写真というような独特のレンズ効果は、写真固有の魅力であり、「今の写真の概念」の一つなのですが、自然な「リアルな存在や物体」を、表現する視覚技術ではないことになります。


次に、想像してみてください。
最初にお話しした、近未来の「高解像度・高性能カメラ」で撮影し、近未来の「高解像度・高性能カラープリンター」で出力した、反射画像の 「大画面」の写真作品のことを…。
6m x 4mの大画面で、レンズのボケや周辺歪みは無く、全面ピントが出ていて、細部はピクセル荒れもなく、解像度は拡大鏡で見ても、細部の細部まで正しいカラーで綺麗に見える写真を、頭の中で、想像してみてください。

これを知っていただくために、近未来の写真ではないがそれに近い効果を表現した、次の野町和嘉の写真を、ご覧ください。
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(写真クリックで拡大します)

小さな画面で見ると、細か過ぎてただ広々した山脈と市街の写真に見えます。
しかし、この写真は、2億画素で撮影されていて、精密プリンターで、6m x 4mの大画面で展示されている。と想像してみてください。

美術館の部屋の隅から、離れてその大画面の前に立つと、先ず、夕暮れの灯りでオレンジに輝く市街地が見え、次に背後の、壮大な5〜6000m級の山脈の連なりが見える、そしてそれは、市街地が山脈の麓に抱えられるようにしてあるのだ。と、現実の地上風景として出現してくるのが分かってくる。景色はミニだけれど両眼で見るリアルな3D空間のように広がり、部屋全体にも夕闇が広がっていると感じてしまいます。
大画面に近づいて、山脈の山肌を見ると、雪と氷に覆われた鋭い峰と稜線の重なりが立体で見え、雪崩の跡もある。背後の空は、晴れてはいるが闇が迫って紺青になりかかり、宇宙に繋がる無限遠の奥深さが見え始めている。空気が澄んでいるので、成層圏まで見えるようだ。

ドローンで下を眺めるように、目を市街地に移すと、オレンジ色の街の通りには建物がびっしり並んでいて、一つ一つの窓ガラスが見え、さらに近づくと、開いた窓からは、室内の様子が少し見えるところがある。通りには、車が走り、ナンバープレートまで確認できる。帰りを急ぐ人の様子がわかる。手を繋ぎ歩く男女がいる。犬が家路を走っている。顔を寄せ目を凝らし写真を見ると、ここまで細かな空間映像が見えてくる。

こんな風に、近未来の写真は、物も空間もこんなにも複雑性や複雑構造がある見え方をするのです。

ここまで来るとお分かりになると思いますが、この複雑性を表現するのは、大型デジタルプリンターの高解像度で出力される「複雑構造」が見える大画面でなければなりません。そのためには、絵画鑑賞のように、写真展に出かけ実物を鑑賞しなければならなくなります。

実際のこの写真は、野町和嘉が「Canon EOS 5Ds、5060万画素カメラ」で撮影し、大型デジタルプリンターで約3mx2.5mの大画面に出力したもので、写真展で見たその写真作品から、近未来を想像し感想を書いたものです。
2017年撮影の 南米ボリビヤの首都「ラ・パスタ」の夕暮れの風景です。

この野町和嘉の写真展での大画面写真でも、十分に、全体のスケール感と、細部の「終わりのない複雑性」が感じられ、「リアルな存在や物体」である。と感じることが出来ます。(パソコン、タブレットで、細部を拡大してみてください。このブログアップロード画像では解像度が足りませんが、細部の複雑性は想像していただけると思います。)

しかし、写真から「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を感じさせるのには、この「反射映像の大画面」と「複雑性・複雑構造」だけでは、要素が足りません。

その要素とは、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創り、感じさせようとする、「撮影者の意思」です。

レンズはどのようにして、「撮影者の意思」を写し取るのでしょうか。
カメラが撮影者の意思を写し取るとは、何なのでしょうか。
カメラには、撮影者が意図しないものも写してしまう「レンズの自由意志」があるとお話ししましたが、「レンズの自由意志」にはもう一つ、撮影者や被写体の意思を写し取る仕組みがあるのです。

上の写真の、市街地や山脈の「複雑性・複雑構造」は、正に、この「レンズの自由意志」の賜物なのですが、更に加えて、この写真には、撮影者の意思が、無意識であっても「リアルな存在や物体」を創る。という意思が写し込まれています。そこで初めて、それを見た鑑賞者にその意思が伝わり、(一つの命を得たかのように生きたもの)と感じられる写真になるのです。

それはこんな仕組みです。
例えば、何人もが参加する撮影会で、同じ風景を同時に同じ条件で撮ったとしても、写真がそれぞれ皆違うことを経験されたことがあると思います。その違いとは、それこそ「レンズの自由意志」が、撮影者の意思である、(この日この時間にこの体調でこの場所に居るとか、例えばあの木の枝を入れよう、とか、空の雲が面白いので入れようとか、今日は調子が悪いのでアングルが適当)などなどを、それが無意識であっても、一瞬の意思を、「レンズの自由意志」が写り込ませてしまうからなのです。

例えば、写真家にも、人物を撮るのが上手い。風景を撮るのが上手い、動きのあるスポーツを撮るのが上手い、対談風景や人物、タレントの個性を撮るのが上手いなど、得意があります。それぞれのプロの「撮影勘」を表現した言葉ですが、これも「レンズの自由意志」が、撮影者の意思(無意識であっても)を写し撮っている証なのです。

絵画では、その意思と複雑性は、画家が一筆一筆書き込まなければ表われませんが、写真では「レンズの自由意志」が、一瞬に勝手に写し撮ってくれて、簡単と思われますが、それは逆で、日頃の訓練で、強固に「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創るのだ。と意思していなければ、余計なものも沢山簡単に写し撮られるので、一つを強く写し込むのは容易ではないのです。皆さん、自由に自分の意思をコントロールできますか?。しかしそれは、生まれつきの才能なのかもしれないのですが…。

このように …「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創る。… という意思を、無意識にでも、強固に持てば、写真撮影でも創れる。と分かっていただけたかと思います。しかし、現在(2019年)主流の約1000万画素レベルのカメラでは大画面に伸ばしても、複雑性は十分には表現でません。
つまり、「今の写真の概念」とは、これまでのカメラ性能の範囲内での話なのです。

新時代の写真には、「カメラの性能」と「カメラを操る強固な意思」そして「レンズの自由意志」の三つの要素が必要と分かってきました。三つが揃うと写真は新しいステップを始めるので、「今の写真の概念」に囚われず、さまざまな分野から、新しい発想、新しい才能の写真アーチストの誕生が期待できるかもしれません。
その新時代のアーチストは、写真と絵画、そしてコンピュータ、スマホ、インターネットにも、さらにはその発生元になる言語思考の変化にも、影響与えることになるかもしれません。

それは、科学から生まれた「カメラの暗黙知」とも言える「レンズの自由意志」が、人間の「暗黙知」をサポートしながら、壊れ始める言語の時代の先を走ることになるかも知れません。

野町和嘉は、言っています。
---「私の写真が人間から風景に移ってきた要因のひとつに、SNSやスマホの急激な浸透により、世界中で情報が画一化して、特に辺境といわれた地域の人々とも意識に差が無くなり、あえてカメラを向けようとする意欲が萎えてきているという個人的事情もあります。
スマホの劇的進化により写真が誰にでも簡単に撮れるようになったことで、世間での写真のステイタス、ハードルはがっくり下がってしまいました。
これによりグラフメディアがほぼ終わってしまったことで、従来のドキュメンタリー写真は発表の場も無くホントに難しくなりました。
しかも世界同時進行です。地球上のどこからでも、誰にでも情報をアップ出来るようになり、
従来のプロ写真家というカテゴリーがすっかり怪しくなってきました。」---

しかし、こういう事態も、カメラの進歩と、人間の意識が変われば、簡単に乗り越えられる様に思います。大画面の写真を何枚も展示できる写真美術館が必要です。カメラ業界にも、こんな写真が撮れる超高解像度カメラや超高性能大型プリンターを早く造っていただけたら幸いです。

写真家 野町和嘉は、準備が出来ています。次にあげる写真のように、意識はもう新たな次元を走り始めているのですが、周囲は、写真界消滅で茫然自失の状態で、アドバンテージに気がついていない状況なのです。
もう野町和嘉も若くはありません。次の写真家、写真界を育てたいと長年願って来ました。この「写真の未来」ブログも、その意思に添いながら、書き続けて来たのですが、今回は、新しい時代に向かう変化の提案になったでしょうか。気になるところです。


(オマケです)
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今人気の、生きているように描く「写実絵画」とは、写真のレンズによる画角空間を使い、結果的には遠近法になる方法や、写真のアウトフォーカスのボケを立体感の表現に使ったりして、写真の感覚空間に慣らされた現代人に「写実」を感じさせている絵画群です。でも、超解像度カメラの複雑性までには精密は及びません。
人間の感覚器官が感じる、感触、空間、立体、環境、物体などを、脳内でビジュアル化し描く場合、写真がまだ無い時代の絵画では、逆遠近法。立体を平面的に描く。左右片眼で見た角度の違う二つの映像を合成する。自然界には無い輪郭線を描く。空気遠近法。そして、スフマーフ技法など、遠近法以外は科学的方法で十分吟味されてはいませんが、しかし、人の現実感覚に馴染じむ表現方法で、脳内に映る対象や記憶を描いています。

人は、広い景観に出会うと、左右を見て全風景を視覚で捉え、画像を補い合成し脳の「記憶」に納めます。写真では、広角レンズで、歪みが目立たないように撮影します。ですから、人間の記憶にある景観と写真の画像とは違っているのです。つまり、脳内では「記憶」でも、写真の方は記憶でなく「記録」と呼ばれることになります。
現代では、写真の「記録」を、後に脳で「記憶」として置き換えたりすることもあります。友人に、昨日ここへ行ってきたよ。と、写真の「記録」を見せて、自分の「記憶」の代わりにしてしまうのです。そして言葉の理解も、違うと分かっていても、それに従っています。しかし「リアルな存在や物体」とは「記憶」のものなので、新時代の「リアルな存在や物体」を創る写真を「記録」とは呼ばないで欲しい。

(オマケ2)
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アーチスト自身の暗黙知を言語化する。とは、小説家の作業です。絵画では歴史画がその代表です。また、自分が知る言葉で唄われる歌がそれになり、知らない言葉、例えばポルトガル語の歌は、ただ、歌手や演奏家の暗黙知のみを感得することになります。
言葉やミーム(言葉や文字などで伝えられる情報)を暗黙知化する作業とは、ベートーベンの音楽です。近代から始まり現代に続く、理解方法や時代知性の先駆けになります。
古代、社会的なものの萌芽が、国のレベルまで拡大すると、言語がコミュニケーションの主流となり、言語思考による法律、政治、お金、社会的絆が生まれ、やがて「言葉での理解が、理解の全てになる」がベースになる、キリスト教のような善なる合意の生活世界が成長して来て、現代地球を迎えます。
しかし、人間は、元々、暗黙知と言語思考の違いを、意識と無意識と同じように、はっきりとは認識できず、一連の認識や思考の中でも、二つの間を行ったり来たりしています。それは、三つ以上のことは同時にできない、又は難しい人間の特性が原因なのですが、そしてそれが人間の感情、知性、思考の窮屈な形を生みだしていて、根がフリーなアートもその影響を免れず、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創りたいという欲求は、そのアンビバレンツ(相反)からの脱出欲求なのです。また一方、言語思考が出発の原点であった筈のインターネットの進展が、自らの堅固だった筈の言語思考の構造そのものをも壊し始めている予兆があります。そのことに気付けば、近い将来、二つは機を一つにする予感がします。
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● 野町和嘉の、高解像度カメラによる作品を紹介します。

これらの写真が、デジタルプリンターで、幅6mの大画面に出力されていると想像してご覧ください。

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野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ

野町和嘉『写真』とは(4) ー空は、無限遠  ー

2019年02月28日 | 野町和嘉『写真』
もし、あなたが画家だとして、空を描くとしたらどう描くでしょうか?。
青空なら、青の絵具で空のスペースを塗りつぶし、そこに白い雲をいくつか浮かべる。
曇り空なら、白の絵具にグレーの絵具を曇りの具合で混ぜて、太陽の近くは明るく、グラデーションで描くのではないかと思います。

多くの人々には、空とは、晴れの時は青色の幕が、曇りはグレーの幕が、背景のように空全体を覆っていて、その幕を描くと空が描けると思っているようなのです。

しかし、そうとは考えない画家がいます。
空には、遠く果てなく広がる無限遠の空間があって、空を描く場合、その空間が、無限遠の拡がりに感じとれる描き方をしなければならない。と、考えるのです。

その画家の先駆は、レオナルド・ダ・ビンチです。
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上掲の5作品以外にも、キリスト関係のレオナルド・ダ・ビンチ作品のほとんどでは、背景には空が描かれています。
その空の描き方は、遠くの山々は、遠ざかる程に青味を増し霞ませる空気遠近法で、手前には、濃い色の山々や木々を描くことで、その背後の空が、無限遠が広がっていると感じさせる方法です。空の面積は絵の中では小さいのですが、その方法でも十分に無限遠の空間を暗示させていて、単に、青や灰色の幕が空に掛かっている描き方ではありません。

この時代の、あるいはギリシャ時代にまで遡るのかもしれませんが、キリスト(又はギリシャの神々)を主題にした絵画では、背後に空が必ず描かれています。その空の役割とは「聖」の暗示であり、ほとんどは幕のよう空で、多くは、装飾記号的に描かれ機能させられていて、レオナルド・ダ・ビンチのように丁寧な技法を施す必要もなく、空=聖なるもの。と既視化されればよく、描かれた空に、仔細な意識をむけたり、思わずそこに思いを傾けてしまうような深い絵の魅力は、あまりありません。
現代の表現でもキリスト像の背後には空が無造作に描かれ、そこには天使が浮かんでいるなど、空の表現は、多くの絵画で、記号的な「聖」の装飾であり続けています。
神があって聖があるのか、先に聖があって神が生まれたのか。人間にはまだ自分の事を十分には分かっていませんが、それどころか現代人の無限遠の「空の空間」への好奇心は、「聖」とは無関係に、宇宙旅行や星雲、ブラックホール、暗黒物質、また約138億年前のビッグバン直後に生まれたファーストスター発見の興味などに変化してしまい、このような変化は、科学と宗教(一神教)との対立に、新たな混乱を招きかねず、本当にどんな影響を与えることになるのでしょうか。?

では、レオナルド・ダ・ビンチは、何故このような描き方を、ほとんどの作品で施したのでしょうか。
空は、当時キリスト主題の絵画を描く際の決まり事なのですが、しかし、ダヴィンチが描く、空の無限遠の空間には、仔細な意識を向け、いつまでも探っていたくなる特別な未知の魅力があります。そして、例えば上掲の「岩窟の聖母」の絵では、奥の遠くに空の無限遠の空間があり、その手前の空間には空気遠近法で描かれた、遠く霞んだ山々と濃い色の山々が重なり、その前に奥行きのある洞窟、中には聖母、キリスト、ヨハネ、ガブリエルの四人。ここまで空間が重なり続いてくると、遠くの空の空間は宇宙空間であり、山々から洞窟と四人までは、地球であり、地上の出来事を描いると感じてしまいます。
そして、それを眺める我々も同様に、地上の住人であり、レオナルドのような天才の絵画から、空の無限遠の空間を意識させられると、宇宙の無限遠な空間の下に、我々が立つ地上がある。と、自分達の立ち位置をも思い起こされてしまうのです。

これは三次元、又は時間を含めた四次元のリアルを、絵画の二次元に置き変える、レオナルドの方法なのです。空の無限遠の空間さえ描いてあれば、地上には何が描かれていてもリアルに見える、生きているように見えると言うことでしょうか。

そうするとそれは、さらに、洞窟の四人が居る空間と、我々鑑賞者が居るリアルな現実空間とが、地続きにつながっているようにも感じてしまうのです。キリストの頭上に光輪(ハーロー)を描くことを拒否し、リアルを求めざるを得なかった、レオナルドの画力の深さが伝わってきます。そして、我に帰り振り返れば、この我々の地上空間の背後にも、当然に、絵の中と同じ無限遠の空間が広がっているのです。

レオナルド・ダ・ビンチは、リアルを求め、当時流行の遠近法を取り入れました。現代でも、自然の空間表現とは、遠近法が正当と思われているところがあり、その代表は「写真」です。
レオナルドは遠近法を描く方法として、のぞき穴から単眼で、前に置かれたすりガラスに映る景色、その輪郭を写し取れば、簡単に遠近法で描くことができると、方法図を残しています。
これは、すりガラスの前にレンズを置き、眼球の焦点の代わりをさせるカメラの原理と同じで、カメラでは、誰でもが簡単に、景色を遠近法で描くことが出来ます。
しかし遠近法は単眼ですが、現実の人は双眼であり、自由に立ち位置を変えられ、意識には注視という機能があって、興味のあるものには脳内でクローズアップが出来て、あたかも高性能レンズを自在にチェンジするように、空間を拡大縮小し認識することが出来ます。東洋では、逆遠近法、つまり遠くのものを前景より大きく描く、例えば我々でも、夕日や富士山など、写真に撮ると小さく写りガッカリするのに、印象を絵にすると大きく描いてしまうこんな経験があると思います。しかしこの経験には、これは間違いであって、遠近法こそ科学的真実であると思い込まされている現代人も共にいるのです。

『新古今集』冬に
「田子の浦に うち出(い)でてみれば 白妙(しろたへ)の 富士の高嶺(たかね)に雪は降りつつ」山部赤人(4番) 
の歌があります。

田子の浦の海岸に出てみると、前には青い海の水平線が孤を描き広がり、青空には白雲を置き、景色が視界に広々と展開している。振り返り背後を仰ぎ見ると、天空には冬の太陽、巨大な富士が裾野を左右に広げ聳えている。山頂には、あたかも今まで雪が降っていたかのように、真新しい白雪を被っているのが見える。

壮大な自然を詠んだ歌である。遠近法に収まってしまうような現代日本人の里山の自然空間ではなく、中世日本人の原初の空間感覚です。
写真で言うと、海岸では広角レンズ、太陽は望遠レンズ、富士山には広角から望遠のズームレンズ、頂上は超望遠レンズで眺めるという風になる。こんな見え方とすると、遠近法こそ科学的定説としてきた現代人の矜持はどうなるのだろうかと思う。事実、海岸では、写真で撮ると、空は遠くにあっても大きく写っている。手前のものを大きく写す広角レンズでも、空は更に更に大きく写ってしまう。これでは、逆遠近法で写っている。と言うことになります。
こうなるのは、地球上は閉じた空間であり、空はつまり宇宙は、開いた空間だからなのですが、海に浮かぶ遠くの船は、小さく見え、遠くの雲も小さく見える。しかし背後の空は大きく見える。地球上は閉じた空間であると言うのは、例えば、赤道上で、二人が平行に左右に広く離れ、それぞれ経度線を北に向かい初めは直線平行に歩き始めたとしても、北極点では、交わってしまう空間を言います。雲の場合は、飛行機に置き換え、二機の飛行機を平行左右と地上平行にして経度線上を飛べば、地球を飛び出さず(飛び出せない)、やはり北極点上では交わってしまいます。一方、宇宙空間は空間が開いているので、つまり平行線は遠方では広がっている、交わることなく双曲線として広がっている。だから空は反対に大きく逆遠近に見えるのではないでしょうか。
膨張宇宙論では、宇宙は閉じているのか開いているのか?、閉じているとビッグクランチで収縮を始めるので、宇宙の寿命については様々議論があります。しかし地球上で写真を撮ると空は広がって写るので、人間の心理、本能として宇宙は広がっているのではないかと思うのです。

そうすると、空を逆遠近に写す写真は、宇宙物理の真理を写しているのかも知れません。

レオナルド・ダ・ビンチに戻って、モナ・リザの絵のことを見てみましょう。
モナ・リザの絵の構図を写真で撮るとすると、どんなレンズになるでしょうか。
モナ・リザは、35mmカメラで90mm〜105mmのポートレートレンズなら美しく撮れるでしょう。しかしそうすると、遠くの背景の景色は、最大に絞ってもピントが外れボケるのではないでしょうか。レオナルドのモナ・リザの絵画では、空気遠近法で空気の層の透視で景色は霞んで見えます。しかし、ピントが外れている訳ではありません。なぜなら、モナ・リザを描くレオナルドの眼には、景色は空気層の透視で霞んではいるけれど、ピントは合っていてボケずに見えています。人間の眼は、意識の注視により、どんなに遠くでもピントを合わすことが出来るからです。
写真で、モナ・リザの構図と同じものをワンショットで撮るとするとどうなるでしょうか。先にピントが合った背景だけを撮って大きなプリントにし、彼女がスタンバイした背後に背景紙として垂らす方法があります。勿論、二つには別々のライティングが必要です。スタジオ撮影で、モナ・リザには主ライトを前左上から背景には漏れないようにセット、背景紙には、左右から挟み込んでの均一ライティングをします。そうすれば背景の景色とモナ・リザとの距離が近くなり両者にピントが合い、モナ・リザの絵のような写真が撮れます。
ここまで考えると、モナ・リザの絵画は、遠近法ではなく、むしろ東洋人の私には、逆遠近法で描いているように見えるのですが…、しかし逆遠近法とすると、背景の景色がもう少し左右に広がっていなければバランスが悪いような気もするのですが…。そのためか反対に、ハミ出た背景が虚像のように見えてきて落ち着かない気もしてくるのです…。

こうなってくると、写真は、物理的真理に目くらましをしてから写しているのかも知れません。

お気づきかも知れませんが、モナ・リザにも、遠くの空の無限遠の空間が描かれています。調べた限り、レオナルドでは、空の無限遠の空間表現は、決まり事の「聖」の暗示として、キリスト関係の絵画にしか描かれていません。しかしモナ・リザは一般人ですから、「聖」の暗示は必要ありません。他の一般人を描いた絵では、背景はシンプルな暗色で描かれています。何故モナ・リザだけに、背景が明るい景色があるのでしょうか。
この絵は死の間際まで手元に置き、筆を入れていましたから、モナ・リザは、レオナルド・ダ・ビンチの性格や生き様から、画業の集大成と言うことができます。
多分それは、背景の遠くに、空の無限遠の空間を入れることで、その前方に描かれた人や物体がよりリアルに見えるようになる。そんな効果の発見があったからなのではないでしょうか。背景に景色を入れると決めたのは、あの空の無限遠の空間を描くためだからなのではないでしょうか。

前に、野町和嘉『写真』とは(2)で、
レオナルド・ダ・ビンチは、究極には、対象を写し取り描くのではなく、紙やキャンバス上に、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創り出したいと願う画家の一人とお話ししてきました。
そして、背景に遠くの空の無限遠の空間を描くと、前方はリアルが増してくるこの描画法は、スフマーフ技法と共に、キャンバス上に「リアルな存在や物体」を描くレオナルドの方法の一つになったのではないでしょうか。

モナ・リザについては、前述のさらに詳しいブログをご覧ください。
永遠のモナ・リザ(1)(2)(3)

そして、同じ描画法を使う画家が、その後にも現れています。
レオナルド・ダ・ビンチを研究していたルーベンスは、多くの絵でレオナルド流の空を描き、効果を確信しています。
近代では、ルソー、ダリ、キリコにその効果が見えています。
背景に空の無限遠の空間さえあれば、地上には何を描いてもリアルに見えるから構わない許される。と、本能的にそれを知る画家がいたのだと思います。
ルソーの絵は、あの空が描かれているからこそ価値があるとすら思えます。ピカソには、その直感とセンスがありませんでした。だからピカソは、キリコを恐れ、晩年までルソーの絵を手元に置いて眺めていたのだと思います。
是非、彼らの作品を、新たな目で見直してみてください。よく分からなく好き嫌いが極端な画家達ですが、そこに空の無限遠の空間を感じれば、きっとすべての皆様が好きになると思います。
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さて、そこで野町和嘉『写真』です。
2019年春、最新写真の場所は、アイスランドです。
その中の一枚です。
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高解像度カメラ(Canon EOS R)は、氷のクリスタルな質感をリアルに捉え、氷のアップから空までの長い距離の深度も、高解像度と広角レンズとで、全面シャープなピントを実現しています。

寒い空間。薄明の海岸で氷河から流れ出てくるクリスタルのような三角形の氷、そして波、地球の丸見が見える青い海と黒い海岸大地、そして雲の背後には、あの遠くの空の無限遠の空間が見えています。
あの無限遠の空間があると、海と波と海岸とクリスタルな氷は地球上の物体であると知らされ、それらを余すところなく捉えようと、カメラを構えている野町も地球上の人である事が分かってきます。

レンズの自由意志は、撮影者の注視や意思を越え、撮った積もりもないものも、レンズに映るものは全て写してしまいますが、同時に撮影者の意思もくまなく捉え写してくれます。レオナルド・ダ・ビンチがしたように、遠くの雲間に見える空の先には無限遠の空間が続いている。と撮影者が意識すれば、鑑賞者が見てもそう感じるように、カメラは写してくれる。日常的に無意識にでもその感覚があると、カメラはその無意識をも捉えて、カメラを構え空を写すだけで、そう写ってしまう。それがレンズの自由意志の振る舞い方であり、撮影者の才能であり、撮影「勘」なのです。

写真家 野町和嘉は、世界の辺境を巡り、そこで生きる人々の姿を撮影してきました。辺境では宗教が必ず生まれていて、人々を撮るとは、宗教の祈りで生きる人々を撮る事になりました。原始宗教、イスラム教、キリスト教、ヒンズー教、仏教、道教など、様々な姿を追い求め行くうちに、それはとうとう世界中の辺境を巡る撮影旅行になってしまいました。宗教に生き祈る人々を撮るとは、その生活や宗教発祥の舞台となる、辺境の雄大な過酷な風景奇景も撮影することになります。キャリアのスタートが、サハラ砂漠の砂丘との鮮烈な出会いなので、野町和嘉には人々への興味の前に自然風景への渇望があります。辺境の自然を撮影して行くうちに、ファインダーの中に祈る人も映り込んできて、そのまま自然と同類に人々の営みをも撮って来たというのが、野町和嘉の写真スタイルなのです。
キャリアを50年近くも重ねると、興味が、祈る人々から、過酷で奇景な美しい自然へ、あのサハラ砂漠との初恋のような心に戻って来ていて、前掲のアイスランドや南米そして世界遺産などの最新の写真では、地球自然への愛しさと懐かしさに溢れ、見る人に、自分も自然の一部であると気づかせる至福の癒しを与えてくれています。
前に、写真には、祈る人々も風景の撮影にも、野町の無意識の意思として、重力の感覚(地球の中心に垂直)のみを写りこませ、後は、レンズの自由意志に任せている。とお話ししたのは、この才能から発していることなのです。

過去の作品を見ると、野町和嘉の無意識の撮影勘には、初めからそれが確かにあります。そして今、高解像度カメラを得て、その撮影勘がますます鋭くなっているように感じます。

ここから、画面上に「リアルな存在や物体」を創る可能性が、写真でも見えてくるのではないか、と感じられるのです。
これまで、野町和嘉『写真』とは(1)(2) (3)で、
絵画の紙やキャンバス上で、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創るとは何か、を考えてきました。

写真でもそれが実現できないものだろうか。

デジタルカメラとデジタルプリンターの急速な発展で、大画面で高精密な画像の写真が創れて、それを使い実現できるのでは…。
後は、撮影者が、画面上に「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創ろうとする意思さえ持てば、それをレンズの自由意志が創ってくれるのでは、と考えるのです。

これまで、対象を写すとしか考えなかった写真撮影を、「リアルな存在や物体」を創る。に進化させるには、どうしたら良いのだろうか。何が必要なのか。

大きな変化になりますが、次回は、そんな無謀な可能性を考えてみたいと思います。

野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ

野町和嘉『写真』とは(3)ー写真は散なりー

2018年01月30日 | 野町和嘉『写真』

先回、デジタルカメラの高画素化とカラープリンターの精密化で、写真の可能性が広がるのでは。とお話ししました。(「野町和嘉『写真』とは(2)ー未来の写真ー 」
それは、葛飾北斎が
『70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。
ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。
そして、100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。』
と言っています。
その最後の
『100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。』と言っているような、対象を写し取り絵に描くのではなく、紙やキャンバス上に、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創り出すことが、どうしたら写真でも可能になるのか。のお話しでした。

カメラとは、レンズに映るものは何でも写す自由意志を持ち、同時に、被写体の意思と無意識、さらに、撮影者の意思と無意識をも写してしまいます。
そして、野町和嘉の撮影方法とは、「重力感覚」のみを意思にして、後はレンズに映るものは何でも写すレンズの自由意志に任せる。と、お話ししました。
そして、この方法で「リアルな存在や物体」を創り出す方法に近づけるのでは。と、先回は、お話ししました。

今回は、それの続きです。

ファインダーを覗きシャッターを押す「写真」の瞬間と、筆に墨を含ませ紙に下ろし動かす「書」の瞬間が、多分ふたつとも息を止めていると思いますが、良く似ているので、次のことを考えてみました。

古代中国から伝統を受け継ぎ、日本独自の展開を続けている表現方法に、筆と墨を用いる「書」があります。その「書」の方法に、「書は散なり」があります。中国、後漢時代の書家・政治家の蔡邕(さいよう)の言葉です。
平安時代初期の三筆の一人、空海は、その言葉を引用し「書の極意は心鬱結する感情を万物に投入放散し、性情のおもむくままにして、そののちに文に書きあらわすべし」と言っています。蔡邕(さいよう)は後漢の人で、この言葉は道教の思想から発想されたものと思われます。
仏教の中国への伝来は、後漢と言われていて、経典も次々と到来し漢訳されるのですが、道教の影響で、仏教はインド流とは大きく変わってしまいます。しかし、東洋の思想同士、表現は違っても、ベースは通底していますので、お互いがお互いの思考でお互いの説明が凡そ可能と言う関係にあります。

では、「書は散なり」の「書の極意は心鬱結する感情を万物に投入放散し、性情のおもむくままにして、そののちに文に書きあらわすべし」についてです。

「心鬱結する感情を万物に投入放散し」とは、文章の中の、例えば「花」という「字」を書く場合、書き手は、文章のことわりで語られる花の様子を想像し、心に思い描き、それが花園の薔薇の花とすると、その薔薇に自分の感情意識を投入する。ということ。
これを仏教の瞑想修行に例えると、仏を観想することになりますが、仏像や仏画を参考に、仏の姿かたち、四肢の詳細、肌の色、顔、目鼻、目の血管に至るまでを、隈なく想像し、その全ての想像の中に自己を投入します。すると同化がはじまります。空海の場合は、真言を唱え、仏と自己の二つの三密(身・口・意)を加持すれば、仏が現前します。「万物に投入放散」とは、言うことの強弱はあれ、この仏教の瞑想の方法とあまり違いはありません。
そして、「投入放散」した後はどうするか、「書は散なり」では「性情のおもむくままにして、そののちに文に書きあらわすべし」と言っています。
仏教では、「投入放散」した後、空海の場合、三密を加持した後は、現前した仏と己が応じ合い、菩提心(即身成仏)が生ずるとします。
菩提心や即身成仏については、ここでは書ききれませんので説明しませんが、
(当ブログ「成仏の方法」をお読みください。)

写真で考えると、
「心鬱結する感情」とは、先ず、薔薇園に咲き誇る薔薇の花の美しさに心引かれたか、あるいはカメラマンの仕事で、あの薔薇を撮れと言われたか、何れにしても、 撮らなければならない事態に、今、心と感情が染められています。そして次のシャッターを押すタイミングでは、この時と場所は、二つと同じものはありません。野外で薔薇の花を撮る場合、太陽光の明るさ方向、風の強弱、そして自分の心と意思も、二度と同じものはやっては来ません。撮られる薔薇の花サイドの事情も同じです。この二度とはない出会いの薔薇に「心を感情にのせ投入放散」することになります。
心や感情が多いと、シャッターは押せますが、投入どころか感情が邪魔をして薔薇の中に心を放散することができなくなってしまいます。「書」でも事情は同じで、筆が進まないことがあります。
写真の場合、レンズの自由意志がありますので、撮影者の意思は極力少なくして、レンズの自由意志に任せると、邪魔者が消え、薔薇だけがファインダーの中に映るようになり、薔薇の中に自己を放散することが可能になります。そしてその後、シャッターを押す意思を発動させれば、レンズから画像が撮像素子に入ってくる。つまり、自分と薔薇が応じ合い、瞑想の場合には、仏と応じ合い、自分の中に仏が入ってくるような意識をもてば「写真は散なり」が実現することになります。

こんな具合に、理想的に、上手にシャッターが押せるなど、あることなのでしょうか。
でも、こうして生まれた写真は、どんなものになるのでしょうか。
真に「写真は散なり」で生まれた写真とは、どんなものなのでしょうか。
写真でも、葛飾北斎が言った。「一つの命を得たかのように生きたもの(リアルな存在や物体)」を創り出すことが出来るのでしょうか?。

「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)とは何か。
それは、見る人の、意識認識の好奇心が続けば、永遠に情報が尽きない「複雑構造」を持つことを言います。仏教でも、仏は、永遠に情報が尽きない「複雑構造」を持ちます。

道端に転がる小石でも、手に取り仔細に眺めると、表面の複雑な表情の中に、目を移して行くと次々と新しい要素が発見できます。飽きがきて中断するか、これは「道端の小石」であると言語思考がラベリングし、認識を中断するまで、欲すれば永遠に眺め続けることができる「複雑構造」を持ちます。
そうすると、私の好奇心が続きさえすれば、周りの目にするもの、自分を含め、今、部屋にあるもの、外の環境、大きく宇宙全体にある全てのものが、あるがままに「リアルな存在や物体」である事になってしまうのですが…。
それはそうなのですが、日頃はそうとは感じず思いもせず、方々に目を移し過ごしていて、ふと、芸術作品に触れた時や、見上げて美しい月に出会った時などに、思わずそれらに「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を感じてしまうのです。
ですから、「リアルな存在や物体」が描かれている絵画や写真には、ハッと気づかせる魅力や情報を塗り込めておかねばなりません。
作者は「リアルな存在や物体」を創るのだ。と、強い意思で制作しなければなりません。そうすれば、絵画や写真の機能は、作成者の意思を作品に塗り込めてくれるのです。

こんな風に、多くの画家は、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を描こうとしました。詳しくは先回をご覧ください。(「野町和嘉『写真』とは(2)ー未来の写真ー 」

空海は「書は散なり」を実行しました。空海の有名な書、「風信帖」の最初の文字は「風」です。最澄からの書状に宛てた返書がこの風信帖ですが、
その書き出しは、
「風信雲書、自天翔臨 」(風信雲書、天より翔臨す。)
風とともに湧き出る雲のような書状が、天から舞い降りてやって来ました。
になります。
飛天が空から舞い降りて来た風情であろうか、待ちわびていた最澄からの書状の到来を、あたかも、ハリウッド映画のタイトルシーンのように劇的に表現しています。

「書を散ずる」の「心鬱結する感情を万物に投入放散し」からこれを見ると、
「風信雲書、自天翔臨 」のこの書き出しは、最澄のことを思い浮かべ文脈を思案する中から生まれたフレーズで、これは空海の「心鬱結する感情」から発しています。最初の「風」の字は、「万物に投入放散し」の万物に当たりますが、空海は、どんな「風」を想像したのでしょうか。
飛天がひらひら舞い降りてくる羽衣の「風」か、自らが進む先の運命を「吹く風」になぞらえたか、あるいは、ふと頬に当たってきた、今吹く「風」なのか、書体を王羲之風にするというのは、ハリウッドスタジオの中で舞う大型扇風機が作る典型的な「風」のようなものなのだろうか。その「吹く風」に「心鬱結する感情を投入放散し」、空海は、最初の文字「風」をしたためました。

受け取った最澄は何を感じたでしょうか。現代の我々は、この「風」に何を感じるでしょうか。一口で表せる特徴ではありません。人により様々な感じがあり複雑です。なんだかよくわからない。もその一つですが、じっと見つめていると、臨書までしなくても「風」を真似て頭の中で書いてみたりするなど、心に入り込んで来る。そこから思いがいろいろ湧いて来るとすると、複雑さがある事になり、この「風」の文字は、「リアルな存在や物体」に近づいて行きます。
書状を交わした時の、空海と最澄の関係、決別に至る経過、その後の空海の旺盛な活動など、今、我々は多くの歴史を知らされています。しかし、その知識を知れば知る程、「風信雲書、自天翔臨 」の初見のフレッシュは失われ、空海から心が離れて行くのを感じます。それは、目前の手を伸ばせば触れられる「リアルな存在や物体」からも離れて行くことになっています。

「風信雲書、自天翔臨 」を書き出しとする空海の風信帖には、スピードがあります。全ての仏教の経典や論書そして書状での特徴は、スピードです。遅い言語思考による理解は許さない、常に頓悟(直感)しか許さないとする厳しいスピード感覚です。
被写体を捉え、逃げない前に、素早いシャターを押す、野町和嘉のドキュメンタリー写真の方法に、似ていると思いませんか。シャターを押すとは、後はレンズの自由意志に任すことになるのですが、この自由意志に任すとは、これは「書は散なり」が「性情のおもむくままにして、そののちに文に書きあらわすべし」と言うこととあまり違いはないように思います。

そう考えるとつまり、ここまで見て来たことから、「写真は散なり」の心を持ち、素早くシャッターを押せば、「リアルな存在や物体」を印画紙上に創れることになりますが、どうなのでしょうか。
これはまた、母親が、夢中で愛しい我が子にレンズを向け、レンズの自由意志を頼りにシャッターを押すことにも似ていますが、それなら、案外、簡単に出来ることなのかも知れません。


デジタルカメラの進歩は、5000万画素、1億画素を越え、写真は新しい次元を獲得しました。カラープリンターも同じく進歩し、この二つから生まれた反射画像(プリント)は、新しい時代を開く価値として、これからは考えなければなりません。
写真は、「写真」と名称されるように、被写体を写し取ることがその機能の全てであると考えられて来ました。絵画でも、風景画、人物画、抽象画など、自然や人物を被写体として写し取ったり、被写体や作者の心情をビジュアル表現で画面に表したり、言葉の物語を画面にビジュアル化したりなど、物事であれ心情であれ、自分のものであれ、他のものであれ、作者がそれらを写し取り画面に表現することと考えられて来ました。そして、写真も類似の活動と考えられて来ました。

しかし絵画には、葛飾北斎が言ったように、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創ろうとする選ばれた画家がいました。
写真でも、これが可能になるのではないか。5000万画素以上のデジタルカメラと大型デジタルプリンターによる大画面で実現できるのではないか。大画面にすると複雑性が増し効果がはっきり分かります。近年の野町和嘉の大画面プリントによる写真をご覧ください。そこには確実に「リアルな存在や物体」があります。可能性が見えています。

今日のモダンアート、コンテンポラリーアート、そして写真も含め、その活動は、言語思考に支えられ、せいぜいがその拡張の領域で止まっています。それは「言葉での理解が、理解の全てになっている」現代の風潮に合わせられているからなのですが、全てが言葉の理解で理解されなければならない。言葉の理解で魅力的なものが良いアートである。つまり流通価値が高くなりやすいことになっているからです。
近年のSNS、Instagramインスタグラムにupされる写真の方が、現在のどんな写真やアートと比べても、何とビビットなことか。
ここでは、マスメディアの価値観ではなく、母親が愛しい我が子を撮らえた写真が、評価のベースだからですが、若い彼女や彼達は、デジタルカメラとプリンターの進化の価値にも、いち早く気付き、軽々と使いこなすに違いないと思えてきます。

葛飾北斎は、88歳で没しているので、『100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。』と言った願望は実行が叶いませんでした。
現在のアート界、絵画界で、北斎の意思を継げる者は見当たりません。
しかし、Instagramの彼女等が、さらに画像技術と環境が進めば、その後を継ぐ者になるかも知れません。



(オマケ)
「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)について、もっと知っていただくために。…

「癒される」感覚とは、
例えば、動物園の動くパンダの愛くるしさ、これも「リアルな存在や物体」なのですが、これに触発され、自分自身も「リアルな存在や物体」であると気づかされることで、癒しがやってきます。代用でぬいぐるみのパンダを抱きしめる行為は、自分が「リアルな存在や物体」であることを身体で確認をしていることになります。
そして、パンダ以上の癒しの存在は何よりも母親です。久しぶりに会うと、お互いが「リアルな存在や物体」であることを、自然に意識させられ、癒され、さらに深化して、お互いがお互いの肉体の一部を交換してもかまわないと思う程に、物質として共通の認識を持っていて安心と感じてしまいます。癒しを超えた、甘美な存在様式が共有されます。そして母親にとって子供は、子供が感じる以上に甘美でありましょう。


(オマケ2)
シンギュラリティ(技術的特異点)。

2045年、AIが人類の知性を上回り、我々の頭脳能力の限界を超え、シンギュラリティへと到達すると言われています。これは、コンピュータの処理能力(CPUの性能)が人の知能指数を上回るのが2045年と言い換えても良いと思いますが、さらに進めば、頭脳に電極を埋め込み、コンピュータに接続(Brain-machine Interface : BMI)。イン&アウトプット、クラウド、AIなどと連動し、我々は生物の限界を超えることになる。と未来学者が予見をしています。

コンピュータは、先ずは言語思考の拡張として発展し、その拡張も、AIのレベルまで進化し、今、シンギュラリティを予見できる所にまで来ました。
言語思考は、意識により発生し、知性と呼ばれていてます。その知性の分析ツールは科学になりますが、その科学により、元の意識そのものをも、知性(言語思考で)は分析しています。しかし、言語思考の能力(科学)では、存在の確認はできるがどうしても分析不能なものがあり、それを無意識や直感の名称で分類をし、知性の活動から極力排除して来ました。排除というよりその振る舞いが理解不能なので、触らずに無視してきただけなのですが、知性(言語思考)の相似進化型となるAIも例外ではなく、AIが頭脳能力の限界を超えると言っても、言語思考の能力基準である知能指数の最高を超えるといった程度で、頭脳能力の中の無意識や直感を超えるわけではない。そもそも無意識や直感に、科学は指数を設定できていないので、超えるも何もない。

そして「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)とは、そこにあるがままにある。そのような状態のもので、先ず、直感と無意識で、さらには、脳内に隠れている未知の能力で、最後に、知性(言語思考)で、それら全てで、感得理解する類のものなのです。
AIがさらに進化し、SF世界になったとして、その時、AIにとっての「リアルな存在や物体」とは何になるのか。ぜひ見てみたいものです。

野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ

野町和嘉『写真』とは(2) ー 未来の写真 ー

2016年09月02日 | 野町和嘉『写真』

前回の、「野町和嘉『写真』とは(1)ー写真論からのアプローチー 」で、
カメラは、レンズに映るものは何でも写す自由意志を持ち、同時に、被写体の意思と無意識、撮影者の意思と無意識をも写してしまう。とお話ししました。

また、野町の撮影法について
ある目的を持ってその地に向かいます。しかし、風景を撮影する場合、地球があって、大地から垂直に、人、動物、木、山、川、砂丘、建物、そして大気や空がある。そして自分自身も。そんな地球の重力と肉体との根源的なバランス感(重力感覚)のみを撮影の意思(無意識)にします。さらに目的もその無意識の領域に沈み込ませてしまい(旅人感を無くす)、その他はカメラの自由意志に任せるという方法です。
とお話ししました。
さらに
普通には、重力感覚の効果とは、まったく自然に見えると言うことだけなのですが、でも良い写真とは、「地球の重力の中心に向かい垂直であるという重力感覚」がはっきりと写っている写真です。それが欠けていれば、山や女性は、カタチが写っているだけで、美しいけれど、山には地表から盛り上がる屹立感が、女性には血肉が通っているようには見えないものになってしまうのです。
そこで、カメラマンは強くその「重力感覚」を意思して、写真に写し込まなければなりません。

とお話ししました。

一般に、絵画や写真の芸術とは、自然や人物を被写体として写し取ったり、被写体や作者の心情をビジュアル表現で画面に表したり、言葉の物語を画面にビジュアル化したりなど、物事であれ心情であれ、自分のものであれ、他のものであれ、作者がそれらを写し取り画面に表現することで制作されると理解されています。
特に写真とは、「写真」と名称されるように、被写体を写し取ることがその機能の全てであると考えられています。

しかし、絵画には、もう一つの究極の目的目標があるようなのです。

葛飾北斎が言っています。
『70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。
ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。
そして、100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。』

画家は、究極には、対象を写し取り描くのではなく、紙やキャンバス上に、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創り出したいと願う者のようなのです。

では、その「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)とは、何なのでしょうか。母親は、体内から赤子を産み「リアルな存在や物体」を創り出します。火山は、地球内から溶岩を噴き出し、岩石を創り出します。空は、空中から雲を創り出します。
つまり、その様な創造者になりたいと、画家は願うものなのでしょうか。

一方、絵画を鑑賞する側、つまり我々にとって、その創造物「リアルな存在や物体」とは、何なのでしょうか。
現前にある創造物「リアルな存在や物体」に、「赤子」「岩石」「雲」と言葉のラベルを貼り、抽象化し、言葉の記憶として認知保存する。やがてそれは「リアルな存在や物体」であった。と、鑑賞作業は終了し、それが、創造物「リアルな存在や物体」を感じ理解したということになるのでしょうか。
否、生まれ出た「赤子」は、愛くるしく愛おしく、見ているだけで次々に新しい驚きと歓びの情報を、我々の五感に送り続けてきます。無限に与えられる贈与の様に、いつまでも見ていたいと感じてしまいます。「岩石」「雲」も、その表面の複雑さや形の面白さ、動きの変化には、認識を止めない限り、いつまでも見飽きることが有りません。
「リアルな存在や物体」とは、単に「赤子」「岩石」「雲」と、言葉のラベルを張り、抽象の彼方に押しやりってしまうような、単純なものではありません。
我々には、言語思考を発動し、対象に言葉のラベルを貼る以前に、感覚と認識の、飽きることのない探索、探求、受動が動いています。この、我々の脳の好奇心を楽しませる、意識認識の先に 「リアルな存在や物体」は有る。と、北斎は、思ったのではないでしょうか。

絵を眺めるていると、次々に新しい情報や思いがけない情報が、その絵の方から贈与される様に流れ来て、飽きることがない。そんなリアルな絵を、100歳になったら、北斎は描くことが出来ると思ったのではないでしょうか。

松尾芭蕉の句に
「荒海や 佐渡に横たふ 天の川」
があります。
新潟の海岸に立ち佐渡を眺めると、必ず浮かんでくる俳句です。しかし、私は都会人ですから、天の川は、写真や動画では見たことはあっても、本物は見た事がありません。荒海も電車の車窓から見た事はあっても、海岸に立ち、強風と潮の香、激しい波の音、波飛沫を浴びての経験はありません。 だからこれが名句と言われても、よく分からないのです。本物の荒海や天の川、佐渡の夜空に架かる天の川をリアルに見た事がある人は、自分の頭脳にある言語記憶アーカイブの中から、その記憶を呼び出し、この名句を味わい尽くす事が出来るのかと思うと、残念でなりません。
確かに、自分の言語記憶(知識)や、他の人の言語記憶である知識をbookやネットの写真で探し出し、歴史を学び、奥の細道を読み、芭蕉の心情を推し測るなどして、言語思考を楽しむこともできます。しかし、芭蕉は果たしてこのような楽しみの提供を目指したのでしょうか。

松尾芭蕉には、申し訳ないのですが、これが言葉の、言語思考の限界なのです。しかし、松尾芭蕉は、この限界を理解していたのかも知れません。
「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」
枯野には、汲めど尽きない「リアルな存在や物体」 が溢れています。
果して、記憶ではなく、言葉によって、現前に手で触れられる「リアルな存在や物体」が立ち現われることがあるのでしょうか。

歴史上には、北斎のように「キャンバスにリアルな存在や物体を創り出そうとした」画家がいます。そしてその意思で描かれた絵画があります。

レオナルド・ダ・ビンチの「モナリザ」。雪舟の「冬景山水図」。ゴッホの「カラスのいる麦畑」。デュシャンのあの「泉」と題された「便器」。ポロックの「アクション・ペインティング」。などです。

「リアルな存在や物体」とは、記憶を手繰りして描く、脳内に展開される夢のように実体が無いものなどではなく、手で触れば触ることができ、見る人の好奇心に向け、情報が次々に止めどなく、そのものから、贈与されるように溢れでてきて、見飽きることがないリアルな物を言います。つまりその存在感は、分子や原子できている自然の物質から受ける感覚と違わないものになります。
そうだとすれば、それを創り出だす行為とは、錬金術であり、分子生物学であり、理化学であり、唯物論ということにもなります。

そしてまた、「リアルな存在や物体」を創り出す作業では、通常の技術や方法だけでは叶いません。そこには独自の技術や新技術が介在します。

先ず、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」です。
「モナリザ」では、顔は、肌に薄く何度も塗り重ねができる絵具によるスフマート技法で描かれます。
先回、絵画は、画家の描こうとする意思を、何時間も何日もあるいは何ヶ月、何年も持続させながら、筆で、絵具とその意思を掬い、キャンバスに塗り込める方法を取る。とお話ししましたが、スフマート技法は、その究極になります。
その前に、顔や人体とは、表面の薄い皮膚をひっぺがしてしまえば、どこの誰とも、動物とも見分けがつかない、フライジャル(壊れやすい)な感覚認識をベースにしています。レオナルド・ダ・ビンチは死体の解剖を行っていましたので、解剖の反対、肉塊を粘土細工のように精巧に人間のカタチに造り替える、つまり肉体の構造を、人体を描くために熟知していたであろうし、人間の、「朝に紅顔、夕に白骨」のフライジャルも十分に理解しただろうと思われます。

だいたい、表面をひっぺがしたら、それが元は何かと分かるモノは、世の中には、ほとんどありません。絵具のカドミウム・イエローは、顔料であり、硫化カドミウム(CdS)というカドミウムと硫黄の化合物であり、黄色の結晶構造をしています。カドミウムと硫黄の結合をひっぺがすと、色が消え、絵具とは認識できなくなります。さらに、そこから先は物理学の分野で、分子→原子→原子核、電子→陽子、中性子→クオーク→超ひも。と細かくなって行きます。
また、顔の皮膚の場合、細かく見ると、毛穴や皺がある上皮組織が見え、上皮組織をさらに細かく見ると体細胞があります。細胞は、細胞膜、染色体、リボソーム、細胞質(原形質)で構成されていて、この細胞を眺めても、これが皮膚であるとは判断できません。そしてさらに、細胞を細かく見て行くと、絵具のカドミウム・イエローと同じ、分子→原子→の構造形態と同一になって行きます。
このように「リアルな存在や物体」とは、意識認識の好奇心が続けば、永遠に情報が尽きない「複雑構造」を持つことを言います。

しかし、人の認識意識が認識した「複雑構造」を抽象化し、言葉により「人体構造」とラベリングして、脳の言語記憶装置に収納してしまうと、そこで認識意識の好奇心は中断させられてしまいます。さらに複雑さを追求したい好奇心は僅かに残るのですが、ここまででも認識意識は十分に納得して(騙されて)、それは「リアルな存在や物体」であると普通は思ってしまいます。
一般に画家は、そこで筆を止めるのですが、もし、鑑賞者の一人でもが、それを「複雑構造」ではないと感じれば「リアルな存在や物体」ではなく、単なる写しとしか認識しないことになるので、「キャンバスにリアルな存在や物体を創り出そうとした」レオナルド・ダ・ビンチは、スフマーフ技法で、自分を含め万人が「リアルな存在や物体」と感じて納得するレベルまで、複雑さを描き尽くすため、終生モナリザを手元に置き、筆を入れ続けていたのです。

そのモナリザの顔の複雑構造は、絵画にはどんな効果をもたらすのでしょうか。対極にあるのは、写楽や歌麿が描いた、大首絵の浮世絵です。浮世絵の美人画の顔は、一筆のシンプルな「輪郭線」で描かれています。
「モナ・リザ」を鑑賞する場合、先ず彼女の表情に惹かれます。さらに、皮膚の柔らかさ、きめ細かさなど、顔の肌合いがどうなっているのだろうかと、現実の生きた女性、つまり「リアルな存在や物体」を目の前にしている鑑賞を我々はしてしまいます。つまり「モナ・リザ」の鑑賞とは、恋人や新妻の顔、むしろ電車にたまたま乗り合わせた見知らぬ美人を、まじまじと見つめることと、あまり違いはありません。

一方、歌麿の美人画は、「輪郭線」で描かれているだけで、肌合いのマチエールはありませんから、同じく、まじまじと見つめるにしても、「モナ・リザ」の鑑賞とは違ってきます。
それは、「輪郭線」で浮かぶ美人のイメージに触発され、それに似た「記憶の美人」を求めて、鑑賞者は、頭脳や心の中を「旅」するということになります。
江戸時代の「プロマイド」として町民の娯楽であった浮世絵から、時を越え現代人にも感動が生まれるとすれば、「記憶の美人」を求める「旅」が、昔人も現代人も人間であれば等しく共有できる「DNAの記憶」へと誘われ、普遍的な魅力を感じてしまう、そんな能力が、浮世絵にはあるということになります。

モナリザは、現実の物への好奇心、つまり即物的な複雑構造に、浮世絵は、脳や心の記憶の中に。そこには、抽象化により認識意識の好奇心を中断させる言葉の記憶もありますが、それよりも、無意識、潜在意識、映像感覚、身体感覚が深く覚えている記憶の複雑構造に、見る人を誘います。

次は雪舟です。雪舟は、水墨画ですから、線描の表現になります。
モナリザの分析から見て、「リアルな存在や物体」とは、現実に目の前にある物、モナリザのような「即物的な複雑構造」であると思われます。では、雪舟は、線描で、どんな方法で「リアルな存在や物体」を描がこう=創ろうとしたのでしょうか。
雪舟の複雑構造の描き方について、例えば岩や岩壁の描き方は、岩肌の複雑さ、岩の重なりの複雑さ、陰影の複雑さなどの複雑な表情こそ、岩の存在感であると捉えて、これでもかと幾重にも折り重なる岩と岩肌を、墨と筆で執拗に線描で描き尽くす方法を取ります。
でもこの墨と筆による線描では、複雑さに限界があります。単なる写しとしか認識されない恐れがあります。そこでさらに画面を塗りつぶしてしまうほど線描を重ねて描いた結果、浮かび上がって来たのは、欲っしていた岩の「リアルな存在や物体」感ではなく、「墨」の黒々とした「物質」としての「リアルな存在や物体」感でした。そしてその体験から生まれ出たのが、次の有名な冬景山水図の真ん中に描かれた一本の墨の縦の折れ線でした。この線は岩肌の割れ目を描いたものと説明されますが、黒々とした墨の線の物質的存在感の方が際立っていて、周りの写しで描かれた風景との対比で、墨を「リアルな存在や物体」と感じてしまうのは、雪舟の技術的終着点なのではないでしょうか。

「リアルな存在や物体」を描く=創るろうとする意思。その努力の結果が、それを描く道具である墨の物質感=「リアルな存在や物体」であったとは。

絵画とは、描かれる人や物や自然、そして画家個人。それらが抱える物語や意思や心情を、モチーフとして汲み取り、画家は、人物や物、自然の姿に投影させて写し取り描く。つまり様々な心情や意思や物語が、絵具や筆でキャンバスに写し取られ絵になっていて、額縁に入れ、その出来栄えを楽しむのが一般に絵画と言われています。この機能は写真でも同じで、写真も絵画と同じ鑑賞がされています。

ですから、雪舟の冬景山水画の、あの中央に描かれた一本の縦の折れ線は、岩肌の割れ目だとか、雪舟の晩年の境地の象徴だとか、鑑賞者は、そこに塗り込められた心情や意思を類推しようとします。しかし、そこにはそんな心情や意思などはありません。「リアルな存在や物体」を描く=創ろうとする意思。があるのでは、と貴方は言うかもしれません。でもそう思ってしまったら、「リアルな存在や物体」はたちまちに消えてしまい。鑑賞者は、真の雪舟には会えなくなってしまいます。

次は、ゴッホの遺作「カラスのいる麦畑」です。
ゴッホの描画法は基本的には線描です。印象派の色と光の分析である …自然の中の色や光線には、様々な色が混じり単色を構成している。画面に多色を散りばめれば、その配合が、人間の視覚網膜で混色されて、人は自然な単色を感じる。(視覚混合)… の法則により、ゴッホは、多色の線描でその効果を表現しています。この意味では印象派の画家ですが、ゴッホは、ゴーギャンと別れ、耳を切り落とした頃には、この技法で対象を写し取り描くという目的の絵画は、完成を迎えていたと思います。
画家が、絵を「写し絵が描く」から「リアルな存在や物体を創り出そう」と考え、その意思を始めるのは何故なのか?。興味のあるところですが、ゴッホの場合、この頃に「リアルな存在や物体」を描く=創り出したい。その思いに目覚めたものと思われます。
さらに、この頃から死を迎えるまで、濃青の空の絵が多くなります。線描が太く逞しく描かれ、印象派風の色の混合技法はほとんど見られなくなります。画面は、空の濃青と地上の黄色の景色の二色の対比で極端に描かれることになり、丹念に複雑に自然を写し取り描こうとする気が全くないことがわかります。
そして雪舟が、黒々とした墨の物質としての「リアルな存在や物体」に惹かれていったように、筆で絵具を逞しく掬い取り、画面に線を引いて行く、その盛り上がった絵具の艶やかさ柔らかさが、「リアルな存在や物体」感を輝かせていることに、ゴッホは魅了されていったのです。
遺作と言われる「カラスのいる麦畑」の黒色のカラスの描画。これは、自分の心情を、寂しいカラスに擬え描いたのではなく、艶やかな物質としての黒色絵具の「リアルな存在や物体」を、カラスに似せて見せたかっただけような気がします。
さらに、この絵の寂寥感を、これは「極度の悲しみと孤独」で描いた。と、ゴッホが言ったとか言われていますが、このような文学的想像力は、天才画家にとって、絵を描く時には、一番遠くにある無縁のもののように思います。

次のデュシャンは、アイロニーのアーチストです。
絵画には、画家と対象の人や物などの心情や意思や物語が、絵具や筆で掬い取られキャンバスに写し取られていて、その出来栄えを楽しむのが絵画と言われます。一般に公開される絵画展では、鑑賞者は、絵画に塗り込められた、その心情や意思を、ビジュアルを通して、あれやこれや推量し楽しむということになります。しかし、このように、画家と描かれる対象との交合、さらには鑑賞者自身の心情や意思もそこに加えて楽しむなど。人に見られて食事をしているような恥ずかしい事が、高尚な芸術であるとは到底思えません。そしてそこには、流通価値として値段がつけられ、メディアの喧伝により社会的価値までもがつけられるとは…。
このような有様に、デュシャンは「泉」と題して、展覧会に出品される絵画に交じり、いわゆる本物の便器というアイロニーを出品しました。単なるアイロニーのみを意図したのであれば、蝋細工か3Dプリンター製の本物そっくりの便器の方が、今日的には、さらにアイロニーの効果が増したのではと思います。
しかし、デュシャンは、もっと別の事も意図していたのだと思います。デュシャンは、画家で出発したのですが、途中で画家を放棄し、このアイロニーのアーチストに変身しました。
デュシャンの絵画は、キュービズムの技法で、人の歩みの連続を描く、つまり時間を圧縮して写し取った絵などがありますが、しかし、自然をどれだけ上手く写し取っても、本物にはならない、つまり「リアルな存在や物体」を創ることにはならないと気づいたのだと思います。そこから思考が始まります。便器という、単なる既製品の道具であり、作者や対象物や鑑賞者の心情や意思を後から写し込む余地などありようがない既製品であり、しかしそれは、確実に「リアルな存在や物体」であり、もし便器に心情や意思があるとすれば、それは常に水が満たされている「泉」であろう。と名付け、作品として展覧会に出品することを考えたのです。
我々鑑賞者は、展示された「泉」と名付けられた便器を眺めるとき、先ず嫌悪や疑問と共に、便器に「リアルな存在や物体」を感じ、同時に自身や肉体が、同じく「リアルな存在や物体」であると気づかされ、ギョッとしてしまうのです。そしてそれから漸くそのデュシャンのアイロニーに気付くのです。

「リアルな存在や物体」とは、「複雑構造」であると言いましたが、それも底なしの「複雑構造」です。
道端に転がる小石でも、手に取り仔細に眺めると、表面の複雑な表情の中に、目を移して行くと次々と新しい要素が発見できます。飽きがきて中断するか、これは「道端の小石」であると言語思考がラベリングし、認識を中断するまで、欲すれば永遠に眺め続けることができる「複雑構造」なのです。
絵画では、「複雑構造」である自然を上手に絵に写し取ったと思っても、永遠に眺め続けられる「複雑構造」は絵の上には創れないのです。天才と言われる画家達には、それが我慢ならなかったのだと思います。そこで、「リアルな存在や物体」を絵の中で創ってやろうとしたところ、その材料である絵具の「リアルな存在や物体」を目立たせる結果になるとは、デュシャンの便器を見て、自分や自分の肉体が「リアルな存在や物体」であると気づかされることと、少し似ています。

次は、ポロックです。
「リアルな存在や物体」を創るために、それを妨げる要素を、ポロックは除くことを考えました。
画家の心情や意思が筆で絵画に塗り込めるられることを避けるために、アクション・ペインティングという、床にひいたキャンバスに、刷毛やコテで空中から絵具を滴らせる方法をとりました。この方法で、画家の心情や意思のほとんどは、遮断することができました。しかし、すべての心情や意思を遮断してしまうと、自然の風雨に晒され、錆びて穴が空いたトタン板と変わらないことになるので、ただ自由落下に任せるのではなく、微妙に絵具の量とスピードと位置をコントロールしています。そうすれば「リアルな存在や物体」を創りたいポロックの強い意思のみが、画面に塗り込められることになるからです。後年、インスタレーションと称し、錆びたトタン板を展示会に並べるアートが登場しますが、ポロックとの違いがお分かり頂けるかと思います。
またこのポロックの方法には、風景や人物など、写し取る対象と心情や意思が初めからありません、絵具の物質の「リアルな存在や物体」だけが画面に俎上されることになります。デュシャンが絵画を描くことを止め、代わりに便器を「リアルな存在や物体」のために使ったことから進歩し、ポロックは、絵具のみで「リアルな存在や物体」を創ることに成功したのです。

ポロックのアクション・ペインティングの絵画を眺める時、アクション・ペインティングの名前から受ける躍動感や騒がしさとは反対の、静謐や奥床しさを感じます。親しい人と手を握り合った時の、安心感、安堵、平静を感じます。感じるというより、自分自身の「リアルな存在や物体」と、ポロックの絵の「リアルな存在や物体」が出会って生まれる、物質としてお互いが共同の認識を持っていて安心と思ってしまう存在様式です。

人によっては、セックで、男女が裸で最初に抱き合った時の、蕩けるような安堵感かもしれません。「リアルな存在や物体」とは、出会うと常にエロティックを感じさせる存在なのです。

癒しとは、自分自身が、単に自分も「リアルな存在や物体」だったと感じて安堵する瞬間ですが、「リアルな存在や物体」が他の「リアルな存在や物体」と出会う瞬間とは、垣根なく自分が広がっていて、外にある他の「リアルな存在や物体」と自分自身の「リアルな存在や物体」の一部を交換しても構わない、あるいは、同じ部品を共有しているのではないかと思う程に根源的な安堵感なのです。これを、エロチックな状態と言いますが、人々は日常的にこのことを確認し続けています。西洋人では、握手したり、キスで挨拶を交わしたり、ハグをしたりと直接的ですが、日本人でも、さりげなく、手と手を触れ合ったり、お辞儀をしたり、相手の瞳を覗き込んだりして、その交接を味わっています。

ポロック以降に「リアルな存在や物体」を描く=創ろうとする画家アーチストは今日まで出現してはいません。
これは「言葉での理解が、理解の全てになっている。」現代の風潮と深く関係しています。現代で「リアルな存在や物体」とは、言葉で書かれた【リアルな存在や物体】以上のものではなく、本物の「リアルな存在や物体」との出会いでエロチックなものを感じても、それを言葉に出来なければ(ラベリングされなければ)、それが理解であるとは認められないからです。言葉に出来なければ、流通媒体には載らず、価格が付けられることもなく、情報として社会に流通することもありません。例えば、今日の日本では、ビジュアルアートであっても、ライバルが小説家の村上春樹ということになってしまうのです。

最初の方で、…「リアルな存在や物体」を創り出す作業では、通常の技術や方法だけでは叶いません。そこには独自の技術や新技術が介在します。…とお話ししました。
レオナルドダビンチは、スフマート技法で、雪舟は、特別の筆と墨。ゴッホは、持ち運びが便利なチューブ絵具。デュシャンは既製品。そして、ポロックはアクション・ペインティングです。

野町和嘉の場合は、
Canonデジタルカメラ EOS 5Ds 約5060万画素 + 大型カラープリンターです。
デジタルカメラとデジタルプリンターの急速な発展で、大画面で高精密な画像の写真が登場することは予想されていました。解像度が高まり、さらに大画面になるので、細部が更に細かく再現され本物の繊細さに近づくと、原理としては分かっていたのですが、現実の画面で体験して、何が予想通りで、何が予想外なのか、興味がありました。

2016年1月17日から31日の期間 「Gallery916」(浜松町)で開催された、野町和嘉写真展「天空の渚」でその新技術の成果を体験する事ができました。
詳しくは→野町和嘉写真展「天空の渚」


一言で言うと、写真の新しい扉が開けた思いがしました。画像技術が一つ上に進んだことは勿論、撮影技術にも、芸術としての可能性にも、新しい何かがやって来ていました。後年、約100年の写真の歴史の後に起きた革命であったと、回想されることになるかもしれません。

では、この事について、お話ししたいと思います。

横約3m、縦約2.5m 絵画で言えばF500号サイズに近い大画面のカラー写真が、約35点も展示される写真展は、現像紙焼きの時代からは、技術的にも費用的にも時間的にも想像がつきません。
デジタルカメラの高画質化は、これからもさらに進み、次のステップに向かい進歩するのは確かなのですが、テレビの4K、8Kなどの透過光画像技術が進むと、反射光画像のデジタルカラープリンターは、モノクロ写真の運命を辿るかもしれません。
しかし、大画面で高画質化しているのに、カラー再現性が向上し反射光画像も進歩しています。これが進めばデジタルプリンターは、モノクロ写真と同じ運命を辿ることにはならないかも知れません。

前回の、「野町和嘉『写真』とは(1)ー写真論からのアプローチー 」で、
レンズは、映るものは何でも写す自由意志を持ち、同時に、被写体の意思と無意識、撮影者の意思と無意識をも写してしまう。とお話ししました。

また、野町和嘉の撮影法について
ある目的を持ってその地に向かいます。しかし、風景を撮影する場合、地球があって、大地から垂直に、人、動物、木、山、川、砂丘、建物、そして大気や空がある。そして自分自身も。そんな地球の重力と肉体との根源的なバランス感(重力感覚)のみを撮影の意思(無意識)にします。さらに目的もその無意識の領域に沈み込ませてしまい(旅人感を無くす)、その他はカメラの自由意志に任せるという方法です。
とお話ししました。(詳しくは、前回の「野町和嘉『写真』とは(1)ー写真論からのアプローチー 」をご覧ください。)

写し込む心情や意思を、地球の重力と肉体との根源的なバランス感(重力感覚)のみに止め、後はレンズの自由意志に任せ撮影する。この野町和嘉の撮影法は、上記のポロックで見た…画家の心情や意思が、筆で絵画に取り込まれることを避けるために、アクション・ペインティングの方法を使った。…と言う、先に見た、ポロックの方法と似ています。
ポロックのアクション・ペインティングでは、心情や意思のほとんどを遮断し、ただ「リアルな存在や物体」を創りたい強い意思のみを取り込ませるために、絵具をコントロールしながら、ほとんどは自由落下に任せました。野町和嘉は、「重力感覚」のみを意思にして、後はレンズに映るものは何でも写すレンズの自由意志に任せました。この方法で、「リアルな存在や物体」を創り出す方法に近づいたのです。

野町和嘉写真展「天空の渚」は、メキシコ、ボリビア、アルゼンチン、チリを巡る旅です。
サンタマリア・トナンツィントラ教会。雨期のウユニ塩湖、標高4000メートルの原野に林立する砂の柱。生きた氷河と呼ばれるアルゼンチンのベリト・モレノ氷河。などで撮影された写真には、今までの写真では見たことがない「リアルな存在や物体」の創造が体験できます。

一般に写真とは、その言葉の通りに対象を写し撮る芸術であり、そのビジュアルの他に、撮影者と被写体、その両方の心情や意思をも画面に写し撮ります。
例えば、祈る人を撮影する場合、レンズは、手を合わせ首を垂れる被写体の表情や姿勢のビジュアルを、さらに、激しく願い祈る被写体の心情や意思をも写し撮ります。そして、その真摯な様子に心動かされ、簡単なスナップでは済ますことができない、撮影者の心情や意思をも写し撮ってしまいます。
しかし魅力的なビジュアルであっても、祈りの心情や意思が強く写ってしまえば、例えば「激しく祈る人」と題され、その文学的要素で良い写真ということになってしまい、心情や情動以外の、目を喜ばせるビジュアルとしての中立的な魅力はあまり顧みられなくなってしまいます。

絵画で「リアルな存在や物体」を描く=創るということは、いつまでも見飽きることがなく、限りなく情報を発信する「複雑構造」を描くことです。、絵画上の、その「リアルな存在や物体」と鑑賞者が出会うと、自身も「リアルな存在や物体」であることを意識させられ、そこからお互い、物質として共同の認識を持っていて安心と感じてしまう、甘美な存在様式が生まれます。つまり手と手を握り合えるようなエロティックな関係が持てそうな感覚になります。これは普通には、控えめに、絵画を見て心動かされた。という表現になります。

このような絵画でも難しいことが、写真では出来るでしょうか。

野町和嘉写真展「天空の渚」の出展写真の中でも、サンタマリア・トナンツィントラ教会の天井装飾。標高4000メートルの原野に林立する砂の柱。 生きた氷河と呼ばれるアルゼンチンのベリト・モレノ氷河の氷山の写真などには、野町和嘉独特の撮影法が徹底され、画面には、野町の「重力感覚」の意思のみが取り込まれ、他は、レンズの自由意志が働き、いつまでも見飽きることがなく、限りなく情報を発信する「複雑構造」が「リアルな存在や物体」として表現されています。
横約3m、縦約2.5m の大画面のどの部分の10cm角を見ても、ピントが合っていて、粒子の粗れや解像度不足のボケなどは見えず、目で追っていけば、1mm単位の物質の表情も捕らえられる程に「複雑構造」が表現できています。

これからは、5060万画素のデジタルカメラと大型カラープリンターで大画面写真を作れば、誰でもこのような「複雑構造」が表現できることになるのですが、だが誰でも簡単に「リアルな存在や物体」 を撮れる=創れることにはなりません。絵画では、少数の天才画家しかしできなかったように、写真家にとっても同じです。しかし、絵具や筆の難しい扱いを学ぶこと比べ、そこへ出かけて行って、写真はただ一瞬のシャターで出来るのが魅力です。
そこで「リアルな存在や物体」を画面上に創れる魅力に目覚めたアーチストが、写真家より先にこの技術を使い始めるかも知れません。

写真は、複製芸術です。今は、アルバムの中に、机上の写真立てに、壁の飾りに、各種印刷物に、TVやネットや携帯の小さな画面の中に、透過光と反射光画像の両方で、時と場所を選ばず鑑賞できます。しかし、「リアルな存在や物体」を写真で鑑賞するには、大型デジタルプリンターの高解像度で出力された「複雑構造」が見える画面でなければなりません。そのためには、絵画鑑賞のように、写真展に出かけ実物を鑑賞しなければなりません。
家庭で見る4K、8Kの大型液晶モニターや有機LDモニターの技術では力不足のようです。次代のマイクロLEDディスプレイではどうでしょうか。同じ反射光画像である絵画の進歩の延長に、新写真が存在するが自然な感じなのですが、透過光画像では3DやVRも進歩するので、簡単に誰でも「リアルな存在や物体」を撮る=創ることが本当に可能になるかも知れません。

写真で「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を撮る=創る方法は、野町和嘉の撮影方法で輪郭は説明できたかと思うのですが、撮影の前に、撮影者の意思を心の中で創り、育て、強く確かなものにしなければなりません。野町和嘉の場合は「重力感覚」を無意識に強く意思できる才能があります。また、レンズの自由意志に任せて、それでも作画ができる撮影感もあります。
後は、「リアルな存在や物体」つまり「モノ」とは何か、どう捉えるかと言うことになります。
「言葉での理解が理解の全て」と考える。あるいはそう教育されている現代人には、「モノ」とは言葉のラベルを貼ることと同じですから 、「リアルな存在や物体」とラベリングしてしまえば、理解したことになって、真の理解への道が閉ざされてしまうでしょう。
それを避けるため、岡本太郎をはじめ「縄文の心に帰れ」と言ったりしますが、縄文時代の土偶や祭壇土器は、紛れもなく言葉に邪魔されず、人が創った「リアルな存在や物体」であることは確かです。
なぜ、写真という道具を使うのだろうか。日々、どんな思考ツールを使っているのだろうか、言葉での理解か、それとも無意識に心を動かす名無しの感覚や思考器官でか、同じ楽曲の同じ音符でも、サックスとピアノでは、演奏(思考結果)に違いが出るのは自明です。どんな思考ツールを使うのかが重要で、結果が違ってきます。高画質デジタルカメラのレンズの自由意志を選べる今日の写真家は、言葉での理解しか知らない現代人に、それこそ革命を起こすことになるかも知れません。

野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ


野町和嘉『写真』とは(1) ー 写真論からのアプローチ

2013年12月30日 | 野町和嘉『写真』

野町和嘉『写真』とは何か。
写真家野町和嘉は、何を写真に写そうとしているのか。
野町和嘉『写真』には、何が写っているのか。など
核心の写真論を始める前に、そもそも「写真」とは何かから先に考えてみたいと思います。

写真の機能を簡単に説明すると、カメラには、前にレンズが有り、後ろにはフイルム又は半導体イメージセンサーがあります。シャッターを押すと、レンズを透かして映像(光)がイメージセンサーにとどき、受像する。その映像記録が「写真」であり、印画紙に写されれば反射原稿として、フイルムやモニターに写されれば透過原稿として、我々は写真を鑑賞することになります。この機能は、我々の眼の水晶体と網膜の構造と違いはありません。

また、同じ鑑賞方法で体験されるものにカンバスに絵具で描かれる絵画があります。
写真と絵画の大きな違いは、絵画は、大抵の場合、画家が絵具で一筆一筆時間をかけ、カンバスに描き、画面を埋め尽くさなければ絵画にはならないが、写真の場合、シャッターを押せば一瞬に写真映像は完成する。現在の半導体イメージセンサーの時代では、直ちにその映像をモニターで確認できます。
つまり、対象物を写し取り意思を掴みとる技術には、絵画とカメラの間には大きなスピードの差があることになります。
さらに重要な違いは、絵画の場合、大抵は画家が筆を動かし、描こうと意思したものしか画面には現れないが、写真の場合、撮影者が写そうと意思した以外のものも沢山写ってしまうことです。それはあたかも、レンズが自由意志を持っていて、レンズに映るものはなんでも総て写すという具合なのです。
また、絵画の描画方法は、画家は、描こうとする意思を何時間も何日も或は何ヶ月も何年も持続させながら、その意思と絵具を、筆で掬いキャンバスに塗り込める方法を取ります。時に、絵具をバケツから直にキャンバスに投げつけるなど、重力の気ままに任せるアバンギャルドな方法もありますが、画家の意思と重力を混ぜあわせて偶然を楽しむ方法ですが、しかし、これとて、表現の拡大と時間短縮を得たとしても、レンズの自由意志は、さらにその上を行っていて、瞬時に人間の感覚知覚を越える部分まで写し取ってしまうので、次からお話するように、人間の意思でレンズの自由意志をコントロールしなければならなくなるのです。

つまり写真撮影では、レンズの自由意志と撮影者の意思とのやりとりの濃淡で様々な撮影法が生まれることになります。

それは、
1.「広告商品写真」の方法
2.「ニュース写真」の方法
3.レンズの自由意志に無関心な方法
4.レンズの自由意志を意識しながら、でも最低限、撮影者の意思を残す方法。
5.言葉の代わりや言葉理解のサポートのための写真撮影法。
の5つです。
(詳しくは、当ブログ「レンズの自由意志」に説明がありますのでご覧ください。)

5つの分類は、撮影者の意思がレンズの自由意志をどこまで許容するかで分類されます。

先ず、レンズの自由意志を最小に制限するのは「1.広告商品写真」です。

商品写真では、商品に関係のないものが写っては困るので、画面から排除します。光をコントロールするため、暗いスタジオで、ストロボライトなどの人工光を使い、また、単色背景紙で背景写りをシンプルにしたり、光の反射で表面の色や質感が飛んでしまう時は、つや消しのスプレーをかけます。鏡面には、黒や白を写り込ませて、自然に美しく見えるように調整したりします。このような様々な工夫で、映るものは何でも写すレンズの自由意志を抑え込もうとする撮影方法です。広告の商品写真の現場では、どんな方法ならレンズの自由意志を上手に押さえ込み撮影者の意志を表現できるか、その技術が、カメラマンの腕前であるといって過言ではありません。

レンズの自由意志を最大に許容するのは、「3.レンズの自由意志に無関心な方法」です。

アマチュアカメラマンのお母さんが我が子の笑顔を撮る時の撮影法です。彼女にとってカメラとは、レンズの自由意志そのものですから、シャターを押すことは、その自由意志の発露へのほとんど無意識の期待です。そして、現像ラボから上がって来た紙焼きの中から、あるいはデジカメ写真のパソコン液晶モニターの中から、これ良いね!。と選ぶ撮影法です。
勿論、レンズの自由意志といっても、カメラは自走しませんから、撮影者が被写体にレンズを向けるその範囲での自由意思と言うことになりますが、そんな制約の中での振る舞いでも、我々人間が生きる自由と比べて、のびのびとうらやましく格段の自由ではあります。

もう一つ、人間の意思の特徴である、あるいは人間だけが持つ言語思考とレンズの自由意志との間での撮影法があります。

「5.言葉の代わりや言葉理解のサポートのための写真撮影法」です。

言語思考とは、言葉で表し、考え、理解する事です。現実の社会や生活の営みを支える現実意識になります。現実意識とは、好き嫌い、良い悪いの判断から法律や倫理、生活慣習、社会活動などの生活活動の基本にある意識で、言葉によって表され、分類され、記録(記憶)されていて、基本は、レンズの自由意志にはない、あれかこれかの2項分類(対立)の思考で行われています。
今日、我々が社会で生きてゆくためには、人や物事、移ろいへの対応を、2項を比較分類する方法で評価し、自制しルールを定め、一瞬たりともその思考を止めません。その現実意識を、言語思考が実行しているのです。

しかし、レンズの自由意志はその2項分類(対立)の思考を持っていないので、撮影者にとってその振る舞いは、自分の中にある無意識の衝動のように、目的によっては、現実意識で抑えこんでおかねばならぬ自由な意志なのです。

さらに、「5.言葉の代わりや言葉理解のサポートのための写真撮影法」をより理解するために
「1.広告商品写真の方法」と「2.ニュース写真の方法」も合わせて考えてみましょう。

これらの撮影法は、現代では、言葉での理解が理解の総てになっていることと深く関係しています。
例えばカタログ商品の細部を説明する部分写真などですが、例えば、カバンの内側を撮った写真では、「このカバンの内側は黄色です」というような、言葉の代行をしていて、写真は視覚媒体ですが、言葉の論理で理解されることになります。つまりこの撮影法でのレンズの自由意志は、撮影者の言語思考「青色ではなく黄色である」という2項分類(対立)を忠実に表現させられる事になります。

最終的には言葉の論理で理解されることになってしまうとすれば、随筆や小説の挿絵の写真、百科事典の写真なども言葉で理解するためのサポートですので大きくはそうなのかもしれません。また、説明文が無くても文字で書かれたシナリオをベースに撮影編集される組写真などもそうなのかも知れません。つまりそれは、文章で書かれたシナリオを元に、映って欲しくないものを画面から外して行く映画ドラマと同じように、言語での理解を妨げるレンズの自由意志を、画面毎に小骨を外して行くように排除し作成されるので、画像を楽しむと言うより、言語理解を楽しませる為に画像を使うエンターテイメントになってくると思います。

そしてニュース写真は、事故の現場、殺人犯の移送、ホームランの瞬間。など、予め明確な言語目的がある撮影です。でも「突然、殺人犯が警官の警護を振りきって逃げた」など、そこでは常に思いがけない偶然がつきまとうので、そうなった場合、映るものは総て写すというレンズの自由意志に任せて、シャッターを押しまくる事になります。こんなことは、言語思考の本家である新聞では、本来は限定的なのですが、時にそれが思いがけない効果を発揮したりするので、 案外、寛容になる撮影法です。

このように、撮影者の意思とレンズの自由意志の間では、様々な写真が生まれることが分かります。ではもう一つの、撮影対象となる「被写体」とレンズの自由意志との関係はどうなのでしょうか。
それは、窓ガラスに映るあなたの恋しい彼女の顔と、同じ顔を他人が写した写真の場合に置き換えてみるとわかります。
窓ガラスに映るあなたの恋人の顔は、第三者が見るとただ美しい顔ですが、あなたのカメラレンズが写した写真の中の彼女は、彼女のもの(意思)である美しさも、私が恋する女性であるという撮影者の意思もはっきり写っています。
同じように、ニュース写真では、新聞カメラマンの特ダネを撮りたい意思が、広告写真では広告カメラマンの売りたい商品への意思が映り込んでいます。
つまり、レンズの自由意志は、自分の自由意志でただわがままに振る舞っているだけでなく、「撮影者」のその時の意思も忠実に写し撮っていることになります。それは言語思考による現実意識だけでなく、わが子の笑顔を撮るお母さんの無意識の愛情も写真に映し込んでくれています。勿論、笑顔を見せているわが子の「被写体」の意思もです。

では、最後に、
写真家野町和嘉は、何を写真に写そうとしているのか。
野町和嘉『写真』には、何が写っているのか。
になります。

写真家野町和嘉の撮影方法は
「4.レンズの自由意志を意識しながら、でも最低限、撮影者の意思を残す方法。」です。

この方法は、野町和嘉などのドキュメンタリー写真家の撮影法ですが、 撮影者がある目的(意思)でその地に行きカメラを構える。目の前で起こる予想内と予想を越える出来事を、ひたすらレンズに収めてゆく。レンズの自由意志を制限したり尊重したり、あるいはそれに加えたりしながら、意図をレンズに潜り込ませようとする撮影者の意思。その意思が何であるかによって、レンズの自由意思は予想以上のものをも写真に映り込ませてくれます。。
つまりこれは、映って欲しいものだけを撮影するのが目的の「広告写真」とは、レンズの自由意志を尊重する意味で、反対の方法になります。

では、野町和嘉『写真』に写っている野町和嘉の意思とは何なのでしょうか。

野町和嘉の意思と撮影法は、シンプルです。
ある目的を持ってその地に向かうのですが、風景を撮影する場合、地球があって大地から垂直に木や山や砂丘や建物や大気や空がある。そして自分自身も。そんな肉体と地球重力との根源的なバランス感のみを撮影の意思(無意識)にしています。目的もその無意識の領域に沈み込ませてしまいます。そして、その他はカメラの自由意志に任せるという方法です。人物の場合も、人は地面に垂直に立っている。それを無意識に意思して映し込むだけです。ですからそれ以外のカタチや色や対象の魅力と意思は、レンズの自由意志が写してくれるという方法です。

地球上の総てのものは、地球の中心、重力の中心に向かって垂直に立っています。大きな山も小さなウイルスも分子も原子も例外ではありません。
どうもしかし、レンズの自由意志はその制約には囚われていないようなのです。
例えば、重力が地球の6分の1の、月面上の宇宙飛行士の写真には、6分の1の重力に囚われ垂直状態で立っている宇宙飛行士の姿勢(意思)が写っています。また、宇宙船の船外活動で無重力の中を泳ぐ飛行士の場合、今、無重力状態(意思)であることが写真に映り込んでいます。
ですから、地球上にある、人、山川、構造物、鉱物、動植物など全てのものは共通に、地球の重力の中心に向かい垂直であるという「重力感覚」を身にまとっていることになります。
そして、レンズの自由意志はそれを写します。地球上で撮影された写真であれば、漏れなく、それが写っています。必ず写り込んでいるのですが、あまりに当たり前で、普遍すぎて、気が付かないだけなのです。わずかに、月面に立つの宇宙飛行士の写真と比べて、その「重力感覚」の違い(なんだかちょっと違う感じ)が分かって頂けるかと思います。

また、レンズの自由意志は、普通にはその「地球の重力の中心に向かい垂直であるという重力感覚」を写してはくれますが、それは、被写体が地球の一員である証明という程度で、ですから、風景カメラマンは、大地からそそり立つ山々の雄大な感覚を表現するためには、カメラマンが強くその「重力感覚」を意思して、写真に写し込まなければ、その雄大はさは映ってはくれません。
ファッションカメラマンは、モデルの形の美しさを撮るだけでなく、地面から垂直に立ち、歩く、「重力感覚」をも一緒に撮らなければ、美しい地球上の女性は表現できません。
これらの効果は、まったく自然に見えると言うことだけなのですが、でも良い写真とは、「地球の重力の中心に向かい垂直であるという重力感覚」がはっきりと写っている写真であり、それが欠けていれば、山や女性のカタチが写っているだけで、美しいけれど、山には地表から盛り上がる屹立感が、女性には血肉が通っているようには見えないものになってしまうのです。

つまりレンズの凄いところ信頼ができるところは、物質や肉体と地球重力との根源的なバランス感覚を、つまり人間の無意識に感じている領域をもフイルムやイメージセンサーは写し取ってくれるということなのです。

野町和嘉の祈りや宗教への興味は、この地球上全てのものの根源的な意思である「地球の重力の中心に向かい垂直であるという重力感覚」つまり「地球により生かされている感覚」を、辺境を旅する撮影で体験させられたところにあるのかもしれません。

野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ