前回の、「野町和嘉『写真』とは(1)ー写真論からのアプローチー 」で、
カメラは、レンズに映るものは何でも写す自由意志を持ち、同時に、被写体の意思と無意識、撮影者の意思と無意識をも写してしまう。とお話ししました。
また、野町の撮影法について
ある目的を持ってその地に向かいます。しかし、風景を撮影する場合、地球があって、大地から垂直に、人、動物、木、山、川、砂丘、建物、そして大気や空がある。そして自分自身も。そんな地球の重力と肉体との根源的なバランス感(重力感覚)のみを撮影の意思(無意識)にします。さらに目的もその無意識の領域に沈み込ませてしまい(旅人感を無くす)、その他はカメラの自由意志に任せるという方法です。
とお話ししました。
さらに
普通には、重力感覚の効果とは、まったく自然に見えると言うことだけなのですが、でも良い写真とは、「地球の重力の中心に向かい垂直であるという重力感覚」がはっきりと写っている写真です。それが欠けていれば、山や女性は、カタチが写っているだけで、美しいけれど、山には地表から盛り上がる屹立感が、女性には血肉が通っているようには見えないものになってしまうのです。
そこで、カメラマンは強くその「重力感覚」を意思して、写真に写し込まなければなりません。
とお話ししました。
一般に、絵画や写真の芸術とは、自然や人物を被写体として写し取ったり、被写体や作者の心情をビジュアル表現で画面に表したり、言葉の物語を画面にビジュアル化したりなど、物事であれ心情であれ、自分のものであれ、他のものであれ、作者がそれらを写し取り画面に表現することで制作されると理解されています。
特に写真とは、「写真」と名称されるように、被写体を写し取ることがその機能の全てであると考えられています。
しかし、絵画には、もう一つの究極の目的目標があるようなのです。
葛飾北斎が言っています。
『70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。
ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。
そして、100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。』
画家は、究極には、対象を写し取り描くのではなく、紙やキャンバス上に、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創り出したいと願う者のようなのです。
では、その「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)とは、何なのでしょうか。母親は、体内から赤子を産み「リアルな存在や物体」を創り出します。火山は、地球内から溶岩を噴き出し、岩石を創り出します。空は、空中から雲を創り出します。
つまり、その様な創造者になりたいと、画家は願うものなのでしょうか。
一方、絵画を鑑賞する側、つまり我々にとって、その創造物「リアルな存在や物体」とは、何なのでしょうか。
現前にある創造物「リアルな存在や物体」に、「赤子」「岩石」「雲」と言葉のラベルを貼り、抽象化し、言葉の記憶として認知保存する。やがてそれは「リアルな存在や物体」であった。と、鑑賞作業は終了し、それが、創造物「リアルな存在や物体」を感じ理解したということになるのでしょうか。
否、生まれ出た「赤子」は、愛くるしく愛おしく、見ているだけで次々に新しい驚きと歓びの情報を、我々の五感に送り続けてきます。無限に与えられる贈与の様に、いつまでも見ていたいと感じてしまいます。「岩石」「雲」も、その表面の複雑さや形の面白さ、動きの変化には、認識を止めない限り、いつまでも見飽きることが有りません。
「リアルな存在や物体」とは、単に「赤子」「岩石」「雲」と、言葉のラベルを張り、抽象の彼方に押しやりってしまうような、単純なものではありません。
我々には、言語思考を発動し、対象に言葉のラベルを貼る以前に、感覚と認識の、飽きることのない探索、探求、受動が動いています。この、我々の脳の好奇心を楽しませる、意識認識の先に 「リアルな存在や物体」は有る。と、北斎は、思ったのではないでしょうか。
絵を眺めるていると、次々に新しい情報や思いがけない情報が、その絵の方から贈与される様に流れ来て、飽きることがない。そんなリアルな絵を、100歳になったら、北斎は描くことが出来ると思ったのではないでしょうか。
松尾芭蕉の句に
「荒海や 佐渡に横たふ 天の川」
があります。
新潟の海岸に立ち佐渡を眺めると、必ず浮かんでくる俳句です。しかし、私は都会人ですから、天の川は、写真や動画では見たことはあっても、本物は見た事がありません。荒海も電車の車窓から見た事はあっても、海岸に立ち、強風と潮の香、激しい波の音、波飛沫を浴びての経験はありません。 だからこれが名句と言われても、よく分からないのです。本物の荒海や天の川、佐渡の夜空に架かる天の川をリアルに見た事がある人は、自分の頭脳にある言語記憶アーカイブの中から、その記憶を呼び出し、この名句を味わい尽くす事が出来るのかと思うと、残念でなりません。
確かに、自分の言語記憶(知識)や、他の人の言語記憶である知識をbookやネットの写真で探し出し、歴史を学び、奥の細道を読み、芭蕉の心情を推し測るなどして、言語思考を楽しむこともできます。しかし、芭蕉は果たしてこのような楽しみの提供を目指したのでしょうか。
松尾芭蕉には、申し訳ないのですが、これが言葉の、言語思考の限界なのです。しかし、松尾芭蕉は、この限界を理解していたのかも知れません。
「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」
枯野には、汲めど尽きない「リアルな存在や物体」 が溢れています。
果して、記憶ではなく、言葉によって、現前に手で触れられる「リアルな存在や物体」が立ち現われることがあるのでしょうか。
歴史上には、北斎のように「キャンバスにリアルな存在や物体を創り出そうとした」画家がいます。そしてその意思で描かれた絵画があります。
レオナルド・ダ・ビンチの「モナリザ」。雪舟の「冬景山水図」。ゴッホの「カラスのいる麦畑」。デュシャンのあの「泉」と題された「便器」。ポロックの「アクション・ペインティング」。などです。
「リアルな存在や物体」とは、記憶を手繰りして描く、脳内に展開される夢のように実体が無いものなどではなく、手で触れば触ることができ、見る人の好奇心に向け、情報が次々に止めどなく、そのものから、贈与されるように溢れでてきて、見飽きることがないリアルな物を言います。つまりその存在感は、分子や原子できている自然の物質から受ける感覚と違わないものになります。
そうだとすれば、それを創り出だす行為とは、錬金術であり、分子生物学であり、理化学であり、唯物論ということにもなります。
そしてまた、「リアルな存在や物体」を創り出す作業では、通常の技術や方法だけでは叶いません。そこには独自の技術や新技術が介在します。
先ず、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」です。
「モナリザ」では、顔は、肌に薄く何度も塗り重ねができる絵具によるスフマート技法で描かれます。
先回、絵画は、画家の描こうとする意思を、何時間も何日もあるいは何ヶ月、何年も持続させながら、筆で、絵具とその意思を掬い、キャンバスに塗り込める方法を取る。とお話ししましたが、スフマート技法は、その究極になります。
その前に、顔や人体とは、表面の薄い皮膚をひっぺがしてしまえば、どこの誰とも、動物とも見分けがつかない、フライジャル(壊れやすい)な感覚認識をベースにしています。レオナルド・ダ・ビンチは死体の解剖を行っていましたので、解剖の反対、肉塊を粘土細工のように精巧に人間のカタチに造り替える、つまり肉体の構造を、人体を描くために熟知していたであろうし、人間の、「朝に紅顔、夕に白骨」のフライジャルも十分に理解しただろうと思われます。
だいたい、表面をひっぺがしたら、それが元は何かと分かるモノは、世の中には、ほとんどありません。絵具のカドミウム・イエローは、顔料であり、硫化カドミウム(CdS)というカドミウムと硫黄の化合物であり、黄色の結晶構造をしています。カドミウムと硫黄の結合をひっぺがすと、色が消え、絵具とは認識できなくなります。さらに、そこから先は物理学の分野で、分子→原子→原子核、電子→陽子、中性子→クオーク→超ひも。と細かくなって行きます。
また、顔の皮膚の場合、細かく見ると、毛穴や皺がある上皮組織が見え、上皮組織をさらに細かく見ると体細胞があります。細胞は、細胞膜、染色体、リボソーム、細胞質(原形質)で構成されていて、この細胞を眺めても、これが皮膚であるとは判断できません。そしてさらに、細胞を細かく見て行くと、絵具のカドミウム・イエローと同じ、分子→原子→の構造形態と同一になって行きます。
このように「リアルな存在や物体」とは、意識認識の好奇心が続けば、永遠に情報が尽きない「複雑構造」を持つことを言います。
しかし、人の認識意識が認識した「複雑構造」を抽象化し、言葉により「人体構造」とラベリングして、脳の言語記憶装置に収納してしまうと、そこで認識意識の好奇心は中断させられてしまいます。さらに複雑さを追求したい好奇心は僅かに残るのですが、ここまででも認識意識は十分に納得して(騙されて)、それは「リアルな存在や物体」であると普通は思ってしまいます。
一般に画家は、そこで筆を止めるのですが、もし、鑑賞者の一人でもが、それを「複雑構造」ではないと感じれば「リアルな存在や物体」ではなく、単なる写しとしか認識しないことになるので、「キャンバスにリアルな存在や物体を創り出そうとした」レオナルド・ダ・ビンチは、スフマーフ技法で、自分を含め万人が「リアルな存在や物体」と感じて納得するレベルまで、複雑さを描き尽くすため、終生モナリザを手元に置き、筆を入れ続けていたのです。
そのモナリザの顔の複雑構造は、絵画にはどんな効果をもたらすのでしょうか。対極にあるのは、写楽や歌麿が描いた、大首絵の浮世絵です。浮世絵の美人画の顔は、一筆のシンプルな「輪郭線」で描かれています。
「モナ・リザ」を鑑賞する場合、先ず彼女の表情に惹かれます。さらに、皮膚の柔らかさ、きめ細かさなど、顔の肌合いがどうなっているのだろうかと、現実の生きた女性、つまり「リアルな存在や物体」を目の前にしている鑑賞を我々はしてしまいます。つまり「モナ・リザ」の鑑賞とは、恋人や新妻の顔、むしろ電車にたまたま乗り合わせた見知らぬ美人を、まじまじと見つめることと、あまり違いはありません。
一方、歌麿の美人画は、「輪郭線」で描かれているだけで、肌合いのマチエールはありませんから、同じく、まじまじと見つめるにしても、「モナ・リザ」の鑑賞とは違ってきます。
それは、「輪郭線」で浮かぶ美人のイメージに触発され、それに似た「記憶の美人」を求めて、鑑賞者は、頭脳や心の中を「旅」するということになります。
江戸時代の「プロマイド」として町民の娯楽であった浮世絵から、時を越え現代人にも感動が生まれるとすれば、「記憶の美人」を求める「旅」が、昔人も現代人も人間であれば等しく共有できる「DNAの記憶」へと誘われ、普遍的な魅力を感じてしまう、そんな能力が、浮世絵にはあるということになります。
モナリザは、現実の物への好奇心、つまり即物的な複雑構造に、浮世絵は、脳や心の記憶の中に。そこには、抽象化により認識意識の好奇心を中断させる言葉の記憶もありますが、それよりも、無意識、潜在意識、映像感覚、身体感覚が深く覚えている記憶の複雑構造に、見る人を誘います。
次は雪舟です。雪舟は、水墨画ですから、線描の表現になります。
モナリザの分析から見て、「リアルな存在や物体」とは、現実に目の前にある物、モナリザのような「即物的な複雑構造」であると思われます。では、雪舟は、線描で、どんな方法で「リアルな存在や物体」を描がこう=創ろうとしたのでしょうか。
雪舟の複雑構造の描き方について、例えば岩や岩壁の描き方は、岩肌の複雑さ、岩の重なりの複雑さ、陰影の複雑さなどの複雑な表情こそ、岩の存在感であると捉えて、これでもかと幾重にも折り重なる岩と岩肌を、墨と筆で執拗に線描で描き尽くす方法を取ります。
でもこの墨と筆による線描では、複雑さに限界があります。単なる写しとしか認識されない恐れがあります。そこでさらに画面を塗りつぶしてしまうほど線描を重ねて描いた結果、浮かび上がって来たのは、欲っしていた岩の「リアルな存在や物体」感ではなく、「墨」の黒々とした「物質」としての「リアルな存在や物体」感でした。そしてその体験から生まれ出たのが、次の有名な冬景山水図の真ん中に描かれた一本の墨の縦の折れ線でした。この線は岩肌の割れ目を描いたものと説明されますが、黒々とした墨の線の物質的存在感の方が際立っていて、周りの写しで描かれた風景との対比で、墨を「リアルな存在や物体」と感じてしまうのは、雪舟の技術的終着点なのではないでしょうか。
「リアルな存在や物体」を描く=創るろうとする意思。その努力の結果が、それを描く道具である墨の物質感=「リアルな存在や物体」であったとは。
絵画とは、描かれる人や物や自然、そして画家個人。それらが抱える物語や意思や心情を、モチーフとして汲み取り、画家は、人物や物、自然の姿に投影させて写し取り描く。つまり様々な心情や意思や物語が、絵具や筆でキャンバスに写し取られ絵になっていて、額縁に入れ、その出来栄えを楽しむのが一般に絵画と言われています。この機能は写真でも同じで、写真も絵画と同じ鑑賞がされています。
ですから、雪舟の冬景山水画の、あの中央に描かれた一本の縦の折れ線は、岩肌の割れ目だとか、雪舟の晩年の境地の象徴だとか、鑑賞者は、そこに塗り込められた心情や意思を類推しようとします。しかし、そこにはそんな心情や意思などはありません。「リアルな存在や物体」を描く=創ろうとする意思。があるのでは、と貴方は言うかもしれません。でもそう思ってしまったら、「リアルな存在や物体」はたちまちに消えてしまい。鑑賞者は、真の雪舟には会えなくなってしまいます。
次は、ゴッホの遺作「カラスのいる麦畑」です。
ゴッホの描画法は基本的には線描です。印象派の色と光の分析である …自然の中の色や光線には、様々な色が混じり単色を構成している。画面に多色を散りばめれば、その配合が、人間の視覚網膜で混色されて、人は自然な単色を感じる。(視覚混合)… の法則により、ゴッホは、多色の線描でその効果を表現しています。この意味では印象派の画家ですが、ゴッホは、ゴーギャンと別れ、耳を切り落とした頃には、この技法で対象を写し取り描くという目的の絵画は、完成を迎えていたと思います。
画家が、絵を「写し絵が描く」から「リアルな存在や物体を創り出そう」と考え、その意思を始めるのは何故なのか?。興味のあるところですが、ゴッホの場合、この頃に「リアルな存在や物体」を描く=創り出したい。その思いに目覚めたものと思われます。
さらに、この頃から死を迎えるまで、濃青の空の絵が多くなります。線描が太く逞しく描かれ、印象派風の色の混合技法はほとんど見られなくなります。画面は、空の濃青と地上の黄色の景色の二色の対比で極端に描かれることになり、丹念に複雑に自然を写し取り描こうとする気が全くないことがわかります。
そして雪舟が、黒々とした墨の物質としての「リアルな存在や物体」に惹かれていったように、筆で絵具を逞しく掬い取り、画面に線を引いて行く、その盛り上がった絵具の艶やかさ柔らかさが、「リアルな存在や物体」感を輝かせていることに、ゴッホは魅了されていったのです。
遺作と言われる「カラスのいる麦畑」の黒色のカラスの描画。これは、自分の心情を、寂しいカラスに擬え描いたのではなく、艶やかな物質としての黒色絵具の「リアルな存在や物体」を、カラスに似せて見せたかっただけような気がします。
さらに、この絵の寂寥感を、これは「極度の悲しみと孤独」で描いた。と、ゴッホが言ったとか言われていますが、このような文学的想像力は、天才画家にとって、絵を描く時には、一番遠くにある無縁のもののように思います。
次のデュシャンは、アイロニーのアーチストです。
絵画には、画家と対象の人や物などの心情や意思や物語が、絵具や筆で掬い取られキャンバスに写し取られていて、その出来栄えを楽しむのが絵画と言われます。一般に公開される絵画展では、鑑賞者は、絵画に塗り込められた、その心情や意思を、ビジュアルを通して、あれやこれや推量し楽しむということになります。しかし、このように、画家と描かれる対象との交合、さらには鑑賞者自身の心情や意思もそこに加えて楽しむなど。人に見られて食事をしているような恥ずかしい事が、高尚な芸術であるとは到底思えません。そしてそこには、流通価値として値段がつけられ、メディアの喧伝により社会的価値までもがつけられるとは…。
このような有様に、デュシャンは「泉」と題して、展覧会に出品される絵画に交じり、いわゆる本物の便器というアイロニーを出品しました。単なるアイロニーのみを意図したのであれば、蝋細工か3Dプリンター製の本物そっくりの便器の方が、今日的には、さらにアイロニーの効果が増したのではと思います。
しかし、デュシャンは、もっと別の事も意図していたのだと思います。デュシャンは、画家で出発したのですが、途中で画家を放棄し、このアイロニーのアーチストに変身しました。
デュシャンの絵画は、キュービズムの技法で、人の歩みの連続を描く、つまり時間を圧縮して写し取った絵などがありますが、しかし、自然をどれだけ上手く写し取っても、本物にはならない、つまり「リアルな存在や物体」を創ることにはならないと気づいたのだと思います。そこから思考が始まります。便器という、単なる既製品の道具であり、作者や対象物や鑑賞者の心情や意思を後から写し込む余地などありようがない既製品であり、しかしそれは、確実に「リアルな存在や物体」であり、もし便器に心情や意思があるとすれば、それは常に水が満たされている「泉」であろう。と名付け、作品として展覧会に出品することを考えたのです。
我々鑑賞者は、展示された「泉」と名付けられた便器を眺めるとき、先ず嫌悪や疑問と共に、便器に「リアルな存在や物体」を感じ、同時に自身や肉体が、同じく「リアルな存在や物体」であると気づかされ、ギョッとしてしまうのです。そしてそれから漸くそのデュシャンのアイロニーに気付くのです。
「リアルな存在や物体」とは、「複雑構造」であると言いましたが、それも底なしの「複雑構造」です。
道端に転がる小石でも、手に取り仔細に眺めると、表面の複雑な表情の中に、目を移して行くと次々と新しい要素が発見できます。飽きがきて中断するか、これは「道端の小石」であると言語思考がラベリングし、認識を中断するまで、欲すれば永遠に眺め続けることができる「複雑構造」なのです。
絵画では、「複雑構造」である自然を上手に絵に写し取ったと思っても、永遠に眺め続けられる「複雑構造」は絵の上には創れないのです。天才と言われる画家達には、それが我慢ならなかったのだと思います。そこで、「リアルな存在や物体」を絵の中で創ってやろうとしたところ、その材料である絵具の「リアルな存在や物体」を目立たせる結果になるとは、デュシャンの便器を見て、自分や自分の肉体が「リアルな存在や物体」であると気づかされることと、少し似ています。
次は、ポロックです。
「リアルな存在や物体」を創るために、それを妨げる要素を、ポロックは除くことを考えました。
画家の心情や意思が筆で絵画に塗り込めるられることを避けるために、アクション・ペインティングという、床にひいたキャンバスに、刷毛やコテで空中から絵具を滴らせる方法をとりました。この方法で、画家の心情や意思のほとんどは、遮断することができました。しかし、すべての心情や意思を遮断してしまうと、自然の風雨に晒され、錆びて穴が空いたトタン板と変わらないことになるので、ただ自由落下に任せるのではなく、微妙に絵具の量とスピードと位置をコントロールしています。そうすれば「リアルな存在や物体」を創りたいポロックの強い意思のみが、画面に塗り込められることになるからです。後年、インスタレーションと称し、錆びたトタン板を展示会に並べるアートが登場しますが、ポロックとの違いがお分かり頂けるかと思います。
またこのポロックの方法には、風景や人物など、写し取る対象と心情や意思が初めからありません、絵具の物質の「リアルな存在や物体」だけが画面に俎上されることになります。デュシャンが絵画を描くことを止め、代わりに便器を「リアルな存在や物体」のために使ったことから進歩し、ポロックは、絵具のみで「リアルな存在や物体」を創ることに成功したのです。
ポロックのアクション・ペインティングの絵画を眺める時、アクション・ペインティングの名前から受ける躍動感や騒がしさとは反対の、静謐や奥床しさを感じます。親しい人と手を握り合った時の、安心感、安堵、平静を感じます。感じるというより、自分自身の「リアルな存在や物体」と、ポロックの絵の「リアルな存在や物体」が出会って生まれる、物質としてお互いが共同の認識を持っていて安心と思ってしまう存在様式です。
人によっては、セックで、男女が裸で最初に抱き合った時の、蕩けるような安堵感かもしれません。「リアルな存在や物体」とは、出会うと常にエロティックを感じさせる存在なのです。
癒しとは、自分自身が、単に自分も「リアルな存在や物体」だったと感じて安堵する瞬間ですが、「リアルな存在や物体」が他の「リアルな存在や物体」と出会う瞬間とは、垣根なく自分が広がっていて、外にある他の「リアルな存在や物体」と自分自身の「リアルな存在や物体」の一部を交換しても構わない、あるいは、同じ部品を共有しているのではないかと思う程に根源的な安堵感なのです。これを、エロチックな状態と言いますが、人々は日常的にこのことを確認し続けています。西洋人では、握手したり、キスで挨拶を交わしたり、ハグをしたりと直接的ですが、日本人でも、さりげなく、手と手を触れ合ったり、お辞儀をしたり、相手の瞳を覗き込んだりして、その交接を味わっています。
ポロック以降に「リアルな存在や物体」を描く=創ろうとする画家アーチストは今日まで出現してはいません。
これは「言葉での理解が、理解の全てになっている。」現代の風潮と深く関係しています。現代で「リアルな存在や物体」とは、言葉で書かれた【リアルな存在や物体】以上のものではなく、本物の「リアルな存在や物体」との出会いでエロチックなものを感じても、それを言葉に出来なければ(ラベリングされなければ)、それが理解であるとは認められないからです。言葉に出来なければ、流通媒体には載らず、価格が付けられることもなく、情報として社会に流通することもありません。例えば、今日の日本では、ビジュアルアートであっても、ライバルが小説家の村上春樹ということになってしまうのです。
最初の方で、…「リアルな存在や物体」を創り出す作業では、通常の技術や方法だけでは叶いません。そこには独自の技術や新技術が介在します。…とお話ししました。
レオナルドダビンチは、スフマート技法で、雪舟は、特別の筆と墨。ゴッホは、持ち運びが便利なチューブ絵具。デュシャンは既製品。そして、ポロックはアクション・ペインティングです。
野町和嘉の場合は、
Canonデジタルカメラ EOS 5Ds 約5060万画素 + 大型カラープリンターです。
デジタルカメラとデジタルプリンターの急速な発展で、大画面で高精密な画像の写真が登場することは予想されていました。解像度が高まり、さらに大画面になるので、細部が更に細かく再現され本物の繊細さに近づくと、原理としては分かっていたのですが、現実の画面で体験して、何が予想通りで、何が予想外なのか、興味がありました。
2016年1月17日から31日の期間 「Gallery916」(浜松町)で開催された、野町和嘉写真展「天空の渚」でその新技術の成果を体験する事ができました。
詳しくは→野町和嘉写真展「天空の渚」
一言で言うと、写真の新しい扉が開けた思いがしました。画像技術が一つ上に進んだことは勿論、撮影技術にも、芸術としての可能性にも、新しい何かがやって来ていました。後年、約100年の写真の歴史の後に起きた革命であったと、回想されることになるかもしれません。
では、この事について、お話ししたいと思います。
横約3m、縦約2.5m 絵画で言えばF500号サイズに近い大画面のカラー写真が、約35点も展示される写真展は、現像紙焼きの時代からは、技術的にも費用的にも時間的にも想像がつきません。
デジタルカメラの高画質化は、これからもさらに進み、次のステップに向かい進歩するのは確かなのですが、テレビの4K、8Kなどの透過光画像技術が進むと、反射光画像のデジタルカラープリンターは、モノクロ写真の運命を辿るかもしれません。
しかし、大画面で高画質化しているのに、カラー再現性が向上し反射光画像も進歩しています。これが進めばデジタルプリンターは、モノクロ写真と同じ運命を辿ることにはならないかも知れません。
前回の、「野町和嘉『写真』とは(1)ー写真論からのアプローチー 」で、
レンズは、映るものは何でも写す自由意志を持ち、同時に、被写体の意思と無意識、撮影者の意思と無意識をも写してしまう。とお話ししました。
また、野町和嘉の撮影法について
ある目的を持ってその地に向かいます。しかし、風景を撮影する場合、地球があって、大地から垂直に、人、動物、木、山、川、砂丘、建物、そして大気や空がある。そして自分自身も。そんな地球の重力と肉体との根源的なバランス感(重力感覚)のみを撮影の意思(無意識)にします。さらに目的もその無意識の領域に沈み込ませてしまい(旅人感を無くす)、その他はカメラの自由意志に任せるという方法です。
とお話ししました。(詳しくは、前回の「野町和嘉『写真』とは(1)ー写真論からのアプローチー 」をご覧ください。)
写し込む心情や意思を、地球の重力と肉体との根源的なバランス感(重力感覚)のみに止め、後はレンズの自由意志に任せ撮影する。この野町和嘉の撮影法は、上記のポロックで見た…画家の心情や意思が、筆で絵画に取り込まれることを避けるために、アクション・ペインティングの方法を使った。…と言う、先に見た、ポロックの方法と似ています。
ポロックのアクション・ペインティングでは、心情や意思のほとんどを遮断し、ただ「リアルな存在や物体」を創りたい強い意思のみを取り込ませるために、絵具をコントロールしながら、ほとんどは自由落下に任せました。野町和嘉は、「重力感覚」のみを意思にして、後はレンズに映るものは何でも写すレンズの自由意志に任せました。この方法で、「リアルな存在や物体」を創り出す方法に近づいたのです。
野町和嘉写真展「天空の渚」は、メキシコ、ボリビア、アルゼンチン、チリを巡る旅です。
サンタマリア・トナンツィントラ教会。雨期のウユニ塩湖、標高4000メートルの原野に林立する砂の柱。生きた氷河と呼ばれるアルゼンチンのベリト・モレノ氷河。などで撮影された写真には、今までの写真では見たことがない「リアルな存在や物体」の創造が体験できます。
一般に写真とは、その言葉の通りに対象を写し撮る芸術であり、そのビジュアルの他に、撮影者と被写体、その両方の心情や意思をも画面に写し撮ります。
例えば、祈る人を撮影する場合、レンズは、手を合わせ首を垂れる被写体の表情や姿勢のビジュアルを、さらに、激しく願い祈る被写体の心情や意思をも写し撮ります。そして、その真摯な様子に心動かされ、簡単なスナップでは済ますことができない、撮影者の心情や意思をも写し撮ってしまいます。
しかし魅力的なビジュアルであっても、祈りの心情や意思が強く写ってしまえば、例えば「激しく祈る人」と題され、その文学的要素で良い写真ということになってしまい、心情や情動以外の、目を喜ばせるビジュアルとしての中立的な魅力はあまり顧みられなくなってしまいます。
絵画で「リアルな存在や物体」を描く=創るということは、いつまでも見飽きることがなく、限りなく情報を発信する「複雑構造」を描くことです。、絵画上の、その「リアルな存在や物体」と鑑賞者が出会うと、自身も「リアルな存在や物体」であることを意識させられ、そこからお互い、物質として共同の認識を持っていて安心と感じてしまう、甘美な存在様式が生まれます。つまり手と手を握り合えるようなエロティックな関係が持てそうな感覚になります。これは普通には、控えめに、絵画を見て心動かされた。という表現になります。
このような絵画でも難しいことが、写真では出来るでしょうか。
野町和嘉写真展「天空の渚」の出展写真の中でも、サンタマリア・トナンツィントラ教会の天井装飾。標高4000メートルの原野に林立する砂の柱。 生きた氷河と呼ばれるアルゼンチンのベリト・モレノ氷河の氷山の写真などには、野町和嘉独特の撮影法が徹底され、画面には、野町の「重力感覚」の意思のみが取り込まれ、他は、レンズの自由意志が働き、いつまでも見飽きることがなく、限りなく情報を発信する「複雑構造」が「リアルな存在や物体」として表現されています。
横約3m、縦約2.5m の大画面のどの部分の10cm角を見ても、ピントが合っていて、粒子の粗れや解像度不足のボケなどは見えず、目で追っていけば、1mm単位の物質の表情も捕らえられる程に「複雑構造」が表現できています。
これからは、5060万画素のデジタルカメラと大型カラープリンターで大画面写真を作れば、誰でもこのような「複雑構造」が表現できることになるのですが、だが誰でも簡単に「リアルな存在や物体」 を撮れる=創れることにはなりません。絵画では、少数の天才画家しかしできなかったように、写真家にとっても同じです。しかし、絵具や筆の難しい扱いを学ぶこと比べ、そこへ出かけて行って、写真はただ一瞬のシャターで出来るのが魅力です。
そこで「リアルな存在や物体」を画面上に創れる魅力に目覚めたアーチストが、写真家より先にこの技術を使い始めるかも知れません。
写真は、複製芸術です。今は、アルバムの中に、机上の写真立てに、壁の飾りに、各種印刷物に、TVやネットや携帯の小さな画面の中に、透過光と反射光画像の両方で、時と場所を選ばず鑑賞できます。しかし、「リアルな存在や物体」を写真で鑑賞するには、大型デジタルプリンターの高解像度で出力された「複雑構造」が見える画面でなければなりません。そのためには、絵画鑑賞のように、写真展に出かけ実物を鑑賞しなければなりません。
家庭で見る4K、8Kの大型液晶モニターや有機LDモニターの技術では力不足のようです。次代のマイクロLEDディスプレイではどうでしょうか。同じ反射光画像である絵画の進歩の延長に、新写真が存在するが自然な感じなのですが、透過光画像では3DやVRも進歩するので、簡単に誰でも「リアルな存在や物体」を撮る=創ることが本当に可能になるかも知れません。
写真で「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を撮る=創る方法は、野町和嘉の撮影方法で輪郭は説明できたかと思うのですが、撮影の前に、撮影者の意思を心の中で創り、育て、強く確かなものにしなければなりません。野町和嘉の場合は「重力感覚」を無意識に強く意思できる才能があります。また、レンズの自由意志に任せて、それでも作画ができる撮影感もあります。
後は、「リアルな存在や物体」つまり「モノ」とは何か、どう捉えるかと言うことになります。
「言葉での理解が理解の全て」と考える。あるいはそう教育されている現代人には、「モノ」とは言葉のラベルを貼ることと同じですから 、「リアルな存在や物体」とラベリングしてしまえば、理解したことになって、真の理解への道が閉ざされてしまうでしょう。
それを避けるため、岡本太郎をはじめ「縄文の心に帰れ」と言ったりしますが、縄文時代の土偶や祭壇土器は、紛れもなく言葉に邪魔されず、人が創った「リアルな存在や物体」であることは確かです。
なぜ、写真という道具を使うのだろうか。日々、どんな思考ツールを使っているのだろうか、言葉での理解か、それとも無意識に心を動かす名無しの感覚や思考器官でか、同じ楽曲の同じ音符でも、サックスとピアノでは、演奏(思考結果)に違いが出るのは自明です。どんな思考ツールを使うのかが重要で、結果が違ってきます。高画質デジタルカメラのレンズの自由意志を選べる今日の写真家は、言葉での理解しか知らない現代人に、それこそ革命を起こすことになるかも知れません。
野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ