【後閑(ごかん・ごか・こが)】
後閑は当て字であるが、古閑、古賀などと書いた地名、姓氏の方
が多い。未開拓の荒蕪地などを言う。全国にある。カガ、コーガ、
コーゲなどともいう。
上野(こうずけ)国石倉城主で後閑信重(ごかんのぶしげ)がいる。
はじめ甲斐武田氏の麾下(きか)であったが、武田氏が滅亡すると、
上野国厩橋(うまやばし)の北条高広の配下になった。
のち、小田原北条市に従ったが、豊臣秀吉の小田原攻めで、
北条氏とともに滅んだ。
【得居(とくい)】
得居とは、二姓合併して一姓を捜索した新姓。
元の姓は土居(どい)、得能(とくのう)であるが、この両氏の子孫で
あることからその一字づつをとって得居とした。
得居通年(みちとし)〔通之(みちゆき)、太郎左衛門、半右衛門ともいう〕
は、豊臣秀吉の家臣。伊予国恵良(えら)城主。
父は久留島(くるしま)通康(みちやす)天正十八年(1590)、小田原征伐
で、富士野の木挽(こびき)をつとめた。
文禄・慶長の役では、水軍の旗頭として活躍した。
【垪和(はが)】
垪和の垪は国字であるが、土と并の合字。并は並に通わせた形
で、土だけが一面に覆っているところ。いわゆる土の露出した湿地
や荒れ地。草木のはがれた土地。和は処(か)の佳字。
岡山県久米郡旭町に垪和の地名がある。
今は、芳賀、羽下、羽賀などに転化する方が多い。
後北条氏(ごほうじょうし)の家臣に垪和康忠(やすただ)がいた。
北条氏康から父祖の地を安堵された。相模(さがみ)や上野(こうずけ)
の所領を得、評定衆(ひょうじょうしゅう)として知られる。