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さあ~てと 帯しめましょか。

人生、山あり谷あり
向かうはわが身の置き場所よ。
帯締め、気を染め、往きましょか・・・  ~part 2~   

御訪問者の皆様へ

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後閑(ごかん・ごか・こが)

2009年04月18日 13時54分00秒 | 姓氏/珍姓・難姓・奇姓/地名

 

 【後閑(ごかん・ごか・こが)】

 

 後閑は当て字であるが、古閑、古賀などと書いた地名、姓氏の方

が多い。未開拓の荒蕪地などを言う。全国にある。カガ、コーガ、

コーゲなどともいう。

 上野(こうずけ)国石倉城主で後閑信重(ごかんのぶしげ)がいる。

はじめ甲斐武田氏の麾下(きか)であったが、武田氏が滅亡すると、

上野国厩橋(うまやばし)の北条高広の配下になった。

のち、小田原北条市に従ったが、豊臣秀吉の小田原攻めで、

北条氏とともに滅んだ。

 

 

 

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得居(とくい)

2009年04月18日 13時35分00秒 | 姓氏/珍姓・難姓・奇姓/地名

 

 【得居(とくい)】

 

 

 得居とは、二姓合併して一姓を捜索した新姓。

元の姓は土居(どい)、得能(とくのう)であるが、この両氏の子孫で

あることからその一字づつをとって得居とした。

 得居通年(みちとし)〔通之(みちゆき)、太郎左衛門、半右衛門ともいう〕

は、豊臣秀吉の家臣。伊予国恵良(えら)城主。

父は久留島(くるしま)通康(みちやす)天正十八年(1590)、小田原征伐

で、富士野の木挽(こびき)をつとめた。

文禄・慶長の役では、水軍の旗頭として活躍した。

 

 

 

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垪和(はが)

2009年04月18日 13時11分00秒 | 姓氏/珍姓・難姓・奇姓/地名

 

 【垪和(はが)】

 

 垪和の垪は国字であるが、土と并の合字。并は並に通わせた形

で、土だけが一面に覆っているところ。いわゆる土の露出した湿地

や荒れ地。草木のはがれた土地。和は処(か)の佳字。

岡山県久米郡旭町に垪和の地名がある。

今は、芳賀、羽下、羽賀などに転化する方が多い。

 後北条氏(ごほうじょうし)の家臣に垪和康忠(やすただ)がいた。

北条氏康から父祖の地を安堵された。相模(さがみ)や上野(こうずけ)

の所領を得、評定衆(ひょうじょうしゅう)として知られる。

 

 

 

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