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大久保バプテスト教会 聖書の学び

大久保バプテスト教会で祈祷会に配信されるメルマガを掲載しています。
聖書の学びを御一緒に

メルマガ#78 使徒行伝22章30節~23章11節

2009-12-09 22:42:11 | 聖書
 みことば:「兄弟たちよ、・・・。(わたしは)死人の甦りの望みを抱いているために、裁判にかけられているのです。」23章6節 岩波訳

 パウロが同胞のユダヤ人たちに執拗に訴えられるので、その真相を知りたいと思ったローマの千卒長は、非公式でありましたがユダヤの祭司長と全ユダヤ議会を招集させ、パウロをその議会の中心に立たせます。使徒パウロは、まず自分が良心に少しのやましいところなく神の御前に生きてきたと言うのです。クリスチャンであるパウロが神の御前に正しいということは、訴えているユダヤ教ユダヤ人たちが正しくないと主張していると同じだと聞き取った大祭司アナニヤは、パウロの口を打てと人に命じます。ユダヤ人歴史家のヨセフスは、大祭司アナニヤは歴代の大祭司の中で最も卑劣で、金銭にどん欲な祭司であったと彼のユダヤ歴史書の中で記し、アナニヤがパウロの口を打たせようとした人であった事を裏付けています。

 この大祭司に対してパウロは、「白く塗られた壁よ、神があなたを打つであろう」と預言的なことを言います。実際に、10年後のユダヤ戦争勃発前に、ローマとの癒着とどん欲さゆえにローマ寄りであった大祭司アナニヤは、ユダヤの熱心党の手によって打たれて殺されたということです。たとえ表面は白く塗られた壁のようであっても、また敬虔なクリスチャンのように見えても、神様は私たちの心をしっかりと見て、そしてすべてを知っておられる事をここから学び、そしてもし私たちの中に悔い改めるべきことがあれば悔い改めてすぐに主に立ち返りましょう。何故なら、エゼキエル13章10節以降に、偽善のある所には平和はない、すべては神によって明らかにされるとあります。ですから、「いつも塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい」とコロサイ4:6にあるように、この言葉に生きましょう。

 アナニヤが大祭司であることを本当に知らなかったのか、嫌みで言ったのか分かりませんが、パウロは大祭司に対し、「あなたは律法に従ってわたしを裁くべきなのに、あなた自身がその律法に背いて私を打てと命じるのか」と問いただします。するとそばに立っていた者が「神の大祭司に対して無礼な事を言うな」とパウロに言います。パウロは、大祭司が偽善者のようであったのでそのように言ったのですが、私たちも気を付けましょう。クリスチャンらしからぬ振る舞いをしていないかを。私たちの主にある価値観、口から出る言葉、そして主と共に歩む行動をもってキリストの香りを醸し出すような者にさせていただきましょう。そのためには主の言葉に聴き従う他にありません。

 自分自身が議会に立たせられているのは、死より復活された救い主イエス・キリストを信じ、この救い主にすべての望みを置いているこの信仰のゆえであると使徒パウロは声を上げて叫びます。わたしたちは望み、希望をどこに置くかによってこれからの人生は変わってきます。滅びゆくものにではなく、アルファでありオメガであられる神様に希望を抱きましょう。暗闇に光として誕生し、この光をもって私たちを永遠に守り導き、永遠の命を与えたもう主イエス様に希望を抱いて歩んでまいりましょう。パウロは、主イエス様に希望を置いたのです。

 私たちは、人生の暗闇を経験する時があります。人生の危機に直面したり、大きな試練の中に置かれる事がこれからの人生の中でも幾多とあるでしょう。クリスチャンであるが故に苦しむ事があるでしょう。逃げ出してしまいたい様なこともあるでしょう。しかし、11節でイエス様は使徒パウロに臨んでこのようにおっしゃるのです。「しっかりしなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなくてはならない」と。とてつもなく広く、高く、深く、分厚い壁に直面し、それを乗り越えなければならない時、その壁を打ち破ることが唯一できる力ある主イエス様にすべてを委ね、祈ることから始めましょう。どんなに頑丈な城壁であっても、神様の時、神様の御手が傾けられる時に、神様のご意志とご配慮の中で壁は崩れ落ち、私たちは神様の愛、祝福へと招き入れられるのです。
 主イエス様から委ねられている私たち大久保教会の使命、それはこの力強き神様、十字架に架かり私たちの罪を贖い清め、三日目に死人の中から初穂として甦られた救い主イエス様を証しすることなのです。まず主に祈りをささげ、主の声に聞きましょう。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ#77 使徒行伝22章22節~29節

2009-12-02 21:39:09 | 聖書
 みことば:「そこで、千人隊長が(パウロに)応じた、『私はかなりの金額を払って、この(ローマ)市民権を手に入れたのだ』。パウロは言った、『私は生まれながらのローマ(帝国の)市民です』22章28節 岩波訳

ユダヤ人の暴徒たちの手からローマ兵たちによって救い出された使徒パウロは、それでも諦めずに最後の最後までユダヤ人たちに弁明、証ししたことを先週学びました。クリスチャンたちを迫害していた者がイエス・キリストに出会って、まったく新しい人へと変えられ、キリストの福音を力強く語る者となったということを告白するのですが、ユダヤ人たちはパウロが「行きなさい。わたしがあなたを遠く異邦の民へつかわすのだ」と主イエスがおっしゃったと聞いて怒り心頭となり、大声で「こんな男は地上から取り除いてしまえ。生かしておくべきではない」と叫びだし、パウロに襲いかかろうとします。

 何故ここまで使徒パウロはユダヤ人たちに嫌われたのか。それはパウロの心が柔らかく、広く、深かったからです。神様の愛、キリストの福音はユダヤ人だけでなく、すべての人々に注がれているとパウロは信じていたからです。ユダヤ人たちはパウロの心の広さが気に食わなかったのです。これは何を物語っているのか。当時の情勢は、ユダヤ人たちのナショナリズム・愛国心が高まっていた最中でした。パウロはユダヤの律法を疎かにしていた訳では決してありませんが、ユダヤ人たちの目には律法を軽んじていると映ってしまったようです。しかし、究極的には、ユダヤ人の心は頑なで、狭く、傲慢であったということです。ですから、命は神から等しくすべての人に与えられているのに、「こんな男は地上から取り除いてしまえ。生かしておくべきでない」と気が狂ったかのように叫ぶのです。

 私たちの心はどうでしょうか。問うてみたいと思います。そして、イエス様の心はどうであったかを聖書から聞いてゆきたいです。イエス様の心と愛は、特に世の中で蔑まれている人々、この世の隅に追いやられている人々、弱っている人々、小さくさせられている人々に豊かに注がれました。私たちの心は、何に注がれているでしょうか。わたくしたちもこのアドベントの期間、心を柔らかくされてゆきたいと願います。頑なで、狭く、傲慢な心には主イエス様の愛が宿る余地はないのです。

 パウロは、心頑なユダヤ人たちに再度襲われそうになりますが、またここでもローマ兵たちによって命が守られます。しかし、今度はこのローマ軍の千卒長からパウロは尋問を受けることになりました。しかし、普通の尋問ではありません。ローマの尋問のスタイルは、むち打ちによるものでした。パウロは近くに立っている千卒長の部下である百卒長に訴えます。「ローマ市民たる者を、裁判にかけもしないで、むち打ってよいのか」と。パウロは、自分はローマの市民であり、市民としての権利を持つ者であると主張します。聖書には、パウロの祖先がユダヤ人であるにも関らずどのようにローマ市民権を得たのかは記しません。ある神学者は、幕屋づくりがローマ軍の遠征などに必要であって、そのような職人たちに市民権を与えたのではと考えています。どちらにせよ、パウロは自分がローマ市民であると主張します。パウロは二重国籍であったのです。神様は、本当に不思議なことをなさいます。当時の常識では考えられないことを備えておられたのです。この時にために主が事前に備えて下さっていたということでしょう。ここから学べる事は、たとえ私たちが人生の危機に陥っても、神様は常識を遥かに越えた備えをもって、私たちを守り、救い出して下さるということです。主を信じて、主に従う者に救いはあるのです。

 千卒長は、「わたしはローマの市民権を、多額の金で買い取ったのに、お前のようなユダヤ人がどうして?」と言わんばかりです。すべてはお金ではないのです。すべては神様の愛とお取り計らいであることを覚え、主に感謝しましょう。

 現代は、お金を積めば市民権を買える時代なのかもしれません。しかし、それは裕福な人だけに限られた差別です。日本にも二重国籍の人も多くいますでしょう。しかし、国籍の無い人がこの日本にも、世界中にも多く存在し、国外退去命令がいつあるか分からないと身を潜め、不安と恐れの中にあることを覚えましょう。また、貧しい人たちが多くおられます。ハンディーを持った人たちがたくさんおられます。目に留められないような孤独な人たちがおられます。そのような人にイエス様はどのように関っていかれるでしょうか。イエス様の心は。このアドベントの時、イエス様の心は誰に注がれるかを祈りつつ求めてゆき、示されたままに歩みましょう。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎


メルマガ#76 使徒行伝22章1節~21節

2009-11-25 21:19:57 | 聖書
 みことば:「兄弟たち、ならびに父たちよ、今から申し上げる私の弁明を聞いて下さい」22章1節 岩波訳

 自分に対して不信の念を抱くユダヤの同胞たちに、自分はモーセの律法を厳守している者だという事を証明しようと、使徒パウロはエルサレム教会の長老・ヤコブの助言に従い、「ナジル人の誓願」を立てた4人と一緒に神殿で清めに与りましたが、そのような人間的工作は失敗に終わりました。失敗に終わったのはパウロに原因があったのではなく、パウロに対する「憎しみ」がユダヤ人たちにあったが故であると先週学びました。パウロは今度、言葉によって「弁明、証し」するのです。ある意味においては、22章からの残りの使徒行伝はパウロの弁明であると理解しても良いでしょう。

 ユダヤ人の暴徒たちの魔の手からローマ兵たちによって救い出された使徒パウロがここにいます。神様が異邦人を用いてパウロの命を守られたのです。パウロは、暴徒たちによって殴られたり、蹴飛ばされたり、石で打たれたりと多くの傷を負っていたのではないでしょうか。神を信じている人々が、同じく神に造られ、命与えられている者の命を奪おうとする。私たちにとっては非常に恐ろしいことであり、神様には悲しみではないでしょうか。被害者のパウロは、この時、心に何を感じていたのでしょうか。パウロの身体は傷つき、痛んでいましたが、彼の心は傷ついてはいませんでした。むしろ、彼の心には自分を傷つけ、自分の命をも奪おうとする者たちのために祈り、彼らを愛していたのではないかと感じます。そうでなかったら、「もう一度、ユダヤの人々に弁明をさせてほしい」とローマ兵に願い出なかったでしょうし、加害者たちに対して「兄弟たち、ならびに父たちよ」と呼びかけることはできなかったでしょう。お恥ずかしいですが、今の私には、パウロのような愛がありません。自分を傷つけ、命を奪おうとする者たちのために祈り、また「兄弟姉妹たちよ、父母よ」などと口が裂けても言えない。そのような人たちから出来るだけ素早く逃げ、身を隠す事を第一に考えます。そこにクリスチャンとしての私の弱さがあるのだと思います。しかし、なぜパウロにはそのようにできたのでしょうか。ローマ12:14に「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、呪ってはならない」とパウロ自身が言っていますが、彼は自分の言葉をただ守ったのでしょうか。そうかもしれません。しかし、パウロは救い主イエスが来られたのに心を頑なにして救い主を受け入れない、信じないユダヤ人の同胞の救いを最後の最後まで諦めずに祈り続け、また彼ら愛し続け、彼らにも神様の憐れみと救いが必要だと強く感じていたからではないでしょうか。

 使徒パウロはユダヤの同胞たちに対して、1)自分は厳正な正統派ユダヤ人として教育を受け(3-4節)、2)「この道」=キリスト教を迫害する者であったけれどもダマスコ途上で救い主イエスに出会って回心し(5-16節)、3)主から異邦人への伝道の委託を受けた事(17-21節)を話します。

 この証しの中で、自分はクリスチャンたちを迫害して来た張本人であることを告白します。また、ダマスコに隠れているクリスチャンたちを捕らえに行く途中に、真っ昼間にも関らず、突然、天から強烈な光が自分を照らしたので地面に倒れてしまったが、そのような私に主が直に語られたとパウロは言います。このまばゆい光によってパウロは盲目なり、アナニアが彼を訪ねて彼のために祈るまで、パウロは闇の中に置かれます。しかし、この闇を経験する中で、先頭に立ってクリスチャンを迫害して来た自分に主が憐れみ、罪を赦し、新しい使命を与えられることに驚き、主の憐れみ、愛の力によって心が砕かれていったと証しします。主イエス様が「私はお前を遠くの異邦人のもとに遣わすからそこへ行け」と命じてくださったと異邦人伝道に召し出されたことを証しするのです。

 自分を憎み、自分の命を狙うユダヤ人たちを「兄弟姉妹、父母」と呼べたのは、「私のような罪人が主の憐れみによって救われたということを思う時、どんな人でも、すべての人が救われると信ぜずにはいられない」とパウロは心から感じていたから、そのように呼びかけることができたのではないでしょうか。榎本保郎牧師は、「あんな人はだめだ(あんな人は救われない)などと考える人は、(自分自身が)神の前におけるみじめな自分であるかを忘れている人である」と言っています。人ではなく、今日、主イエス様を自分がどのように向き合っているかを考えてみましょう。また、神様の憐れみ、恵みによって、主イエス様によって罪赦された自分である原点にいつも戻るようにさせていただきましょう。その時、私たちを苦しめる人のために祈り、主から助けられて相手を赦し、敵と思う人を愛してゆけるのだと今回の箇所から示されます。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎


メルマガ#74 使徒行伝21章27節~40節

2009-11-19 06:47:52 | 聖書
みことば:「彼ら(アシア州から来たユダヤ人たち)は先に、エフェソ人トロフィモスが、宮でパウロと一緒にいたところを見かけたので、パウロが彼を神殿(境内)に連れ込んだと思ったのである。」21章29節 岩波訳


 アジヤ・エペソ地方からエルサレムに来たユダヤ人たちが、神殿の境内で「きよめの儀式」の7日目を終えようとしていた使徒パウロを見つけます。彼らはパウロを目の敵とし、エペソでも群衆を煽動してパウロ弾圧を試みましたが、エルサレムでも同じことをします。彼らは、先々週学んだ箇所ですが、エルサレム教会に嘘やデマを流して混乱させた者たちと考えられています。彼らは群衆を煽動し、パウロを捕らえるために三つの訴えをします。パウロが各地に離散しているユダヤの同胞やエルサレムの人々に1)ユダヤ人たち(民の歴史と文化)に背き、2)律法に背き、3)神殿に背く事を言い伝えていると言うのです。2と3は、ステパノがユダヤ人たちに訴えられ、殉教した時と同じ訴えです。

 もう一つの訴えは、パウロが神殿の境内に異邦人を入れて神殿を穢したというものです。エルサレム神殿の中には「異邦人の庭」という場所があって、そこには異邦人は入れるのですが、その奥には決して入ってはなりませんでした。ローマ人であってもその奥に入った人は死罪とされ、ローマ帝国であっても恩赦を訴えることができなかったそうです。そのような聖域に異邦人をパウロが入れたと彼らは訴えるのです。しかし29節で、パウロがエペソ人と町を歩いていたのを見たユダヤ人たちが「パウロが異邦人を聖所にいれたと思い」、彼らが自分たちのまったくの思い込みを異常なまでに誇張したと記します。彼らのパウロに対する「憎しみ」が身勝手な思い込みを生じさせ、デマを言わせ、人を傷つけ、命をも奪い去ろうとしてしまう。アジヤ・エペソから来たユダヤ人たちの「憎しみ」は、パウロのあらを探し、パウロを陥れる運動の原動力となっただけでなく、30節にあるように、エルサレム全体を混乱させてしまう力となってしまいます。「憎しみ」は命を生かす事も、平和を生み出す事も、大切なものを守る事もできません。命を、平和を、大切なもの全てを奪うものです。イエス様を通して与えられる「神の愛、アガペー」なくしては、命、平和、大切なもの全ては「空しく」なります。パウロは神殿に「きよめ」にあずかるために来たのに、神殿を穢す者として訴えられてしまいます。私たちの心には誰かに対する「憎しみ」はないでしょうか。憎しみのある心では、神様との平和、人々との平和を築くことはできませんし、「憎しみ」のあるところにキリストのからだなる教会は建て上げられないのです。もし、私たちの中に「憎しみ」があるのであれば、悔い改め、その思いを主イエス様に明け渡しましょう。そうでないと私たち自身にも、また教会には神様の祝福はありません。

 使徒パウロが捕らえられ、神殿の外に出されたと同時に、神殿の門が「閉ざされた」と30節にあります。ある神学者たちはこの事は一つのことを象徴することだと考えます。何故なら、「神殿/宮」についてはこの箇所が使徒行伝では最後の記述をなっているからです。神殿の門が閉ざしたという行為は、神様から遣わされた使徒を拒絶しただけでなく、神様がエルサレム神殿とユダヤ人に対して委ねられたその使命と目的に対して永遠に心を閉ざした事を象徴すると考える人もいます。その後、エルサレム神殿はローマによって破壊されてしまいます。神様から遣わされた救い主イエス様と使徒パウロを拒み、イエス様を十字架に架け、パウロを捕らえたからです。エルサレムの神殿が閉ざされても、私たちの心と教会の扉はいつも開かれていなければなりません。イエス様と言葉と語りかけに対し、また聖霊の導きに対していつも開かれていなければなりません。また、救い主イエス様を必要としている人々に開かれていなければなりません。しかし、教会に憎しみと混乱をもたらせるオオカミは閉め出しておかなければなりません。お祈りください。

 31節以降、パウロはローマに捕らえられ、二重の鎖につながれます。パウロにとって人生の危機です。しかし、パウロは怯む事はありません。主が共にいてくださることを信じ、すべてを神様の栄光のため、またキリストの福音を語る時として主が用いて下さると信じていたからです。その通り、憐れみ豊かな神様はローマ兵士たちを用いてユダヤ人からパウロを救い出し、弁明という方法でパウロ自身の信仰告白の機会を与えます。パウロが生きながらえたのは、イエス・キリストを証しするためでした。来週は、このパウロの弁明を学びます。


メルマガ#73 使徒行伝21章17節~26節

2009-11-04 21:50:11 | 聖書
 みことば:「パウロは(ヤコブと長老たちに)挨拶してから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間でなされたことを、くわしく報告した。」20章19節 岩波訳

 今週の祈祷会は、使徒行伝21章17節~26節を学びます。興味深いことに、17節から23章35節までは、約12日間の中で起こった出来事を記しますが、次の23章36節から26章までは2年というスパンの中の出来事が記されています。

 さて、エルサレムに上った使徒パウロは、エルサレム教会の長老であるヤコブを訪問し、挨拶をした後、ヤコブと他の長老たちにアジア、マケドニア、ギリシャ地方での異邦人伝道の成果を報告をします。パウロは自分の功績ではなく、自分を通して神が大いなる力をもって異邦人たちを救いへと招かれたのかという恵みを事細かにヤコブたちと分ちます。ここで注目したいのは、パウロが「私が神を信じてこういうことをした」とは言わずに、「神が私たちの働きを通してこういうことをしてくださった」という点です。榎本保郎牧師は、「主語が誰であるか。これは私たちの信仰にとって大切なことである。私たちはともすると、私が神を信じることによってこのようなことをしたと言ったり、そういうふうな信仰の状態にとどまりやすい。そうではなく、神が自分を通してなさったことを語るのでなくてはならない。」と言います。また、「大切なのは、わたしたちがどれだけ働くかということでなく、神が、キリストが、(聖霊が)、わたしたちを通してどれだけ働くかである。」と言います。大久保教会の歩みも、宣教の働きも、教会員としての働きも、神様がどれだけわたしたちを通して働いてくださるかが重要なのです。そして聖霊が私たちを通して働いて下さる為には、私たち自身が常日頃から神の御言葉、主イエス様に忠実に聞き従って行く「聴従」という信仰がなくてはならないのです。

 15章12節でパウロが初めて異邦人伝道とその成果を報告した時には、エルサレムのユダヤ人クリスチャンたちは硬直し、沈黙しましたが、今回はパウロからの報告を聞いて一同は喜んで「神をほめたたえた」と20節に記されています。15章の時は依然異邦人伝道への反発と躊躇がエルサレム教会にはありましたが、異邦人教会からの献金や祈りの業を含め、多くの異邦人たちが主イエス・キリストを救い主と信じ、神様に帰依してクリスチャンとなっていると聞いた長老たちは喜びを大いに表します。しかし、パウロたちの異邦人への宣教が豊かな実を結んだ事を妬ましく思うユダヤ人クリスチャンたちが反発し出し、デマを流し始めます。そしてヤコブたちもその反発する者たちを抑えておくことが出来ずにいました。そのデマとはパウロが異邦人たちの中にいるユダヤ人クリスチャンたちに対してモーセの律法から離れ、また子どもたちにも割礼を授けるなと言っているという根も葉もないデマでした。しかし、パウロに対して反感を持つ者たちは多くいました。時代的背景は、西暦56–57頃で、ローマ帝国に対する反感が頂点に達する時期で、またユダヤ人の愛国主義、独立主義が高まっている最中の出来事です。すべての異邦人に対して反感意識をクリスチャンであっても持っていたようで、異邦人たちへ伝道するパウロもユダヤ民族への背任行為をしていると勘違いをするのです。しかし、それはまったくの勘違いです。パウロは「ユダヤ人の中のユダヤ人」、ユダヤ人として律法を大切にする人であり、テモテにもユダヤ人の手前、割礼を受けさせる人でした。しかし、ヤコブたちはそういうデマがエルサレム教会の中にあるので、それが事実でない事を証明するために「ナジル人の誓願」を立てた4人と共にユダヤ人としての「きよめ」に与り、それらの人々の費用をすべて負担して上げなさい、そうすれば反感を持つすべての人はパウロが律法を重んじるユダヤ人だと判るからとパウロに提案をするのです。

 パウロはそこまで遜り、自己犠牲を支払う必要はありませんでしたが、あえてヤコブたちのアドバイスを受け入れました。それは第一コリント9章19節–20節にあるように「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るため」でした。私たちは、教会の中でも不条理なことを経験します。なぜ教会の中でも利用されるだけ利用され、時には嘘八百を並べられ、うわさ話が流れ、こんなにも自分は苦しみ、我慢しなければならないのかということがあります。しかし、そのような人々のために、教会のために主イエス様が十字架の道を歩まれ、私たちの罪のために死んで下さったのです。また、使徒パウロも自分に苦難が襲いかかって来ると知りつつ、あえてエルサレムへと殉教の道を歩まれるのです。すべては一人でも多くの人が罪を悔い改め、主イエス様を信じて救いに与り、神様に立ち返るためなのです。今、大久保教会は神様からのテストを受けています。この試みに勝利するためには主イエス様を見上げ、主の言葉に聴き従い、聖霊の助けと導きの中で主にある兄弟姉妹たちと共に祈りをし、礼拝と信仰生活を大久保教会で過ごすほかにはありません。一人でも多くの人を主に導くために共に祈り、主に従いましょう。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎