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大久保バプテスト教会 聖書の学び

大久保バプテスト教会で祈祷会に配信されるメルマガを掲載しています。
聖書の学びを御一緒に

メルマガ #67 使徒行伝19章23節、19章8節~20節

2009-09-16 18:07:59 | 聖書
主イエスの恵みと平安とが、あなたの上に今も豊かにありますように祈ります。

 みことば:「悪霊は彼らに答えて言った、『私はイエスを知っており、パウロのこともわかっている。しかし、お前たちは何者だ』」。19章15節 岩波訳

 使徒パウロは、アシア州エペソに約3年弱滞在し、キリストの福音を伝えます。今までの伝道旅行で最長期間です。今回は、3つのことを学びたいと思います。

 第一に、使徒パウロはいつもようにユダヤ人の会堂シナゴーグでユダヤ人と信心深い異邦人たちに神の国について、キリストの福音を3ヶ月に亘って大胆に宣べ伝えます。福音を聞いて主イエス様を信じる者が起こされますが、ある者は頑で信じようとせず、反対にキリストの福音の悪口を言い始めます。執拗な反発であったので、残念なことですが、パウロたちは会堂を出る事にしました。昨年、東京のある教会で同じ様なことが起こりました。一人の信徒の頑さ故に、牧師と大半の信徒が教会を出て、新しい教会を始める事を総会で決議し、その人ともう一人を残してバプテスト教会を出ました。周囲の教会たちは残念がりました。約2000年前、ユダヤ人たちの頑さ故に使徒パウロは弟子たちを連れて会堂を出ますが、悲観したりする必要はありません。主の備えが必ずあります。福音を伝える場所が会堂から講堂に代わったのです。公共の場に移ることによって、ユダヤ人や信心深い人たちだけでなく、すべての人々にキリストの福音を伝えるチャンスとなったのです。ピンチがチャンスとなったのです。その講堂で2年間、使徒パウロは福音を語り、聖書に「アシア州に住んでいる者は皆、ユダヤ人もギリシャ人も主の言葉を聞いた」(10節)のです。

 第二に、エペソはその地の文化としてまじないや魔術、迷信を信じていましたから、多くの霊能者や魔術師や占い師がいました。しかし、そのような中で「神様はパウロの手によって並々ならぬ力ある業を行なわれた」と11節にあります。口語訳では「異常な力ある業を次々に」とあります。パウロが身につけていた手ぬぐいやエプロンを病人に当てると、病気が去り、悪霊が出て行ったとあります。エペソの人々は神様の偉大なる力に圧倒され、イエス様を信じるようになります。長血の女性がイエス様のうしろからみ衣を触って癒されました(マルコ5:27以降)。多くの病人たちも「せめてその上着のふさにでも触られて」くださいとイエス様に頼み、そして触った者はみな癒され」ました(マルコ6:56)。日本でも占いや迷信、魔術を信じている人、それらに寄りすがろうという人が多くいます。その人たちのために、わたしたちは主イエス様のみ衣のふさ、パウロの手ぬぐい、エプロンにさせていただきませんか。私たちを通して、一人でも多くの方が神様の愛を受け、イエス様を救い主と信じるように、また私たちを通して主イエス様が崇められるように、主の道具となりましょう。主の御声に聞き従いたいと願います。

 第三に、神様の力に圧倒された人々の中に、ユダヤ人霊能者たちが数名いました。ユダヤ人祭司の息子7人もいたそうです。彼らは、使徒パウロが主イエスの名によって人々を癒し、人々から悪霊を追い出しているのを見て、試しに悪霊に憑かれている人から悪霊を追い出そうとして「パウロが宣べ伝えているイエスによって命じる」と唱えます。その言葉に対して悪霊が「私はイエスを知っており、パウロのことも判っている。しかし、お前たちは何者だ」と言って彼らに襲いかかります。「イエスの名によって」私たちは祈ります。しかし、この言葉はまじないの言葉ではなく、妄りに唱えるものではないのです。主イエス・キリストを救い主と信じる者にしか与えられていない神様へのアクセスの言葉なのです。妄りに唱えるとどういう事が起こるか、悪霊に「お前は何者か」と聞かれ、そして16節にありますが、彼らは裸にされ、自分の家から逃げ出すはめになる、つまり大きな恥をかくことになるのです。悪霊は、イエス様が神の子であり、力あるお方であると知っています。悪霊は、使徒パウロも誰だか判っています。さて、悪霊は、私たちを知っているでしょうか。主イエス様をキリストと信じている者を悪霊はすぐに識別できます。もし、私たちがクリスチャンとして主と共に生きているならば、悪霊は直ぐに判るのです。しかし、私たちがクリスチャンとして歩んでいない時に、悪霊は「お前は何者だ」と言い、私たちを、あなたを辱めるのです。今日も、主に信頼し、主の御名によって歩ませていただきましょう。ヤコブ2:14-20をお読みください。

 神様の御力を「おもちゃ」にしないように気を付けましょう。悔い改めて、私たちの心の中にある自分の力に頼ろうとする思いを捨て去り、主に従いましょう。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ #66 使徒行伝18章23節、19章1節~7節

2009-09-09 17:59:29 | 聖書
 主イエスの恵みと平安とが、あなたの上に今も豊かにありますように祈ります。

 みことば:「さて、アポロがコリントにいた時、パウロは奥地を通ってエフェソにくだって来た。そして、幾人かの弟子たちに出会い、彼らに言った、『信仰に入った時、聖霊を受けたのですか』。彼らは彼に言った、『聖霊のあることなど聞いたことさせありません』」。19章1~2節 岩波訳

 ここから使徒パウロたちの第三回伝道旅行が始まります。パウロは、先の二回の伝道旅行時にクリスチャンになったガラテヤやフルギヤ地方の兄弟姉妹とその教会を再訪して力づけます。パウロはどのように教会を力づけたのでしょうか。聖書には記されていませんが、いっしょに礼拝をささげ、御言葉に聴き、共に祈り、イエスがキリスト、主であると告白し、主によって約束された希望を確認し合ったのだと思います。現実だけに目を注げば、心が騒ぎ、希望を見出せない状況に陥ります。しかし、「神の御旨」を現実のみに見出すことはできません。いつも主の御言葉に聴き、祈らなくてはなりません。各自、神様からのラブレターである聖書を読む時間と神様と個人的に会話する時間を確保しましょう。ディボーションです。ディボートという動詞は、教会では「神様に自分の時間と心をささげる/充てる」という意味です。また、神様とのコミュニケーションに「専念する」という意味があります。礼拝、祈り、ささげもの、奉仕、交わりなど信仰生活に必要ですが、ディボーション(神への深い愛情、忠誠、忠実)も信仰の成長には大切なのです。
 さて、主の僕アポロについて先週学びました。彼は、旧約の預言に基づいてイエスがキリスト、メシヤであることを論証する特別な才能と情熱を持っていましたが、「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」、すなわち、アポロがいかに聖書に精通し雄弁であったとしても、それは人間の力において福音を伝えていたという事であって、神の力がまだ注がれていなかったことを先週述べました。バプテスマのヨハネのバプテスマは悔い改めのバプテスマ、過去の罪からの解放です。しかし、聖霊のバプテスマは、これからクリスチャンとして生かされてゆくための神の霊、御力の注ぎだと信じます。聖霊の導きと励ましと助けなくしては、私たちはクリスチャンとして主イエスの十字架と復活の証人として生きてゆくことはできないのです。

 過去の罪から解放されることは重要であり、確かに救いです。しかし、私たちの悩み苦しみの原因は、今をどのように生き、これからの人生を何の目的をもって生きてゆくべきかが判らなくなることです。しかし、イエス・キリストを救い主と信じた時に聖霊が私たちの心に宿り、主の御旨を慕い求める思いを起こし、聖書の御言葉を通して人生の目的、何を成して生きてゆくべきかを明確に教えて下さるのです。一歩一歩、私たちにクリスチャンとして歩む力を聖霊が与え、歩むべき道を聖霊が示し、導いて下さるのです。過去と現在と未来の苦しみから解放されるのです。
 今日、神様は私たちに問うておられます。「あなたは聖霊を受けているか」と。大久保教会がキリストのからだとして建て上げられるためにまず私たちに必要なのは、聖霊なのです。聖霊の導きと助けなしに教会の一致、形成、成長、実を結ぶことはないのです。エペソにてアポロを通してイエス・キリストの救いを信じた12人が、イエスの名によってバプテスマを受けました。パウロが彼らに両手を置くと、聖霊が彼らの上に降り、新しい力が注がれます。主イエス・キリストの十字架と復活を証しする力、また主と教会に仕える力を受けたのです。あなたは聖霊を受けていますか。あなたは神様の力によって生かされていますか。それとも自分の力で生きようとしていますか。私たちには神様の息、聖霊が必要ですから、どうぞイエス様を信じ、聖霊を求めて下さい。そうすれば、過去のしがらみから解放され、新しい人生の目的とその使命に生きる力が神様から与えられます。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎



メルマガ#65 使徒行伝18章24節~28節

2009-09-02 17:58:35 | 聖書
 みことば:「ところで、アレクサンドリア生まれのアポロというユダヤ人が、エフェソにやって来た。この人は雄弁家で、聖書に強かった。」18章24節 岩波訳

 ここにアポロという主の働き手が彗星のごとく登場します。彼はエジプト生まれのユダヤ人でしたが、神様によってクリスチャンとせられ、キリストの福音を伝える者として立てられました。アポロについては、コリント第一の手紙1:12,3:4-9,22,4:6,16:12にも記されています。パウロもアポロを引き合いに出しますので、「アポロはパウロの良きライバル」と取り上げられますが、そんなことはありません。教会に派閥などありません。主イエス様が中心です。ペテロもパウロもアポロも主のために働く同労者です。16:12では、アポロを「兄弟」とパウロは呼んでいます。すべては全世界にキリストの福音が伝えられるためです。私たち教会員が、主にあって同じ目的を持つ時、心は一つにされ、同じ方向へ前進し、教会の成長と実りがあります。

 アポロがどのような経緯でクリスチャンになったのかは記されていませんが、大切なのは、彼は聖書に強かったということ、つまり深い聖書の学識を持っていたということと、キリストを伝えることに情熱を注いでいたということです。彼は、旧約の預言に基づいて、イエス・キリストがメシヤであることを論証する特別な才能を持っていました。しかし、アポロは、「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」という事実が記されています。イエスの名によるバプテスマではなく、バプテスマのヨハネによるバプテスマ。つまりアポロは「悔い改めのバプテスマ」を受けたけれど、イエスの名によって聖霊のバプテスマ」を受けていなかったということです。使徒行伝をずっと学んできましたが、イエス様の名によってバプテスマを受けたすべての人に聖霊が注がれましたが、アポロが受けていないとはどういうことなのか。

 つまり、いかにアポロが聖書に精通し雄弁であったとしても、それは人間の力において福音を伝えていたという事であって、神の力がまだ注がれていなかったということです。私たちも自分はクリスチャンであると告白したり、神様の愛を証しをすることは自分の思いや力だけでできます。しかし、聖霊という神が共にいて下さらなければ継続的には告白し続けることはできないのです。聖霊という神の息が吹き込まれていないと、いつか息切れを起こしてし、息絶えてしまうのです。ですから、聖霊を求めましょう。聖霊によるバプテスマとは、自力で生きることではなく、神の生命によって新しく生かされていくことなのです。

 さて、アポロには聖書の学識、イエス様の言葉の知識はありましたが、アクラとプリスキラはアポロに欠けているものがあると彼の話しを聞いて感じました。ですから、アポロを自宅に招き、彼に神の道をさらにくわしく説き聞かせたと26節にあります。何がアポロに足りなかったのでしょう。記されていませんが、私は28節の御言葉を通して次のように考えます。1)神の愛、キリストの福音は、ユダヤ人だけでなく異邦人にも与えられている。2)律法によって救われるのではなく、神の無償の愛、恵みによって救われるということです。私たちは、ただ神様の愛と憐れみによって救われたのであって、私たちの努力、行いによるのではないのです。感謝ですね。

 週の後半の歩みも、主が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎


メルマガ#64 使徒行伝18章18節~22節

2009-08-12 17:31:27 | 聖書
 みことば:「パウロは、ケンクレアイで髪の毛を剃り落とした。誓願を立てていたからである。」18章18節 岩波訳

 今回の箇所で、使徒パウロの第二回目の伝道旅行が終わります。総督ガリオの法廷後もコリントにしばらく滞在したパウロは、コリント教会の兄弟姉妹に別れを告げ、アクラ夫妻と共にシリア州に向かいます。なぜコリントでの宣教活動を終え、シリア州に向かったのかという理由は記されていませんが、パウロが立てた誓願と何らかの関係があるのかもしれません。パウロはコリントを去る前にケンクレヤという港町で「ある誓願を立てていたので頭を剃った」とあります。

 興味のある方はどうぞ民数記6:1-21をお読みください。そこに「ナジル人の誓願」というものがあります。「ナジル人」とはイスラエルの民の中から特別に聖別された人のことで、生涯に亘って主のために献身をしたナジル人の良い例としてサムソンやバプテスマのヨハネなどがいます。誓願の期間は最短30日から一生涯と様々ですが、期間中はぶどう酒や強い酒を断ち、頭髪を切ることをせず、死体には近づいてはなりませんでした。

 それでは使徒パウロの誓願とはいったい何であったのでしょうか。それは「だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない」という10節の主の約束がコリントでの伝道期間中守られると信じる誓願であったようです。主イエス様は幻の中で「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない」とパウロに約束なさいました。その約束を信じ、パウロはひたすら頑張ってきたのです。18ヶ月にわたるコリント滞在期間、主が約束を厳守してくださったという感謝のしるしとして「頭を剃った」のです。「頭を剃る」という行為は、満願の際に神に対して感謝を表し、引き続き神の祝福を求めるというものです。

 中川昭一という自民党の政治家は、大臣在職時に酒に酔ったまま記者会見をし、その後その職を追われた人ですが、今回の衆議院選で再選を果たすために酒断ちを宣言したそうです。再選できるまでの願掛け、実に利己主義的な誓願です。

 牧師からのお願いです。ガラテヤ4章19節の御言葉に聴き、ご一緒に大久保教会が真のキリストのからだなる教会となる時まで、産みの苦しみを共に負っていただけないでしょうか。大久保教会は、信仰の上に忍耐が必要であり、御言葉への聴従と熱心な祈りが必要な過渡期の混乱の中にあります。「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る」という詩篇126篇5節にあるように、共に祈りつつ、共に福音の種まきをしていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。

 パウロは、この伝道旅行初期に向かいたかったアシア地方エペソに到着し、そこで短期間キリストの福音を宣べ伝えます。エペソの人々はもっと長期にわたって滞在し、キリストについて教えてほしいと懇願しましたが、パウロは「神の御心なら、またあなたがたの所に帰ってこよう」と言ってエペソを後にします。パウロはなぜ急いでいたのでしょうか。エルサレムでの「過ぎ越しの祭り」に間に合うように急いだとの説もあります。私たちも御言葉に聴き、自分の思いではなく神の御心、主イエス様のご命令に従って歩みましょう。その時に、私たちの教会の成長と成果があるのです。神の御旨を第一にする時、私たちの祈りは必ず応えられるのです。
 パウロは異邦人へ伝道するために「異邦人のようになった」のですが、一方ではユダヤ人であることを大切にし、ユダヤ人として主の御旨どおりに生きました。私たちもクリスチャンであること、クリスチャンとされている恵みを大切にしつつ、隣人に証ししてゆきましょう。
 使徒パウロはその後カイザリヤに着き、エルサレムに上って、エルサレム教会に挨拶をした後、彼を送りだしたアンテオケ教会に戻ります。何と次ぎの23節から第三回目の伝道旅行が始まります。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ#63 使徒行伝18章12節~17節

2009-08-05 17:19:44 | 聖書
 みことば:「ガリオがアカイア州の総督であった時、ユダヤ人たちは一致して、パウロに反対して立ち上がり、彼を法廷に引き立てて行った。」18章12節 岩波訳

 今回の箇所は、使徒パウロの生涯の年代付けを推定する唯一の手掛かりとなる箇所です。ガリオがアカイア州の総督であったのは、実在する歴史的資料によって西暦51年から西暦52年でありましたから、パウロはこの年の前後18ヶ月にわたってコリントに滞在していたことが判ります。この箇所からパウロの生涯の年代付けが逆算、計算されてゆきました。

 さて、パウロは18ヶ月にわたってコリント滞在します。諸教会の祈りと経済的な支え、またテモテとシラスによるサポート、アクラ夫妻の協力などを受けて、パウロは懸命にイエス・キリストこそメシヤであるとユダヤ人たちの会堂でひたすら証言し続けました。その中で、会堂司のクリスポとその家族、また多くのコリント人が福音を聞いて信じ、ぞくぞくとバプテスマを受けました。しかし、キリスト教に対する反抗も次第にエスカレートしてゆきます。その拒絶する力が大きくなる中で、パウロは幻の中で主イエスの声を聞きます。「恐れるな。語り続けよ。沈黙するな。私はお前と共にいる。だから、お前を襲ってお前を害する者はない。この町には、私の民が大勢いるのだから。」(9-10節) この言葉がその後のパウロの宣教活動に大きな力を与えます。私たちもよく目の前の人たちを見て恐れます。しかし、主イエス様が「あなたと共にいる」と私たちに約束し、励まして下さいます。日常生活の中で、何か尻込みしそうになる時、何か気が進まないという時にはまずお祈りをして、聖霊の助けを求め、主が共にいて下さるという約束を思い出しましょう。

 アカイヤ州コリントの総督ガリオに対し、ユダヤ教徒たちはパウロが「律法に反する仕方で神を拝するようにと、人々を誘惑している」と訴えます。ここで「律法」と訳されるギリシャ語は、ローマの「法律」をも意味していますので、ユダヤ教徒たちはパウロの宣教内容がユダヤの律法だけでなく、ローマの法律にも違反すると訴えたかったのです。しかし、総督はパウロの宣教内容の問題は、あくまでユダヤ教の「律法」に関する言葉や名称や考えであって、我々には何ら関係ないと退け、ユダヤ教とキリスト教の「内輪もめ」は自分たちで解決しろと命じます。また、宗教と政治は相見えないという政教分離の考えが反映されているように思えます。ルカは、ローマがキリスト教に対して中立、公平であることを私たちに訴えようとしています。私たちも宗教と政治を混合してはなりませんが、クリスチャンとしての声を世に発し、キリスト教会としての告白を立ててゆく必要があると思います。唯一の被爆国として、核兵器廃絶と世界平和のためにまず祈り、そして神がイエス・キリストを通して人類の救いと平和を望んでおられるという福音を伝えてゆく使命があると思います。

 今回は、総督ガリオがパウロより先に口を開き、ユダヤ教とキリスト教の問題は双方で解決せよとその場をおさめましたが、「パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人たちに言った」とあるように、パウロにもちゃんと答弁する準備はできていました。私たちにも「イエスはわたしの主なり」と証しする心の準備がいつもできているでしょうか。いつでも証し出来るように祈りつつ準備をしておきましょう。そうでないと、証しの絶好のチャンスをいつも逃してしまうでしょう。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎