丘駄郎の笑いコミュニケーション工学

丘ちゃんの笑い人生哲学、現代の全ての問題は対話不全にある、を語る

長崎の日にヒロシマも想う

2005-08-09 10:23:19 | Weblog
05・7・23 日本笑い学会全国大会@広島、記念講演
  講談:旭道南北「ある木の物語(はなし)」を聴いて

ヒロシマ:
 「髪の毛全部切るぞー、とカミキリムシをもった男の子に言われたミーちゃんは、いいよー、全部あげる!と応えた」
 南北さんの語りに、数ヶ月前から乾き目に悩む私でも、汗で半乾きのハンカチを出して拭った。見るとハンカチには目ヤニがついていて、今朝も洗顔を忘れたのに気付いた。あの目医者さんに、きれいにしないからだ、、、と言われたのを思い出した。
 「ココハ、オ国ヲ何百里、離レテトオキ満州ノ、、、、」
 小2の時亡くなった祖母は私の子守唄にいつもこれを歌っていた。祖母に手を引かれ、体中にDDTをかけられて佐世保に上陸した。母の実家の村ではヒキアゲ、と大人にも嫌がらせを受けた。満州から帰った隣家の一つ年上の子と私は、悪がきどもの作った落とし穴の上を通れ、と脅され、気がついたときは、ハザにほほ杖をついて我々を見ている十数人と対峙していた。
 「いつもと同じ静かな朝、いつもと同じよ、、、」
 太陽の何万倍も強いあの灼熱は、そのいつもと同じ静けさを全部地獄に変えた。南北さんは地獄をたんたんと語った。
 「ミーちゃん、アンタ、ミコちゃんでしょ、、、だんだん弱くなる母親の声、、日が高くなり、、赤ん坊が大声で、でも母親はついに応えなかった、、夕方、ミーちゃんはテントの中で泣いていた、」
 ミーちゃんの思い切り高い泣き声、おなかすいた、、助けて、、に応えてくれる人がいたんだ。私はホッとした。でも、小学生になるまでのミーちゃんは、どんなに辛い、悔しい、こわい、悲しい思いをしたことか。
 母は、よく私をおぶって空襲警報の下、防空壕に駆け込んだという。この話は憶えていないが、枕に耳をつけて寝ると、なぜか飛行機やトラックに追っかけられる夢を戦後十年ほど必ず見た。
 ピカドンを運んできたのは誰だ。運ばせる元を作ったのは誰だ。だいたい戦争なんて、誰が、なんで始めたんだよ?まてよ、あの悪がきどもと対峙した時、私はそんなことは考えもしなかった。
 誰も止められはしなかったんだ。その前なら止められた?そのもっと前では?だれもそんなこと気付きもしなかった。でも、今は気付いた。戦争が「いつもと同じ生活を吹き飛ばし、愛する子らの阿鼻叫喚をつくる」ことを。それに手を貸すようなことはノーだ。
 年のせいか、何時来るか分からないお釈迦様のお迎えを意識するようになった。加えて、仙台のクリスロードでのTさんの死や、JR事故で亡くなった人たち、あまりの理不尽さにあの時は泣けなかった。その代わり、自分にお迎えが
来たら身軽にいける様に、その準備はこれまで以上に急いでいる。私の写真は1イベントにつき1枚でいい。
 南北さんの亡くなられた身内への静かな思いとミーちゃんの語りは、写真やTV画面のはるか向こうにある地獄に思いを駆け巡らせた。
 全て人災だ。
ミーちゃんはあの日をもたらした者にうらみつらみを健気にも一言も言わなかった。ミーちゃんの胸の内を思うと私の胸も腹もきりきり痛む。だが、重火器や軍隊で人の信頼が得られるはずもなく、恨み、テロ、敵討ちは相手の憎悪を倍増するだけだ。
 「全部あげるー」
 即座に応えたミーちゃんは、すでにお釈迦様を正面から観ていたのではないか。だからこそ、男の子を慈しみ、寛大になれたのだ。それだけではない。微笑んでいたのだ。だから
「尼さんになるのは嫌やー」
と男の子のこころを動かしたのだ。
 ミーちゃんの微笑みながら歩を進める後姿が今も瞼に残る。