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がんばれナラの木

震災にあわれた東北地方の皆様を力づけたくて
The Oak Treeを地方ことばに訳すことを始めました

オリンピック

2011年04月01日 | エッセー
9月8日 テレビをつけるとオリンピック招致が東京に決まったといい、大喜びする人の映像が紹介されていました。

 私はまったくうれしくない。よせばいいのにと思う。思いはたくさんあるが、少しだけ書いておきたい。
 ひとつは世界にこれだけたくさんの国があるのに同じ国が何度も開催するのはフェアでないし、ましてや同
じ都市が二度も開催するのはよくないと思うから。日本で開催するにしてもほかの都市のほうがよいということ。

 もうひとつは放射能汚染水の懸念についての質問に対する阿部首相の説明。「私が大丈夫と約束します」という心情を示しても何の意味もない。具体的に何をもって安全というのか。現実にはいまでも大量の汚染水が流れ出ている。あと7年もあれば汚染水はさらに流失するだろうし、タンクの貯蔵量はさらに膨大となり、3.11で地殻変動が起きて、関東での大地震が起きる確率は格段に高まっている。むこう7年のあいだに汚染水タンクに不測のことが起きる確率は小さくない。
 震災関連でいえば、この国がまずなすべきはお祭り騒ぎではなく、地道なフクシマの復興であろう。そのためにはあの震災の分析と責任の所在と被災者の生活安定など急務が山積しているのに、2年半経ってほとんど進んでいない。そのことを忘れてお祭り騒ぎに浮かれるのは、阿部首相のいう「美しい日本」の国民がすることではないと思う。
 具体的なデータも証拠も示さないで「大丈夫」とか「万全を尽くします」といった主観的なことばを並べて言いくるめる「技術」をもつ政治家はあやしい。私は阿部首相はスピーチがうまいし、なかなかにスマイルもいいと思う。だが、そうであればあるほど私には空虚さを感じる。彼は原発事故の直後に原因分析もなく、事故が進行中であるそのさなかに原発技術を海外に売り込んでいる人である。これほどの矛盾をニコニコしながら言いくるめてしまう技術はたいしたものである。現在の汚染水問題の深刻さをよそに、「まったく問題ない」という。しかも「過去も現在も将来も」である。私は過去も、現在も大問題があると思うし、将来については何もいえないことは自明である。私はこの「成功」が阿部政権に過信をもたせ、さらに加速することを懸念する。

 そういうこともあるが、私が深いところで思うことはもっと別のところにある。それは戦後、経済復興という名のもとに日本列島を汚染し、水俣に代表される多くの人の人生を破壊し、動植物をいためつけてきた社会が、そのことに反省することもないことである。私にいわせれば、「右肩あがり」を当然よいこととしてきたことを、いいかげんにやめようよということである。1964年はそういう時代であり、あの時点での東京オリンピックは必要でもあったかもしれない。しかしあの「勢い」が日本の社会にいかに無理を強いてきたか。その結果、人は心を失い、社会は閉塞してしまった。それが「右肩あがりこそよし」とするあいかわらずの盲信によるのだということに、そろそろ気づいてもよいではないか。
 しかし巷は気づくどころか、はしゃぎかえっている。オリンピック開催することの、何がうれしいのだろうか。私は選手が全力を出してフェアプレーすれば満足で、日本がたくさんメダルをとって欲しいとは思わないし、現実にも中国が独占するであろう。では何がうれしいのか。

 私はヨーロッパ経験はほとんどないが、ハンガリーの小さな町に行ったことがある。美しい自然のなかに、落ち着いたたたずまいの家が集まった町があり、町の中心に教会があり、孫をのせた乳母車をゆっくりと押しながら歩くおばあさんが満ち足りた表情をしていた。そこには浮ついたものはまったくなかった。



 私は東京という都市について思う。新宿の駅での乗り換えのアナウンス、20くらいの路線が紹介されるのではなかろうか。はりめぐらされた地下鉄の複雑なつながり、電車の中で会話もなくスマホに向かい合う乗客。これは大袈裟でなく、「人類史の中で人のすむ環境がここまで来てしまった」という異様な姿だと思う。その都市が「もっと経済効果を期待して」オリンピックをしたいのだそうだ。私は外国からのお客さんにこういうグロテスクな町を見てもらいたくない気持ちのほうが強い。



 中学生のときに東京オリンピックを体験し、それから半世紀生きてきて、老人になり、私自身はくたびれてしまいました。「発展」はもういい。私は静かに家族に向き合い、浮かれることなく自然を眺めていたいと思います。
 

責任

2011年04月01日 | エッセー
検察は東日本大震災について、だれにも責任がないとしたそうです。これほどばかげた結論があるでしょうか。

 梅棹忠夫先生が亡くなり、東京でも展示があったので見て来ました。早春のことだったと思います。たいへんすぐれた学者で、民族学の大家で「文明の生態史観」や「知的生産の技術」などベストセラーライターでもありますが、若い頃は動物学者でした。内容もさることながら、わかりやすい文章が魅力的でした。この人の超人的なのは、失明してからも、たくさんの本を書いたことです。それも内容の濃いものを量産しつづけました。
 戦後、みんながうつむき、自信をなくし、伝統的日本を恥じていたとき、ひとり梅棹は明るい日本の将来を夢見ていたそうです。事実日本はそのようになり、梅棹は大学、研究という枠を超えて、マスコミにも政治経済にも軽々とスラロームして、実に見事な一生を送りました。
 その梅棹は司馬遼太郎とも親交がありました。司馬を追悼した本がたくさん出ましたが、そのなかに梅棹へのインタビューがあります。

 お二人がおっしゃっていた、日本人が失った志とはどういうものでしょうか。
梅棹:カッコのええ言葉でいえば、理想主義ということでしょう。自分を超えた、民族としての、あるいは人間としての共通の理想みたいなもの、これがあったと思うんですよ。明治の日本には明らかにそういうものがあった。それが個人化した。個人の利殖、栄達が人生の目標になってきた。それはたしかに大事ですが、そうでないものが日本にはあったはずなんです。私個人としても悲観的に傾いている。二十一世紀の中頃には日本はだめになるやろなあと。

 私はこの梅棹のことばの中の「私個人としても」という一言に注目します。周りのみんなが悲嘆にくれているときでも明るい笑顔で「日本は大丈夫やで」と言い続けた梅棹が「その私もさすがに」という意味で言ったように思えます。この人は論理の塊のようで、直感力もすごい人でした。大学者である梅棹のこのことばは、悲しいけども当たるような気がする。明治の政治家であれば、世界に迷惑をかければ頭を下げて詫びたであろうし、技術者であれば、自分のミスで事故が起きれば私がまちがっていましたと詫びたと思います。東京に大きな地震が来ることを懸念して防災の講演をしていた助教授を、社会不安をあおるからとして押さえつけた教授が、実際に関東大震災が起きたあと、自責のあまり、精神を病み、急逝したそうです。一人一人が自分の人生を社会との関連で考え、社会共通の理想に貢献しようとしたからだと思います。そのかけらすらない、私利保身に生きる輩が社会を動かし、都合が悪くなれば自分には責任はないという。本人が保身のためにそういうのも気に入らないが、法の番人である検察がこれでは、存在意味がありません。
 こんな社会に明るい未来などあるはずがない。司馬にも、梅棹にも、会わせる顔がない。

チェルノブイリ原発事故報告書

2011年04月01日 | エッセー
 
 1979年にアメリカのスリーマイル島(レベル5)で、そして1986年にチエルノブイリで原発事故(レベル7)が起きたにもかかわらず、日本でその設置が見直されることはなかった。原発に反対しつづけた立派な科学者もおられたが、多くの国民は無批判であった。
 事故が起きてみれば原発ほど高くつくものはないことが、あまりにも無惨な形で示された。しかし経済だけであれば、あるいは回復できるかもしれない。しかし放射能に汚染された国土、そこに生きる動植物への影響は決して消し去ることができない。もちろん人間への健康被害も底知れない恐ろしさがある。
 チェルノブイリ原発が起きたのは旧ソ連時代である。最近訳された報告書(ヤブロコフら、2013)によると、事故前後の住民の健康は激変し、たとえば肺がんあるいは胃がん診断時からの生存期間は事故前は38から62ヶ月(3年から6年ほど)であったが、事故後は2ヶ月から7ヶ月になったし、子供の甲状腺腫症例は事故前にはまったくなかったが、事故後には千人あたり12から13例に増加し、生後7日までの新生児罹病率は6倍ほど増加した。ウクライナにおける先天性奇形率の例数も事故前には年に5件未満であったが、事故後には十数例から多い年には30例以上に増加した。そして健康な子供が80%以上いたのに、事故後は20%もいなくなったという。私たちはこれらの事実に戦慄しないではいられない。
 私たちは、旧ソ連において、原発事故後3年間、当局によって情報の機密厳守命令が下され、データの改ざんがおこなわれたにもかかわらず、それらの資料を慎重に、根気づよく掘り起こし、誠意を込めて公表したロシアの研究者たちの勇気を称え、感謝しなければならない。報告書の序論を書いたネステレンコたちはいう。
 「チェルノブイリに由来する放射線の悲惨な影響にはがんと脳の損傷、とりわけ子宮内での発育期間中に被る脳の損傷がある」と。
 私たちは報告書の日本語版へのあとがきを書いたヤブロコフたちの真剣なアドバイスに今こそ本気で耳を傾けるべきである。
 「このような悲劇を二度とくり返さないためにも、勤勉で才知あふれる日本国民が、危険きわまりない原子力エネルギーの利用をやめ、自然がみなさまのすばらしい国に与えた枯渇することのない地熱や海洋のエネルギーを発言のために利用することを願っている」。
 それは、ごくごく素朴に考えて、自分たちの子供や孫の健康のために。また経済だけを考えても、まったく合理性がないから。そして何より、地球に生きる者として、地球とそこにすむ動植物にこれ以上の迷惑をかけてはならないからである。社会も歴史も政治体制も違うロシアの科学者は、そのような壁を乗り越えて、ヒトという同じ種が地球に生きるために最低限なすべきこと、してはならないことを痛切に訴えている。これに耳を傾けないようでは、人類としての汚点を永遠に残すことになるであろう。

追記:私はレベル7と聞いたときには説明があって認識もしたのだろうが、その後忘れていたのか、原発事故のレベルは10まであって、その7番目くらいに思っていた。ところがレベル7は最も高いレベルで「深刻」とされていることを改めて知った。これ以上の危険はないということだ。


最低限の誠意

2011年04月01日 | エッセー
あれだけ暑かった夏が過ぎ、肌寒いと感じることもある季節になりました。まことに我が国は季節の明瞭な国です。そして雨のよく降る国です。今年はとくに伊豆大島が大被害を受け、犠牲者も出てしまいました。規模の程度は違っても各地でたいへんなことが起きました。過去数年を遡って被害地を地図上の落とせば、列島すべてが被災地で被われるはずです。東日本大震災は1000年に一度のレベルだったかもしれませんが、台風は毎年のことです。その常襲的な台風に対してさえ、福島第一原発は対応できていません。そして金魚すくいでもするような子供だましな工事をしては、汚染水が漏れてしまったなどといています。グランドデザインも科学的な予測もなく、場当たりな対応をするばかりです。
 にもかかわらず阿部首相はまったく同じ「0.3平方キロの範囲内にコントロールされています」と繰り返しています。コントロールなどされていないのは明白です。
 一体この人は自分のことばの責任ということについてどういう倫理観をもっているのでしょうか。百歩譲ってオリンピック誘致に成功した段階で状況が十分に把握できなかったために、無知による強気発言をしたとしましょう。そうであっても、その後の大雨でこれはコントロールはむずかしいとなったとわかったとき、ふつうの倫理観をもつ人であれば、「あのように言ってしまったけど、状況は予想よりもきびしく、コントロールできるとはいえないので、こういう対策をとって最小限に抑える。ご理解をお願いしたい。」というはずです。現実として大きい台風が来るなり、地震が来るなりして、完全にコントロールできなくなったとき、謙虚に説明しておけば批判はあったとしても、そのトーンはかなり違うはずです。
 自然の猛威は人智をはるかにこえたものであることは常識のある人間なら知っています。それを想定した上で最善を尽くす人や社会に理解を示し、支援をしようとするはずです。具体的な対策も示さないで、根拠もなく「大丈夫」と強弁を続ける人を信用しないのは当然のことです。
 あろうことか、彼はトルコで原発の売り込みをしているのだそうです。言うにこと欠いて、という言葉がありますが、我が国のリーダーのすることはその常識を遥かに超えています。
 人として最低限の誠意があるはずです。震災によって原発事故が起き、人生を破壊された人が何万人もおられ、復興の見通しもつかず、常習的な台風にさえ対応ができない、こういう状況を抱えながら、にこやかに「原発はよろしおまっせ」と売り込む人を世界の誰が信用するでしょうか。

楽天ありがとう!

2011年04月01日 | エッセー
 昨夜(2113年11月3日)はテレビに釘付け、最後のシーンでは涙が出そうになりました。
 時間は昭和44年に遡りました。私はその年、仙台に行き、東北大学でラグビー部に入りました。夏の合宿で栗駒山という山の麓にある花山村というところに行きました。その道中です。貸し切りバスの中でラジオの実況放送が流れていました。甲子園野球の決勝戦で、あの太田投手を擁する三沢高校が、ほとんど勝ちそうな試合でした。いい試合でしたから、私も聞き入っていましたが、ちょっと雰囲気に違和感がありました。異様な高揚感がありました。バスが宿につくと、部員はテレビを見ようとバスから雪崩落ちるように降りました。結局引き分けました。
 そのときまで、私は東北地方が優勝したことがないことを知りませんでした。そのことがどういう気持ちであるかということも、よくわかっていませんでした。仙台に長く住んで、少しずつわかってきたのは、東北地方がつねに東京に対して抱くビハインド感です。言葉ひとつをとりあげても、方言はたくさんあるのに、東北弁だけが汚いとか、何をいっているかわからないといわれ、物笑いになります。そのことは江戸時代以前にもあったかもしれませんが、明らかに明治以降に強くなりました。「八重の桜」はそのことをある程度描いています。その後、政策も人事もあからさまな差別がおこなわれてきました。
 そうした鬱屈を理解することなしに、昨夜の感動は理解しきれないように思います。少なくとも私は仙台に四半世紀を過ごすことなしにそのことはできなかったと感じます。これで、たとえば震災の復興問題がどれほど解決したかはわかりませんが、東北人の心情としては幾ばくかの溜飲を下げたと思います。
 

福島のイノシシの食べ物

2011年04月01日 | エッセー
私は福島の被曝地のイノシシの食性を分析することになりました。なぜそういうことになったかというと、私にとって3.11は人生観を変えるほどの大きなことでした。仙台で十代の終わりから40代までを過ごし、調査地が海岸部だったので、そこが被害を受けたということの衝撃、自分が結果として無批判に原発建設を容認してしまっていたことへの後悔、この国が災害列島であることを知りながらそれを浅知恵で「自然を押さえ込もう」としてきたわれわれ世代の自然観への反省、そういうことが背景にあり、この問題に対してなんとか役立ちたいという強い気持ちがありました。そのひとつとして、このブログはその気持ちからおこなっているものですが、一人の市民としてのささやかな活動です。しかし研究者として何かできないかという気持ちもありました。昨年、職場の麻布大学で日本哺乳類学会を開催し、そのときに福島県の獣医さんで溝口先生という方が発表されました。そのときに私で役立てることがあったら声をかけてくださいといっていました。溝口先生はすばらしい研究や保護活動をしてこられましたが、さまざまなことを考えた末、イノシシについて詳細な調査をすることにし、その中に胃内容物の分析も入れておられて、私のことを覚えておられたようで、声をかけてもらいました。
 フクシマ問題は被害問題としてとらえられています。もちろん私は東京電力という犯罪組織が断罪されなければならないと思っています。被害者である福島県の人々に強く同情をします。しかし、先月出版した「動物を守りたい君へ」のなかにも書きましたが、この問題を空の上からながめ、冷静に客観視したとき、加害者は東電だけではなく、私たち日本社会全体であり、日本列島とそこにすむ動植物が被害者なのだということに気づきます。
 私は具体的にはイノシシの食べ物を調べるという作業から分析をしますが、なぜこういう食性をもっているかということから、読み取れることがあります。そのことを通じて、イノシシになりかわって、今の福島県の土地で起きていることの意味を伝えること、それが私のミッションだと思います。

原発さえなければ 2014年を迎えて

2011年04月01日 | エッセー
新しい年を迎えましたが、どうも「やるぞ」というような新年のやる気が起きません。それはどこから来るかといえば、何と言っても復興があまりにも遅いこと、政府は原発周辺に戻れないと決めたらしいことがわかってしまったこと、要するに口だけで、本気には復興に身を入れていない空気があることのように感じます。3年といえば私たち老人にはあっと言う間ですが、小学3年生が中学生になり、1歳の赤ちゃんが幼稚園に行くほどの重大な長さの時間です。子供たちの体や心にこの1000日が与えた影響が心配です。年末の特集番組で避難所から出なければならない老人のことをとりあげていました。避難所での生活は、つらいとはいうものの、同じつらさを共有できる人が暮らしていたという安心感があったのに、これからは一人でアパートに暮らさないといけない。そのおばあさんが明るくふるまうほどに、心にあるつらさが伝わってきました。
「原発さえなければ」
思わずもれた言葉が胸につきささりました。原発事故さえなければ、先祖代々の土地で家族に囲まれてのどかな毎日を続けることができたのに、何も悪いことをしていないのに、それができなくなったという理不尽さです。

 アメリカの歴史を特集した番組がありました。どういう歴史家の作品かと思っていましたが、オリバー・ストーンという映画監督だそうです。あれを見ると、国家というもののすさまじさというか、美しいことばで表面的なつくろいはいくらでもするが、結局は国益のためなら何でもするものなのだということを、事実に照らして実証していました。私たち戦後の世代はアメリカがあこがれの国だと思うように洗脳されたように思いますが、その本質は自分たちの豊かさのためなら世界のどこの国でも敵にするということのようです。太平洋戦争の時代に日本人を醜悪に描いたアニメーションを見たり、原爆だけでなく、東京大空襲のようすやその戦略についてのドキュメントをみると、もちろん恐ろしさを感じますが、それを通りこして哀しさを感じてしまいます。打撃を受ける表現は、たとえば「ヨーロッパにおいても憎いドイツと戦った。だが敵はそれでも人であった。だが、太平洋では日本人という虫けらと戦わなければならなかった」とか、ベトナムのソンミ村でなんら攻撃しない民間人の頭の皮を剥いで殺したことに対してほとんどのアメリカ人は「別にどうとも感じなかった。広島の日本人のように」などなど。ナレーションには「韓国や日本を同盟国として意のままに動かし」といった意味の表現もありました。レーガンが来日したとき、当時人気のあった「おしん」のことを語ったとき、そのあまりのわざとらしさにシラけた気持ちをもちましたが、ブレーンは相手国民が喜ぶ言葉を探して大統領に語らせるが、本音は日本は「基地国」にすぎないと考えているということです。日本の自然や日本の伝統文化はすばらしいなどといいますが、それは文字通り外交辞令にちがいありません。

 そうしたことを思うとき、我が国に為政者の無能ぶりを嘆かずにはいられません。私は政治のことはわかりませんが、日本のような地震国、災害列島に原発を持つことがいかに危険であるかは素朴な論理でもわかるはずですが、私たちは論理ではなく3年前に実体験としていやと思うほど思い知らされました。あれだけの犠牲を出して、そこからこのことを学ばずしてこの国はどうなるのでしょう。尊い命のことを思えば、その死を無為にしないためにも、原発の再稼働など絶対にしてはいけないはずです。この明快な根拠による主張に対して、再稼働を推進する者たちの饒舌であること。大きな声でたくさんのことをしゃべる主張はそれだけであやしいものです。私たちはその欺瞞性を見抜かないとおけないと思います。

「がんばれナラの木」を聞いて 黒田奈々

2011年04月01日 | エッセー
千葉県生活クラブ風の村 黒田奈々

 「がんばれナラの木」の朗読を聴くのは今回が初めてです。童謡や民謡のような語り口から、話に引き込まれました。「自分がこれほど強いことを自分自身知らなかった」といった内容が最後の方にあったかと思いますが、木の話ではなく人間の話ではないかと思った程です。
 震災が起きて3年、今なお仮設住宅に住む方もいれば他県での避難生活を余儀なくされる方も数多くいます。3年前のあの日、私は今とは違う職場におりましたがここと同じようなビルの上階に勤めておりました。天井から下がった蛍光灯が落ちるのではないかと思うほど埃を舞わせて揺れ、ビル自体もしばらくグラグラと横揺れを起こしました。その日ビルの上から見たのは、駅が閉鎖され、そこへ向かって群衆が押し寄せるように黒々としている道路でした。絶え間ない余震の中、会社に泊まったものの不安であまり眠れなかったことを思い出します。幸い、家族は無事で家が倒壊することもありませんでしたが、この地震と二次的に起こった津波により、多数の死傷者が出た東北の方々を思いますと胸が痛みます。
 テレビでは連日地震と被害の大きさを物語る中継ばかり流れ、否応にも気分は沈みました。けれどそんな中でもたくましく生きようとする、人の強さをあちこちで目の当たりにしました。震災後の夏、原発の停止に伴い輪番停電が起こった時。消費電力を抑えるために多くの人が節電をしました。その年の暑い夏を乗り切ることができたのは、皆が皆の為に起こした小さな行動と、それが大きな力になったからです。また、あらゆる場所で募金や寄付が行われ、私財をなげうって復興支援をする人達もいました。あるいは被災した方々の中にもいち早く復興に動き出し、壊滅しかけた小さな村や町を地域の絆で復活させました。それは助け支え合う心や、ふるさとへの思慕。人間の持てる様々な想いが結ばれて叶ったことだと思います。
 島国根性、と言ってしまえばそれまでですが、日本というこの小さな国に私たちというたくさんの根っこが根付いている。一つ一つは小さいけれど、束になれば海外諸国が驚くほどの強さを持っている。「がんばれナラの木」はそんな『人間の強さ』を詠んだ詩のように感じました。どうかこのような痛ましい災害が、二度と起こらないことを強く願います。

「ナラの木」を伝える -3年目の記念日に 齋藤史夫

2011年04月01日 | エッセー

齋藤史夫

 あれから三年、被災された方々に元気をと思い、皆さま方とお会いし、いろいろとお話しをしました。初めのうちは硬い表情のことが多かったのですが、「がんばれナラの木」のお話しをしまして、高槻先生がNHKラジオで話された録音を聞いたとたん、表情が変わりニッコリされることが多くありました。
 皆さん最初は黙って聴き入りますが、涙される女性もいれば、じっと下を向いて聴き込む男性、天井を見て色々思いだしているらしい方もおられました。俳優さんの各地の方言による語りもあるので、それを聞いてもらうと、「さすがにプロの語りだ」と感心されます。
 私自身が「ナラの木」の盛岡訳をラジオで聞いたとき大いに感動して、手をつくして録音を手にしたということもあって、これを紹介しても「いいね」とは言っても特に感動されないようすのことも多いのですが、ある男性が「ナラの木」の朗読を聞き終わってから、おもむろに
「もう一度聞かせてくれませんか」
と言ってくださったので、私も嬉しくなりましてつい目頭が熱くなりました。
「あなた泣いてるの?」と聞かれたのですが、喜びの涙ですと答えるのがやっとでした。

 「ナラの木」の録音を聞いて、
「いつでも心が落ち込んだ時に聴きたいので、この録音が欲しいな」とか、
「こんなにたくさんの地方訳があるのだったら、それぞれの音声が聞けたらいいのにね」とか、あるいは
「俺の故郷の語りがないので寂しい」
という声もありました。
 人々にこういう思いを抱かせるのは、「ナラの木」の根本にある不屈の精神と自分の持つ「根っこ」を信じてみようと思わせることにあると思います。
 日本各地の方言による語りには誰が聞いても良いものです。私は東京の生まれ、育ちですが、そんな私にも心の故郷のような気がします。
 被災された人たちは生活面でも精神面でもつらい状況にあります。私たちができることは限られますが、せめて「ナラの木」の不屈の精神を伝えることで、元気を出してもらいたいと思い、高槻先生や俳優の皆さんがこの詩を伝えようとしておられることを伝え、お一人でもこの「ナラの木」のことを、広めて欲しいと頼みました。

2014年3月11日

「ナラの木」の朗読を聞いて思ったこと 物部裕美子

2011年04月01日 | エッセー
生活クラブ風の村 物部裕美子

「ナラの木」の各地の方言朗読を聞きました。父の実家が秋田ですので、東北なまりになじみがあります。でも大分なまりもとてもよいと思いました。
 詩の中にある「自分が思っているより自分は強かった」というのは、人が自分の歩んだ道をふり帰って気づくことかもしれないと思いました。この詩を聞いて私は山本有三の「路傍の石」を思い出しました。主人公の吾一少年が赤貧で学校にも進めず、過酷な状況の中でも希望を失わないで「艱難汝を玉にす」ということばに励まされて成長していく物語です。
 人はひとりで成長するのではなく、さまざまな人とのかかわりの中でお互いを育てあうのだと思います。ナラの木だって土という土台があってはじめて嵐に堪えることができたのですし、ナラの木が落とした葉や枝は、やがて土にかえり、それはまたナラの木の養分になるというつながりをもっているのだと思います。

ふるさとの思い

2011年04月01日 | エッセー
千葉県柿崎ヤヨヱ

 私にはふるさとが二つあります。
 私は昭和3年生まれで東京育ちです。幼い頃から娘時代まで過ごした二十年間、戦前、戦中、戦後の思い出は書き尽くせぬほどありますが、今ふるさととして思うことは、父親の背の上で祭りのお神楽を見たこと、母親といっしょに花摘みに行ったことなど、たぶんどこにでもある日常のことですが、これらのことががなつかしく思い出されるのです。これらは全部父と母の思い出であり、これが私のひとつのふるさとです。
 私の両親は秋田県出身です。そのため私は秋田言葉が混じった東京言葉の中で育ちました。だから私は秋田言葉が大好きです。
 夏になると私は母といっしょに涼しい田舎で過ごしました。母はふるさとの角館駅に着いたとたん、完全な秋田言葉になりました。自分の言葉を使う母はうれしそうでした。
 毎年過ごした盛夏の一ヶ月。山々に囲まれたおばあちゃんの家。いろりにはいつも火が燃えていて、焼いてくれるおにぎりは両手で持つくらい大きいものでした。中に塩鮭が入っていました。
 夕方になると夕餉の仕度の煙が窓から出ていて、それは紫色でした。杉の木のにおい、家族みんな一生懸命働いて、山から帰ってくるのでした。
道ゆく人の
「まま、くったか」
の挨拶の声に
「ああ、くったくった」
と返すおばあちゃんの声。なんと優しい人々のふれあいでしょう。
 これらも私のふるさとなのです。
 私のふるさとには、父や母はもちろんのこと、おばあちゃんや村の人々のあたたかさ、そしてたくましく生きる優しさがあるように思います。今、私は自分の心の中で自分のふるさとを大事にしています。

卒業式

2011年04月01日 | エッセー
 いま卒業式の季節で、私も大学の卒業式を終え、学生を送り出しました。
 縁があって中学校の卒業式に出ることがありました。自分の中学の卒業式をそう遠い過去のことのように思っていませんが、思えば半世紀前のことです。卒業式でみる中学生は男の子も女の子もまだおさなさが残る初々しい表情をしていました。
 ひととおりの挨拶が終わると卒業生の合唱になりました。「大地讃頌」という歌があります。大地を愛せ、土を愛せという直裁なことばが繰り返されるので、それだけ感動的です。歌声が波のようにうねり、重なるのが胸に響きました。その中に「平和な大地、静かな大地」という歌詞があり、私はこれが福島のことを歌っているように聞こえました。阿武隈山地はほんとうに平和で静かな場所であったのに、原発事故で汚され、平和な暮らしが奪われました。愛そうにもその愛すべき土地がなくなった。この歌詞がそう訴えているようでした。
 それから谷川俊太郎の「春に」という歌が合唱されました。歌う前に男子の言葉があり「実はぼくは高校入試を失敗しました。落ち込んでいたとき、母が明るくふるまってくれて救われる思いでした。面と向かっては表現できませんが、心から感謝しています」と話しながら、声をつまらせました。それからこの歌が始まったのですが、「この気持ちは何だろう」からはじまり、よろこびなのか悲しいのか、いらだちなのか安らぎなのか、遠くへ行きたいようなここでゆっくりしたいような、とローティーンの不安定な心が見事に表現されていて、それをまさにその年齢の子どもたちが一生懸命歌うので、私の喉のあたりは液体で溢れそうでした。
 合唱を終え、指揮をした、あるいは歌の前にことばを言った子たちが席に戻って来ましたが、見るとある少年が嗚咽していました。入試のことを言った少年だったかもしれません。
 式が終盤になり、卒業生が退場することになりました。各クラスの担任の先生が誘導しますが、あるクラスの先生は若い女性で、もう涙でくしゃくしゃでした。それを見てクラスの女生徒は声を上げて泣いていました。男の子は抑えていましたが、抑えようとしたがゆえに、こらえきれない子は肩を振るわせていて、一層気持ちが伝わってきました。
 マスコミを通じて伝えられる現代の子ども像はゆがんでおり、それは一面受け入れざるをえない部分はあるでしょう。でも私はこのとき、「こんなにも純粋な中学生がいるのだ」と本当に驚き、感激しました。

2014.3.22

「ナラの木」の朗読を聞いて―被災された皆様へ 2014.3.25 田島太志

2011年04月01日 | エッセー
田島太志

 NHKで放送された「がんばれナラの木」を録音で聞きました。岩手言葉による朗読を聞き感動したと同時に、災害に遭われた方々にも是非ナラの木の朗読をお聞きいただき、これからも続く困難に立ち向かうために勇気と希望をお持ちになって戴きたいと思います。私たち日本人が応援しており、また世界の方々も同じ気持ちで一日も早い復興を願っております。月並みな言葉かもしれませんが、気持ちを強くお持ちになり頑張って戴きたいと願い、祈ります。私たちも、できることは限られますが、いつも忘れません、風化なぞさせません。「お互い様」の精神でおります。

 放送を聞いたあと「がんばれナラの木」のブログの内容を「はじめに」から、「新しいこと」、「仲間の声」とできる限り読みました。そのうちの「仲間の声」の中で目に止まった文章がありました。私は医師であり、仕事柄、病気と闘う方の記事に注目いたしました。その文章は、闘病中、偶然にナラの木の放送を聞き、努力してその録音を手に入れ、ナラの木の語りを味方につけ、病魔に打ち勝ったというものでした。
 どんなに痛め尽くされても「がんばれナラの木」のように頑張る不屈の精神を持つことが必要なのでは、と感じました。
 災害に遭われた東北の皆様が一日も早く元の生活に戻られますよう祈るばかりです。それと同時に、私たちはその日が訪れるまで決して皆様を忘れません。応援を続けさせていただきます。


大震災三年に思うこと 2014.3.27 辻口栄一

2011年04月01日 | エッセー
辻口栄一 生活クラブ風の村「いなげ」勤務

 あれから3年が経ちましたが、復興は遅々として進まないようです。震災復興は国が真っ先におこなうべきことなのに、肝心なことが置き去りにされ、時間ばかりが無駄に過ぎて行きます。私もあの震災には強い衝撃を受け、被災された方々に対してどんなにかたいへんだろうと思いました。そして、仕事でも、家庭でも、被災地の方々にたいして恥かしくない生き方、暮らし方をしたいと望んでいました。
 そのひとつで、職場で成し遂げたかったことがあります。それは節電です。電器の使用量はもちろん、冬のピーク時の電力量を減らす計画でした。各人の自覚によれば、電器の使い方だってコントロールできる、ということを示したかったのです。しかし結果はピーク時の電力量を減らすことはできませんでした。情けなく、いたたまれないような気持ちでいます。私は原発はなくすべきだと思っています。だから、つぎは必ず節電を達成させようという意気込みでいます。
 現状を見れば復興が遅く、被災された方々は胸のふさがるような思いをされていると思います。それでも、「ナラの木」のようになんとかふんばって、根を張り続け、どうか陽の射す方へ向っていただきたいと願います。「がんばれ」ということばは口にすると軽々しく響くような気がしますが、私たちもなんとか力になりたいと思って暮らしていますので、どうか気持ちを楽にしていただきたいと思います。

私にできること

2011年04月01日 | エッセー
                  生活クラブ風の村特養ホーム八街 石川和也

 あれから3年。私が被災地支援に行って2年3か月が経ちました。現地で出会った少女は今度の4月で小2になるのかな。友達いっぱいできたかな、湧水を汲みにきていた老夫婦は元気にしてるかな、など当時のことを思い出していました。それと同時に今でもトラブル続きの福島原発はいつになったらトラブルがなくなるのだろう、なぜ政府は原子力発電に拘るのだろう、なぜ自然エネルギーへの転換をしないのだろう、などとも考えます。      
 私は生活クラブ生協(虹の街)の職員で被災地支援の直後に風の村に出向してきました。その出向先で出会った方から「がんばれラナの木」のことを教えて頂きました。生活クラブ生協には一昨年の4月から稼働を開始している「夢風」という風車があります。たいして大きな生協ではありませんが、他団体と協力して秋田に建設しました。国や国内大手企業がその気になれば風車の1つや2つすぐに作れると思います。メガソラーでも同じことです。世界中に多大なる被害をもたらした原発事故は二度と起こさない。その為には原発を作らない、稼働しない、早期処分しかないと思います。想定外の事故が起ころうが何が起きようが、原発がなければ原発事故は起きないのですから。
 私は生活クラブ生協を通じて被災地にある生産者の食材をよく利用しています。現地になかなか行けない私の復興支援のひとつの形です。被災地の物を購入して食べる人が増えれば被災地に戻って働く人も増え、地域の活性化・復興にも役に立てると信じています。練り物製品は本当に美味しいのでよく購入します(最近は家族に食べられて私の口に入らないこともしばしば)。それと忘れてはいけないのが岩牡蠣です。田舎が山形なので牡蠣といえば岩牡蠣を連想します。大きくてミルクもいっぱいで食べごたえあって最高です。被災地やこのブログを応援してくださっている皆さんも是非食べてみてください。きっとリピーターになりますよ。
 被災された東北の皆様、復興が進まず苦労の絶えない日々とは思いますが「ナラの木」のように強い心で地域を根を張り続けてください。地元に戻れない方が晴れて帰ることが出来、安心して暮らせる日が訪れるまで応援させてもらいます。