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がんばれナラの木

震災にあわれた東北地方の皆様を力づけたくて
The Oak Treeを地方ことばに訳すことを始めました

胸に染みる空の輝き 2012.6.9

2011年04月01日 | エッセー
2012.6.9

この国のリーダーとされる男が「国民の安全のために原発を再稼働する」と言い放った。この文章は本人が考えたものではないだろう。官僚が悪知恵をしぼって作りあげた作文に違いない。そのことは「安全」のすりかえと、耳当たりのよいことばによるカモフラージュからあきらかだ。「安全」とはエネルギー浪費生活を安全に維持するということにすりかえられている。いま国民投票をしたら、こんな浪費的な生活を続けながら、メルトダウンの危険と同居したいなどという人が多数はとはとても思えない。そのことの間違いを2万人の尊い犠牲者と、15万人の難民が証明したのではなかったのか。官僚はずるいから、そのままでは馬脚が露骨に見えるからと、「地方への感謝」表明を忘れない。こう言うことによって「都会人は勝手にエネルギーを浪費して、危険を地方におしつけていいとは思っていない」と善玉を装う。「あれ?なんだかいいことを言っているみたいだ」と思わせて丸め込もうとしている。では感謝しているということは実際どうすることなのか。難民を一年以上放置しておいて、地方に感謝するとはどういうことか。首相がそういう文章を誠実なふりをして読めば感謝したということになるのか。
 このことの本質は「日本はこれからもエネルギー浪費社会を維持する」と表明したことにほかならない。暗黒の国であるかの印象をもっていたソ連でさえ、チェルノブイリ事故を冷静に分析し、地味ながら再発防止の努力を続けている。世界は被災者の誠実さや強さに賞賛を送って来た。そして、「日本はとりかえしのできない失敗をしたが、これで変わってくれるだろう」と注視してきた。「原爆を乗り越えた国だもの」と。だが、その原爆を遥かに上回る放射能を出した事故の分析をしていないどころか、現在進行形の4号機のリスクを棚に上げたまま、「原発なしにこの国の社会はありえない」と表明した。首相はみるからに傀儡であるから、無視してもよかろうが、こうした文章を作文した官僚の意図はどこにあるのか。大東亜戦争の大本営でもこれほどひどくはなかったのではないか。そこにはまちがいであったとしても明確な「正義」があった。だがこの国のリーダーたちには、半年前に連呼していた、原発の危険性を容易に翻意する無節操さしかない。
 去年の3月、自分の人生で最大の事故が起きたことを知った。私の人生どころではない、人類史においてそうであろう。そのことに対するこの国の判断がこれであるのか。私はかつてこの国についてこれほど重苦しい思いをしたことはない。自分の人生はもう残り少ないのだからどうでもよい。思うのは、子供たちの将来と、もの言わぬ生き物たちの将来である。なにが「豊かな生活の維持」であるか。己の目の前の享楽的な生活だけしか考えないのだろうか。国土に対して、自然に対して、思いやるものはこれっぽっちもないのだろうか。

かつて「哀しくてやりきれない」という歌があり、十代の私はくりかえし口ずさんだものだ。

胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ 涙をながす
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせない モヤモヤを
だれかに 告げようか

白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ わびしくゆれる
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
この限りない むなしさの
救いは ないだろうか



深い森の みどりにだかれ
今日も風の唄に しみじみ嘆く
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このもえたぎる 苦しさは
明日も 続くのか


あのころ、私はなんだか漠然とした不安を抱えながら、この歌が自分の心を表現してくれているように感じていた。だが、そのときは社会に対する不満はなく、その社会に自分がどうかかわるかに不安をもっていたのだった。しかし、今この歌詞を読み返すと、自分のいる社会が絶望的にまちがった選択をしたことにやりきれなさを感じることが違う。もうひとつの違いは、あの頃のように涙は流れないことだ。哀しみは何倍も深い。

ごめんね ― 七歳になった君へ  2012.6.20

2011年04月01日 | エッセー
ごめんね ― 七歳になった君へ


高槻成紀 2012.6.20


君が生まれて来てくれたとき
おじいちゃんとおばあちゃんは
どれだけうれしかったことでしょう
そして思い出しました。
三十年くらい前に君たちのお母さんが
生まれてきてくれたときのことを

その頃おじいちゃんとおばあちゃんは仙台にすんでいました。
あれから長い時間がたちました。
小さかったお母さんが育って
学校に行くようになり、
高校を卒業したときに東京に来ました。
そしてお母さんはお父さんに出会いました。
それからよい家庭を築いてくれました。
毎週のように君の弟や妹やおばちゃんたちと私たちのうちに来てくれて
楽しい時間をすごしてくれます。
ときどき風邪をひいたり、お腹がいたくなったり
たいへんなこともあるけど
君はすなおで明るい子供に育ってくれました。
こういう時間がずっと続いて
君がまっすぐ、やさしく育ってくれるのを楽しみにしていました。

去年の3月、仙台のほうでこれまでにない大きな地震がありました。
実は君のお母さんが生まれたときにも
仙台で大きな地震がありました。
でも去年の地震はそれよりもずっと大きなものでした。
津波が起きて町がなくなり 二万人もの人が死んでしまうという
おそろしいことが起きました。

とくにたいへんなのは原発事故が起きたことです。
原発というのは原子力で電気を作るところのことです。
君が大きくなったらわかるけど
おじいちゃんが生まれる少し前、日本はアメリカと戦争をしていましたが
広島と長崎に原子爆弾が落とされて戦争に負けました。
その爆弾は人類が経験したことのないもので
一度にたくさんの人の命が奪われただけでなく
生き残った人にもおそろしい病気を残しました。

その原子力を使って電気を作ることになったとき
はじめは反対の声もあったけど
いつのまにか大丈夫、大丈夫といって
気がついたら日本各地に原発ができて
今では原発なしには電気が足りないということになっていましました。
でも原発は大丈夫ではなかった。
福島で原発の爆発が起きてしまい
そこに暮らしていた人々はもう戻ることができなくなってしまいました。
それでみんなはやっと気づきました
やっぱり原発は危なかったのだと
原発など使ってはいけなかったのだと

おじいちゃんは君たちにとても申し訳なく思います。
私は、高校生の頃、お父さん、つまり君のひいおじいちゃんに
「どうして戦争に反対しなかったの?」と聞きました。すると
「あの頃は今の日本とは全然違ってたんだ」
という答えでしたが、納得できませんでした。
でも今思うと、原発を作ろうという動きがあったときに、
私もきちんと反対をしませんでした。
広島の原爆のことを考えれば、原発はいらないと言うべきでした。

みんなが日本の将来を真剣に考えず、豊かさだけを追い求めた結果、
あの美しかった福島が放射能によって汚れてしまい、
植物も動物も汚れてしまい、
人がすめなくなってしまいました。

それだけでも、これからこの国に生きていく君たちに申し訳ないのに、
その危ない原発をもう一度動かして使うということになってしまいました。

おじいちゃんたちは自分でできる限りの反対をしてきましたが、
そうはなりませんでした。
私たちは幼い君たちに本当に申し訳なく思います。
君が大きくなって
「どうして反対しなかったの?」
と聞いても、返す言葉がありません。

何も知らずに明るく笑う君をみると、
同じくらいの福島の子供たちはどうなのだろうと思われます。
あの子たちは元気に外で遊べるのだろうか?
幼い体の中に恐ろしいことが起きてはいないだろうか?
これから生まれてくる子供たちは大丈夫だろうか?

「豊かな生活」といってむだやぜいたくをして、
そのために取り返しのないことをして、
子供たちに苦しい思いをさせる大人が許されるはずがありません。

ごめんね



聴取会 2012.8.1

2011年04月01日 | エッセー
テレビのニュースで、これまで別の場所でおこなわれていた意見を聴取する会が福島で開かれたと報じられました。私にははっきりわかりました。どれだけことばを飾り、文体を整えても心に訴えないことばがあると同時に、体験に基づいた自らの腹から出たことばがいかに人の心をゆさぶるのかを。

 福島の人は言いました。「反原発というと、経済を知らないとたたかれます。でも私は怖いのです」と。これこそ偽りのないことばです。
こうも言いました。
「原発を廃炉にすることなしに責任をとったことにはならない」と。
「どうか故郷に戻れないでさまよい続ける人をもう生まないで欲しい」と。
「署名をしても、デモをしても、伝わらない。なんとか伝えたくてここに来ました」と。
 政治家の一番の核には人のために役立ちたいということがあるはずですが、こうした人々の真のことばを受け止める心がないとしたら、それは政治家として資格なしというべきではないでしょうか。

 そのニュースで、会議の発言ではありませんが、福島の人が吐き捨てるように語りました。「福島をばかにして、おとしめて、再稼働とは何事ですか」と。日本人であれば、気の毒に思い、なんとか役に立ちたいとは思っても、ばかにする気持ちなど毛頭ないと思いますが、しかし思えば実際に日本の政治が、社会がしてきたことは、福島の人からすればそう映るのかと、身のやり場のないような思いがしました。心に突き刺さっています。

 公正さということで言えば、これまで電力会社写真を入れるなどしてヤラセをしてきたものに比べれば、こういう当たり前の意見(反原発)主体の聴取会を開いたことそのものには評価できるものがあります。ここだけをとりあげれば、公平に意見を聞く集まりをもっていると言えるかもしれません。しかしその聴取会でも発言があったそうですが、「こういう会も開きましたよ」というアリバイに使われるだけではないかという不信感はぬぐえません。そうであるとすれば、電力会社社員を入れる茶番のほうが子供のような単純さとはいえ、意図が見えているだけ健康と言えるかもしれません。逆にいえば、そうした無神経さを許さないほど、福島では原発を拒否する空気に満ちているということなのでしょう。

 福島で反原発を主張することも、そう単純ではないはずです。そうすることによって、むしろ地元からよけいなことを言うなというバッシングもあるはずです。そうした中で堂々と自らの主張をする人たちは本当の勇者だと思います。
 「私たちのような被爆難民を生まないで欲しいのです」と発言された福島の人のことばは、それだけ苦しみながらも、自分のことではなく、ほかの人への配慮から出ているように感じられ、私の中では「ナラの木」と重なりました。

広島言葉 2012.8.6

2011年04月01日 | エッセー
8月6日は広島に原爆が投下された日で、私たちが忘れてはいけない日だ。平和式典をテレビで見たが、私の人生の中でも、反原発のもつ意味も違って来たように思う。私は鳥取県に生まれ育ったので、広島は身近だった。町に広島出身の人もいたし、広島にひっこしをする人もいた。当時(昭和30年代)、反原爆、反核の声もなまなましく、重みがあった。学者や社会運動家というより、ふつうの市民が体験にもとづいて、哀しみに後押しされたような気迫があったように思う。あのころの日本の空気では、原発などありえないことだった。
 ところで、ここでは広島の平和式典で聞いたことばについて考えてみたい。松井広島市長の挨拶はすばらしかったが、アクセントに広島はまったく感じられなかった。60歳前と見受けた。広島の出身のようだが、この年代だと標準語の切り替えが完璧にできるようだ。だが、いまの70歳より上の世代だと、「ワシはそげなことはようせんけえのオ」とはいわないまでも、たとえば「私はそんなことはできません」と言っても「できま」までが低くて「せん」が高くなる。「食べない」は東京であれば「べ」が高いが、広島では「な」が高い。だから書かれた文章はまったく同じでも、読めば広島の人だということはわかる。もちろん市長に続いてあいさつをした小学生は東京の子供のことばと違いはなかった。ただひとつ、男の子が「八月」の「ハチガツ」を「チ」が高く読んだのは広島らしかった。

 松井市長は被爆体験者ではないから、体験者のことばを引用していたが、それがリアリティがあって聴くのがつらいほどだった。そして原発をやめること、エネルギー問題を考えて確立すべきことを政府に訴えていた。勇気ある発言だと感じた。
 日本では国と地方には厳然たるヒエラルキーがあって、国の役人が件に来ると、まるで「徳川様ご臨席」のごとき雰囲気があるが、私の意識では、このこともこの20年くらいに徐々に変化して、県知事が国に注文をつけるというようなことが起きるようになった。実際、論客知事に比べれば国政にたずさわる政治家の発言のほうが色あせて感じられるようになった。安定し、経済的に豊かになった時代が続くなかで、政治が目標を失ったということなのかもしれない。ただ、こうしたことは比較的最近のことで、今でも「国が上」という意識は強い。昭和の時代にはそれがはるかに強かったのだが、
 そうした中にあって平和式典における歴代の広島市長のことばはつねに反原爆で一貫し、当然反政府にもなっていたが、ブレるところはまったくなく、勇気あるものであった。広島の市長であることには、そのような強さが求められるのであろう。

 「がんばれナラの木」の活動を初めてから、「本当に心から出ることば」の意味を考えるようになった。そして「もし」を考えた。
 もし広島市長が「ワシが子供のころ、じいさんが言っとられた。<町が全部焼けて、消えてしまってのオ。遠くの山まで見えたんが、哀しかったわい。暑い日でのオ。死体がごろごろあったんじゃ。核は持ったらいけん。絶対にのうならさんといけん>と。東北の人の気持ちがほんとにわかるのは広島の人間じゃ。絶対に原発をゼロにせにゃあいけん。」と言ったとしたらどうだろう。
 あるいは子供たちが「うちのおばあちゃんが言っとられた。<戦争ちゅうことは、けっきょく人を殺すことじゃ。いけん、いけん。どんな理屈があっても、人が死にゃあ、その人の家族がおって、哀しむことになる。それを考えりゃあ、戦争はできんはずじゃ。違う国の人でも、おんなじことじゃ>。私はいつもはそげなこと、考えなんだけど、おばあちゃんのことばを聞いて、戦争はいけんとようわかりました。」と言ったとしたらどうだろう。
 これは、「そんなばかなこと」でもない。イギリスにもさまざまな訛りがあることは知られていて、出身者はその地元のことばで話す。歴史の浅いアメリカでもテキサスあたりの訛りはすぐにわかり、もちろんテレビでもそのままで話す。まして中国では筆談でなければ通じないほど地方訛りがある。毛沢東の中華人民共和国の宣言も強い南部訛りである。「中華人民共和国の成立を宣言するでごわす」みたいな感じかな。北では日本を「リーベン」と発音するが、南では「ズーベン」だから、たぶん中華人民共和国は「つーかずんむんちょーわこく」くらい訛っていると思われる。
 そう思えば、心を伝えるべき場で、自分の腹から出ることばではなく、標準語で表現するのが当たり前だということ自体が実はあたりまえではなく、異様なことなのだと思える。心をそのまま表現することを抑えるのはよくない。

松を立てる 2012.9.15

2011年04月01日 | エッセー
 あの日から1年半が経ちました。その節目ということもあったのでしょう、陸前田の一本松を切り倒して処理をして再び立てることになったと報じられました。
 私は8月下旬に田を訪れ、改めて津波が深いところまで達していたことを知って驚くとともに、回復が遅いことに情けなさを感じていたので、このニュースを複雑な気持ちで聞きました。
 この国が1年半の時間をかけてこれだけのことしかできないのか。それがごく素朴な疑問と無力感です。被災地の人々に元気を出してもらいたいという思いはなかなか伝わりません。そうした中にあって「がんばり」の象徴であった一本松がなくなることは心の支えを失うことになるであろうから、なんとか再び立たせようという計画がわからないではありません。しかしそういうものだろうかという思いは残ります。
 私はこの一本松のことについて自分の考えを書いたことがあります。そこで書いたことのひとつは、生態学的にみたときにマツというのはもともと不安定な場所に生える木であって、寿命もそう長いものではなく、むしろ枯れてはまた新しい子供を産み出して引き継ぐ生き方をする木だということです。そのことを考えれば、あの松が枯れたことは心痛ではあったけれども、受け止めるべきだと思うのです。
 報道のあとに地元の人の意見がありました。もちろん「残念だ、なんとか再建してほしい」という意見もありましたが、「静かに横にならせてやりたいなあ」という声も、また「命あるものは死んでゆくんだよ」という声もありました。まったくその通りだと思います。
 美しかった田松原が津波によって壊滅したが、その中に一本だけがんばった松があった。だが、その松もついに枯れて土に還っていった。ほかの松と同じように。そうであっても、私たちの心の中にはそのことはいつまでも残っている。それでいいではないかと思うのです。
 私は思います。もしこの松が合成樹脂などを注入したり、樹皮をプラスチックで加工したりして、「永遠に」残されたとして、本当に被災者を勇気づけることになるだろうか、と。枝がなく、葉もない松はむしろ痛々しく見えないだろうか。これを見た人は、横になりたいのではないか、土に還りたいだろうに、とむしろ痛ましさを感じるのではないだろうかと。
 付け加えれば、松を「再建」するのに1億5千万円を費やすそうです。それが高いか安いか軽々には評価できません。本当に被災地の皆さんが心に勇気をもてることであれば、決して高くはないという考えはあるでしょう。しかし、私には実質的に町に本来の生活が戻ることが優先されるべきだという思いのほうが強いです。

原発ゼロ 2012.9.19

2011年04月01日 | エッセー
まずい。この国はほんとうにまずいところに来ていると思います。麗しい国土を汚染し、長いあいだ何世代もが暮らして「ふるさと」と呼んで愛して来た土地にすむというあたりまえの幸せを理不尽に奪い、そこにすむ動植物を汚染し、子供の健康におそろしい影響を与え、だからこそ国民は「もうこりごりだ」という当たり前の感覚から、常識として「原発などいらない」という選択をした。にもかかわらず、政府は反省することもない東電を生き延びさせ、節電が可能であることがわかったのに、無理矢理電力不足の危機をあおり、「豊かな」日本を維持するにはエネルギーが必要だと強調しつづける。見かねておだやかな主婦が、老人が立ち上がった。その数はもしこれがヨーロッパの国であったらたちどころに政府が転覆するほどのものであるにもかかわらず、マスコミもとりあげず、政府は聞く耳をもたない。
 今日のニュースによれば30年後の原発ゼロの約束も実体は骨抜きにされたらしい。その要因は経済界の圧力であったようだ。その代表的人物はいまだに「右肩あがりを維持するためには原発が不可欠だ」と信じて疑わない人物である。戦後の復興時代を導いた人としてはその人生を誇っていただいてけっこうだが、あの災害は日本人の社会感、自然観、世界観を根本から変えたのです。どうかお引き取りいただきたい。あなたたちに感謝もし、敬意も払うが、「豊かな社会」は私たちの人生の片面でしかなかった。少なくとも私は、自分が育った社会が森林を伐採し、川をずたずたにし、海岸をコンクリートで埋め立て、世界中からエネルギーや物資を買いあさったという事実に疑問があると気づいたのです。子供をもつお母さんたちは、汚染された土地で子供が外で遊べないことや、食べ物の汚染におびえ続けるような生活はいやだと思ったのです。これほど当然のことはありません。
 そうした大多数の常識が経済界のひとことで無視され、政策がねじ曲げられる。その変節を問われた時の首相という男の口先の巧みさ。この社会は本当にまずいところに来てしまったと思います。

関東と東北 2012.12.24

2011年04月01日 | エッセー

 私は仙台に行くまで、甲子園の高校野球で東北地方の学校が優勝したことがないことを知らなかった。大学に入学した昭和四十四年(一九六九年)の夏、私はラグビー部に入って初めての合宿に行ったが、移動中のバスの中で太田幸司投手の三沢高校が決勝戦をたたかうようすがラジオで実況されていた。部員には東北地方の出身者が多かったから、バスの中は騒然としていた。延長戦となり、満塁サヨナラのチャンスが二度もあった。先輩が「とうとう優勝旗が白河の関を越える」と大声で言ったとき、「え?一度も優勝していないのか」と驚くとともに、「白河の関を越える」という表現に違和感をおぼえた。そのことの意味は仙台に暮らすようになり、しばらくしてわかるようになった。
 甲子園のことを続ければ、二〇〇四年には駒大苫小牧高校が優勝し、優勝旗は白河の関どころか津軽海峡を越えたのだが、そのことは東北人にさらに複雑な思いを抱かせることになった。
 甲子園に象徴される「東北地方のもつビハインド感」、このことは仙台に住むまで気づくことができなかった。それは方言にも投影されている。ラジオやテレビで関西弁は聞かれたが、ほかの地方の方言は聞くことがなかった。ある時代からドラマなどでも方言であるほうがリアリティがあるということで使われるようになったが、多くは九州や中国地方の方言で、東北弁はわかりにくいことばの代表のような位置づけであるように思う。同じわかりにくさでも沖縄の言葉の場合とは受け取り方が違わないだろうか。東北弁はわかりにくい、汚いとされ、上京した東北出身者が肩身の狭い思いをするのはいまだに続いている。文化の多様さを評価するといいながら、このことについては明らかに公平でない空気がある。
 ところで、私は自分が東京にすむことになるとは思ってもいなかった。山陰で生まれ、東北地方で大人になったから、東京に来ると疲労感があった。ところが人生はわからないもので、その東京に暮らすことになった。初めは違和感がずっとあったが、家族が定着するなかで時間とともに生活がなりたってきたという感覚をもてるようになってきた。そして東北地方がなつかしいという感覚でとらえる場所になってきた。そうしたときに東日本大震災が起きたのである。
 そのときの東京人が何をしたか。物資の買いだめでガソリンスタンドにガソリンがなくなり、コンビニやスーパーからは品物が消えた。口で震災を憂いながら行動は利己的であった。私は東京の住民であることにいたたまれないような気持ちになった。もし、私が仙台に住んでいなければこういう気持ちは持たなかったかもしれない。
 そのときに思ったのは、関東と東北のもつ構造上の不公平さということであった。日本政府は被爆国として最初は控えめに原発は安全だというキャンペーンをしながら、いつのまにか日本中に原発を建設してしまった。安全であれば地方に建設する必要はないというのは小学生でも考えることである。地方に建設するということ自体が原発が危険であることの証しなのである。ではなぜ危険である原発を地方が受け入れたか。私は漠然と人口密度が低いから一次産業以外の産業がなく、原発による雇用や保証などで経済的な恩恵があるからだと思っていた。概ねそれで正しいようだが、実際には昭和の三十年代から続く「金の卵」獲得のために強引な若い世代の引き抜きがおこなわれ、社会を担うべき世代が空白になるという状況が醸成されていたために、原発誘致以外の選択肢を奪うという形での構造的枠組みができていた結果なのだという。そのことが政治的意図をもって先見的におこなわれていたかどうかはわからない。単純に若い労働力が必要であり、東北の農家もそのことを希望したということはあるだろう。しかしそうすれば農村社会を維持できなくなることは予測できたはずであり、そのことのもつ深刻な意味を考えれば、責任ある社会が選択すべきことであったとは思えない。これは社会のリーダーがなすべきことがなされなかったこととして責任を問われることだと思う。
 こうしたことは近代化を進めた明治時代から継続的におこなわれてきたことである。東北は農業地帯であり、都市に食料を提供した。戦時には兵隊を供給した。そういう実質的なところでの近代化に果たした東北地方の社会貢献ははなはだ大きい。にもかかわらず、それらは東北地方が当然すべきことのようにみなされたばかりか、つねに遅れた地方と見下されて来た。東北にはそのような鬱屈した気持ちがただよっている。
 岩手県は人材を産む県であるが、そうした人材の代表である原敬は自分の号を「一山」とした。これは明治政府の権力を独占した薩長土肥の政治家が「白河以北一山百文」と蔑視したことに対するプロテストであるとされる。先の甲子園の「白河の関」もこのこととつながる。
 そうした意味で、私は原発事故を、地理的ではなく、社会的な東京対東北という構造からとらえなければならないと思う。この百年あまり、東北地方はずっと東京に貢献してきた。あるいはさせられてきたというほうがふさわしいだろう。その結果、労働人口を奪われ、原発誘致を無理やり呑まされてきた。地震は天災である。だが上記の意味で、原発は人災である。食料にしても、エネルギーにしても、本来使う者が産み出すべきであろう。そのことを日本という国が怠り、国内では東京が怠ってきた。それどころか、消費することが豊かであるとし、供給する側に危険を押し付けさえした。これはどう詭弁を弄して正当化しようとも不公平である。
 当時の首相菅直人が東京電力を強く叱責し、言動が強引であったという批判がある。さまざまな事情があったにせよ、私は国の責任者として立派な行動であったと思うが、しかしそれは「東京を守る」ためであったといえないだろうか。被害の当事者は東北の人だったのだ。
 世界有数の豊かな国であるこの国が二年近くたっても被災地の復旧ができないでいる。あれほどさわいでいたマスコミも、震災のことはとりあげなくなり、東北地方以外の日本はもとどおり安穏(あんのん)とした日常にもどったかのごときである。
 いつも「後進地域」とされ、いやなことを押し付けられ、それらを耐えることに慣れてしまったかのような東北地方が、心の中では恐れながら、これまでなかったのだからきっとないだろうと思っていた大震災にあい、ついに原発事故が起きてしまった。多くの犠牲者が出て、避難を余儀なくされ、先祖代々の土地を捨て、親しかった知人と離ればなれになった。自分の一生のうちに故郷に戻れないと感じている人がたくさんいる。「こんな老後を迎えるために生きて来たのではない」という思いを抱えながら泣いている人がたくさんいる。東京電力と原発建設を進めて来た日本政府の罪は計り知れないが、その背景には関東と東北の歴史的な関係があったのだと思う。

恥ずかしがるな! 2013.1.5

2011年04月01日 | エッセー
Jan 5, 2013

Do not be shy


Seiki Takatsuki


After the world war II, we Japanese have been often heard that we are shy, too serious, lack humor, not good at debating, and nervous at presentation, so on, so on. I was born in 1949, four years after the war, and was educated to be different from elder generation. However, it is difficult for us to be so, and inevitably had complex feeling. We saw American movies, and were surprised to see how different American youth are! We envied them, or we were forced to feel so.
It was in the 1960s that Japanese citizens became able to travel abroad. One US dollar was equivalent to 360 Japanese yen (it is 90 JY now!). Travelling abroad was a dream for Japanese. However, I could travel to India when I was a 4th grader of a university student. My father said “the time when my son can travel abroad has come!”. After that, I visited several countries as an ecologist or as a just traveler. I found similarity in Sri Lanka although we look completely different physically: people are shier and more cautious how they are looked by others than Indian people. I found differences in Mongolia although we look exactly same physically: people are open minded, self-confident and self-independent than us. I thought these resulted from environment. SL is an island like Japan while Mongolia is flat and a steppe country.
Japan has humid and hot summer, which is favorable for plant growth and in fact our country has rich flora and thick vegetation. In Japanese expression, “Let it be” is said as “Leave things, then it will be a bush or a forest”. This means a rapid vegetational succession. In such a land, our ancestors changed the land and cultivated rice using rich water. As you know, Japan is at the same time a country of disasters. We regularly face typhoons, floods, and earthquakes. To cultivate rice, it is necessary to cooperate: land engineering, planting and harvesting require many people. In such a society, “unique” one was not welcome. He must be criticized and excluded. Persons who are good at talking was not welcome. Farmers always face soil and plants. Talk is not necessary for such a life, but regularity and patience is essential. Crop honestly tells the attitude. It is natural that in such a society the majority has become composed of harmonic persons. I believe this has formed our personality.
It is thus expected that Japanese were surprised and embarrassed when they were abruptly said that you should not be shy and too serious, because before that they were told “Don’t talk, just work, if you are a man”.
What I am explaining here is peoples’ mentality is affected by the society which is also affected by natural environment. Paddy cultivation has formed Japanese mentality. If this is compared with American one, differences are apparent. The tragedy is the differences are regarded as “bad”.
I would like to note that such influences from America has also changed our attitude to nature. Several decades after the war, even farmers who had been respecting and afraid of nature gradually began to think “scientificly” and “realized” that we can control nature. In fact, paddy fields were reformed and forests were logged by use of machines. Repeating such reforms, we gradually feel that nature can be controlled and is not awful. One of the biggest regret of our parent generation was we had not enough technology, and they did big efforts to improve technology after the war. In fact, they made high quality machines and made it possible to change lands and vegetation. Influential groups of people in Japanese society are often formed by technologists who do not know plants and animals. They are even not interested in them. I appreciate the efforts of our parent generation for economic recovery after the war, but it is my greatest sadness that it has changed the attitude of Japanese people to nature.
In my opinion, the extreme is dependency on nuclear power plants. Our society has forgotten that our nature is awful. Our land is too dangerous to build them.
I have not many years left before my death, and hope to protest against such arrogance and remind our traditional attitude to nature.

 第二次世界大戦後、私たち日本人は自分たちのことを内気で、生真面目で、ユーモアがない、議論が下手だとか、人前でアガりやすいとか、いろいろ悪口を言われて来ました。私は1949年、戦後4年に生まれましたから、戦前派とは違う教育を受けましたが、こういう性質は変わるわけではないのでうまくゆかず、劣等感を持ちました。アメリカ映画を見て、アメリカの若者がいかに違うかを見て、うらやましいと感じました。あるいは感じなければならないと思っていたかもしれません。
 日本人が海外旅行出来るようになったのは1960年代のことで、当時1ドルは360円(今は90円!)でした。当時、海外旅行は夢そのものでした。私は大学4年生のときにインド旅行をしましたが、父親が「ああ、お前らが海外旅行する時代になったんだな」と言ったものです。その後私はいろいろな国に生態学社として、あるいは一旅行者として訪問しました。スリランカの人は外見はまったく違うのに内気で、周囲からどう見られるかを気にするのは日本人と似ていると思いましたし、逆にモンゴルの人は外見はまったく同じのに、開放的で独立心が強いと感じました。それで私は国民性はやはり環境によって強い影響を受けるのだと思いました。日本は島国で、夏は高温多湿だから植物が豊富です。「あとは野となれ山となれ」というのは植生遷移が速く進むことを表現しています。そうした国土でわれわれの祖先は豊富な水を使って稲作をしてきました。ご承知のように日本は災害列島でもあり、定期的に台風、洪水、地震があります。米を作るには土木工事、田植え、刈り取りと、大人数の共同作業が必要です。そういう社会にあっては「個性的」なことは歓迎されません。農民は土と植物に向かいあい、勤勉で忍耐強さこそが必要でも、おしゃべりは不要です。そのことは収穫に正直に返ってきます。そういう社会では協調的な人が主流になっていくのが当然です。私はそういう社会が日本人の気質を形成してきたと信じています。
 ですから日本人が突然、おとなしいとかまじめすぎるのはよくないと言われて当惑したのは当然です。なにしろそれまでは「男は減らず口をきかないで働け!」と言われてきたのですから。
 そう、私が言いたいのは、人の気質は社会によって影響を受け、その社会は環境によって影響を受けるということです。稲作は日本人気質を形成しました。それをアメリカ人とくらべたら違いは明白です。悲劇は違うことを「悪いこと」としたことにあります。
 私はそうしたアメリカの影響が日本人の自然に対する態度を変えたということを指摘したいと思います。戦後数十年経って、自然を畏れ敬ってきた農民さえもが次第に「科学的に」なり、自然はコントロールできると「認識する」ようになりました。実際、機械によって田んぼは作り替えられ、森林は伐採されました。そうしたことをくり返すなかで我々は徐々に自然は管理できる、恐れるに足らずと感じるようになりました。我々の親世代が一番悔やんだのは日本には技術がなかったことだということでした。だから戦後技術改良に懸命の努力をしました。事実、品質のよい機械を作り、土地や植生の改変が可能になりました。日本社会で影響力のある人たちには必ず工学系の人がいますが、動植物のことを知らないばかりか、興味もありません。私は親世代の戦後の経済復興の努力には敬意を払いますが、それが日本人の自然への態度を変えたことを実に悲しいことだと思います。
 私にいわせれば、その最たるものは原発依存です。日本人は自然が畏れるべきものだということを忘れていたのです。日本列島は原発を作るには危険すぎます。
 私も余生は長くありません。せめてそうした傲慢さを改め、日本人の伝統的な自然への態度を思い起こすことに微力を尽くしたいと思います。

美しい日本を 2013.1.6

2011年04月01日 | エッセー
 私は2011年の7月と去年の8月に宮城と岩手の被災地を訪問しました。最初のときは破壊の激しさに衝撃を受けましたが、去年の夏は「なんで日本で一年半もたったというのに復興できないんだ。」というもどかしさ、行政への不信がつのりました。
 選挙では自民党が圧勝し、安倍首相は「美しい日本をとりもどす」といいました。そして実際にやることは「エネルギーはとても大切だから民主党の原発ゼロは白紙撤回する」といいました。
 私も日本は美しい国だと思うし、それを後世に伝えたいと思います。しかし安倍首相とは2つの点でまったく違う考えをもちます。
 ひとつは美しさは日本の自然の豊かさにあり、そのことへの思いはこのブログの根幹にあり、私の一生を支えて来たのも自然の賛美にあります(もっともそれは国境をこえていますが)。日本列島は中緯度の島国であるがために、寒帯から亜熱帯まで、流氷からマングローブまである、世界でも比類のない多様な自然に恵まれています。のちに日本人になったヒトは2万年くらい前にこの列島に入り、狩猟採集をし、その後稲作をし、平野を改変し、植林をしと、国土を改変しながらくらしてきました。この国の自然はしかし、やさしいばかりではなく、台風、地震、豪雪など災害列島でもありました。農林業に生きて来た日本人は自然と対立はしないで、恐れ敬いながらつきあってきました。里山とよばれる景観はその産物、あるいは「作品」といってよいほど美しいものでした。世界に誇るべき景観といってよいでしょう。
 それを放射能汚染してしまった。2万年の歴史になかったことをしてしまったのです。ただ、町や建物が破壊されても、これまでしてきたように日本人はいかに困難なことでも、時間をかけて復興することでしょう。しかし放射能汚染はまったく質の違う災害であり、しかも永遠に続くことです。この汚染を最少限にすることは事故を起こした我々の世代の責任ですが、同時に今後は一切原発を作らないことは絶対にしなければならないことです。安倍首相はこれだけの犠牲を出し、取り返しのつかないことをしながら、それをあえてしようとしているのです。美しい日本をとりもどすどころか、永遠に続く穢れを一度ならずおこそうとすることをしようとしているのです。これは列島に対して、地球に対して倫理的に許されざることだというのが私の考えです。
 日本の美しさのもうひとつは自然だけでなく、人の心にあると思います。人は私たちを個性がないとか、ユーモアがないとか、くそまじめだとか、アガリ症だとかいろいろケチをつけます。それらはみな当たっています。ではなぜそういう国民性が産まれたか。やはり自然や社会の産物だと思います。自然に対する畏敬についてはすでに書きました。肉体的にも平均的に小さく、筋力は弱く、視力が悪いなどの特徴は認めないといけないでしょう。哺乳類に共通なこととして島では小さい傾向があるので、生物学的な背景はあるのだと思います。私は日本の自然が豊かだからこそ、多少筋力が弱くても、目が悪くても、生き延びて来れたのだと思っています。モンゴルに行くと、「ここでは弱かったり、目が悪かったら死んでしまう」と思うことがあります。稲作は大規模な土木作業を要し、田植えも稲刈りも協力が必要です。そのためには勝手な意見をいう奴は敵です。非協力的な人間は排除しなければ共同作業は成り立ちません。そういう生活が数百年も続けば没個性的な人間が主流になるのは必然でしょう。個性的であることは今でこそ、よい意味で使われますが、稲作社会においては悪そのものでした。農作業は忙しく、動植物はことばでごまかすことはできません。ヘラヘラ笑ったり、口先で人をだましたりする軽薄な人間は排除されます。そういう人間よりは寡黙で勤勉で誠実な人間が評価されます。そういう人は大衆の前で話したりすることは苦手で尻込みしてしまいます。
 そういう国民性を、まったく違う歴史や社会をもつアメリカと比べて、違うからよくないとすれば日本人はよくないことだらけです。しかし、それらは違いであって善し悪しではないことに気づくべきです。アメリカ人のような国民性ではこの災害列島で米作りはできなかったはずです。
 私はそういう日本人の特徴を全部よいとは思いませんが、協調性や互助性という部分は「美しい」と思います。そして農民のもつ、産み出す者は産み出した物を粗末にしない態度も美しいと思います。いまの日本は生産する人よりも消費する人が中心になっています。というより、国そのものが消費することを軸にしています。食料自給率の低さはそれを象徴的に表しているでしょう。資源やエネルギーを浪費することを重要と考えるような社会を私は好みません。安倍首相はしかし「エネルギーはとても大切だから」と、そちらを見直すことはなく、それを前提として原発を含むエネルギー確保を政策とするようです。
 それらは「美しい日本をとりもどす」ことにならないばかりか、まったく逆を向いていると思います。毎週多数の人が原発反対のデモに結集し、国民の8割が原発ゼロといっているのに、首相がまったく違う方向を推進しようとしている。実に不幸なことです。これをどうすれば次世代に顔向けできることになるのか、出口が見えないまま重苦しい気持ちをかかえています。
 せめてできること、しなければならないのは、私たちは被災地を決して忘れず、ささやかでも支えになりたいと思い続けることだと思います。

「がんばれナラの木」との出会い、齋藤史夫 2013.1.23

2011年04月01日 | エッセー
齋藤史夫

 高槻先生の「ナラの木」の放送を偶然聴き、胸が高鳴りました。そしてあの暖かい岩手言葉の語りに涙が止まりませんでした。というのは、自分がいま置かれている境遇と、被災された方に対する思いが重なったからです。
 あまりに感動が深かったので、それまでにないことですが、「ナラの木」の朗読をなんとかもう一度聞きたいと思い、どうすれば手に入れることができるだろうかと、その事ばかり考える日々でした。
 いいアイデアもないまま、それでもなんとしても録音を手にいれたいと思い、そのためにはラジオ放送したNHKに当たるしかないと考えました。それで放送センターに電話しましたが、電話口に出た女性は「ナラの木」のことすら知らないとのことでした。途方にくれてNHK仙台、NHK盛岡と連絡したところ、「ナラの木」のことはご存じでしたが、音声を送るのは無理とつれない返事でした。
 それでもあきらめきれませんでした。どうしたらあの素敵な方言による語りが手にはいるのかとずっと思い続けました。そんなある時パソコンに詳しい方と出会い、事情を説明しましたところ、
「ネットで検索してみては」
とアドバイスをもらいました。
 私は絵を描くので、対象とする風景の写真を参考にします。知人の尾野弘行氏はかつて南極観測船の乗組員として南極を訪問し、そのときに撮影された南極の風景を記録しておられたので、その写真を見るためにパソコンを手に入れていたのですが、ほかの目的には使っていませんでした。私は七十六歳になる老人ですから、パソコンの操作は苦手です。
「ネットで検索って?」
と知らないことなので、自分ができるかどうか心配でした。それでも、なんとか挑戦したところ、「がんばれナラの木」が目の前に出たのです。胸をときめかせましたが、それからどのようにすればいいかわかりません。たまたま目に入ったのが「桃」というブログでした。わらをもつかむ気持ちでコメントを入れました。変わった数字でなんも失敗を繰り返し、最後には祈る気持ちで送信しました。そうすると、幸いなことに、ブログに取り上げて頂き、高槻先生の名前もありました。
「今の世の中にはこんな便利なことができるのだ!」
と満足感でいっぱいでした。
 やっと高槻先生にたどりつけたのです。それで、ネットで朗読の音声をお願いしたところ、さっそく音声が電送されて来ました。ところが、どうすれば聴くことができるのかがわかりません。困り果てて、とうとう先生に電話して訊きましたが、私はよくわかりません。たまたま家内がおりましたので、家内にかわり、先生からの指図にしたがって操作をしたところ、ついに音声が出て聴くことができました。そのときの嬉しかったことは今でも忘れられません。早速録音して私自身何度もくりかえし聴きました。それから、友人、知人に聞いてもらいました。たくさんの感動がありました。
 「ナラの木」を聴くたびに地方のことばについて考えるようになりました。私は東京下町の育ちですから、口調は乱暴です。たまに東北に行って下町ことばで話しますと、なにか怒られているみたいだとか、早口で解らないなどと言われます。古典落語にでる大工(でえく)の棟梁の口調です。下町の者としては「さっぱりしていて良いな!」と思い、「口は悪いが腹の中は真っ白よ!」という気持ちなのですが、違う土地の人が聞くと乱暴に響くようです。
 それに比べると東北のことばは温かく、力強く、粘り強いと感じます。きっといままで色々な困難にうち勝ってきたからでしょう、心のこもった口調だと感じます。ですから東北に行くとできるだけお年寄りとお話するようにしています。そうすると、不思議なことに私には故郷はないのですが、故郷に帰ってきたように感じるのです。
 実は私は六年前に重病であることを宣告されました。病院に行って診断を受けたあと、医者から家内と二人で来るようにと別室に呼ばれて説明を受けました。そこで告げられたのは、癌であること、段階は3.6くらいで、末期癌である4ではないこと、胃の周りのリンパは除去したということでした。そして転移の危険があるから抗癌剤の使用を奨められました。血管注射であることも聞かされました。これを続ければ体毛が抜け、食欲不信、倦怠感などの症状が出るということでした。説明を聞いて私は先生に聞きました。
「そのままにして治療しなければ、命が短くなりますね。」
「そのとおりです。」
私は決意して言いました。
「先生ができるだけのことをしてくださることは、入院中にお人柄をみてよくわかりました。ですから、先生のされることに何も言わずにしたがいます。それでだめでも、先生を恨むことはありません。寿命だったと思えばいいのですから。」
すると先生は
「そこまで言うのであれば、一緒にがんばりましょう。私も懸命に治療します。これは闘いです。」
 と言ってくださいました。
 そして三週間ほどして手術を受けました。二〇〇七年の一月のことです。それからはまさに闘いでした。抗癌剤を投与されると、口の中に砂があるようなザラザラ感があり、味覚がまったくなくなりました。さらに下痢になったり、発熱したり、逆に便秘になったりと苦しみが続きました。癌細胞を抑制するということはそれだけ強い薬効があるからでしょうが、体の正常な機能がそこなわれてしまいます。
 食欲はまったくなくなりましたが、食べなければ体力がなくなると思い、何でも食べるようにしました。一番ショックだったのは、風呂に入っていたとき、髪の毛がまとまってごっそり抜け落ちてお湯に浮かんだのを見たときです。
「あ、始まった!」
と思わず湯船から出ました。一瞬にして丸坊主になったのです。
 ふつうは四週間に一度の投与を十回続けるのだそうですが、私の場合は十二回続けました。十三回目にはさすがに先生のほうから
「もうやめよう。よくがんばったね。」
ということばがありました。そのとき、もともと七十五キロあった体重が五十キロになっていました。このとき私の体はボロボロになっていたと思います。
 しかし私は治りたいの一心で、「病気には負けないぞ」と、強い気持ちで生きてきました。お医者さん、看護婦さん、それに周りの方々のおかげで日常生活には問題ないところまで回復しました。
 こうして手術後一ヶ月ほどで退院することができました。私は絵を描くのですが、実は退院の二日後に個展を開くことになっていました。五十ほどの作品を出展する予定でしたから、その準備をしてくれた家内はたいへんだったと思い、感謝しています。そのとき私の主治医の先生は、私が予定通り退院できるようにと、
「齋藤さんの絵画個展が迫っている。間に合わせるのだ、皆協力してくれ!」
とおっしゃったそうです。本当にすばらしいお医者様との出会いで私は命を頂戴した思いでした。
 そういう思いがあったからこそ、ラジオで「ナラの木」を聴いたときに、その不屈の精神に感動したのだと思います。そして不思議な縁で高槻先生とも知り合いになり、勇気づけられました。私はこうして頂いた命をだれかのために役立てたいと強く思いました。私の苦しみなど、今回の大震災に比べれば何ほどのことでもありません。どうか被災地の皆様が一日も早く元の生活にもどれます様お祈りしております。私にできることは限られますが、それでも心をこめていつまでも応援したいと思います。

2年 2013.3.11

2011年04月01日 | エッセー
またあの日がめぐってきました。3月9日に見たNHK特集はあの震災がいかに恐ろしいものであったかを改めて伝えていました。津波そのもので直接命を奪われた人の悲惨さはこれまでにも伝えられてきて、その無念さを思うとつらくなります。安らかにお眠りくださいと願うばかりです。
 しかしこの特集でデータも示しながら紹介していたのは震災後にもずっと悲惨なことが続いているという現実です。テレビ画面は人の動きを示していましたが、家族がばらばらになり、逃げ惑い、ときどき会ってはまた別の町に行ったり、改めて別居したりすることが動画で示され、胸が痛みました。
 私にとって一番つらかったのは、あのあと外で遊べない子供がいるということでした、震災時3歳だった子は5歳になっています。その2年間はその子の人生の半分に近く、物心ついたほとんどを占めていることになります。そのあいだ子供であれば当然外で歓声を上げてあそび、いろいろな発見をして、心も体も育つのに、それを奪われてしまった。そのことの罪深さははかりしれません。
 別の意味で衝撃的だったのは除染のことです。私は雨の多い日本では汚染物が海に流れ出て地球レベルでの汚染になることを懸念していました。それは今でも同じですが、番組によると、実はスギの木の上のほうが線量が高く、その理由は雨で地面に降りたセシウムを木が吸い上げて体内に取り込んでいるからだということでした。つまり放射能物質の循環が起きているということで、放射能はそのまま土地の物質循環に取り込まれてしまったということです。暗澹たる気持ちになりました。
 東北の人の多くはあまりべらべらしゃべりません。突然家族を失った老人が怒りも、悲しみものみこむような表情で「おれ、そんなに悪いことしてないんだけどなあ」と言いました。私たち古い世代は世の中に人や社会の矛盾によって不公平や不満があっても、正しい生き方をしていればいずれお天道様が認めて幸せにしてくれる、人をあざむいたり、するいことをして一時的に金持ちになっても、最後はお天道様がさばいてくれるという感覚があります。その老人の語ったのは、そうであるのに悪いことをしていない俺がなぜこんな目に遭うのかということです。
 仮設住宅に入っている婦人が言いました。「仮設にいることは、自由はあるはずなんだけど、牢屋にいるのと同じだよ。希望がないもの」と。
 お天道様という道徳観とは離れて、近代の社会的規範のような基準からしても、この現状は憲法で保証する人間としての最低限の生活をする権利が損なわれているのはあきらかです。とくに地震や津波そのものではなく、原発事故はあきらかに人災です。そうであれば、単純に考えて責任者は罰されるべきではないか。私は近代国家の構造と機能からして、この人災を起こした者は罰されなければならないと思います。それがそのように動かないのはなぜなのかを考えないといけないと感じます。
 同時に心の中ではいがみあい、責任をおしつけあったり、責めたりはしたくないという気持ちもあります。ただ思うのは、ふつうの市民が思うこと、私たちの国はそこそこによい国だったはずではないか、困っている人がいれば、みんなで支え合いたい、もちろん直接現場に行ってお手伝いはできないにしても、多少とも醵金したり、物資を送ったりするからそれを目に見える形で届けてほしい、行政は税金を有効に使って、町の復興をしてほしい、それだけです。そのことがどうしてこうも進まないかという無力感が被っています。
 私たちが2年をたって抱く無力感は、いまだに復興ができていないこと、その間にも多くの人が苦しみ、子供たちが子供らしく育つことができないでいるという現実から来ています。それなのに過去のことのようにあいかわらず飽食や濫費を続ける社会があることから来ています。多くの人が金曜日に集まって反原発をしてもマスコミがとりあげることも、政府がとりあげることもないという現実から来ています。これだけのとりかえしのつかない事故を起こしながら、そこから学ぶことなく、原発を再稼働すると明言する新政府の姿勢から来ています。
 この国の子供たちの未来に不安を残しながら、何もできないことに深い悲しみを感じないではいられません。かつてそのことについて詩のようなものを書きました。2年目になにかを書けるかと思いましたが、できませんでした。

福島でのイノシシ駆除

2011年04月01日 | エッセー
7月11日のNHKのクローズアップ現代で福島原発事故と動物のことをとりあげていました。番組は初めに警戒地域の家屋でクマネズミが増えて家の中の電線をかじったり、壁に穴をあけたりして、畳の上には糞が散乱しているところから始まりました。見ていてゾッとする衝撃的なものでした。津波があっても、原発事故があっても、「必ず帰るんだ」と強い気持ちをもっていた人が、「人が帰るところじゃないですよね」と無力感をもってつぶやく映像が流れました。そして警戒地域だけでなく、その周辺にも増加したネズミが入りつつあることが紹介されました。
 そのあとにイノシシの行動が変化したことが紹介され、これまでは夜にしか姿を見せなかったイノシシが昼間でも堂々と歩いている、雑木林にしかいなかったものが、放棄された農地に跋扈していることが紹介されました。
 番組を見た人は「えらいことになった」と感じ、「動物というのは油断がならないものだ、抑えつけないといけない」と感じるはずです。番組のメッセージもそこにあったようです。原発事故はこういう形でも住民に被害を与えているというレポートで、そのメッセージ発信は成功したと思います。
 私も動物の管理は必要不可欠の大事なことだということを主張する点では人後に落ちないつもりです。ただ、この番組の作りには深いところで違和感があります。まず、クマネズミとイノシシは同じ動物ではありますが、まったく違うはずだということです。クマネズミは人の生活空間でも生活できるようになった数少ない哺乳類で、今ではむしろ自然界では生活しにくいほど人に依存的になっています。その中でネズミ対策として努力がおこなわれているものが、今回タガがはずれたということです。このクマネズミが増えているのは抑制しないといけません。
 しかしイノシシはれっきとした野生動物です。ムササビやヤマネのように本当の自然界だけで暮らすというのではなく、農地にも出ますが、その意味ではクマ、サル、カモシカなども程度問題で農地に出ます。人の生活空間はむしろ彼らの生活の中にはなくて、ときどき可能であれば出没するというものです。農地は野生動物からみれば、濃厚な栄養価の高い食物がある場所です。そこが放棄され、雑草が生い茂って薮になれば、イノシシには願ってもない環境が現出します。利用するのは当然です。この「イノシシの増加」は人の管理の不行き届きの結果ではありますが、家が放棄された家屋でのクマネズミの増加とは同列ではありません。
 私は原発事故を日本社会が加害者である日本列島に対する犯罪的過失であったという捉え方をしています。もちろん福島を中心とした地方の方々が被害者であり、それを社会として支援することはわれわれの責任あることですが、われわれ自身が被害者だという意識だけでことにあたるのは違うと思います。われわれは日本列島とその先住者である動植物への加害者だという意識が不可欠だと思うのです。
 跋扈するイノシシから農地を守るために、駆除をするのは、「被害」を出すからでしょうか。農業をしていないならそもそも被害はないはずです。農地を管理しないのは農業がまっとうにできていないことの必然的な結果であって、それは農業が破綻しているということです。農業を破綻させたのは原発事故であり、問題の根本はこの事故にあるのであって、その原因解明と除染をして、住民が戻れるようにあの場所をもとに戻すことこそがなすべきことであって、イノシシを駆除すれば何かが解決することではないはずです。イノシシ駆除にしいて意義を見いだすとすれば、現在農業をおこなっている地域への被害発生の可能性を未然に防ぐということでしかないはずです。しかし問題の本質を被ったまま、被害者であるイノシシを悪者にするのは筋が違うと思います。
 私の考えは、クマネズミについては積極的な個体数抑制をしなければならないが、イノシシが農地の薮化によって行動変化をさせたのであれば、農地を管理すべきだというものです。人がいなくなったからイノシシの行動が大胆になるのは当然であり、そのこと自体は害でなく、悪でもありません。
 こういう問題のすり替えは、意識的であれ、無意識であれ、さまざまな面で行われていると思います。


汚染水と問題のレベル

2011年04月01日 | エッセー
 このことは原発事故による放射能汚染はどういうことなのかということに関係します。それは一種のレベル論です。つまり1)福島の住民が居住地を汚染され、直接的な被害に遭われたという事実があります。2)同時に日本列島が汚染されたという事実もあります。3)そしてこれは地球の汚染でもあるという事実もあります。
 私はこれまでの政府の動きもマスコミの報道も1)の県レベルに過ぎたと思っています。よくて東北地方レベルでした。現実の救出、復旧はそういうレベルでおこなわれるのは当然です。日本中の人々が支援の協力をしたのは、自然な心情からですが、これは2)の国レベルのことといえると思います。私はこのレベルでの動きの捉え方、報じ方、実際のお金の使い方に大きな問題があったと思っています。そういう問題はありますが、何が問題であるかといって一番お粗末なのは、この問題が3)レベルの人類と自然との関係における大問題であり、地球を汚染しているという問題であるのに、その認識がほとんど欠如していたということです。この大問題を一企業にまかせることができないことなど、初めからわかっていたはずです。世界中は日本政府に失望したし、日本の政治家のリーダーシップ欠如に憤っています。にもかかわらず、日夜流される報道は原発問題を1)、2)の国内問題に封じ込め、世界がどう見ているかを紹介ません。私に言わせれば、これは3)レベルに立って、首相が世界にご迷惑をおかけしましたとお詫びをし、この問題抑制のために世界の力を貸してくださいと頭を下げるべきことです。
 これを家単位で考えてみると(すでに言った喩えですが)、今日本がしていることは、自分の家から火が出ているのに、主人が家族に「もう大丈夫だよ」(野田元首相)と言い、近所には何も言っていないということです。それどころか新しい主人は「火元になったコンロは大丈夫だから、また使おう。」と家族にいうだけでなく、ニコニコしながら「なかなかいいものですから、どうです、使ってみませんか」と近所のお宅に言っているようなものです。
 汚染水が太平洋に流れ出ることなど、当然のことなのだから、国が責任をもって抑制する。そのために税金がかかるのは仕方がないことです。私たちが選択した結果起きた事故なのだから、国民が支払うことは覚悟します。ただしそれは東電の擁護をまったく意味しないし、むしろ糾弾を強めるべきですが、しかし、問題の所在を大きく捉えることにしたという意味では「よし」とすべきだと思います。
 その上で、流出がなかったといってきた東電はこの事態をどう説明するのか。東電がこの問題を3)レベルで捉えていたなら、当然の責任感として、「私たちにはとてもできません」と正直に謝罪し、よい意味で「ギブアップ」すべきなのです。問題を1)レベルにさえおくことなく、自社の保身(それさえないだろう。個人的な保身にすぎない)しか考えないから、誤報を流し、隠蔽し、あげくの果てには被害者に要求するといった非人道的なことまでする。こういう企業リーダーは、そもそも企業の社会的存在を考えたことがあるとは思えない。
 またもっと根本的な問題として、汚染の問題は東電の発電所という点のような場所に壁を作るというようなチャチなことではないということがあります。日本は雨の多い国です。膨大な放射能は森林を汚染し、その汚染物質は大量に地中にしみ込むと同時に、支流を流れ下って川に入り、海に出てゆくはずです。その量と範囲は天文学的なはずです。これをどうするのか。専門家というのは、こういうときに的確な理論に基づいたアドバイスをすべきでしょう。

イノシシが加害?

2011年04月01日 | エッセー
 東日本大震災以来、福島の農産品は放射能汚染されているから危険だということになりました。これは悲しい事実です。そのことがおもに関東圏の消費者にとって「被害」であるというトーンで報じられて来ました。そうかもしれません。
 しかしイノシシやクマなどの外部被曝についても同列に論じられ、福島の野生動物の肉は危険だと、同じ調子でした。私はこれに強い違和感をもっていました。
 考えてみましょう。確かに東北地方は関東地方に物資、とくに食物を供給する地方であり続けました。労働力もそうだったでしょう。そうであるから、社会全体がそういう体質を当たり前のことのように感じるようになっていて、放射能汚染の問題も「関東の消費者にとって」マイナスだから「被害」だということになってしまっています。たしかにハンターも獲物を商品として売るために狩猟をし、それが売れなくなるというマイナスを被害のひとつと感じるかもしれない。しかし、この問題は、そういう個人的なプラス、マイナスだけで考えてはいけないと思います。私はこのことは、日本社会が経済発展を至上命題のように思い込んで、そのためにエネルギーを産み出さなければいけなくなり、最初のころはためらっていた原発をたくさん作ってしまったこと、その結果、私たちが事故を起こし、福島の自然を汚染してしまったと捉えなければならないと思うのです。その意味ではイノシシやクマは被害者であり、私たちが加害者であるはずです。しかるに、関東の消費者が被害者というのはあまりに身勝手な解釈です。少し過激かもしれないけど、関東の消費者こそが加害者であるのに、それを被害者とし、そのことに何の疑問を感じないほど発想がおかしくなっていると思うのです。
 そういうことが言いたかったのですが、やや伝わりにくくなっているように感じました。

うらやましい

2011年04月01日 | エッセー
心からうらやましいと思った。ふたつのことである。
 ドイツ政府がごくあたりまえの決定をした。フクシマの事故を教訓に原発依存をやめて脱原発にし、与野党ともそれを確認したという。その、当たり前のことが通る国がうらやましい。そして、日本があれだけの悲惨な経験をしながら、なお再稼働しようとすることは理解できないと言ったという。まことに正論であり、自分がその国の国民であることが恥ずかしく、悲しい。
 イギリスがシリア攻撃をやめたと報じられた。その決定自体もうらやましいが、会議のようすをみてうらやましいと思った。キャメロン首相は参戦の必要性を説いていたが、その説得のしかたも論理的に情熱的であった。しかし、それに反論するたぶん40歳前後の議員が異議を唱えると、「フーン」といった賛意が漏れる。それは汚いヤジではなく、論理的に正しいことにうなずくという感じだ。イラク攻撃のとき、情報が不十分で、誤ってさえいた、あれと同じ失敗をしてはいけないという意見が推進派を抑えたという。判断ミスはあるが、失敗を教訓に改めるということである。そして僅差で攻撃をしないことに決まった。キャメロン首相は自分の考えとは違う決定になったが、民主的な手続きによって決まったことだから、それはそれで受け入れ、国として自分たちの意志を発信した。これが伝統ある英国議会のすばらしさというものだろう。
 ひるがえって我が国は、東日本大震災によって原発が危険なものであることと、あれほど高くつくエネルギー源はないことを体験しながら、教訓を活かすことなく、あろうことか再稼働をするばかりでなく、原発技術を海外に売り込むという。
 シリア攻撃についても「状況を慎重にみきわめる」という無意味なセリフしかいわない―それは要するに何も考えがなく、周囲の顔色を眺めて無難な大勢につくということでいかない―日本のスポークスマンが恥ずかしく、こういう政治家しないないことが悲しい。