私にとってsakuraはラルクの人というよりZIGZOの人です。彼がラルクを脱退したと同時にラルクファンを辞め、その後も8年くらいラルクのCDが聴けなかったくらい、ラルクが、sakuraが、大好きで思い入れもあったのですが、それでも私にとってはZIGZOの人です。
ZIGZOでの活動は3年に満たない短い期間でしたが、下らないダディーギャグで軽~い人を装いながらも、sakuraの音楽への真摯な気持ちを常に伝わってきました。そして「自分がもう一度表舞台に立ちたい」という気持ち以上に「高野哲という才能を世に送り出したい」という強い気持ちをもっているように私には感じられました。哲くんに対しての忍耐強さというか献身的な態度にはなんだか申し訳ないような気すらしました(またZIGZO後期の哲くんが俺様で・・・)。
ZIGZOはそもそもあの事件のあと、RYOさんがスタジオでのジャムセッションにsakuraを誘ったことから始まって、そこに長年の盟友DENさんが加わり、初めは二人の元バンドのBY SEXの曲などをやっていたのだけれど、「ちゃんとした歌がほしいよね」ということになったのだそうです。
それで友人だったオブリのRIKIJIさん(元MEGA 8 BALL)や後輩だったMALICE MIZERのkamiくんなどに相談したところ、二人が共通して薦めてきたのが「元MALICE MIZERで元MEGA 8 BALLのTETSU」だったそうです。それで(多少の紆余屈折はありつつ)哲くんがそのセッションバンドに加わることになり、しかも哲くんが作詞作曲できるということから一気にデビューに向かって話が進み、「MARISU~en~SEX」(←綴りもこれで合ってるんです。それにしてもこのバンド名、あまりにもあんまりだ・・・・)改め「ZIGZO」になった、と・・・。
Kamiくんはsakuraのことを本当に慕っているようでしたし、哲くんのことも97年98年ごろラジオや雑誌で度々話題にしていていつも気にかけているようでした。なので、二人がZIGZOを結成したことはきっととっても嬉しいことだったろうと思います。
でもZIGZOのメジャーデビューの直前にkamiくんは亡くなってしまって・・・。99年の6月当時、MALICE MIZERは「ヴィシャス」という音楽雑誌で毎月「あの人に会いたい」という対談企画をやっていました。koziくんがアコーディオン奏者のcobaさんと再会したり、manaはヴィシャスの編集者の方、yu~kiちゃんはカメラマンの塚越さんだったと思います。Kamiくんはその対談相手にsakuraを指名して、sakuraも快諾されていたそうですが、その対談は果たされないままでした・・・・。Kamiくんもsakuraもきっとその対談を楽しみにしていたでしょうけれど、お二人を好きだった私も本当にその対談を読みたかった。・・・残念です。
その約半年後、「1999年を振り返って」の音楽雑誌のインタビューでsakuraは「いつも自分のあとを追っかけてきてた奴が、もう追いかけることができなくなってしまって・・・」とkamiくんについて触れていました。
1999年はsakuraにとってZIGZOでの再起の年でもあったわけで、そっちのおめでたい自分の話題に終始してもいいはずなのに、kamiくんのことにあえて触れてくれて、思いやりのある方だな、と思いました。MALICE MIZERのファンとしてありがたい、とも。
同じインタビューで哲くんも「去年は昔一緒に馬鹿やってた親友が亡くなったりして、自分はなんで生きているんだろう、なんで音楽なんだろう、とか色々考えさせられました」と語っていました。
哲くんにとっても1999年はZIGZOとしてデビューし自身の音楽的才能が世に認められはじめた飛躍の年だったと思います。「元MALICE MIZER」というネームバリューを多少は利用してのデビューではあったけれど、行く先々で「マリス」「マリス」と言われてきまり悪い思いをすることもあったろうと思います。でも「中世ヨーロッパで縦ロールのオスカル様だった自分が恥ずかしい」というような過去を否定することは一切言わなかったし、このインタビューからは特に元メンバーの死を悼む気持ちが伝わってきました。
1999年はマリスファンでいた私にとってつらい年でしたが、ZIGZOとLAREINE のメジャーデビュー、そしてこの「1999年を振り返って」のインタビューは嬉しかった思い出です。
ZIGZOでの活動は3年に満たない短い期間でしたが、下らないダディーギャグで軽~い人を装いながらも、sakuraの音楽への真摯な気持ちを常に伝わってきました。そして「自分がもう一度表舞台に立ちたい」という気持ち以上に「高野哲という才能を世に送り出したい」という強い気持ちをもっているように私には感じられました。哲くんに対しての忍耐強さというか献身的な態度にはなんだか申し訳ないような気すらしました(またZIGZO後期の哲くんが俺様で・・・)。
ZIGZOはそもそもあの事件のあと、RYOさんがスタジオでのジャムセッションにsakuraを誘ったことから始まって、そこに長年の盟友DENさんが加わり、初めは二人の元バンドのBY SEXの曲などをやっていたのだけれど、「ちゃんとした歌がほしいよね」ということになったのだそうです。
それで友人だったオブリのRIKIJIさん(元MEGA 8 BALL)や後輩だったMALICE MIZERのkamiくんなどに相談したところ、二人が共通して薦めてきたのが「元MALICE MIZERで元MEGA 8 BALLのTETSU」だったそうです。それで(多少の紆余屈折はありつつ)哲くんがそのセッションバンドに加わることになり、しかも哲くんが作詞作曲できるということから一気にデビューに向かって話が進み、「MARISU~en~SEX」(←綴りもこれで合ってるんです。それにしてもこのバンド名、あまりにもあんまりだ・・・・)改め「ZIGZO」になった、と・・・。
Kamiくんはsakuraのことを本当に慕っているようでしたし、哲くんのことも97年98年ごろラジオや雑誌で度々話題にしていていつも気にかけているようでした。なので、二人がZIGZOを結成したことはきっととっても嬉しいことだったろうと思います。
でもZIGZOのメジャーデビューの直前にkamiくんは亡くなってしまって・・・。99年の6月当時、MALICE MIZERは「ヴィシャス」という音楽雑誌で毎月「あの人に会いたい」という対談企画をやっていました。koziくんがアコーディオン奏者のcobaさんと再会したり、manaはヴィシャスの編集者の方、yu~kiちゃんはカメラマンの塚越さんだったと思います。Kamiくんはその対談相手にsakuraを指名して、sakuraも快諾されていたそうですが、その対談は果たされないままでした・・・・。Kamiくんもsakuraもきっとその対談を楽しみにしていたでしょうけれど、お二人を好きだった私も本当にその対談を読みたかった。・・・残念です。
その約半年後、「1999年を振り返って」の音楽雑誌のインタビューでsakuraは「いつも自分のあとを追っかけてきてた奴が、もう追いかけることができなくなってしまって・・・」とkamiくんについて触れていました。
1999年はsakuraにとってZIGZOでの再起の年でもあったわけで、そっちのおめでたい自分の話題に終始してもいいはずなのに、kamiくんのことにあえて触れてくれて、思いやりのある方だな、と思いました。MALICE MIZERのファンとしてありがたい、とも。
同じインタビューで哲くんも「去年は昔一緒に馬鹿やってた親友が亡くなったりして、自分はなんで生きているんだろう、なんで音楽なんだろう、とか色々考えさせられました」と語っていました。
哲くんにとっても1999年はZIGZOとしてデビューし自身の音楽的才能が世に認められはじめた飛躍の年だったと思います。「元MALICE MIZER」というネームバリューを多少は利用してのデビューではあったけれど、行く先々で「マリス」「マリス」と言われてきまり悪い思いをすることもあったろうと思います。でも「中世ヨーロッパで縦ロールのオスカル様だった自分が恥ずかしい」というような過去を否定することは一切言わなかったし、このインタビューからは特に元メンバーの死を悼む気持ちが伝わってきました。
1999年はマリスファンでいた私にとってつらい年でしたが、ZIGZOとLAREINE のメジャーデビュー、そしてこの「1999年を振り返って」のインタビューは嬉しかった思い出です。
デビュー当時、
楽器の専門雑誌でけっこうとりあげられましたよね彼。
なので、
上手いんだろうなぁと思ってました。
読んだ印象は…、
求道者だなぁという感じでした
ZIGZOで戻って来た時は、
『大人になったなぁ』でした。
なるほど、
そういう背景があったのですね…。
勉強になりました!
私は当時ルナシーは友人と見に行ったりしたんですけど、ラルク好きな人は周りにいなくって、(一人でいくのもな・・・)とか思っているうちにあんなことになっちゃって、後悔しました・・・。
「求道者」・・・確かに(笑)。なんかいっつも小難しいこと言ってましたよね~。