9月13日(火)
岩井謙太郎
昭和58(1983年)年6月28日生まれ
平成13年(2001年)9月13日没
享年19歳
弟,謙太郎が亡くなってから10年。思い出す限りをまとめておこうと思う。
お前が生まれたとき,親父が「俺は太郎って字をつけたいんだ,いつも謙虚な太郎,だから謙太郎にする。」
そう言って,なんだか気合が入っていたことを思い出す。
お前が生まれたとき妹が三人。
みんなやんちゃざかり。
俺は小学6年生。12歳のときだった。
なんだが待ちにまった弟だったのに,
何か居心地の悪かったような,むず痒いような,そんなことを思ったことを思い出す。
でもおまえは可愛かったな。
そしてあの小さな市営のアパートで暮らした日々。
いつも「おにい,おにい」と呼んでくれた。
でもなんだか思春期に差し掛かった俺は素直に可愛がることが出来なかった。
でも可愛かったぞ。
俺が中学二年になり,アパートから,親父の買ったマイホーム,田舎の古い家に引っ越した。
なんだかその家が嫌だった。
仙台のアパートが,友だちが恋しかった。
でも謙太郎はまだ小さい。
新しい家ではしゃいでいたっけ。
それからもう一人弟が生まれ,15歳離れた弟は素直に可愛がることが出来た。
謙太郎は4歳になり。
俺は16歳。高校生になり,
バイクの免許も取り,スクーターの足元によく乗せてあげたっけ。
その頃から素直に可愛いなと思って付き合えてたな。
弟二人,いつも「のりにいのりにい」って。
そんな日々も続き,高校を卒業し俺は東京へ。
謙太郎も由起雄も俺が東京へ行くとき,
寂しそうだった。
出発の日かその前後,
親父と男兄弟三人でとんかつやで飯を食った。
(と記憶している,妹たち,そこにいたならごめん)
「のりにい,がんばってけろ。」
と弟たちが言ってくれたことを覚えている。
それからの俺は必至だったな。
結婚して息子も生まれ,
そのかたわら仕事をしながら大学を出,教員免許も取った。
だからというわけでもないが,ほとんど宮城県の実家に行く暇もなかった。
教育実習のときに実家の近所の小学校でお世話になった。
謙太郎も由起雄も通う小学校。
あの頃教員になることはできなかった。なんせ倍率が50倍だもんな。
仕事をしながら勉強して受かるような甘いもんじゃなかった。
言い訳だけどさ。
6年生を卒業するとき,千葉の妹の家と東京の俺の家に弟2人で遊びに来た謙太郎。
俺の卒業した大学に連れて行ったとき,
「おにい,俺もこごさはいりでえ,俺もこごさ入る。」
そういって目を輝かせてたっけ。
「俺もだのりにい。」なんて由起雄も言ってたな。
俺もだんだん生活が落ち着いてきて,
少しずつ帰省する機会も増え,
お前と話すことも多くなってきたっけ。
庭先で俺が刀で素振りをしていると,
「のりにいかっけえなや,俺ものりにいみてえになりてえねな。」
そう言ってくれた弟。
「お前だって柔道の黒帯だべや。十分かっけえよ。」
でも,俺はそんなんじゃねえよ。
いつも自分勝手で長男らしくねえな,すまんなって心の中で思ってたぜ。
息子を連れて行くたびに新聞配達で稼いだ自分のお小遣いで俺の息子におもちゃを買ってくれた優しい弟。
あの頃記憶している一番昔では,まだ中学生だったろう。
息子と6歳しか変わらない由起雄にも一緒に買ってあげていたお前。
そんなお前にお小遣いとか,俺あげたことあったかな。

(高校生になったお前と家族全員でとった写真,中新田の花火大会)
そしてお前は高校三年生,18歳になり俺は30歳を目の前にした頃。
お前は進路で悩んでいたな。
親父は6人の子を育てていた。
だから俺は俺の給料から大学に行かせようと思ったんだ。
俺の後輩でもそうしている人がいたし。そんな兄貴になりたいと思ったんだ。
お前は弁護士か裁判官になりたいと言っていた。
だからうちの大学の法学部に進んで,その道に行って欲しかった。
でもお前は家族を助けるために卒業したら働こうとしてたな。
人知れずひたすら勉強をしていたというお前。
そして仙北で一番の進学校,古川高校に進学した。
でもそんなそぶりは見せずに家族の前ではいつもおどけて見せていたお前。
代々の妹たちが使っていたたった一つしかない一人部屋を使わず,弟に譲ったお前。
中学の生徒会長として校則だった坊主頭を廃止する原動力になったとも聞いた。
大崎市の高校間それぞれの交流もして,みんなで盛り上がったとも,聞いた。
お前が死ぬまでそんなことは知らなかった。
俺は宮城県に行って親父に,
謙太郎を大学に行かせてやろう,俺が金を出すよと言って,
やっと「んで,則義,たのんだど。」
って言ってもらえて,
謙太郎,お前も「俺,必ず受かっからな,のりにい,ありがとうございます。」
と。
まるで昨日のことのようだ。
そしてうちの大学のオープンキャンバスに来て,燃えてたな。あの夏。
9月12日
評定ももらい,大学への推薦も決まり,
俺たちはメールをしてたっけな。
俺もお金の方の算段をとり…
夜に書類のやり取りをしようとメールをしたのが最後だった。
テレビでは9.11の映像が流れ,これは映画か?
本当なのか?と我が目を疑っていた頃,
夕方だったな。18時過ぎかな。
書類がfaxで来ないからお前に電話をしたら妹が出て,
「謙太郎事故ったがら,今日はできねえ。」って。
なんだ事故って?
でも電話の向こうで「痛え~。」って言っている声が聞こえたから,
しゃべれるんだったらまあ,大丈夫かって。
俺は思ったんだけどな。
とんでもない事故だったんだな。
電柱にぶつかって運転席,めちゃくちゃだったもんな。
どんどん容態が悪くなる連絡を受け,もうだめかもしんないって聞くたびに,
絶対大丈夫だって東京から祈ってたぞ。
だけどだめだったな。
だめだったよ。
脳挫傷に,肺挫傷だもんな。
13日を回った深夜,お前の訃報を受け取る前に「ありがとう」って聞こえた気がした。
ああ,こっちこそありがとう。
お前の葬式にはホント300人以上の高校生が来てくれたな。
自分の学校だけじゃなくて,大崎市内の学校から。
お前の生きてきた証だよ,みんなに愛されていたんだね。
みんな泣いてた。
いつまでも帰れなかった。
焼香の列が長かった。
兄貴として,何ができたんだろう。
わからん。
むしろ俺の方が12歳も下の弟に教えられることが多かった。
あれから俺は勉強しなおして,教員になったよ。今はここボリビアでお前を思ってる。
お前の生まれた意味,そして死んでいった意味を探して,そしてまだまだできちゃいないけど,
お前のように他の誰かのためにと,自分の信じた道を進んでいるよ。
由起雄も俺と同じ大学を出て,教員になった。あいつはすごいぜ。
妹たち,お前の姉たちな,それぞれに一生懸命がんばってるぜ。たいしたもんだよ。
親父はお前んところに逝っちまったけど,相変わらずか?
こっちじゃお母さんは相変わらずおちゃめだぜ。
俺ももうすぐ40歳だ。
30代ってのはほんとに青くて恥ずかしいくらい,なんでも知ったような,できるような気がしてた。
まだまだ学ばなくちゃならんし,まだまだやらなくちゃならんことが山のようにあるよ。
人に優しく。
優しい人になれたらいいのに。
俺はいつも失敗ばかりだけど,
いつかお前みたいになれたらいいな,まあ,多分無理だろうけど。
今,こうしてがんばっていられるのも,お前の死を無駄にしたくないという思いも強くある。
そして,そうは一言で言えないくらいのたくさんの人々の支えあっての今がある。
俺に何ができるのか,わからないけど,やりたいこと,やらなければならないことはもう見えている。
30代は教師になり海外へ,という目標は果たした。
これからも。
またこれから10年間,50歳まで。
そしてその先10年間,60歳まで。
それからまた10年間,70歳まで。
そしてまた10年間,80歳まで。
その後は,ゆっくりしてもいいよな。
まずは,そこまでの目標を一つずつ,必ず叶えていくよう,がんばるよ。
Gracias por KENTAROU.
ほんとありがとう。
じゃ,10年後の今日に,また。

(白鳥が写っているから大崎市の化女沼だと思う)