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探究心をもって人生を生きる

青年海外協力隊隊員としてボリビアで活動していたころを中心に、帰国後10年(2022年)の今を書いています。

特にすることもなく

2011-09-18 19:11:59 | ボリビア日記
9月18日(日)

朝からのんびり休日。
楽器も触らず。なんとなく過ごす休日。

友だちが自宅の玄関のドアのカギを回したらバキっと折れた。
ドライバーとペンチ持って行ってみたけどなんともならんかった。

鍵屋さんを呼んでなんとか直してもらったらしい。
よかったよかった。

しかし,折れるとは。

驚きです。

なかなか日本じゃないですよね。

いや,聞いたことないな。


では。

岩井謙太郎

2011-09-13 00:06:19 | ボリビア日記
9月13日(火)

岩井謙太郎

昭和58(1983年)年6月28日生まれ
平成13年(2001年)9月13日没

享年19歳

弟,謙太郎が亡くなってから10年。思い出す限りをまとめておこうと思う。

お前が生まれたとき,親父が「俺は太郎って字をつけたいんだ,いつも謙虚な太郎,だから謙太郎にする。」
そう言って,なんだか気合が入っていたことを思い出す。
お前が生まれたとき妹が三人。
みんなやんちゃざかり。
俺は小学6年生。12歳のときだった。
なんだが待ちにまった弟だったのに,
何か居心地の悪かったような,むず痒いような,そんなことを思ったことを思い出す。
でもおまえは可愛かったな。

そしてあの小さな市営のアパートで暮らした日々。
いつも「おにい,おにい」と呼んでくれた。

でもなんだか思春期に差し掛かった俺は素直に可愛がることが出来なかった。

でも可愛かったぞ。

俺が中学二年になり,アパートから,親父の買ったマイホーム,田舎の古い家に引っ越した。

なんだかその家が嫌だった。
仙台のアパートが,友だちが恋しかった。

でも謙太郎はまだ小さい。
新しい家ではしゃいでいたっけ。

それからもう一人弟が生まれ,15歳離れた弟は素直に可愛がることが出来た。

謙太郎は4歳になり。
俺は16歳。高校生になり,
バイクの免許も取り,スクーターの足元によく乗せてあげたっけ。
その頃から素直に可愛いなと思って付き合えてたな。
弟二人,いつも「のりにいのりにい」って。

そんな日々も続き,高校を卒業し俺は東京へ。

謙太郎も由起雄も俺が東京へ行くとき,
寂しそうだった。
出発の日かその前後,
親父と男兄弟三人でとんかつやで飯を食った。
(と記憶している,妹たち,そこにいたならごめん)

「のりにい,がんばってけろ。」
と弟たちが言ってくれたことを覚えている。

それからの俺は必至だったな。

結婚して息子も生まれ,
そのかたわら仕事をしながら大学を出,教員免許も取った。
だからというわけでもないが,ほとんど宮城県の実家に行く暇もなかった。

教育実習のときに実家の近所の小学校でお世話になった。
謙太郎も由起雄も通う小学校。

あの頃教員になることはできなかった。なんせ倍率が50倍だもんな。
仕事をしながら勉強して受かるような甘いもんじゃなかった。
言い訳だけどさ。

6年生を卒業するとき,千葉の妹の家と東京の俺の家に弟2人で遊びに来た謙太郎。
俺の卒業した大学に連れて行ったとき,
「おにい,俺もこごさはいりでえ,俺もこごさ入る。」
そういって目を輝かせてたっけ。
「俺もだのりにい。」なんて由起雄も言ってたな。

俺もだんだん生活が落ち着いてきて,
少しずつ帰省する機会も増え,
お前と話すことも多くなってきたっけ。

庭先で俺が刀で素振りをしていると,
「のりにいかっけえなや,俺ものりにいみてえになりてえねな。」

そう言ってくれた弟。
「お前だって柔道の黒帯だべや。十分かっけえよ。」

でも,俺はそんなんじゃねえよ。
いつも自分勝手で長男らしくねえな,すまんなって心の中で思ってたぜ。

息子を連れて行くたびに新聞配達で稼いだ自分のお小遣いで俺の息子におもちゃを買ってくれた優しい弟。
あの頃記憶している一番昔では,まだ中学生だったろう。
息子と6歳しか変わらない由起雄にも一緒に買ってあげていたお前。

そんなお前にお小遣いとか,俺あげたことあったかな。


(高校生になったお前と家族全員でとった写真,中新田の花火大会)

そしてお前は高校三年生,18歳になり俺は30歳を目の前にした頃。

お前は進路で悩んでいたな。

親父は6人の子を育てていた。

だから俺は俺の給料から大学に行かせようと思ったんだ。
俺の後輩でもそうしている人がいたし。そんな兄貴になりたいと思ったんだ。

お前は弁護士か裁判官になりたいと言っていた。
だからうちの大学の法学部に進んで,その道に行って欲しかった。
でもお前は家族を助けるために卒業したら働こうとしてたな。

人知れずひたすら勉強をしていたというお前。
そして仙北で一番の進学校,古川高校に進学した。
でもそんなそぶりは見せずに家族の前ではいつもおどけて見せていたお前。
代々の妹たちが使っていたたった一つしかない一人部屋を使わず,弟に譲ったお前。
中学の生徒会長として校則だった坊主頭を廃止する原動力になったとも聞いた。
大崎市の高校間それぞれの交流もして,みんなで盛り上がったとも,聞いた。

お前が死ぬまでそんなことは知らなかった。

俺は宮城県に行って親父に,
謙太郎を大学に行かせてやろう,俺が金を出すよと言って,
やっと「んで,則義,たのんだど。」
って言ってもらえて,
謙太郎,お前も「俺,必ず受かっからな,のりにい,ありがとうございます。」
と。

まるで昨日のことのようだ。

そしてうちの大学のオープンキャンバスに来て,燃えてたな。あの夏。

9月12日
評定ももらい,大学への推薦も決まり,
俺たちはメールをしてたっけな。
俺もお金の方の算段をとり…
夜に書類のやり取りをしようとメールをしたのが最後だった。

テレビでは9.11の映像が流れ,これは映画か?
本当なのか?と我が目を疑っていた頃,
夕方だったな。18時過ぎかな。

書類がfaxで来ないからお前に電話をしたら妹が出て,
「謙太郎事故ったがら,今日はできねえ。」って。
なんだ事故って?
でも電話の向こうで「痛え~。」って言っている声が聞こえたから,
しゃべれるんだったらまあ,大丈夫かって。
俺は思ったんだけどな。

とんでもない事故だったんだな。
電柱にぶつかって運転席,めちゃくちゃだったもんな。

どんどん容態が悪くなる連絡を受け,もうだめかもしんないって聞くたびに,
絶対大丈夫だって東京から祈ってたぞ。

だけどだめだったな。

だめだったよ。
脳挫傷に,肺挫傷だもんな。

13日を回った深夜,お前の訃報を受け取る前に「ありがとう」って聞こえた気がした。

ああ,こっちこそありがとう。

お前の葬式にはホント300人以上の高校生が来てくれたな。
自分の学校だけじゃなくて,大崎市内の学校から。

お前の生きてきた証だよ,みんなに愛されていたんだね。
みんな泣いてた。
いつまでも帰れなかった。
焼香の列が長かった。

兄貴として,何ができたんだろう。

わからん。
むしろ俺の方が12歳も下の弟に教えられることが多かった。

あれから俺は勉強しなおして,教員になったよ。今はここボリビアでお前を思ってる。
お前の生まれた意味,そして死んでいった意味を探して,そしてまだまだできちゃいないけど,
お前のように他の誰かのためにと,自分の信じた道を進んでいるよ。

由起雄も俺と同じ大学を出て,教員になった。あいつはすごいぜ。

妹たち,お前の姉たちな,それぞれに一生懸命がんばってるぜ。たいしたもんだよ。

親父はお前んところに逝っちまったけど,相変わらずか?

こっちじゃお母さんは相変わらずおちゃめだぜ。

俺ももうすぐ40歳だ。

30代ってのはほんとに青くて恥ずかしいくらい,なんでも知ったような,できるような気がしてた。

まだまだ学ばなくちゃならんし,まだまだやらなくちゃならんことが山のようにあるよ。

人に優しく。
優しい人になれたらいいのに。
俺はいつも失敗ばかりだけど,
いつかお前みたいになれたらいいな,まあ,多分無理だろうけど。

今,こうしてがんばっていられるのも,お前の死を無駄にしたくないという思いも強くある。
そして,そうは一言で言えないくらいのたくさんの人々の支えあっての今がある。

俺に何ができるのか,わからないけど,やりたいこと,やらなければならないことはもう見えている。

30代は教師になり海外へ,という目標は果たした。

これからも。

またこれから10年間,50歳まで。

そしてその先10年間,60歳まで。

それからまた10年間,70歳まで。

そしてまた10年間,80歳まで。

その後は,ゆっくりしてもいいよな。

まずは,そこまでの目標を一つずつ,必ず叶えていくよう,がんばるよ。


Gracias por KENTAROU.

ほんとありがとう。

じゃ,10年後の今日に,また。


(白鳥が写っているから大崎市の化女沼だと思う)

9.11のニュース

2011-09-11 17:36:56 | ボリビア日記
9月11日(日)

今日はアメリカ合衆国で起きた同時多発テロから10年。
あの時,夜の時間テレビで観ていてあまりに衝撃的だったことを思い出す。
俺今,ニューヨークと同じ時間の国に住んでる。
朝からCNNはずっとそのニュースを流している。
一歩も家から出ることもなく過ごしてしまった今日。

新曲を書き,それを録音している。

10年前,テロのニュースを見ているときに,
弟の交通事故のニュースが入った。
日本時間で12日の事だ。


そして翌日13日になった深夜,弟は18歳の短い人生に幕を閉じた。

あれから10年…

弟の死を境にそこからもう一度勉強し,
教師になり,今ここボリビアで活動している。
あれは30歳のことだったな…

それにしても

あの9.11のとき,
宗教とは何か,宗教間対立とは何かについて考えさせられた。

世界の平和についてまざまざと考えさせられた日だった。
ジョンレノンが唄う世界。
誰もが望む世界。

平和。

課題は多すぎる。
個人の力でそう簡単には出来ない。
なら,国の力?
いや,
全ては個人からではないか。
個人からどう,始めるのか。

途上国にいて思う。

簡単じゃねえな。
ほんと。

ほんと厳しいと思う。

さあて,どうすっかな。



ボリビア@空手 Nagao san Dojyo(永尾さん道場)でお祭りがありました

2011-08-28 17:38:42 | ボリビア日記
8月27日(土)

朝から録音作業。「涙そうそう」のスペイン語版のギターテイク。結構難しい。

今日は永尾さん道場のお祭りの日。
空手道場36周年記念だそうです。
本当は先週の日本祭と併せて行いたかったのですが,
ものすごい寒かったため(多分)今日になったんだと思います。

昨年は35周年記念を盛大に行いました。

その前夜祭のパレード

みんなでfaro(ファロ)ちょうちん的なイメージのものをもって中心部を行進。
「松涛館」「空手」「永尾さん」とコールをしながら歩きます。

(先頭で旗を持つ若者たち右からダニエラ,マルコ,ノルカ)


(色とりどりのファロをもつ子どもたち)

その後は道場で永尾さんの挨拶


ファロが一番かわいいものを選んだり(それぞれ手作り),

(1位の子,僕も急遽審査員)

DJの鳴らす音楽に合わせてダンス大会をして優勝ペアを決めたり,

(ダンス大会の様子)


(優勝したの子の女の子,男の子は見当たらず)


遊んだりと,日ごろがんばっている子どもたちのためのお祭りが行われました。



夜の7時からスタートして最後は学生が楽しくダンスする時間だったようです。
僕は2時間位で退散。

ご飯食べて,家で音楽を作るためです。
なんでこんなに音楽ばかりしてんやろ…

0時くらいにちょっと覗きに行ったらやっと終わったようでした。
永尾先生もお疲れ気味でしたが,満足そうでした。

8月29日(日)

午前中ちょい出かけて食事をして帰る。
その後は部屋にいるが,電気工事をしていてエアコンが使えない。
暑い…死ぬ。

やっと直ってそこから「なごり雪」のスペイン語版を書いていた。
なごり雪ってはっきり言って難しいし伝わらんだろうと思いひとまず「nieve de especial」(特別な雪)とした。
何かいい訳があったら教えてください。

毎日部屋にこもって音楽制作活動。
これはこれで面白い。

くそ暑い!!くそ暑いぞボリビア@トリニダ!!

2011-08-18 15:54:03 | ボリビア日記
8月18日(木)

学校の事は後ほど書くとして。

いやあ,暑い。本当に暑いです。

ここボリビア多民族国家,ベニ県,トリニダ市。

午前中は授業改善に向けて勤務校に行っているわけですが,
午後は食事後自宅で一人調べ物,語学の勉強,教材研究,音楽活動(作詞作曲ギターや鍵盤,歌の練習)ブログでの実践のまとめ,読書,昼寝,独り言,チャット,だらだら…などなど過ごしているわけですが,エアコンは効かんし,もう暑いし。
単語はなかなか覚えられんし,読書は眠くなるし…なんとかかんとかモチベーションを維持し,腐らずにがんばっております。

今日はピアノの練習をしました。

練習した曲は次の5曲。

赤い屋根の家
あの青い空のように
思い出のアルバム
おもちゃのちゃちゃちゃ
スーパーヒーロー


スーパーヒーロー以外は全部小学校用の曲。
日本に戻ったら子どもたちと一緒に歌うのが目下の目標。
今まではギター一本で押してきましたが,今度は鍵盤。
鍵盤の良さは正確な音程でメロディを取れるところです。

さらに教材の方は明日から5年生で分数を教えるので,こちらの指導書を調べながら読んでいます。

どんな勉強をするのか,どうやって表すのか…
日本の指導書に比べると,そんなんでいいんですか??
となってしまうようなことが書かれております。
まあ,簡潔っちゃあ簡潔ですが…
でも専門用語を学ぶには今手持ちの本はこれだけ。
教科書に書いているのとは違っていて,きっと勉強になると信じています。

あ~,暑い。

髪の毛切りに行こうかと考え中。
暑くて出たくないけど。